☆BGM「はつ恋」~福山雅治~見間違えるはずはない。だが、信じられない気持ちの方が大きかった。立ち止まって確かめようとしたが、多くの視線がそれを許してはくれなかった。止まることも戻ることもできず、フラッシュの光に押し流されるように着席した。歌手への質問が終わると、メディアの関心は一気に僕に集中した。帰国後、初の仕事にこのコンサートを選んだ理由。照明監督としてのフランスでの評価。今後の仕事の展望。あらかじめ予想していた質問が、矢継ぎ早やに続いた。答えている最中も、先ほど見た≪彼女≫のことが気になって仕方がなかった。質問の矛先が、監督のハン氏に移った時には、一刻も早く席を立って、≪彼女≫がユキであることを確かめたい衝動に駆られた。「では、これで本日の記者会見を終了いたします。皆様、ご協力ありがとうございました」壇上の全員が一斉に立ち上がった。≪彼女≫の横顔がちらりと見えた。今度こそ、確信した。会いたいと願い続けていたユキだった。席を離れようとした僕を司会者が制した。「引き続き写真撮影を行います」と言われ、僕は逸る気持ちを押さえながら、ユキの後姿を見送るしかなかった。 写真撮影を済ませ控え室に戻った時には、スタッフはそれぞれの持ち場に分散し誰も残っていなかった。まもなくコンサートが始まる。その前に、ユキに会いたい。この会場のどこかに、必ずユキはいるはずだ。余計な詮索は避けたくて、韓国人の関係者には頼めなかった。何人かの日本人スタッフに声をかけてみた。だが、韓国語を解する日本人に出会えず、結局、ユキに会うこともできないまま、開演時間となった。熱唱する歌手とともに、躍動感溢れるダンスを披露するダンサー達。あの中に、マリの夫のカズヤがいる。おそらく、ひと際機敏な動きをしている中央の・・・青色のダンサーがそうだろう。「最高にカッコよく、照らしてね」今は、マリとの約束を果たすことに専念しようと思った。それが、マリの結婚への一番のはなむけになるような気がした。1曲目からコンサートは大きな拍手と歓声に迎えられ、最後まで熱気と興奮に包まれて、無事に幕を降ろした。終了後は、コンサートの関係者や「後援会」を名乗る人物が現れたりして、その対応にかなりの時間がかかった。酒宴の席を用意しているのでぜひに・・・との誘いも受けたが、疲れているのでホテルに帰って休みたいと言い張り、全ての誘いを断った。 観客も去り、ほとんどのスタッフが引き上げた会場は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静かだった。ユキに会いたい思いが、僕を会場から立ち去りがたくさせていた。ロビーの椅子に座ってコーヒーを飲んでいたら、背後に人の気配を感じた。振り向いた先には、数人の日本人がいて、僕はその中にユキの姿を見つけた。「ユキ・・・!」コーヒーの入った紙コップが倒れ、ズボンと床を汚したが、構わず、僕はユキに走り寄った。仲間と談笑していたユキの顔が、一瞬にして驚きの表情に変わった。「ここにいたら、会えるような気がして」「お久しぶりです。コンサートの成功おめでとうございます」ユキはそう言いながら、小さく会釈をして立ち去ろうとした。「僕に言いたいことはそれだけ?」妙に他人行儀なユキの態度が、僕に棘のある言い方をさせた。「失礼します」ユキは、視線も合わせずひと言だけ言うと、僕に背を向けた。「ユキ・・・!」仲間達の驚いた様子を無視して、僕は、ユキの腕を掴んだ。「話があるんだ。時間をくれないか」僕は正面からユキを見据えるようにして言った。「今更、ユキに何の話があるんですか?」ユキの隣にいた女が口を挟んだ。「ユキの友人のアサミです。以前一度だけ・・・ソウルの病院でお会いしました」遠い日の記憶がよみがえった。「ユキは今、幸せに暮らしています。そっとして置くのも思いやりだと思いますけど」「幸せに暮らしている?」僕は、ユキに視線を移した。「そのことをユキの口から聞いてはいけませんか?」僕は、友人にではなくユキに向かって問いかけた。わずかな沈黙の後、「先に行ってて。あとからすぐに行くわ」と、ユキが友人に言った。ユキがそう言うなら・・・と友人も納得して、他の仲間とともに外へ出て行った。 「どこかで食事でもしようか」「これから、みんなで夕ご飯を食べる予定なんです」「それは、僕とは長くいられないと・・・そう言うこと?」「ええ・・・ですから、ここで・・・」「わかった」僕はそう言うしかなかった。僕たちは、ロビーの片隅の椅子に向かい合って座った。「5年ぶりの再会なのに、紙コップのコーヒーとは味気ないなあ」僕は、緊張感を隠すために冗談を言った。「元気そうでよかった」「あなたも・・・」「まさか、ソウルで会えるなんて思ってもいなかった」「スタッフ名簿に名前を見つけた時は驚きました」「僕は、会見場で・・・ひと目で君だと解った」「フランスに行っていたんですね。ずっと、ソウルだと・・・思っていました」「3年くらい向こうにいたんだ」「フランスでの話し、聞かせて」ユキに尋ねられるまま、僕はフランスでのことを話した。「仕事の話しになると、いつも熱く語る癖・・・変わってないのね」「知りたいのは仕事のことだけ?ユキ・・・僕はずっと・・・」そう言いかけた時、ユキの携帯電話が鳴った。「お店が決まったからって。もう、行かなくちゃ」「ユキ・・・ひとつだけ聞かせて。今・・・幸せに暮らしてる?」「ええ・・・大切な人と一緒に。幸せに暮らしています」「大切な人と言うのは、愛する人と言う意味?」ユキは黙って頷いた。 「東京で?」「いいえ、父も一緒に。田舎で畑をやりながら暮らしています」かつて「父と一緒に暮らせる相手を選びたい」と言ったユキの言葉を思い出した。「あなたも・・・幸せよね?」「僕は・・・」「コンサートが始まる前に、食事をしようと表に出た時。ご家族と一緒だったところを見かけたんです」「えっ・・・?」ユキの言っていることの意味がすぐには理解できなかった。「お似合いのご夫婦でした。かわいいお子さんもいたのね」マリと一緒にいたところをユキは見ていたのだと気付いた。「ああ・・・あれは・・・」「それぞれがそれぞれの居場所を見つけて、愛する人を守るために生きている。そのことを改めて感じました」「ユキ・・・」それは君の勘違いだと言いたかった。だが、そう言えばユキは、マリとの関係を聞くだろう。あの人は誰なのかと・・・。「もう、お会いすることもないと思います。どうぞお元気で。今後のご活躍を祈っています」そう言うとユキは立ち上がった。「待ち合わせの場所はどこ?」ユキは答えることを一瞬躊躇ったが、漢江の畔のレストランの名を言った。「そこまで、送るよ。駐車場に車を止めてあるんだ」「大丈夫。ひとりで行かれますから」「それくらいのことさせてくれてもいいだろう」 僕は、かなり強引な態度でユキを駐車場まで連れて行き、車に乗せた。それから僕たちはずっと無言だった。レストランの灯りが見えたところで僕は路肩に車を止めた。ユキはここで降りるつもりになったのだろう。ありがとうと礼を言いながら、シートベルトに手をかけた。「ユキ・・・最後に一度だけ抱きしめてもいいだろうか」ユキの承諾を得る前に、僕はユキをそっと抱きしめた。かすかに漂う香り・・・それは僕の知っている香りとは違うものだった。ユキが大切だと思う相手の好きな香りなのだろうか。嫉妬に似たものが心をよぎって、ずっと忘れられなかったと言ってしまいたかった。だが、それとは裏腹に、マリと夫婦同然の暮らしをした事実があることを忘れてはならないと思った。離れる前に一瞬だったが、僕の背中に回したユキの手に力がこもったような気がしたのは、僕の錯覚だろうか。ユキは、もう一度僕に礼を言い、車のドアを開けた。「君の幸せを心から願っているよ。そのことは忘れないで。本気で愛していたということも」「ええ・・・わかっています。本当は会わずに日本に帰ろうと思っていました。でも、今は会えてよかったと思っています。さようなら。どうぞ、お元気で」「君も・・・」ユキは、小さくうなずくとレストランに向かって歩いて行った。ユキの後姿を見送りながら、これでよかったのだと思った。僕はひとりなんだと言わなかったことは、正しかったのだ。ユキを安心させて、幸せな生活に帰すことが、僕がユキにしてやれる最後のことだと思った。