創作の部屋~朝月夜~<35話>
「それで・・・?あの人はなんて言ってた?」
「もう、何回同じこと聞くの?だから・・・順調に育っていて、うれしいって喜んでました~」
友人のAは、買ってきたお寿司を口に放り込むと、呆れ顔で言った。
何回も同じことを重ねて聞いてしまうのは、インスの様子を知りたい私の気持ちの表れだった。
インスの口から発せられたどんなに些細な言葉も、聞きたいと思った。
昨日、韓国から帰国したAは、「今日はお疲れ休み」と言いながら、私を訪ねて来てくれた。
つわりで苦しむ私を気遣い、「これなら食べられるかなと思って」と、寿司折りを持って来てくれたのだった。
「あとは・・・?」
これ以上しつこく尋ねられてはたまらないと言った素振りで、Aは、「詳しく知りたかったら、電話しなさいよ」と言った。
「あの人・・・忙しそうにしていた?」
Aは、解らないと言うように黙って、首を傾げた。
「最近、携帯がマナーモードになってることが多くて、繋がらないの」
「ねえ、彼って、無口な人?」
昨夜も携帯が繋がらなかったと、言おうとしたのに、Aはまったく違う話題を持ち出した。
「う・・・ん、どちらかと言うとそうかも・・・」
繋がらない携帯の話しは、そこで保留となった。
「女が、身震いするほど喜ぶようなあま~い言葉なんて、絶対言わないタイプでしょ?」
「どうかな・・・」
「ユキには言ったんだ・・・。あま~いこ・と・ば」
Aは、「きゃあ、ステキ!」と叫んで、意味あり気に笑った。
「私は、どちらかと言うと、常に陽気な男が好き。会話が途切れちゃうような男は、どうしよう~って、思っちゃう」
そう言うとAは、私の顔を覗き込むようにして、「あの眼差しでしょ?」と言った。
「眼鏡の奥のあの眼差し・・・なんて言うか・・・ちょっと少年っぽくって、澄んだ眼差し・・・あれにホレちゃった?」
「うん、うん、きっとそうだわ」と、Aは、自分の言葉にひとりで納得していた。
インスのどこに惹かれたか・・・なんて、具体的に考えたことなどなかった。
気がついたら、好きになっていた。
心の中から追い出せない存在になっていた、としか言い様がなかった。
大切に思っていたい人。
私にとって、インスはそういう人だった。
「ところで、彼とはどこで会ったの?」
「どこでって・・・?」
「仕事場まで行ったのかな・・・って、思って」
私は、Mのコンサート会場で見かけたジャンパー姿のインスを思い出していた。
「オ・・・オフィスよ・・・オフィス」
「明洞の・・・?」
「え・・・っ?ああ・・そうそう、明洞のオフィス」
そう言うと、Aは私の淹れたお茶をひと口飲んで、「帰ろうかな」と言った。
「ゆっくりしていけばいいじゃない」
「なんだか眠いの。夕べも遅かったし。それにこれ以上ユキの質問攻めにあったら、たまらないわ」と、Aは笑った。
「彼と会ったことの報告と、ユキが食欲がないって言ってたから、何かおいしいものを届けようって、来ただけだから」
「帰国したばかりで疲れてるのに・・・ありがとう」
「今度、ゆっくりさせてもらうね」
そう言って、立ち上がったAを私は玄関まで見送った。
「あ・・・言い忘れてた。例の話し、本決まりになったの」
例の話しとは、会社の合併の話しだった。
「今の事務所は撤退することに決まったのよ。希望者は新たな会社での採用を検討するって」
「検討するって・・・何それ?」
「全員の希望は聞き入れられないってことじゃない?まったく勝手よね。ユキは行き先が決まってるから、心配いらないわね」
「私のことより、あなたはどうするの?」
「私・・・?私は・・・辞める。新しい会社にも行かない」
「で・・・どうするの?」
「大丈夫、ちゃんと考えてるから」
「考えてるからって・・・」
「今度会った時にちゃんと話すね」
Aは、「じゃあね」と手を振って、帰って行った。
合併の話しは、以前から社員の間で囁かれていたが、こんなに早く決まるとは意外だった。
Aは、「ユキは行き先が決まっている」と言ったけれど、何ひとつ決まっていないことは、私自身が一番良く解っていた。
インスとの関係。
結婚への道のり。
お互いの仕事のこと、親のこと。
韓国と日本との距離。
何より、おなかの中の子供のこと。
考えてみたら、具体的に決まったことなど、何ひとつない。
Aが帰ってしまった部屋で、一人になると、急に不安が押し寄せて来た。
インスの声が聞きたい・・・。
日中は遠慮している携帯電話のインスの番号を開いた。
やはり繋がらない。
インスの声を聞いたのは何日前だっただろう。
3日前・・・?4日前・・・?
思い出せない・・・。
近いはずの記憶が思い出せないのに、遠くの記憶が甦った。
「携帯が通じない時は、ここに電話して」
会津で別れる時にインスから、手渡された名刺・・・。
私は、今まで見ることもなく、バックの中に入れたままにしていた名刺を取り出した。
明洞じゃない・・・。
電話番号の下に記されている会社の住所は、まったく違う地名だった。
私は、自分が勘違いしていたことに気が付いた。
でも・・・それならばなぜ、Aは、「明洞のオフィス」と言ったのだろう?
私より韓国の地理に詳しいAが、間違えるはずはないのに、と思った。
会社が移転した可能性もある。
そうなると、電話番号も変わってしまっているかもしれないと思いながら、私は名刺の番号に電話をかけた。
「キム監督は、今日はお休みで・・・」
聞こえて来たのは若い男性の声だった。
「お急ぎのご用件でしょうか?よろしかったら、こちらで承りますが・・・」
事務的な応答が続いた。
インスが休暇をとっていると聞いて、私は戸惑ってしまった。
「お急ぎですか?失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「キムさん・・・ご夫妻に日本でお世話になった者です」
私はとっさに嘘を言った。
「それなら、携帯の番号をお教えしますので・・・」
仕事関係の用件ではないと解ったからか、男性の口調が柔らかくなった。
「携帯は繋がらないようですが・・・?」
「ああ・・・多分、病院に・・・」
「病院・・・?具合でも悪いんでしょうか?」
私は、急に心配になった。
「いえ、いえ、キム監督は元気です。奥さんが・・・怪我をされて・・・。ほとんど毎日、病院に行っているんです」
受話器を持つ手が震えた。
「だから、携帯も繋がらないんだと思います」
「必要なら、病院の名前を言いますが」
相手の声を遠くに聞きながら、「結構です」と、言うのが、精一杯だった。
心臓の鼓動が大きくなるのを感じながら、冷静にならなければ・・・と、私は、自分に言い聞かせていた。
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