「朝月夜」(アサヅクヨ)⑪・・・こちらは戯言創作の部屋。
驚いた顔をした君を見つめながら、僕はなぜか満足感を味わっていた。
夕べから、胸につかえていたものを吐き出すことができたからだ。
元々、期待などしていなかった。
ただ、正直に言ってしまいたかった。
すみません、失礼なことを言って・・・。
僕は、心の中で、言い訳の準備をした。
ところが、君は、思いもかけないことを言った。
「行きましょう!きれいな景色を見て、おいしいご飯を食べて、温泉に入ったら、日本で仕事をしたいい思い出になりますね」
予想外の君の発言に、僕は一瞬、言葉を失った。
そして、実に不躾な言葉を口にしてしまった。
「温泉って・・・一緒に泊まってくれるってことですか?」
しかし、それに対しても君の応えは、冷静だった。
「飛行機のチケットを持っていないあなたを、ここに置いて、私だけ帰るわけにはいかないでしょう?通訳として、会津見物に付き合います。今から、観光バスの出発時間を聞いて来ますから、インスさんは、カウンターに行って、明日の飛行機の予約をして下さい。」
そして、さらにこう言った。
「差し出がましいことを言うようですが、ご家族に帰国の予定をきちんと連絡して下さい。今日、帰国できなくなった理由も、ちゃんと話して下さい」
君は、まるで仕事を指示するような口ぶりだった。
僕は、言われたとおりに飛行機の予約カウンターに行き、帰国便の予約をした。
空港ロビーのソファに座って、君が戻るのを待っている間、僕は、今、手にしたばかりのチケットを見つめながら、「土曜日か・・・」と呟いていた。
君は、すぐに戻って来て、観光バスは、すでに座席が完売になっていたと言った。
「代わりにハイヤーを頼みました。少し高くつくけど、これがあるからいいですよね」
君はそう言って、O氏から預かった封筒をちらつかせながら、小さく笑った。
「飛行機のチケットは、取れましたか?」
と、君に聞かれて、僕は「ええ・・・」と答えた。
「良かったわ・・・」と、君は、安心した様子だった。
行きましょうかと、君に促されて、僕達は、ハイヤーの乗り場へと向かった。
「何時の便ですか?」
僕が予約したチケットは、明日のものだと信じている君は、出発の時刻だけを僕に尋ねた。
「えっ・・・?」
「明日の飛行機の時間です。遅刻したら困りますから」
「帰国は・・・・土曜日です」
「土曜日・・・って、今日は、水曜日ですよ。何か、勘違いしていませんか?」
君は、足を止めて、僕を見上げた。
「ソウルへの便は、1週間に3日だけ。月曜と水曜と・・・土曜日だそうです。僕も知らなくて・・・」
「そんな・・・予約係の人は、韓国語が解る人でしたか?」
僕は、黙って頷いた。
「困ったわ・・・どうしよう、私はそんなに長い間、会津にいるわけいはいきません。ちょっと待ってて・・・」
君は、僕にバッグを預けると、予約カウンターに向かって、走って行った。
おそらく、予約係は、僕に告げたことと同じことを君に言ったのだろう。
途方に暮れた様子で、君は戻って来た。
「大丈夫、一人で何とかなりますから」
僕は、そう言うしかなかったし、チケットを手にした段階で、本当にそう思っていた。
これから、4日間もの長い間、君を付き合わせるわけにはいかないって・・・。
韓国の運転手もそうだが、日本の運転手もよく喋る。
しきりに君に何かを話しかけ、そのたびに君は、ええ・・・とか、まあ・・・とか、曖昧な返事をしたり、真剣な顔で聞き返したりしていた。
そして時折、僕の顔を見ては、韓国語で話しの内容を教えてくれた。
「残念だけど、猪苗代の方まで行ってる時間はなさそうなの。雪があって車が走れるかどうか・・・って。それに・・・猪苗代湖畔の冷たい風は、体によくないと思うわ。まだ、回復したばかりだもの・・・その代わり、会津市内をゆっくり見て、回りましょう」
君の意見に反対する理由は何もなかった。
車が会津若松の市内に近づいた頃、運転手がまた君に何かを尋ねた。
僕の帰国が土曜日だとわかった時と同じ、困惑の表情を浮かべて、君は僕を見た。
「会津の・・・鶴ヶ城で《ろうそくまつり》と言う、お祭りが開催されているらしく、ホテルは、予約客で、いっぱいだろうって・・・」
とりあえず、市内見物は後にして、駅前の観光案内所に行って、宿の手配を先にした方がいい、と言う運転手の言葉に従って、僕達は、駅前で一旦、車を止めた。
イベント開催中ということもあって、駅前の観光案内所は、混んでいた。
観光客を掻き分けるようにして、君は、「宿泊案内」と書かれた、カウンターに行くと、若い男性職員を捕まえて、早速、話しを始めた。
二人のやり取りは僕には理解できない。
男性職員は、さっきから、何度もPCのキーを叩き、そのたびに首を振っている。
空いているホテルが見つからないのだろうと、想像できた。
あきらめかけた頃、カウンター越しに、職員が君を見上げて、ひとこと言い、君はホッとしたような顔をした。
しかしそれもつかの間で、一瞬にして君の表情は、曇ってしまった。
「ホテルが、見つからないんですか?」
気になって、僕は尋ねた。
君は答えることに躊躇している様子だった。
「空いているホテルが、やっとひとつ見つかりました。但し、部屋が・・・どうしてもひとつしか取れないって・・・」
物事を決める時に、男にとっては、さほど重要でないことも、女性にとっては重要なことがある。
同室に宿泊すると言うことは、君にとっては、まさしく「重要」なことで、それ故に決めかねていたのだった。
「どうしましょう・・・?」
「僕は、構いませんが・・・」
男なら誰もがこう答えるだろう。
今度は、職員が、「どうしますか?」と言うような顔で、君と僕を交互に見た。
君は、もう一度僕の顔を見て、迷いながらも「お願いします」と言った。
すべては僕の我儘から発生したことであるのに、こういう時に、上手い言葉が見つからない。
「何もしませんから・・・」
なんとも間の抜けた言葉が、口を突いて出た。
君は「当然です!」とひと言言うと、急ぎ足で、出口に向かって歩いて行った。
職員が、僕にホテルの場所が書いてあるパンフレットを手渡してくれた。
「当然です!」と、怒ったように言った君の顔が、なんだかとてもかわいくて・・・。
僕は小走りで、君の後を追いかけた。
「朝月夜」(アサヅクヨ)⑩・・・こちらは戯言創作の部屋。
苛立ちの原因は、自分自身の中にあるのだと、充分解っていた。
夕べ、「会津・・・」と言う言葉を口にした時点で僕は大いに後悔した。
そして、それ以上、何も言えなくなった。
恋人でもない女性を旅に誘うなどと言うことは、常識外れも甚だしいことなのだ。
微かな願望は、夜を越えても、消えずに残っていた。
そんな気持ちを、封印するように僕は、引き出しの中に旅行雑誌を隠した。
それを君に見つけられてしまった。
カバンの奥底にしまいこんでおけばよかったと、思った。
僕の苛立ちは余計に募り、行き場のない感情は僕を無口にさせた。
空港に着いたら、飛行機に乗るふりをして少しでも早く君と別れよう。
タクシーの中で、僕はそう思っていた。
ところが君は僕をお茶に誘い、「会津に行きたかった?」と聞いた。
心の中を見透かされたような気がして、僕は、思わず席を立ってしまった。
外に出て、タバコに火をつけた。
空港の冷たい風はソウルの風に似ていた。
家の前に見慣れぬ車が止まっていた。
車から降りる男の姿が見えた。
続いて妻が降りてきた。
男が妻を抱き寄せ、キスをした。
僕はその光景を見て、ただ呆然と立ち尽くしていた。
二人は別れを惜しむかのように、もう一度抱擁を繰り返し、男は車に戻り、走り去った。
妻は、走り去る車を見送り、次に僕を見た。
そして、足早に玄関に向かった。
僕は、妻の後を追った。
「あの男は誰だ?」
「いつからなんだ・・・?」
「キスだけの関係か・・・?」
「どういうつもりなんだ・・・?」
部屋に入るなり、僕は、矢継ぎ早に妻に尋ねた。
妻はひと言の弁解もしなかった。
「離婚してください」・・・そう言っただけだった。
「ルール違反じゃないか!」僕は、吐き捨てるようにそう言ったが、不倫にルールなど、最初から存在しないのだった。
男と抱き合ってキスをしている妻を見て、取り乱している自分が、以外だった。
なぜなら、妻に男がいることを僕は薄々気付いていたからだ。
気付いていながら、知らないふりをしていた。
当たり障りのない会話を交わし、妻の手料理をおいしいと言って食べ、僕以外の男と関係を持ったかもしれない妻を抱いていた。
世間に対する面子。
男のプライド。
妻に裏切られたという被害者意識。
夫としての意地。
妻に対する未練。
いろんなものが交錯して、僕は離婚を言い出せなかった。
できることなら、妻の浮気に目をつぶって、このまま夫婦生活を続けよう、僕はそう思っていた。
ところが妻は一時的な遊びではなく、本気だったのだ。
本気で、僕以外の男を愛していたのだ。
そのことに初めて気付いた。
日本に来る三日前の出来事だった。
僕が日本に発つ日の朝、妻は離婚届を置いて家を出た。
こうして離れて暮らしてみると、もっと早くそうすべきだったのだという気持ちになった。
帰国したら、離婚届を提出しよう、そう思った矢先に僕は体調を崩し、入院してしまった。
そして、君と出会った。
妻との結婚生活が破綻したから、君とどうにかなりたい・・・などという淫らな気持ちは毛頭ない。
ただ・・・もう少しだけ一緒にいたい。
単純にそう思った。
思えば僕はいつも、自分の気持ちをあまり表に出さず、格好つけて生きてきたように思う。
時には、感情のおもむくまま正直に生きたっていいじゃないか・・・・。
そんな思いが僕を大胆にさせた。
「一緒に会津に行ってくれませんか。このまま、ユキさんと別れたくないんです」
驚いた表情をした君を、僕はじっと見つめていた。
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