創作の部屋~朝月夜~<27話>
インスと出会い、会津で数日間を過ごしてから、すでにふた月近くの日々が過ぎ、季節は冬から春になった。
その間、インスは私に何度も電話をかけてきては、会いに行けないことを詫びた。
日本とNYとの時差も忘れて、熱く語るインスの口ぶりからは、Mのコンサートの熱気が伝わって来た。
そして、今回の仕事に賭けるインスの情熱も。
世の中の女性の多くは、「私と仕事とどっちが大事?」などといったセリフを恋人に投げかける時があるのだろう。
男は、困惑の表情を浮かべながら、・・・それでも、そんな恋人が愛しくて。
「もちろん、君だよ」と答えるのだろうか。
想像の世界でしか、思い浮かべることのできない光景を思った。
かつて心から愛したKにさえ、私はそのようなことを言ったことがなかった。
絶好のシャッターチャンスを逃すまいと、日本全国を駆け回っていたK。
私の誕生日も、ふたりの記念日も何度もキャンセルになった。
それでも、自ら作り出した「作品」について語るKの輝く瞳を見ることは、私にとって、何よりも代え難い幸せだった。
インスに対しても、その思いは変わらなかった。
離婚も、仕事も私のことは念頭に置かず、自分なりの方法で、満足の行く結論を出してほしいと願っていた。
インスに会いたいと言う気持ちは、いつも心のどこかに感じていた。
しかし、そんな思いに囚われることなく、比較的穏やかに今日まで来れたことは、私も、仕事に忙殺された日々を送っていたからかもしれない。
インスは、本番に向けて、今日も精力的に仕事をこなしているだろうか。
通勤途中の五分咲きになった桜の木を見上げて、ソウルのインスを思った。
春とは言っても一番乗りしたオフィスは、ひんやりとした空気が漂っていた。
私は空調のスイッチを入れ、給湯室でお湯を沸かし、コーヒーを淹れ、同僚のAの机の上に置かれた韓国の雑誌を手に取った。
社長が出勤してきたら、又、慌しい一日が始まる。
誰もいない静かなオフィスの朝のひと時が私は好きだった。
ハングルで埋め尽くされた雑誌は財界誌であったが、巻頭のページには、先ごろ来日した韓国人俳優の笑顔が掲載されていた。
韓国の情勢。
韓国の景気と株価。
政治家の活動。
取り立てて、興味を惹かれる記事もないまま、ページをめくっていくうちに、私の目は釘付けになった。
「新風」と題されたそのコラムは、多方面で活躍する成長著しい人物を取り上げたものだった。
「光の魔術師」と言う、サブタイトルの下にインスのはにかむような笑顔があった。
米国の歌手Mを迎えてのコンサートに挑む意気込みが、インタビュー形式で掲載されていた。
インスが手掛けようとしている仕事は、私の想像をはるかに超えた大規模なものだった。
関係者がインスに寄せる期待も、Mの訪韓を待っているファンの期待も、とてつもなく大きなものであることを初めて知った。
突如として、私の心の中にMのコンサートを見たいという欲望が湧いた。
Mの歌が聴きたくなったわけではない。
インスの手から紡ぎ出される「光」を見たい・・・と、思った。
「朝から、何を熱心に読んでるの?」
出勤して来た同僚のAが、私の肩越しに雑誌を覗き込んだ。
「ねえ!これ行きたい!」
「どうしたら行ける?」
私は、コラムのページの左下の囲みを指で叩いてAに問いかけた。
そこには、Mのコンサートの日程と会場名が記されていた。
「え~っ、今からじゃ無理よ。チケットの発売始まってるし・・・。Mでしょう?完売しちゃってると思うな・・・」
芸能通のAは、韓国で開催されるMのコンサートが、注目されていることを知っていた。
「キャンセルとか・・・あるでしょ!」
「お願い!何とかして・・・」
困った様子のAに向かって、私は尚も頼み続けた。
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