「朝月夜」(アサヅクヨ)⑧・・・こちらは戯言創作の部屋。
長い間、不在だった夫が帰宅して、その荷物を解きながら、妻は聞くだろう。
「あら・・・このセーターどうしたの?」
半ば、自慢げに女性からのプレゼントだと答える夫。
事の成り行きを詳細に説明して、仕事仲間にもらったのだと言う夫。
自分で買ったのだと嘘をつく夫。
何も答えない夫。
返答の仕方は、その男の心持ちと、贈り主との関係により違う。
彼は、どう答えるだろうか・・・。
広げたセーターを丁寧にたたんで、箱に戻している彼を見ながら思った。
しかし、どの姿も思い浮かべることができなかった。
入院すると決まった時、「家族に連絡しますか?」と私は聞いた。
その時の「いいえ・・・」と言った彼の顔。
O氏の「晩飯は、コンビニの弁当の時もあるようで・・・」の言葉。
わずかな素材が邪魔をして、円満な夫婦の様子が思い描けないでいるからだ。
夫が持ち帰った荷物を解く妻に代わって、汚れ物を洗濯機に放り込む彼の姿が浮かんだ。
しかし、そんな思いは、無関係な他人の勝手な想像でしかなく、もっと深いところで、信頼し合ってる夫婦なのかもしれない。
セーターの入った箱をしまう為に立ち上がった彼に、「明日のチケットは大丈夫ですよね?」と、念を押すように私は聞いた。
彼は、それには答えず、「コーヒーを飲みに行きませんか?」と私を誘った。
一階の食堂は、患者とその家族で、ほぼ席は埋まっていた。
私は、彼が病室を出る時に、タバコを掴んだことに気が付いていたので、「外に出ましょうか?」と言った。
紙コップに入ったコーヒーを持って外に出ると、病院に来る時に吹いていた冷たい風は止んでいた。
陽だまりの中のベンチに腰を下ろすと、彼は、「タバコを吸ってもいいですか?」と言った。
私は「ええ・・」と答えながら、先程と同じことをもう一度、彼に尋ねた。
「帰国便は何時ですか?それによって、病院を出る時間を決めないと・・・退院の手続きもあるし・・・」
おそらく、退院の手続きなどは、お金の清算をしてサインをすれば済む程度のことで、さほどの時間は、かからないだろう。
それでも、出発時間を確認しておかないと、明日の朝、何時に病院に来たら良いのか解らない。
「出発時刻は・・・12時です。ユキさん、一緒に行ってくれますか・・・?」と、彼は言った。
福島空港まで彼を送り、無事に帰国させることは、O氏とも約束したことだ。
「もちろん、一緒に行きます」と私は答え、明日の道程を考えた。
宇都宮から、新幹線に乗って・・・と。
ところが彼は意外なことを言った。
「明日の朝、9時に駅に迎えの車が来ます」
福島空港は、特定のタクシー会社と契約を結んでおり、新幹線の各駅から、空港まで、「乗り合いタクシー」で行くことができた。
所要時間は、約一時間半。料金は、新幹線と変わらないと彼は、言った。
私はその様なシステムがあることをまったく知らなかった。
「福島空港までの一番楽な方法は・・・?と聞いたら、空港の人が親切に教えてくれました」と言って、彼は笑った。
笑った彼の横顔は明るかった。
今日、病室で、若いナースに韓国語を教えてあげたこと。
病院の浴室のすべての表示が日本語で、慌ててしまったこと。
明日のお天気のこと。
私たちはとりとめのない話しをして、小一時間をそこで過した。
今日の彼は、いつになくよく話した。
やはり、明日、帰国と決まるとうれしいのだろうと私には思えた。
病室まで、彼を送る途中、ナースセンターに立ち寄って、明日の予定を話すと、「それでは、朝、一番で会計処理をしましょう」と言うことになった。
そのことを彼に話し、「明日の朝、8時半までに必ず来ますから、それまでに荷物をまとめておいて下さい」と、言って、私は病室をあとにした。
外は薄暗くなりかけていた。
帰り道のコンビニで、サンドイッチとサラダとお茶を買い、万が一のことを考えてATMコーナーで、現金を引き出した。
万が一とは、入院に要した費用のことだった。
「持ち合わせはありますか?」
入院費について、彼にそう聞くことはとても失礼なことに思えて聞けなかった。
O氏から、預かったお金は、昨日、彼のために下着を買っただけだったので、封筒の中には10万円近いお金が残っていた。
これを今日、彼に渡すべきだったと、私は思った。
ゆうべと同じ様に、ホテルの自室で簡単に夕食を済ませ、シャワーを浴びてテレビを見ていた。
彼と一緒にいる時は忘れていたが、今朝、感じた気だるさを、わずかだが私は再び感じていた。
ゆうべ、ベッドにも入らずうたた寝をしたことが悪かったのだと思い、今夜は早めにベッドに入ろうと思った時、携帯の着信音が鳴った。
「ユキさん・・・」
聞こえてきた声は、昨夜と同じものだった。
「今日は、セーターをありがとう。お礼の言葉が上手く言えなくてすみませんでした」と、彼は言った。
大げさに喜んで見せる風でもなく、気のきいた台詞が言えるわけでもない。
そんな自分自身の性格を彼は解っていて、気にして電話をかけてきたのだと思った。
「そんなこと、気にしないで下さい」と私は言った。
「明日は・・・ヨロシクオネガイシマス」
最後の言葉を彼は日本語で言った。
「どこで覚えたんですか?」と私が聞くと、彼は「今日、病院で教わりました」と答えた。
どうやら、あの中年のナースに「挨拶の言葉くらい覚えなさい」と、言われたようだ。
携帯を握りながら、はにかむ彼の顔が浮かんだ。
今日、私が病室の前で聞いた笑い声は、そんなやり取りの中でのものだったのだ。
「遅刻しないように行きますから・・・おやすみなさい」と言って、電話を切ろうとしたら、再び彼が「ユキさん・・・」と言った。
「ユキさん・・・アイヅ・・・」
彼は何か言いかけたが、「おやすみなさい」と言って、電話はそれっきりになった。
アイズ・・・合図?彼は、そう言ったような気がする。
韓国語にそんな言葉があっただろうか・・・と思ったが、解らなかった。
翌日、彼の病室に行って、私はその言葉の意味にやっと気が付いた。
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