創作の部屋~朝月夜~<49話>
ベランダでは、真夏の日差しを浴びて洗濯物が揺れていた。
リビングのテーブルの上には、マリが作った朝食が置かれていた。
その脇に添えられたメモには、『おばあちゃんのところに行って来ます。昼には戻ります』と、書いてあった。
リビングの時計を見上げる。
もうすぐ11時。
すっかり朝寝坊してしまった。
昨夜は大きな仕事を終えたことで、仲間と遅くまで酒を飲んだ。
「彼女が待ってるから、インスは行かないよなあ」
と、からかわれながら、結局、最後まで付き合ったのだった。
帰宅し、マリが眠るベッドにもぐりこんだ時は、すでに夜明け間近だった。
夕べ飲んだ酒が、まだ少し残っていて何も食べる気になれない。
シャワーを浴びてすっきりしようと思っているところに、マリが帰って来た。
手には大きな包みを抱え、額には汗を浮かべている。
「食べてないの?」
テーブルの上に手付かずのまま置かれている朝食を見て、マリが言った。
「今、起きた」
「暑いのに、よく寝てられるわね」
「ゆうべ、遅かった」
「ゆうべじゃない、朝・・・でしょ」
「知ってた?」
「当然。お酒の匂いで目が覚めた」
マリは喋りながら、忙しく手を動かしていた。
どうやら、祖母に大量の惣菜類をもらってきたようだ。
「うまそう・・・」
僕は、そのうちの一品に思わず手を伸ばした。
「その前に・・・シャワーを浴びて。お酒の匂いどうにかしてよ」
伸ばした手は、マリにあっさりと捕まってしまった。
シャワーを浴びて、水を飲もうと冷蔵庫の前に立った。
NYの街並みの絵葉書が、無造作に扉に貼り付けてあった。
マグネットをはずして、表書きを見た。
マリの祖母の住所で、マリ宛てに届いたものだった。
「誰から?」
「友達」
マリは、惣菜を分ける手を休めることなく答えた。
日本語で書かれた文面は、僕には理解できない。
「なんて書いてあるの?」と、聞いてみた。
「元気?って」
「それだけ?」
「それだけ」
僕は、それ以上は聞かずに、絵葉書を元の場所に貼り付けた。
テーブルの上の取り分けられた惣菜類を見て、急に空腹感を感じた。
「腹減った」
「その前に着替え」
「いいよ、このままで」
僕は、もう一度冷蔵庫の扉を開けて、缶ビールを取り出した。
「飲む?」
「いらない。それより着替えして。パンツくらいはいたら?」
バスタオルを腰に巻いただけの僕を見て、マリが言った。
「妙な気になる?」
僕は、マリの耳元で囁いた。
「はぁ・・・?意味わかんない。カゼひくから言ってるの」
「今日は、たっぷり時間がある」
「だから何なの?私は忙しい・・・」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
壁のインターフォンを取り上げた瞬間、母の声が聞こえた。
「ちょっと・・・ちょっと待って」
僕は、インターフォンに向かってそれだけ言うと、着替えをするために寝室に駆け込んだ。
「ソウルに来る用事があったから、ついでに寄ってみたの」
「電話してくれたら、迎えに行ったのに」
「行くと言ったら、来なくていいと言うでしょ?」
「そ・・・そんなことはないよ」
「しばらく顔を見せないと思ったら・・・こういうことだったのね」
「ごめん・・・」
「別に謝る必要はないわ」
「マリです。はじめまして」
居心地悪そうに立っていたマリが、母に挨拶をした。
「マリさん?インスの母です」
こういう時、母になんと言ってマリを紹介したらいいのだろうかと僕は迷った。
「ちょうどお昼ご飯を食べようと思っていたんです。よろしかったらご一緒にどうぞ」
マリは母のために席を作りお茶の用意をした。
毎日暑い日が続いて大変だとか。
散歩の途中で出会った子犬がかわいかったとか。
マリのおしゃべりのおかげで、気まずいムードにならずに済んだ。
「すっかりご馳走になっちゃって。そろそろ失礼するわ」と、言う母を僕は駅まで送ることにした。
母はタクシーで行くからいいと言ったのだが、「二人だけで話したいことがあるはずよ」と、マリが小声で言ったのだった。
「ご両親は、日本にいるって言ってたけど・・・?」
「父親が韓国人で、母親が日本人なんだ。日本だけじゃなく、いろんな国に行くらしい」
「そういうお仕事?」
「画商・・・絵や骨董品とか・・・。そういう会社をやってる」
「ご兄弟は?」
「いない」
「結婚するつもり?」
「解らない」
「解らないって・・・。親御さんはご存知なの?このままでいいはずがないわ」
「解ってる」
「どこまで解ってるの?あなたは男だからいいかもしれないけど・・・。あちらにとっては大事なお嬢様でしょ?結婚もしないまま、子供でもできたら・・・」
「気をつける」
「気をつけるって、そういう問題じゃないでしょう。お父さんには言えないわ」
そこまで言うと、母は大きなため息をついた。
改札口で、母は振り返ると「きちんと決めて、必ず連絡しなさい。お父さんに話すのはそれからよ」と、言った。
僕は、無言でうなずきながら、母を見送った。
「今日は、ゆっくりなのよね?」
ベランダで洗濯物を干しながら、マリが聞いた。
「昼から」
「朝ごはんは、そこにあるもので済ませて。私、行かなくちゃ」
「もう、行くのか?」
「バイトの子がひとり休みで、早く来てくれって言われてるの。夕べ、話したでしょ」
そう言うと、マリは化粧もそこそこにバッグを掴んで出て行った。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出そうとして、NYからの絵葉書に再び目が止まった。
母が来た日からずっと放置されている絵葉書。
この場所に置きっぱなしにしているということは、マリが言うように「たいしたこと」は書かれていないのだろう。
そう思いながらも、なぜか気になった。
表を返してみるが、相変わらず読めない日本語が並んでいるだけだ。
ふと、今日、会う約束になっている人物の顔が浮かんだ。
彼なら・・・読めるかもしれない、そう思った。
「日本語・・・ですか?多少は・・・読めますけど、難しい漢字はだめです」
僕は持って来た絵葉書を差し出した。
「・・・この、マリさんって人、誰ですか?インスさんの奥さんですか?」
「いや・・・僕は独身だよ」
会うのは今日で2度目の彼は、僕がマリと暮らしていることを知らない。
「友人の家に意味不明の絵葉書が迷い込んで・・・それで」
「そうですか、失礼しました」
「なんて書いてある?」
僕は、早く内容が知りたかった。
『マリ、元気か?オレは元気だ。聞いてくれ。オーディションに受かった!来月、初舞台だ。すごいだろう!マリ、夢を捨ててないよな。あきらめるなよ!NYで待ってる。~カズ~』
「最後のカズ・・・って、言うのはおそらく、差出人の名前・・・。男みたいですね」
日本語の文面を韓国語に訳す前に、彼が、「マリさんって誰ですか?」と聞いた意味がやっと解った。
マリへの私信を勝手に持ち出した結果が、こんなことになろうとは・・・。
いや・・・何らかの予感がしたから、持ち出す気になったのかもしれないと、僕は思った。
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