6月の終わりに・・・
4月からずっとこのブログを離れてしまって・・・
5月に母の七回忌で帰省したことも
仕事が六本木近くのオフィスビルでの
デスクワークに代わったことも報告できていなかったけど
とにかく、私はすこぶる元気なのでご心配なく。
アルバイトなのだが、若いイケメン社長のIT関連会社で
好きな日程で好きな時間だけ働かせていただいている。
時給も以前よりいいので、夢みたい(笑)
で・・・久しぶりにここへ来たのは・・・
父の日が切なかったという報告をしたかったから。
実は・・・
父は戦前、韓国にいた。
医者だった祖父が生命保険会社の嘱託医として
韓国ソウルで働いていたため
朝鮮神宮(今はもう取り壊されて無い)の側の屋敷に住み
父は南大門小学校 に通っていたという。
広い屋敷には住み込みで働く女中さんのために
女中部屋があって、その他にも
日本からの居候の女性が何人もいたという。
日本の敗戦で祖父は無一文となって引き上げてきたわけだが
曽祖父は亡くなるまで田舎の校長先生として地元に貢献し
医者だった祖父は実家に戻り医者を続けた。
跡取りでありながら医者になることを拒んだ父は
画家になりたくて上京し、東京芸大を受験したが夢破れ
それでも鹿児島に帰りたくないので他を受験したようで(笑)
友だちと一緒に受けたW大に合格し、政治経済を学んだ。
同じ大学で母と出会い恋に落ち、学生結婚をしてしまい
保険会社に就職する時は既に妻子持ちで
上司や同僚たちに驚かれたほど、彼は若くして父親になった。
そして年子で生まれた私は 勉強しか知らない母親に
兄と共に育てられ、母が育児パニックになると
母の実家の長野の祖父母の元に兄と2人預けられた。
本当に幼い頃の記憶は 長野の実家でのことが多いので
私の倫理観や行動力の源は母方の祖父母からの影響が濃い。
祖父は仏教学者、祖母は長野のガールスカウトの創始者だ。
鹿児島の実家には、私が5歳前後に祖父の葬式で
両親に連れられて夜行列車で帰っただけで
あとは高校の時に父が鹿児島の支店長で単身赴任になった際
遊びに、当時の古い屋敷の実家を訪れたくらいで
父が退職して実家に戻るまでは鹿児島には馴染みが薄かった。
だから、ずっと心の中では私の故郷は母の実家のある長野だ。
それでも、両親が鹿児島に居を移してからは
毎年鹿児島に帰省するようになり
日本昔話の世界であるのどかな田舎の実家は
やっとここ最近、馴染みができ故郷になりつつある気がする。
過日、母の七回忌で久しぶりに会った父は
どうしたことかすっかり老け込んでしまい
足腰が弱っていて、なかなか立ち上げることが出来なくなっていた。
あれほど毎日早朝に
自宅の石垣の前の掃除と墓参りを欠かさずしていたのに
今では掃除も墓参りもしかねる有様だ。
私に「お前がいれくれたら助かる!」と弱音を吐く父。
私に傍にいてほしくて、隣町の70過ぎのお爺さんと
見合いさせようとさえした父だった。
ま・・・そのお爺さんも立派な方だったが断った私。
父の想いを振り切って東京に帰ってきたけれど
やはり精神的にも肉体的にも弱くなった父を
放ってはおけない自分がいて・・・
東京で自由を手にして羽ばたこうと思う反面
これからは日本昔話の世界で
父の介護をするのが私の運命なのかしら・・・と思ったりする。
父の日に好物の高級和牛のステーキを贈ったら
「ありがとう!!ありがとう!!
それにしても、帰ってきてほしいなぁ・・・」
そう言う電話の声がいつもにも増して弱々しくて切なかった。
ああ心配だ!!
でも、すぐには帰れない!!帰りたくない!!
お盆に帰省した際に、ゆっくり父と相談するとして
今、私は目の前にある誘惑にどっぷり浸かって楽しもうと思う。
韓国で親しくなった方が、私のために動いてくださり
大好きな三男に何度も会える機会を作ってくださったのだ。
このチャンスは逃したくない!!
今、思い切り三男を応援できれば(笑)
あとは野となれ山となれ・・・
私の運命は、結局 私の決断に委ねられている。
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