創作の部屋~朝月夜~<44話>
「あなたが好きなの・・・」
背後から聞こえたマリーの声は、数分前にきっぱりと僕を拒絶した声とは、別人のようだった。
目の前で、固く閉ざされた扉は、マリーの心そのままではなかったのか。
思考が混乱している僕に、マリーは言った。
「初めて会った時から、好きになったんだと思う。うまく説明できないけど」
通りすがりの男が振り返って僕たちを見ていた。
「離してくれないか・・・」
「いや・・・」
「人が見てる」
「構わない」
「僕は、困る」
想像もしていなかった展開を僕は、受け入れられずにいた。
「離してほしかったら、約束して。別れた人のことは忘れるって」
マリーの腕を振り解くくらい、簡単なことだったが、僕はそれをせず、「約束できない」と言った。
「そんなに好きだったの・・・?」
「ああ・・・」と、答えた。
ならば、別れなければよかったじゃない・・・。
僕は、マリーの次の言葉を予測した。
それは、僕の中で数え切れないくらい反芻した言葉だった。
そう問いかけられたら、今度も曖昧に「ああ・・・」と答えるだけだ。
ところが、マリーは「解った」と言うと、あっさり僕を解放した。
「ならば、忘れる努力をしたら?その方が利口じゃない?」
マリーの口調は、元に戻っていた。
僕は、マリーに背を向けたままその言葉を聞いていた。
「相手にその気がないなら、追いかけるだけ無駄だと思うな」
断定したマリーの言い方が気に入らなかった。
振り向いた時、マリーと目が合った。
その視線を避けることなく、マリーは言った。
「離れて行った人への思いは、いずれ冷めるわ。そして、近くにある愛が欲しくなる。私は、あなたが好き。側にいて、いつもあなたを見ていたい。そんな愛が今のあなたには必要だと思うけど?」
どうしてそんな風に決め付けたような言い方が出来るのだろう。
その自信は何なんだ・・・?と、マリーに聞きたかった。
「お前に何が解るんだ?って、顔してる」
そう言いながらマリーは小さく笑った。
「恋愛に回数や年齢は関係ないわ。大事なのは、どれだけ深く愛したかってことよ」
言い返してやれ、どれだけユキを愛していたか、言ってやれ。
僕の中で、誰かが叫んでいた。
「続きは今度会った時ね。反論できるだけの言葉を用意して店に来て。待ってるから」
そう言い残すと、マリーはまたハイヒールの靴音を響かせて、階段を上がって行った。
僕がマリーにしたこと・・・それは、許されるはずのない行為だ。
なのに、「好きだ」と言ったマリーの気持ちが理解できず、靴音が部屋の中に吸い込まれるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
マリーと別れてから、僕の頭の中には様々な思いが交錯していた。
確かめたわけではないが、見た限りマリーは僕より7~8歳は若いはずだ。
そんな年下の女と、恋愛論を戦わせるだけの暇も時間も僕にはない。
もちろん、店に行こうなどと言う気はまったくなかった。
しかし、僕が力づくでマリーを抱いた事実は消えない。
我、関せずで、背を向けるのは卑怯な気がした。
思いは、堂々巡りを繰り返していた。
年が改まって、数日が過ぎたあるの日、僕はマリーと再会した。
ソウルの街中のCDショップの前だった。
ショーウィンドーには、たくさんのCDがディスプレイされ、大型テレビには激しいリズムに合わせて踊るダンサーの姿が映し出されていた。
その画面をウィンドー越しに見つめる女・・・それがマリーだった。
最初は遠くから、黙って見ていた。
少しずつ近づいて行って、背後から声をかけた。
「おい」
「これでも私・・・ダンサーだったの。怪我してやめたけど」
驚いて振り向くマリーを想像していたのに、マリーは画面から目を離さずに言った。
「いきなり声をかけられて、驚かないのか?」
「さっきから、ずっと私を見てたでしょ?」
「見てない・・・」
「うそ。ガラスに映ってたもの」
なんだ、気づいてたのか・・・と、がっかりする自分がおかしかった。
「志しなかばで挫折しちゃった」
マリーらしくない言い方だった。
「昼ごはんは?」
「驕ってくれるの?」
「そのつもりで聞いた」
「ミソチゲ・・・それも、思いっきり辛いヤツ」
「メシの話になったら、元気になったな」
「私、元気なさそうに見えたんだ・・・」
そう見えたから、昼ご飯に誘う気持ちになったのだった。
「行こう」と言いながら、マリーは腕を絡めてきた。
「くっつくなよ」
「いいじゃん、誰も見てないもん」
確かに、マリーの言うとおり、道行く人々は僕たちのことなど、眼中になさそうに足早やに通り過ぎて行った。
目当ての店に行くと、昼時ということもあって店内はひどく混み合っていた。
思案した挙句、「ウチに来るか?」と、僕は言った。
「へぇ~意外な発言。そう言うこと絶対に言わない人だと思ってた。料理出来るの?」
「ミソチゲならそこら辺の食堂より、うまい。どうする?」
「襲ったりしない?」
「そう言うことを言うなら、昼メシはひとりで食べろ」と、僕は言いながら、やはりマリーはあの日のことにこだわっているのか・・・と思った。
「たとえ襲われても、今はミソチゲが食べたい」
「じゃ、決まりだ。まずは市場に行こう」
「え・・・っ?買出しに付き合うの?」
「嫌ならいい」
僕はひとりで歩き出した。
「もう~!待ってよ~。ホントにおいしく作れるの?まずかったら許さないからね!」
追ってくるマリーの声を聞きながら、僕の口元に思わず笑みがこぼれた。
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