케이크를 사 왔다.
cakeを買ってきた。私にしては 年に1回?くらいのこと。
今日は 水中ウォーキングの教室に入った。
いつもはひとり黙々と^^;教室のない時間に歩いていて
目標は1km もう少し歩きたいけど 私の契約コースは1回90分。
着替えやお風呂・メイクといった 女性は特に時間がかかるのを除くと
どうしても1~1.5kmになってしまう。
それで、25mプールを 最低22往復すると決めている。できれば25回以上。
いつも「はな・とぅる・せ・・・」と固有数詞を唱えながら 自分の苦手を克服しようと
プールの中を歩いている。 すれ違う方向の方々に聞こえないくらいに注意して。
だって、「あほっぷ」はまずいでしょ?
11の「よらな」まで行ったら「すむる・そるん・・・」と、10とびに数え
ますます苦手分野の克服へ^^;
(しかし、こんなんも覚えられへんのかしら?^^;)
数詞というと、「아홉」はチュンサンを思い出す。不可能の家で歩数を
数えながら歩くチュンサン。 彼のおかげで「あほぷ」を覚えた。
「서른」は、キム・サムスンで。 サムスンがよく「난 아직 서른야.」言ってた。
そうやって覚えた数詞、忘れないように、そう思って歩いている。
で、そのプールの帰りにケーキを買った。
浦和がW杯前を 1位で折り返した。
今シーズンに関しては やはり複雑な気持ちもある。
去年は、今のところ 暫定的に(というより瞬間的に)1位になったし
最後まで希望を持っていた。 その時の方がまだ気持ちがいいのは寂しい。
そして、ケーキの理由は、祝‟達也・得点”しかも今季初!
あ~長かった。まあ、もうベテランで FWという位置からして
そう出場機会がない。世の中は川又くんに行ってるし。^^;
ㅎㅎㅎでもむちゃくちゃ嬉しい。\(^o^)/
それで、ケーキを買ってきた。
これが彼らの慶事なら、ケーキは買わないよね。焼くから…^v^
사십이
42
今日は4/15
MLBでは 選手、監督・コーチが全員 背番号「42」をつけてプレーする。
ジャッキー・ロビンソンデー
メジャーリーグ初の黒人プレーヤーの彼を称え、
2004年に定められた。
また、「42」は 全チームの永久欠番になった。
この宣言をしたのは、当時のクリントン大統領だった。
その日も 私は野球を見ていた。^^
彼が現役時代には まだそんな「賞」がなかったかというと、
実は 彼の出現によって制定された賞がある。
彼の活躍に 何か賞をあげては?と考えて…
始まったのが「新人王」だ。
のちに 野茂もイチローももらった賞・新人王。
別名は「ジャッキー・ロビンソン賞」と言う。
相手チームだけでなく、人種差別と闘ったジャッキー。
彼を支え続けた、ドジャースのリッキー氏。
彼らの偉大な第1歩に、敬意を表します。
あ~それにしてもマー君の登板が雨で流れて残念><
42番見たかったよお。
また、1年前の今日は ボストン・マラソンでのテロがあった。
そのことも忘れないでいたい。B・Strong
よんせん
4000―その数字の大きさに驚きと敬意を持った日。
今朝、息子が起きてきたのも イチローの第1打席に間に合うように、だった。
彼の予感が当たったのか、見事に第1打席で決めてくれた。
相手はナックルボーラーのディッキーでイチローは分が悪い。(13-2)
だから、内野安打や単打しか無理かな、今日はダメかも?と思っていた。
さすがにホームランでは決められなかったけど、やっと荷が下りたんじゃないかな?
エイミーさんの前で打ったことも、なぜか私もホッとした。
チームメイトや周囲のテンションの高さに
ここ数日自分でもびっくりだったらしい、イチローが
「思わず半泣きになりそうだった」と言った、 ボールデッドになってのみんなの祝福。
ホッとして、家事をして^^; 買い物に行きたいけど
試合終了後のインタビューが見たくて
正午から 決勝戦があるというのに、放送を待った。^^
「コツコツと1つ1つの積み重ねが 4000という数字を生んだ。
周りの人たちが この(偉大な記録の瞬間という)場を作ってくれた。
20年で4000という事が大切。」
そんなイチローの言葉を聞いていた。
それにしてもすごいよ、イチロー。
20年で4000、2が立つじゃないか。
13年で2722、これはもっと大きい。
彼の凄い所は なんといっても怪我をしないこと。
無事これ名馬、まさに彼の事だ。
ケン・グリフィーJrが「イチローがこの記録に達するまでの
彼の努力を思ってみて欲しい。」そう賞賛の言葉を述べている。
まずは、(MLBだけのヒット数での)ベーブ・ルース、(日米通算での)タイ・カップ・・・
最終的には、ピート・ローズ超えを…未踏の高みまで
私達を連れて行って欲しい。
今日のお昼は お祝いにカレーを食べた。
イチローのシーズン中の変わらぬ昼食で\(^o^)/
最近、イチローの周りでは 四千という日本語が流行っていたらしい。
よんせん? 私にはハングルにしか聞こえないんだけど…?
NYと同じ大陸にいる彼の名前にしか…^0^
야구
야구、野球、Baseball
自己紹介を兼ねて、野球のお話をさせて頂きます。
どうしてこんなところで?と 思われるかもしれませんが
実は 野球好きの私だからこそ、のちの出会いがありました。
昭和のお父さんの楽しみと言えば、
仕事を終えて ビール片手に見るプロ野球中継、というのは
定番中の定番だったのではないかと 思います。
父も、祖父も、叔父も やはり昭和のサラリーマンでした。
そんな中で育った 運動音痴の私もまた、野球が好きになりました。
父は南海、 叔父は巨人(というより長嶋)、弟は巨人(というより王)のファンで
すぐそこが難波、大阪市内のど真ん中に住んでいました。
ちなみに、夫ッケもまた、同じように「昭和のお父さんの息子」として
九州に生まれ育ち、
これまた巨人ファンの父と、これまた巨人(というより原)ファンの妹に囲まれ
自己を曲げることなく 西鉄ファンとして少年時代を過ごしていました。
その後10数年を経まして 私は
就職後、職場の野球チームのマネージャーをしていました。
スコアブックもつけれるんですよ。^v^
今も 年に一度はつけています。
夫ッケは同じチームで4番でキャプテンでした。^^;
その後私たちが結婚して 子育てをしていたころ、
野茂投手が 海を渡り、我が家にBS放送がやってきました。
あの頃 電気店に行くと
「BSテレビを買って、あなたも野茂を応援しよう」などという、
キャッチフレーズを見たものでした。
野茂を見たくて 鴨になった家族でした。
MLBは それまで見ていた日本の野球とは違って 私には新鮮で
そうして日本のプロ野球より面白く感じたのです。
息子たちもまた嵌っていました。当時3歳だった 下の息子は
その後野球チームに入ったのですが、「まるで野茂の間合いだ」と
誰もが言うほど 彼には野茂投手が「最初のピッチャー」だったのです。
1995年5月2日は 野茂投手が 初めて大リーグのマウンドで登板した日です。
こうして、当時第1期専業主婦だった私は BS放送を見るのが日課になりました。
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