創作の部屋~朝月夜~<52話>
「日本に行こう」
「日本へ・・・?」
「うん、マリのご両親に会って、結婚の許しをもらおう」
「そんなに急がなくても・・・」
「早い方がいいだろう?」
「インスの気持ちはとってもうれしい。結婚しようなんて、言ってもらえると思ってなかったから」
「ご両親の都合を聞いて。それに合わせて日本に行こう」
すでに夫婦同然の生活をしているのだ。
今更、形式に捉われるつもりもないが、きちんとした手続きを取るのも、男としての責任のような気がした。
「待って」
マリの答えは意外だった。
「待って・・・って・・・?今、うれしいと言っただろう?」
「誤解しないで。うれしいの、本当にうれしいのよ。インスとずっと一緒にいたい・・・その気持ちは真実だから。ただ・・・」
「ただ・・・何?」
「私たちの結婚には、乗り越えなくちゃいけない大きな壁があるわ」
僕の脳裏にユキとの会話が甦った。
「ホテルのカフェでパパに会った時のこと、憶えてるわよね?」
「憶えてる」
「パパがあなたを見て、安心したような表情をしたことも?」
「安心したかどうかは・・・それがどうかした?」
「パパは・・・あなたを・・・インスを後継者にって、思ったのよ」
「後継者に・・・って・・・」
「私がインスと暮らしていることなんて、とうに知っているわ。おばあちゃんが言わなくたって、誰かの口からパパの耳に入ってる。それを咎めないのは、あなたを後継者にしてもいいと考えているからよ」
ひとり娘であるマリは、馬鹿げた夢を追いかけて、つまらない男とNYへ逃避行した。
予想通り、娘は挫折して、舞い戻って来た。
しばらくして新しい恋人が現れた。
ダンサーの様な浮き草暮らしと違って、定職に着いている。
しかも、名の知れた照明監督らしい。
今すぐでなくてもいい。
婿に迎えて、いずれ、娘とともに事業を継いでもらいたい。
それが、父の考えだとマリは言った。
「父の仕事は、片手間にこなせる様な仕事じゃないわ。今の仕事を捨てられる?」
ユキにも同じことを言われた。
迷って答えを明確にできず、僕はユキを失った。
僕の優柔不断さが原因で、ユキは僕の前から去って行ったのだ。
父親の側で、一緒に暮らせる人が自分にはふさわしいと言ったユキに、ならば、なぜ僕を愛したのだと聞いた。
ユキは「間違っていたことに気づいた」と答えた。
恋をしたことも、愛し合ったことも全て間違いだったのだと言った。
今、またあの時と同じ決断を迫られている。
答えは簡単だ。
同じ過ちを繰り返したくなければ、今の仕事を捨てればいいだけのことなのだ。
ベッドに入っても眠れずにいた。
マリも同じだった。
「マリは、僕たちが出会ったことは間違いだったと思う?」
「インスはそう思っているの?」
「解らない。今、それを考えていた」
「間違いだなんて思ったことは一度もないわ」
「大きな壁にぶつかることは、予想できただろう?それでも・・・?」
「インスは、いつも先のことを考えて誰かを好きになる?」
「いや・・・、そんなことはない」
「愛したことを間違いだったなんて、思いたくない。ただ・・・愛しているからこそ、その人の夢を、犠牲にしたくないと思う」
夢を犠牲にしたくない。
それは、マリが自らNYの彼の元を離れた理由でもあった。
「パパの持っているものをほしいとは思わない。だけど・・・パパとママがふたりで築き上げたものを終わらせてしまっていいのかしら・・・と、言う気持ちもあるの」
「ひとり娘としては当然のことだ思うよ」
「だからって、それをインスに強制するつもりはないわ。時間をかけて考えて。焦って間違った選択をしてほしくない」
誤った選択は、後に悔いを残すことになる。
それが、マリの考えだった。
「マリの方が僕よりも大人かもしれないな」
「少しは見直した?」
そう言いながら、マリは小さく笑った。
「豪華な部屋で、新婚初夜の気分を味わおうと思ってたのに、
すっかり、深刻なムードになっちゃったわね。インスが突然、結婚しようなんて言い出すからよ」
いつもの明るい口調でマリが言った。
「今からでも、遅くはないさ」
「ううん・・・。今夜は、静かにこのまま眠りたい」
マリは、僕に寄り添ってそっと目を閉じた。
季節は、晩秋から冬になり、クリスマスコンサートや年越しライブで、僕は多忙を極め、帰宅も深夜になることが多くなった。
帰国したマリの両親とも会えず、どのような話しが出たのか、マリにゆっくり聞く時間もないまま、新しい年を迎えた。
「お正月くらいは、帰って来なさい」と母から電話で言われ、僕はマリを伴って久しぶりに帰省した。
若いマリを見て、父は驚いていた。
母は、まだ結論を出していないことに、ため息をついた。
それでも、温かく迎えてくれた両親に、僕もマリも感謝した。
結婚の話は、一時保留状態になってしまったが、僕たちの穏やかな生活は変わることなく続いた。
気がつけば、マリと暮らし始めてから、1年の月日が過ぎていた。
マリが予約したレストランで、僕たちはささやかに祝杯をあげ、感謝の気持ちを伝え合った。
翌日、マリは朝から張り切っていた。
「早く起きて。今日は一緒に部屋の片づけをしようって、昨日約束したでしょ」
「何も今日じゃなくても・・・」
「そう言って1日伸ばしにするんだから!古くなった雑誌や新聞、まとめて出して」
マリは寝室の窓を開けながら言った。
「それよりも朝ごはん、早く食べて。片付かなくて困るわ」
「部屋の片づけよりも、朝ごはんよりもしたいことがあるんだけど」
「何?仕事、残ってるの?」
「いや・・・そうじゃなくて」
「じゃあ、何?」
早く言ってと、言いたげなマリの顔を見たら、何もせず、ベッドの中で、マリと一緒にぐずぐずしていたいなどと言えなくなってしまった。
僕は、しぶしぶベッドを出ると、食卓で朝ごはんを食べ始めた。
「机の周りは手をつけないで置くね。仕事関係のものは解らないから」
そう言いながら、マリはクローゼットの中を片付け始めた。
丸めたままのTシャツが出てきたとか、靴下が片方しかないとか、手も口も休むことがない。
「ねえ、1年前の手帳が出てきたけど、どうする?」
「いらない、捨てていいよ」
僕は、マリの方を見ることもなく答えた。
ふと、ずっと続いていたマリのお喋りが止んだことに気づいた。
マリは、僕の傍らに立ち、小さな紙片をテーブルの上に差し出した。
「これ・・・何?」
マリが差し出した紙片に画かれていたもの。
それは、スジョンが入院していた病院で、「順調に育っていますから、安心してください」と、ユキの友人から渡された胎児の姿だった。
ユキと別れてから、一度も見ることもなく、手帳にはさんだままになっていたのだ。
「子供がいたの・・・?子供がいたのね!」
「違う・・・違うんだ、マリ!」
「日本の病院の名前・・・日本人・・・なの?解ったわ・・・」
「何が解ったって・・・?」
「あの日のこと・・・。インスが初めて私を抱いた日のこと・・・。私が発した日本人と言う言葉に、あなたは反応を示した・・・」
「マリ・・・」
「その後も、何度かそういうことがあった・・・」
「落ち着いて話を聞いてくれ」
僕は、マリの肩に手を掛けて、椅子に座るように言った。
「無理・・・!こんなものを見てしまって、落ち着くことなんてできない。子供がいたなんて・・・」
「違うんだ、子供はいない」
「いない・・・って、どういうことよ」
「ダメになったんだ。生まれていない」
僕は、ユキに子供ができたこと。
しかし、その子は、この世に生を受けることはなかったことを簡単に説明した。
「事実を確かめた?病院に行って確認した?」
マリは真剣な顔つきで僕を問い詰めた。
「彼女がそう言った」
「それをただ信じたの?」
「他に何を信じろと言うんだ」
「あなたが、そんな無責任な人だとは思わなかったわ」
それっきり、マリは口を噤んだ。
「過去は気にしない・・・そうじゃなかったのか?」
「あなたが誰と愛し合って、別れようとそんなことは気にしない。でも・・・子供は別」
「だから・・・子供は・・・」
いない、そう言おうとした僕の言葉を遮ってマリが言った。
「もしも、生きていたら・・・?あなたに言わずに、彼女がひとりで産んで、ひとりで育てていたとしたら・・・?」
ユキと僕の子が生きている?
その子をユキがひとりで育てている?
そんなこと、あるはずがない・・・。
あってはならないことなのだ・・・と、僕は思った。
「どうするつもり?」
マリは、僕を責めるようなまなざしで見つめた。
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