創作の部屋~朝月夜~<28話>
ソウルのホテルから、私はAに電話をかけて、無事に到着したことを知らせた。
コンサートチケットだけでなく、飛行機のチケット、ホテルの予約、すべてAが手配してくれた。
私は、改めてAに礼を言った。
「飛行機は夜の便しか取れなかったけど、ホテルはまあまあでしょ?」
「とても素敵なホテルよ。部屋もきれいだし・・・」と、私は感じたままを言った。
社長に嫌味を言われながら、もらった3日間の休暇。
休みの間の私の仕事は、Aが引き受けてくれることになっていた。
「何から何までお世話になった上に仕事まで・・・」と言いかけた私に、Aは、「仕事のことは気にしなくていいから」と言った。
「たった3日間じゃないの。おいしいもの食べて、コンサートを楽しんでらっしゃい。ひとり・・・って言うのがちょっと淋しいけどね。だからと言って、変な男に着いて行くんじゃないわよ」と言って、笑った。
おみやげを買って帰る約束をし、私は電話を切った。
部屋のカーテンを開けると、月明かりに照らされた漢江が見えた。
この街のどこかにインスがいる。
そう思っただけで胸が高鳴った。
ひとりでソウルの街に出る気にもなれず、ホテルのレストランで夕食を済ますと、私は、早々に部屋に戻った。
このところ、日帰りの出張が多く、睡眠不足が続いていた。
今夜はゆっくり休もう・・・そう思ってバスルームに向かおうとした時、携帯が鳴った。
インスだった・・・。
「ユキ・・・いよいよ明日だよ。興奮して今夜は眠れそうにない」
コンサートを明日に控えて、緊張している様子が伝わって来た。
「本当は、ユキに見に来てほしかったんだ。でも、仕事が忙しいと言っていたし・・・。」
そうだった・・・。
一度だけインスは、「ユキも来ないか?」と私を誘ったのだった。
Aに頼むまでもなく、インスに「私も行きたい」とひと言言ったら。
インスは、チケットを手に入れる為にできる限りの努力をしてくれたはずだ。
それが解っていたから。
私は、仕事が忙しくて行かれないと言った。
インスには、仕事以外のことに時間を割いてほしくなかった。
すべての神経をコンサートに集中させて、仕事に没頭してほしいと思った。
「この仕事が終わったら、すぐにユキに会いに行くから・・・。
こうしている今も、たまらなくユキに会いたい・・・。」
インスの言葉に、内緒でソウルに来た後ろめたさが一気に私に襲いかかった。
ソウルにいるんだと・・・。
あなたのすぐ近くにいるんだと・・・。
言ってしまいたい衝動に駆られるのを私は必死に耐えた。
今、それを言ってしまったら、インスの張りつめた糸を私の手で、切ることになってしまうと思ったからだ。
インスを慕う心は、今すぐにでもインスの元に走って行きたがっていた。
そんな気持ちを抑えて、「成功を祈っています」とだけ、私は言った。
会場に入り座席に座ったとたん、この席のチケットがキャンセルになった理由がわかった。
目の前には、撮影用の機材と、音響の装置が置かれ、ステージへの視界を遮っていた。
おそらく、その中にはインスが操作する照明の機器も含まれているのだろう。
この座席を最初に手に入れた人は、Mの姿を見ることができないと判断して、チケットを手放したに違いない。
すでに、機材の側では、数人のスタッフらしき人物が、忙しそうに動き回り準備を始めていた。
あの中にインスもいるのだろうか・・・。
私の座席からそれを確認することはできなかった。
黄色は、優しい春の日差し。
緑は、どこまでも続く初夏の草原。
赤は、田畑に映える夕焼け。
青は、凍てつく海を渡る風。
インスの指先から放たれた光は、四季折々の色を感じ、香りさえ伴っているような気がした。
光の魔術師は、観客を宇宙へと誘い、頭上に無数の星を描いた。
灼熱の太陽の陽を浴びせ、銀色の雪を降らせた。
躍動感溢れるMの歌声と、インスの作り出す光りの束が交じり合って奏でるメロディーが会場を包んだ。
鳴り止まない拍手を聞きながら、私はインスの才能に酔いしれていた。
このまましばらく、この場所で余韻に浸っていたいと思った。
しかし、そういうわけにもいかず、コンサート終了のアナウンスと、係員に促されて、私はようやく席を立った。
ロビーに出ると、そこは、M関連のグッズを買い求める人たちで、混雑していた。
人混みをかき分けて、出口を目指す気にもなれず、私は化粧室へと向かった。
けれど、そこにも長蛇の列ができていた。
あきらめて、出口に向かおうとした私は、思わぬ人と出会った。
「ユキさん!」と呼び止められて、振り返ると見覚えのある男性が、右手を上げて立っていた。
インスの会社のO社長だった。
「いやあ、こんなところでユキさんに会うなんて。驚いたなあ」
O氏は、本当に驚いた様子だった。
「インスには会いましたか?」と尋ねられ、私はいいえ・・・と答えた。
「インスに呼ばれて来たんでしょう?インスの所に案内しましょうか?」と、O氏は言った。
私は、黙って首を振った。
その時、ロビーの片隅で、カメラのフラッシュが光った。
「ああ、あそこに・・・いますね。」
O氏が指差した方を見ると、ひとかたまりの人の輪の中にインスがいた。
「ありがたいことにマスコミが、照明監督に注目してくれてね・・・取材やら何やらで・・・」
O氏の言葉は耳に入らず、「急ぎますので・・・」と言葉を残して、私はO氏に背を向けた。
背中に私を呼ぶO氏の声を聞きながら、私はもう一度インスのいる方を見た。
一瞬、インスと目が合ったような気がした。
私は、慌てて視線をそらすと、バックの中のサングラスを探した。
こんな時に限って、バックの中にあるはずのサングラスが見つからない。
グッズをたくさん買い込んだ女性が、すれ違い様に私の肩に触れた。
バックが床に落ちて、中身が散らばった。
女性は、ちらりと床に視線を落としただけで、何事もなかったかのように、別のグッズ売り場に向かって走って行った。
散らばったものを拾い集め、立ち上がった時、ものすごい勢いで、小さな男の子が、私に突進して来た。
ひんやりとした感触を下半身に感じ、見下ろすと私の白いスカートがオレンジ色に染まっていた。
反動で仰向けに倒れた男の子は、オレンジ色に染まったスカートと、空になった紙コップを見比べて、いきなり大きな声で泣き出した。
私は、男の子に駆け寄ると、「大丈夫だから」と声をかけた。
男の子は泣き止むどころか、ますます大きな声で泣き叫び、行き交う人たちは、被害者であるはずの私を加害者であるかのように一瞥して、通り過ぎて行った。
泣きたいのは私の方なのに・・・と、思った時、母親らしき人が現れて、激しい口調で男の子を叱った。
泣き声はさらに大きくなり、周りの視線が私たち三人に集中しているのを感じた。
母親は、「これで、文句はないでしょう」と言いたげな表情で、私の上着のポケットに紙幣をねじ込むと、子供の手を引いて足早に去って行った。
足元に落ちたサングラスを拾い上げると、柄の部分が歪んでいた。
謝りもせずに去っていった女性。
泣き叫ぶ子供。
激昂する母。
汚れたスカート。
歪んだサングラス。
インスの姿を盗み見るようなことをした行為に対する罰のように思えた。
自分の心に素直になるべきだった。
会いたくて、会いたくてたまらないのは、インスよりも私の方だったのだ。
早くここを出よう。
O氏は、私と会ったことをインスに話しているかもしれない。
こんな姿をインスに見られたくなかった。
後悔に押しつぶされそうになった時、肩にふわりと何かが乗せられた気配がした。
「ユキ・・・」
耳元でインスの声がした。
肩にかけられたコートからは、懐かしいインスの香りがした。
創作の部屋~朝月夜~<27話>
インスと出会い、会津で数日間を過ごしてから、すでにふた月近くの日々が過ぎ、季節は冬から春になった。
その間、インスは私に何度も電話をかけてきては、会いに行けないことを詫びた。
日本とNYとの時差も忘れて、熱く語るインスの口ぶりからは、Mのコンサートの熱気が伝わって来た。
そして、今回の仕事に賭けるインスの情熱も。
世の中の女性の多くは、「私と仕事とどっちが大事?」などといったセリフを恋人に投げかける時があるのだろう。
男は、困惑の表情を浮かべながら、・・・それでも、そんな恋人が愛しくて。
「もちろん、君だよ」と答えるのだろうか。
想像の世界でしか、思い浮かべることのできない光景を思った。
かつて心から愛したKにさえ、私はそのようなことを言ったことがなかった。
絶好のシャッターチャンスを逃すまいと、日本全国を駆け回っていたK。
私の誕生日も、ふたりの記念日も何度もキャンセルになった。
それでも、自ら作り出した「作品」について語るKの輝く瞳を見ることは、私にとって、何よりも代え難い幸せだった。
インスに対しても、その思いは変わらなかった。
離婚も、仕事も私のことは念頭に置かず、自分なりの方法で、満足の行く結論を出してほしいと願っていた。
インスに会いたいと言う気持ちは、いつも心のどこかに感じていた。
しかし、そんな思いに囚われることなく、比較的穏やかに今日まで来れたことは、私も、仕事に忙殺された日々を送っていたからかもしれない。
インスは、本番に向けて、今日も精力的に仕事をこなしているだろうか。
通勤途中の五分咲きになった桜の木を見上げて、ソウルのインスを思った。
春とは言っても一番乗りしたオフィスは、ひんやりとした空気が漂っていた。
私は空調のスイッチを入れ、給湯室でお湯を沸かし、コーヒーを淹れ、同僚のAの机の上に置かれた韓国の雑誌を手に取った。
社長が出勤してきたら、又、慌しい一日が始まる。
誰もいない静かなオフィスの朝のひと時が私は好きだった。
ハングルで埋め尽くされた雑誌は財界誌であったが、巻頭のページには、先ごろ来日した韓国人俳優の笑顔が掲載されていた。
韓国の情勢。
韓国の景気と株価。
政治家の活動。
取り立てて、興味を惹かれる記事もないまま、ページをめくっていくうちに、私の目は釘付けになった。
「新風」と題されたそのコラムは、多方面で活躍する成長著しい人物を取り上げたものだった。
「光の魔術師」と言う、サブタイトルの下にインスのはにかむような笑顔があった。
米国の歌手Mを迎えてのコンサートに挑む意気込みが、インタビュー形式で掲載されていた。
インスが手掛けようとしている仕事は、私の想像をはるかに超えた大規模なものだった。
関係者がインスに寄せる期待も、Mの訪韓を待っているファンの期待も、とてつもなく大きなものであることを初めて知った。
突如として、私の心の中にMのコンサートを見たいという欲望が湧いた。
Mの歌が聴きたくなったわけではない。
インスの手から紡ぎ出される「光」を見たい・・・と、思った。
「朝から、何を熱心に読んでるの?」
出勤して来た同僚のAが、私の肩越しに雑誌を覗き込んだ。
「ねえ!これ行きたい!」
「どうしたら行ける?」
私は、コラムのページの左下の囲みを指で叩いてAに問いかけた。
そこには、Mのコンサートの日程と会場名が記されていた。
「え~っ、今からじゃ無理よ。チケットの発売始まってるし・・・。Mでしょう?完売しちゃってると思うな・・・」
芸能通のAは、韓国で開催されるMのコンサートが、注目されていることを知っていた。
「キャンセルとか・・・あるでしょ!」
「お願い!何とかして・・・」
困った様子のAに向かって、私は尚も頼み続けた。
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