ぼくが突然いなくなって、あの夜は大騒ぎになった。ぼくは、どうしても確かめたいことがあった。おじさんが、韓国に帰ってしまう前に。だから、真っ暗な道も全然怖くなかった。必死で、おじさんの車を追いかけたんだ。「お父さん、ジュンの姿が見えないんだけど・・・?」私は父の部屋をのぞき込みながら言った。「寝たんじゃないのか?」「部屋にもいないの」「いないって・・・こんな時間に外に出るわけはないだろう」私は玄関に走るとジュンの靴を確かめた。いつもそこにあるはずの青色のスニーカーが消えていた。「靴がない・・・」振り向くと父が後ろに立っていた。「さっき、俺の部屋に来て変なことを言っていた」「変なこと?」「ああ・・・あのおじさんは自分と似ているかと聞かれたよ」「なんて答えたの?」「解らないと答えた」私は全身から血の気が引いていくような感覚に襲われた。「ジュンの父親なんだろう?」「お父さん・・・」「大人のお前たちが選択した道だ。俺は何も言わずにいようと思った」それらしい会話は何もなく、ただ他愛のない話だけで済んだインスとの食事だった。ジュンが気づくはずはないのに。「コウジに連絡しなさい。もしかしたら一緒かもしれない」父にそう言われて、私は震える指で携帯を開いた。 「とりあえず今夜は空港近くのホテルに泊まって、明日のソウル便に乗ってください。ボクは、実家に向かいますから」「いろいろと面倒をかけて悪かったな」「そうですよ、今夜はユキさんの家に監督を置いて、ボクは実家に・・・と思っていたのに。こんな結果になるなんて」言いながらタケルはため息をついた。僕とは別の道を歩むと言うユキの意思は固かった。それを翻すだけの言葉は、見つからなかった。車窓から見えるのは、漆黒の闇。静けさだけがそこにあった。住み慣れたこの地に、ユキとジュンを置いていくことが、僕にできる最後の思いやりのように思えた。「愛」なんて言葉を振りかざして、ふたりをソウルに連れて行くことが幸せに繋がるだろうか・・・。繋がると言い切る自信も勇気も、長い間の無責任さの前に影をひそめてしまっていた。父親だと名乗ることもせず、抱きしめてやることもできず、別れてしまったことに悔いは残るけれども、むしろその方がジュンのためになるかもしれないと思った。 不意に運転中のコウジの携帯が鳴って、車が急停車した。「ジュン君がいなくなったようですよ」タケルが僕に向かってささやいた。「すみません。ジュンがどこかへ行ったらしくて・・・引き返します」コウジは車をUターンさせた。「いないって・・・どこへ?」まさかと思いながらも、車を追いかけて暗闇を彷徨うジュンの姿が脳裏に浮かんだ。半分くらい引き返した地点で、車のヘッドライトにジュンの姿が浮かび上がった。車を止めてジュンに駆け寄るコウジに続いて、僕もタケルも車外に飛び出した。「ジュン!何をやってるんだ!危ないじゃないか!」コウジに大声で怒鳴られて、ジュンは一瞬泣きそうな顔をした。「おじさんにどうしてもいいたいことがあって、おいかけてきたんだ」と、まっすぐに僕を見上げた。「タケル」通訳してくれ・・・と言う意味で僕はタケルを呼んだ。「おかあさんはいまでもぼくのおとうさんのことがすきなんだ。わすれたふりをしているだけで、ほんとうはわすれてなんかいない」ジュンは僕の目を見て話し始めた。「ぼくもおとうさんにあいたい。でもがまんしてる。おかあさんががまんしてるから」通訳するタケルの声が震えていた。「かんこくにかえったらキム・インスというひとをさがして。そして、ぼくたちはげんきでいるってつたえて・・・ください」「お父さんの名前がキム・インスだって思い出したんだな!偉いぞ!」タケルが涙声になりながら、ジュンの頭を撫ぜた。ここまで来る間に、転んでできた傷だろうか。ジュンの膝からは血が流れていた。そんなことは全く気にせず、必死に僕を追いかけて来たジュンの気持ちを思うと、胸が張り裂けそうだった。「伝えたいことはそれだけ?」タケルが問いかけると、ジュンは、僕とタケルの顔を交互に見た。「言いたいこと・・・あるんじゃないのか?」「ほんとうは・・・」ジュンが何か言いかけた時、車のライトが光った。「おかあさんだ・・・」ユキが慌てた様子で車から降りて来た。「こんな時間にひとりで家を出るなんて。何かあったらどうするの!」厳しい口調で言いながらも、ジュンの無事な姿を見てユキは安心したようだった。「ごめんなさい」ジュンが小さな声で言った。「足止めさせてしまってすみません。行ってください」ユキは僕を見ながら、ひどく他人行儀な言い方をした。「おかあさん・・・。ぼく、おとなになるまでまたないとだめ?いま、しりたいとおもったらだめ?」ジュンは、掴まれた腕を振り払いながら言った。「何を言ってるの?」「ほんとうは、このひとがぼくのおとうさん・・・キム・インスってひとだよね?そうでしょ?そうだよね」 あの日の夜。暗闇の中でぼくのことを抱きしめて震えていた父の背中をぼくは一生忘れないだろう。幼心に思い描いた父の姿。写真でさえ知らなかった父の顔。優しい笑顔。たくましい腕。広い大きな背中。記憶も面影も何もない父であったけれど、憧れにも似た想像力に、いつもぼくは勇気づけられ、いつの日か会える日を夢見ていた。今日は、クリスマス・イブ。そして、妹のユイの誕生日。懸命に父を追いかけて、暗い夜道を走った日から、7年の時が経った。韓国の祖父母から届いたプレゼントに大喜びのユイは、来年から小学生に、ぼくは中学生になる。さっきも電話口で半分涙声になりながら、「愛しているよ」と、言ってくれた韓国のおじいちゃんとおばあちゃん。「夏休みになったら、また会いに行く」と約束をした。最近ますます元気になったおじいちゃん。「若いもんに負けてたまるか!」が口癖だ。卑屈にならずにいられたのは、おじいちゃんのおかげと思っている。アメリカで頑張っているコウジおじさんからは、クリスマスカードが届いた。父親代わりとなり幼いぼくの面倒を見てくれたおじさん、ありがとう。金髪で美人の奥さんといつか会いたいなあ。そして僕の大好きな両親。途中、離れていた時期があっても、お互いのことを忘れずそれぞれの思いを大事にして、結ばれた父と母。子供のぼくにはまだまだ解らないことがたくさんあるけれど。ぼくも父と母のような素敵な大人になりたいと思う。みんなが幸せな夜を過ごせていますように。メリークリスマス。 「一緒にクリスマスを過ごせてよかったわ」「新年の仕事を済ませたら、すぐ戻って来る」「こういうの遠距離恋愛じゃなくて、遠距離・・・婚、とでも言うのかしら」そう言ってユキは小さく笑った。ふと、窓辺に目を向けると白いものが横切るのが見えた。「ユキ見てごらん、ホワイトクリスマスになったよ」僕達はしばらくの間、無言で舞い降りる雪を見ていた。「こうして窓辺に立ってふたりで空を見上げたことがあったわね。覚えてる?朝月夜のこと」「アサ…ツキ…ヨ?」「明け方の空にほのかに残るミルク色の月。あなたがソウルに帰る日の朝、私の部屋から見たわよね」「ああ・・・そんなことがあったな」「ずいぶん昔のことのようにも感じるし、昨日のことのようにも感じるわ」ユキと出会ってからの出来事が、走馬灯のように甦っては通り過ぎて行った。「忘れずにいてくれてありがとう」ユキが隣でぽつりと言った。「こう見えて意外と執念深いんだ。良く言えば粘り強く、辛抱強いってことかな」冗談を言いながら、僕の胸には熱いものが込み上げていた。目の前にある幸せを大切にしよう。もう二度と離れることなく、家族と一緒に生きて行こうと思った。見守ってくれたすべての人たちに感謝をこめて。「メリークリスマス」僕は心の中でつぶやいた。★本当に長い間、お付き合いくださってありがとうございました。深く、深く感謝申し上げます。ひとつでもコメントを寄せてくださる方がいらしたら・・・。ひとりでも読んでくださる方がいらしたら・・・。そんな思いで、書き続けてきました。私の「インス」は今日をもちまして完結です。大好きなペ・ヨンジュンもいつの日か愛する人にめぐり会って、家庭を築くことになるでしょう。その時は、私たち≪家族≫に、いちばん最初に教えてくれるとうれしいですね。お付き合いくださったすべての方に、感謝をこめて。≪メリークリスマス!≫