「朝月夜」(アサヅクヨ)⑯・・・こちらは戯言創作の部屋
カーテンの向こうには、銀色の世界が広がっていた。
会津地方は、雪が多いと聞いていたが、ひと晩でこんなにも積もってしまうなんて思ってもいなかった。
「これでは、観光どころではないですね。でも・・・雪が止んで、観光バスが出るようでしたら、私に構わず、出かけて下さい。せっかく、会津に来たんですから」
そう言いながらも私は、この雪は、きっと夜まで降り続くだろうな・・・と思った。
彼も、そう思っているのだろうか?
「そうします」とも言わず、黙って、雪を見ていた。
熱は平熱に戻っていたが、気だるさがまだ残っていた。
トイレに行こうと思い、ベッドから降りようとして、足元がふらついた。
彼が、「大丈夫ですか?」と、手を差し伸べてくれた。
浴衣は、胸元と裾が乱れて格好が悪い。
トイレに行くよりも着替えが先だと思った。
隣の部屋へ行って、クローゼットの中から、バッグを掴むと、「着替えをしますので」と断って、私は寝室の襖を閉めた。
ツアー中、パジャマ代わりに着ていたスエットに着替え、トイレで用を足して洗面所で顔を洗った。
鏡に顔色の良くない私が映っていた。
だからと言って、化粧をする気にもなれず、ほのかに色のつく、リップクリームを塗って、私は洗面所を出た。
「こんな格好で、すみません」
スエット姿のことだけでなく、化粧っ気のない顔でいることも含めて、私はそう言った。
「そんなことは気にしないで下さい。楽な服装で、今日は一日寝ていた方がいい」と、彼は言った。
「それよりも、おなかがすいたでしょう?夕べは、夕食もあまり食べていなかったし・・・」
彼の言うとおり、昨日の晩は、ご馳走を前にしても、食欲が湧かなかった。
朝食は、最上階のレストランでバイキングと決められていた。
7時からだから、もう間もなく、朝食の準備が整ったと言う、館内放送が流れるはずだ。
熱いコーヒーが飲みたいと思った。
冷蔵庫の中のミネラルウォーターを電気ポットに入れて、お湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れた。
「コーヒーを飲んで大丈夫ですか?」
「ええ・・・朝、コーヒーを飲まないと、目が覚めなくて・・・」と私は答えた。
私はカップを持ったまま、窓辺に寄って、空を見上げた。
彼も同じ様に、私の隣でコーヒーを飲みながら、降り続く雪を見ていた。
特別、話すこともなく、ただ静かに時間が流れていくことが、心地よかった。
「今日もこの部屋で過せるように、ユキさんから、係りの人に言ってください」
韓国語を覚えて数年経ち、いまはそれを職業としている。
しかし、韓国語の微妙なニュアンスの違いに時々、と惑うことがある。
当初は・・・というより昨日まで、私は今日、会津を発つつもりでいた。
家を留守にしてだいぶ経っているし、仕事のことも気になっていた。
それにも増して、いくら「通訳」の為といっても、恋人関係にない男性と何日も一緒にいるのはやはりおかしいと、感じていたからだ。
だが、こんな事態になって、今日はとても長時間電車に揺られて、帰宅する気にはなれなかった。
今夜もここに泊まるとしたら、予約の延長をするか、部屋を替わらなければならない。
「今日もこの部屋で過せるように」という、彼の言葉には一体どんな意味があるのだろう。
昨夜、あと2泊3日滞在する彼のために、シングルルームを予約した。
僕はそっちに移るから、君は一人でここに残りなさい、ということなのだろうか?
それとも、このまま一緒にこの部屋で過そうということなのだろうか?
もしも、後者なら、彼に必要以上の宿泊代を負担させてしまうことになる。
それに、「一緒に泊まろう」と言われて、「はい、そうします」と即座に答えるのもおかしなものだと思った。
私は、前者の解釈が正しいと判断し、「今夜はひとりでこの部屋に泊まる」と、彼に話した。
あっさり承諾してくれると思っていたのに、「僕と一緒にいるのは嫌ですか?」という答えが返って来た。
「いえ、けしてそういうわけではなく・・・」と、私はどう答えたらよいのか解らず、口ごもった。
「僕の存在が迷惑ですか?」と、再び彼は聞いた。
だからそういうことではなく・・・と、私は同じ言葉を反芻した。
「ユキさん・・・」
私の腕に手を伸ばす彼の姿が、曇ったガラス窓に映った。
「迷惑だったら、僕はシングルルームに移ります。ただ・・・気分のすぐれないユキさんが荷物をまとめて、別の部屋に移動するのは、大変だろうと思って・・・。誤解しないで下さい。それが、僕の・・・本心です」
彼は、私の目を見てそう言った。
その時、室内の電話が鳴った。
一瞬、私たちは顔を見合わせ、私は、掴んだ彼の手を振り解いて、受話器を取った。
電話は、フロント係りからだった。
「おはようございます。朝早くからすみません。お加減はいかがでしょうか?今、係りの者がお部屋まで伺いますので・・・」
受話器を置くのと同時くらいに、部屋のチャイムが鳴った。
彼が僕が出るから・・・という仕草をしてドアを開けた。
聞こえてきたのは、若い女性の軽快な韓国語だった。
「昨日は、ご不便をおかけして、申し訳ありませんでした。今日は、私がおりますので、何でもおっしゃってください」というようなことを言っている。
それに対して彼は「助かります。ありがとう」と、答えていた。
ちらりと見えた彼は、本当に安堵したという表情で、にこやかに話していた。
私はなんとなく、出て行くきっかっけを失って、挨拶もできずにいた。
彼が、この部屋を引き続き使っていいかどうかを聞いている。
「それでは、シングルルームはキャンセルということで、よろしいですね?」と、客室係りの韓国人女性が聞いた。
「いや・・・ここに残るのは彼女ひとりで・・・」
僕は、別の部屋に移ります、という彼の言葉を待たず、私は言った。
「二人で、あと二日・・・ここに滞在します」
彼が驚いた顔で振り向いた。
「朝月夜」(アサヅクヨ)⑮・・・こちらは戯言創作の部屋
最後の一杯をコップに注いだ時には、心地よい眠気と、酔いを感じていた。
ベッドに入って、横になろうかな・・・と、イスから立ち上がりかけた時、背後で、襖の開く気配がした。
「どうかしましたか?」
僕がそう言ったのは、明らかに君の様子が変だと感じたからだ。
しかし、君は「何でもありません」と答えると、クローゼットから、バッグを取り出した。
「・・・・」
君が何か、言ったような気がしたが、僕は聞き取ることができなかった。
バッグの中を覗き込み、何かを探している様子が気になって、僕はもう一度、君に声をかけた。
「薬を・・・」そう言うと君は大きなため息をついた。
「薬を探しているんですが・・いつも、必ず持っているのに・・・こんな時に限って・・・」
君は独り言のように呟くと、また、ため息をついた。
「インスさん・・・」僕の名前を言いながら、立ち上がったとたん、君の体が小さく揺れた。
慌てて差し出した僕の腕が感じたものは、異常に熱い君の体温だった。
薄手の浴衣を通して感じられた熱さ・・・それは普通ではなかった。
「フロントに行って、薬をもらって来て下さいますか。今、紙に書きますから・・・」
君は手帳のページを破って、僕に渡した。
「とにかく、横になって下さい。すぐに行って来ますから」
君をベッドに寝かせて僕はフロントへと向かった。
メモを渡してから、係りの者が戻ってくるまでの時間が、とても長く感じられた。
薬を手渡される時、日本語で何かを言われたが、僕には理解できなかった。
薬と体温計を受け取って、僕は急いで部屋に戻った。
薬の粒を確めると、君はコップの水と一緒に一気に飲み込んだ。
「ごめんなさいね。ちょっと疲れたりすると、熱を出してしまう時があるの。それに少し風邪をひいたみたい・・・。今日、寒かったものね・・・」と言って、君は小さく笑った。
君を見つめる僕の表情が、深刻そうに見えたのだろうか。
「薬を飲んで、眠れば治るから・・・。心配しないで下さい」と、君は言った。
酔いも、眠気もすっかり消えていた。
高熱を出した僕の世話をしてくれたこと。
寒い会津の町を一緒に見て回ってくれたこと。
それらが、今、君を苦しめている原因なのだと僕は思った。
「僕で、できることだったら何でもしますから・・・」
そう言うのが精一杯だった。
「大丈夫です。本当に・・・。眠れば良くなりますから・・・。あ・・・ひとつお願いしてもいいですか?」君は遠慮がちに言った。
「なんですか?何でも言ってください」
「ペットボトルの飲み物を・・・できれば、スポーツドリンクのようなものを買ってきてもらえますか?夜中に喉が渇いて、目が覚めるかもしれないので・・・」
部屋に備え付けられている冷蔵庫には、お茶と水はあったが、スポーツドリンクは入っていなかった。
「ホテルのどこかに自動販売機があると思うの・・・。ごめんなさい・・・こんなこと頼んで。」
「気にしないで下さい。すぐに行って来ますから」そう言って、僕は、寝室を出た。
だが、確かにどこかで見かけたはずの自動販売機の場所が思い出せない。
落ち着いて、思い出さなければ・・・と思いながら、とりあえずエレベーターに乗って、1階のボタンを押した。
エレベーターを降りて、辺りを見回したが、自動販売機はどこにもなかった。
「自動販売機はどこですか?」
こんな簡単な日本語さえ、僕は解らない。
なんだか情けなさで、胸がいっぱいになった。
その時、エレベーターが開いて、風呂上りと思える男性が降りて来た。
そうだった・・・!温泉に入った時に出口の所で、自動販売機を見たのだと思い出した。
寝室に戻って、ベッド脇の小さなテーブルの上にペットボトルを置くと、君は「ありがとう」と言い、「インスさんも寝てくださいね」と言った。
「タバコを一本吸ってから・・・」と答えたものの、今夜は眠れないだろうな・・・と思った。
ふと、目が覚めた。
外はまだ薄暗い。
時計を見たら、間もなく6時になるところだった。
夕べは、気分を落ち着かせるためにタバコを吸って、ベッドに入った。
静かに寝息を立てている君の寝顔を見ながら、僕も、いつの間にか眠ってしまった。
ベッドの中の君は、まだ眠っていた。
そっと、ベッドから抜け出して、恐る恐る君の額に手を充ててみた。
気配を感じて、君が静かに目を開けた。
「すみません。熱が下がったかと・・・気になって。起こしてしまったみたいですね。」
「今何時ですか?」
「6時です。もう少し、眠りますか?」
「大丈夫です。インスさんのおかげで、良く眠れました。夕べはありがとうございました。」
そう言うと君は、ベッドサイドに置かれたペットボトルを見て、「せっかく、買ってきてもらったのに、一口も飲んでいないわ。」と言った。
僕がキャップを開けて、「飲みますか?」と聞くと、君は小さく「ええ・・」と頷いて、僕の手から、ペットボトルを受け取り、おいしそうに飲んで、笑顔を見せた。
一口飲むたびに君の喉が上下に揺れる。
浴衣の胸元から見えるその様子が、妙にセクシーで・・・。
不謹慎な思いを振り払うかのように、僕は、勢いよくカーテンを開けた。
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