「朝月夜」(アサヅクヨ)⑲・・・こちらは戯言創作の部屋
かすかな物音にはっとして、目を覚ました。
隣にいるはずのユキがいないことに気付いて、僕は、傍らに置かれたシャツを掴み、ベッドから降りて隣室に通じる扉を開けた。
かすかな物音は、化粧室から聞こえてくるヘアドライヤーの風の音だったのだと解った。
窓から、外を見ると、辺りはすでに夕方の気配が漂っていた。
ソファに腰掛けて、タバコに火をつけた。
ユキとひとつになれた喜びに浸っていたくて、ベッドから離れようとするユキを引き戻して、背後から抱きしめた。
ずっと、このまま・・・と願い、ユキのうなじの香りを楽しみながら、目を閉じた・・・。
記憶はそこで途絶えていた。
やがて、ドライヤーの音が止んで、化粧室から出てきたユキは、化粧をし、身支度もすっかり整えていた。
ユキが僕の腕をすり抜けたことさえ気付かず、眠ってしまったことが、ひどくはずかしく思えた。
「ごめん・・・。眠ってしまった・・・」と僕は、言った。
「夕べは私のせいで、ほとんど寝ていないでしょう?」
だから気にしないで・・・と、ユキが言った。
かすかに漂う石鹸の香りに、欲望が再び目覚めるのを感じた。
それを振り払うように、僕は、シャワー室に入った。
熱い湯を全身に浴びながら、ユキと交わした時間を思った。
少しばかりの後ろめたさは、ユキの吐息と肌のぬくもりが忘れさせた。
ひたすら責め続ける僕と・・・それに応えてくれたユキ。
ユキの中で、果てた時の快感と、背中に感じたユキの手の力強さ・・・。
様々な情景が甦って、僕の心は、喜びに満ちていた。
用意されたバスローブに袖を通して、浴室を出た。
ユキは、ソファに座ってコーヒーを飲みながら、テレビ画面を見つめていた。
「見て!見て!昨日見た、会津のお城が映っているの」
ソファ越しにユキの背後から、テレビ画面を覗いた。
無数のろうそくの炎が揺らめいて、ユキと訪れた鶴ヶ城を照らしていた。
昨日のことなのに、ユキとあの場所にいたことが、ずいぶん昔のことのように感じられた。
それは、短時間で接近した僕とユキの関係のせいかもしれないと思った。
ユキの肩に手を置いて、耳元で「愛してる・・・」と、囁いた。
お返しの愛の言葉の代わりにユキは「おなかすいたでしょう?」と、現実的なことを言った。
昼食に、サンドイッチを一切れしか食べていない僕を気遣ってのことだった。
「夕食を早めにと、お願いしておきます」と言って、部屋の電話の受話器を取った。
空腹感よりも僕の心はユキのことでいっぱいだった。
湯上りの気だるい気分のまま、受話器を置いたユキを僕は抱きしめた。
バスローブ一枚を羽織っただけで、胸元が露出している僕を見て、「早く着替えをして下さい。目のやり場に困ります」と言った。
そんな他愛のない言葉さえも、今の僕には愛しく感じるのだった。
最上階のレストランで、少し早めの夕食を済ませて、僕たちは部屋に戻ってきた。
「こんなに早く夕ご飯を食べたら、夜中におなかがすきそうだ。そうなったら、また、コンビニまで走らないといけない」
僕は、そう言ってユキを笑わせた。
「こんなに雪が降っているのに?」
「1時間たっても僕が戻らなかったら、探しに来てくれる?」
「その時は、救助隊を呼ぶわ」
レストランで食事をしている時は、冗談も出たのに、二人きりの空間に戻ると、張り詰めた空気が漂う。
僕は、「少し飲もうか・・・?」と言って、冷蔵庫から、ワインのボトルを取り出した。
ユキとベッドルームに入る前に交わした言葉・・・。
「話しがある・・・」「私も・・・」
そのことが、ずっと気になっていた。
「結婚してるんだ・・・」その一言で、片付くはずのないことだった。
ワインのボトルを開けながら、話しを始めるきっかけを僕は、探していた。
「私のせいで、今日はどこにも出かけられなかったわね。明日は、晴れるかしら?」
「晴れたら、どこかに行く?」
「そうね・・・せっかく、会津に来たんだから。どこか景色のきれいな場所に・・・」
二人でいられるなら、どこにいたっていいんだ・・・僕は思った。
ユキのグラスにワインを注いで、グラスを寄せ合った。
「誰かとこうなることをずっと避けていました。きっと比べてしまうから・・・。生涯愛する人は、この人だけ・・・そう思えるほど、深く愛していました」
ユキは、かつての恋人のことを僕に話し始めた。
病院の庭で、タバコを吸う横顔がかつての恋人に似ていたこと。
好きなケーキが同じで驚いたこと。
そして、オーロラの撮影に行って、事故死したこと・・・。
彼の死とともに、恋する気持ちを封印してきたこと。
僕は、ユキの話しを黙って聞いていた。
言うべき言葉が見つからなかった。
ユキの清らかな思い出に比べたら・・・。
他に男がいると知っても尚、世間体の為、妻との結婚生活を継続しようと努力していた自分。
愛情のない性行為を妻との修復手段として繰り返していた自分。
妻との事に決着がつかないまま、ユキを抱いてしまった自分が、愚かに思えた。
この中途半端な立場にいる時に、ユキに対してどんなに愛の言葉を並べても、到底伝わるものではないと思った。
「でも・・・恋する心は、私の中にちゃんと残っていました。あなたに出会って、それに気付きました・・・」
僕は、言葉に詰まって、ユキの顔を見つめるのが精一杯だった。
「だけど・・・こうなったことで、責任を取って下さいなんてことは、言いませんから・・・。あなたが結婚していることは、解っていました。私は私の意志で、こうなったと思っています」
ユキは・・・。
僕と妻の関係が破綻しているなどとは、微塵も気付いていなかった。
コメント作成するにはログインが必要になります。