「朝月夜」(アサヅクヨ)⑤・・・こちらは戯言創作の部屋。
ホテルの並びの洋菓子店の前で、私は足を止めた。
店の硝子には『大好きなあの人に・・・』と言う、お決まりの言葉が貼られ、店内には色とりどりのチョコレートが飾られていた。
もうすぐ「バレンタインデー」なのね・・・、と私は思った。
あの出来事があって以来、「バレンタインデー」も大好きだったケーキも私とは縁遠いものになってしまった。
それでも、病院の味気ない食事を文句も言わず食べている彼のことを思って、店の中へと入った。
硝子のショーケースの中に並べられたケーキは、どれもシンプルなデザインだったが、それだけに味の良さと高級感が漂っていた。
「お気に召したものがありましたら、おっしゃってください」
苺ののったショートケーキを見つめて、何も言わないでいる私に店員が声をかけた。
「このお店のお薦めののケーキを5つ・・・。」と、私は答えた。
病室の前まで来ると、あの中年ナースの笑い声が聞こえてきた。
「あら、お帰り。買い物に行っていたの?ケーキ・・・?いいわね、ケーキのおみやげだって」
と、彼女は私が手にしている箱と彼の顔を交互に見ながら言った。
「いかがですか、ご一緒に?」と、私が誘うと「ケーキは大好きなんだけど、勤務中だし・・・密かにダイエットしてるし・・・」と言って、笑った。
彼女のような人は、ナースと言う職業がきっと天職なんだろうと私は思った。
「病室での飲食は禁止だから、1階の食堂に行くといいわ。ついでに庭でも散歩してきたら?1日中、病室にいたら飽きるでしょう。外に出るときは、パジャマの上に必ず何かを着て出ること。せっかく良くなったんだから・・・って、あなたから言ってね」
そう言って、病室から出て行った。
彼女が言ったとおりのことを私は彼に伝えると、彼にジャンパーを着るように言い、1階の食堂へと向かった。
一杯80円の紙コップ入りのコーヒーを彼は「おいしい」と言って飲んだ。
「お好きなものが解らなくて、適当に買いました」
私はそう言いながら、彼の目の前で洋菓子店の箱を広げた。
お好きなもの・・・どころか、彼が甘いものを好きか・・・苦手か、それすらも知らないのだった。
洋菓子店の店員が入れてくれた紙ナフキンを彼の前に置き、「どれにしますか」と尋ねると、彼は「これ・・」と言って、苺ショートケーキを指差した。
私の口から「えッ・・・」と言う声が漏れたので、彼は、ショートケーキは、私自身が食べたくて買ったもの・・・と、勘違いしたようだ。
「それじゃ・・・こっち」と言って、今度はマンゴー風味のレアチーズケーキを指差した。
「そうじゃなくて・・・いいんです、どうぞ」と言って、私は、彼のナフキンの上に苺ショートケーキをのせた。
病院に持って行くからと言って、添えてもらったプラスチックのフォークを差し出すと、彼は「ありがとう」と言った。
私が、どれにしようかと箱の中のケーキを眺めているうちに、彼の目の前に置いたはずのショートケーキはもうなくなっていた。
彼にマンゴーチーズケーキをすすめ、私は、チョコレートケーキを選んだ。
「甘いものは好きですか?」と私が聞くと、「ええ・・・自分では買いに行きませんが」と、彼は答えた。
彼の紙コップが空になっていることに気付いて、私はもう一度、自動販売機のコーヒーを買って来た。
すると、彼は「すみません」と言いながら、3分の1程に減った私の紙コップに、自分のコーヒーを注いでくれた。
韓国ではこんなことは普通なのだろうか・・・それともこんなことを変に意識する私が普通じゃないんだろうか・・・と、ふと思った。
「日が暮れる前に外に出てみますか?」と私が言うと、彼は一瞬迷いながら、「タバコが吸いたい・・・」と言った。
そういえば、彼はいつも照明機材の陰で、タバコを吸っていた・・・ということを思い出した。
「今まで、我慢してたの?」と聞くと、「ええ」と言って、笑った。
俯きがちの笑顔だったけれど、入院して以来、初めて見た彼の笑顔だった。
まだ、日差しが残っているとは言っても、外は寒かった。
中庭をひと回りしても、冬枯れの木立があるだけで、眺める花もなかった。
春になったら、咲き誇るであろう桜の樹も今は、まだ眠っていた。
ベンチに座って、タバコに火をつけると彼はおいしそうに大きく息を吐き出した。
その横顔が遠い日に見た誰かに似ていると思ったけれど、その時は思い出すことができなかった。
「雪は降りませんか?」
吐き出す煙の行方を追いながら、彼が呟いた。
「そうね・・・雪が降ることはめずらしいかもしれません」
私は、病院のある栃木県・宇都宮市という場所の大体の位置と、今は、交通の便もよくなり、通勤圏となっていることなどを話した。
「福島空港の辺りは、ずいぶん雪が降っていると思います。明後日、帰国する時は、日本の雪が見られると思います。帰国便の予約、しておきましょうか?」
と、私が言うと、彼は、自分で電話しますと言った。
福島空港のカウンター業務の人なら、当然、韓国語も理解してくれるだろうと、予約の件は彼に任せることにし、彼が二本目のタバコを吸い終えたところで、病室に戻ることにした。
病室に向かうエレベータの中で、今夜から、ホテルに泊まることにしたと彼に告げた。
その方がお互い気兼ねがなくていいでしょうとは、さすがに言えず、私は「お風呂に入って着替えをしたいんです」と言った。
彼は、その方がいいですねと、同意するわけでもなく、反対に落胆した風でもなく、エレベーターの上昇程度を表示する文字盤を見上げながら、「そうですか」とだけ言った。
病室に戻って、昼間買った下着の入った紙袋を差し出し、「明日の朝、入浴したらこれに着替えてください」と私は言い、サイズもデザインも合うかどうか解らないと付け足した。
彼は、LサイズならOKだし、そういうもののデザインにはこだわりませんと言った。
「ユキさんの選んでくれたものなら、何でもいいです。ありがとう」と言ってくれた彼の言葉に、私は恐縮すると共に、彼もこんな風に気のきいたことが言える人なんだ・・・と、ちょっとおかしかった。
私は、残ったふたつのケーキのうち、シフォンケーキをナフキンに包み、「夜、おなかが空いたらこっそり食べてね」と言って、ベッドサイドの「物入れ」の上に置き、レモンパイは持ち帰ることにした。
困ったことがあったら、すぐに携帯に電話を下さいと、携帯番号をメモして、「ゆっくり休んでくださいね」のひと言を残して、私は、病室を出た。
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