2012/01/24 14:26
テーマ:野良猫報告書
カテゴリ:生活・日常(家族)
母猫に捨てられた子猫
道路にぼんやりたたずみ、子猫は誰かを待っている。
子猫が1匹、美容室の階段にぺたりと座ってぼんやりと遠くを見ている。
美容室の猫、ウェニャンだ。
なんだか寂しそう(韓国語で‘寂しい’=ウェロウォ)にしていたので
つけた呼び名だ。
生後2か月にもならないうちに母猫に捨てられた赤ちゃん猫。
可愛そうなほどやせ細っている。
ウェニャンはもともと野良猫として生まれた。
美容室の主人の話によれば、
約1ヶ月前に黒い野良猫が家の前で子供を4匹産んだのだという。
ところがその後、乳離れもしていない状態で
母猫が子猫たちを捨てていなくなってしまったというのだ。
幼な猫の瞳というには、あまりにも悲しげだ。
普通、野良猫は1ヶ月程度乳をあげた後、
しばらく面倒をみてから子供たちを独立させるのだが、
この薄情な母猫は、生まれたての赤子を残してどこかへ消えてしまった。
そのせいで子猫のうち2匹はすぐに死んでしまい、
残った2匹を美容室が連れていって育て始めたのだという。
こうして階段に座り込んで待っていても、母猫は帰ってこない。
そのうち1匹は貰い手がみつかり里子に出したので、
今はウェニャンのみを飼っていた。
この猫を初めて見かけたのは約10日前のことだった。
町内の商店の前をおぼつかない足取りで歩いていた子猫が、
美容室のほうへちょこちょこと駆けていくのだった。
通りに飛び出して隠れん坊をしたり、写真を撮っている僕に挨拶に来たり。
かと思えば、また美容室の階段に座ってじっとしている。
今日もあの日とまったく同じ格好で、誰かを待っていた。
母親を待っているに違いない。
僕の前でこうして愛嬌を振りまいたり。
子猫にとっては母猫は逃げてしまったのではなく、
しばらくの間いなくなっただけで、
またいつか戻ってくると信じているのかもしれない。
ところが1月経っても母猫は戻ってこなかった。
ウェニャンは捨てられたというショックと
母を失ったという喪失感を同時に感じているようだ。
ツツジの茂みから子猫がこちらを見ている。
ウェニャンの瞳から、すぐにでもぽたぽたと涙がこぼれ落ちそうだ。
長い間そうしてぺたりと座り込み「待ち」の姿勢をとっていたウェニャンは、
ついに道へと飛び出した。
塀の下の草むらで草を噛んでみたり、
階段の下でごろごろと寝転がって愛嬌を振りまいたり。
しかしまた道路にぼんやり佇み、誰かを待っている。
車の下に入り込んで隠れんぼうをしたり、
写真を撮っている僕のところへやってきて僕を知っているそぶりを見せた。
しかし、ウェニャンはすぐに我にかえって道路に佇み、
また「待ち」の姿勢でぼんやり立ち尽くすのだった。
この世に生を受けまだ2ヶ月と経たない子猫は、
こうして今日も待ちの姿勢を学んでいる。
現れない待ち人を待つことほど、無意味なことはない。
だが、現れない待ち人を待つことほど無意味なことはないということを、
ウェニャンはまだ知らない。ともすれば、
捨てられたがゆえに野良ではなく暖かな家の中で育てられることになったのだから
結果的にはむしろ良かったのではないかという人もいるだろうが、
捨てられたという記憶と現れないものを待ち続ける孤独は、
癒せぬ傷となりウェニャンの中に残ることは明らかだ。
-イ・ヨンハン氏ブログ 「雲と鮭、あるいは雨期の旅人宿」、2008/06/18の記事より-
本ブログが、本になりました。
日々の癒しに、家族やお友達へのプレゼントに、
ぜひご購入ください♪
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美容室の猫、ウェニャンだ。
なんだか寂しそう(韓国語で‘寂しい’=ウェロウォ)にしていたので
つけた呼び名だ。
生後2か月にもならないうちに母猫に捨てられた赤ちゃん猫。
可愛そうなほどやせ細っている。
ウェニャンはもともと野良猫として生まれた。
美容室の主人の話によれば、
約1ヶ月前に黒い野良猫が家の前で子供を4匹産んだのだという。
ところがその後、乳離れもしていない状態で
母猫が子猫たちを捨てていなくなってしまったというのだ。
幼な猫の瞳というには、あまりにも悲しげだ。
普通、野良猫は1ヶ月程度乳をあげた後、
しばらく面倒をみてから子供たちを独立させるのだが、
この薄情な母猫は、生まれたての赤子を残してどこかへ消えてしまった。
そのせいで子猫のうち2匹はすぐに死んでしまい、
残った2匹を美容室が連れていって育て始めたのだという。
こうして階段に座り込んで待っていても、母猫は帰ってこない。
そのうち1匹は貰い手がみつかり里子に出したので、
今はウェニャンのみを飼っていた。
この猫を初めて見かけたのは約10日前のことだった。
町内の商店の前をおぼつかない足取りで歩いていた子猫が、
美容室のほうへちょこちょこと駆けていくのだった。
通りに飛び出して隠れん坊をしたり、写真を撮っている僕に挨拶に来たり。
かと思えば、また美容室の階段に座ってじっとしている。
今日もあの日とまったく同じ格好で、誰かを待っていた。
母親を待っているに違いない。
僕の前でこうして愛嬌を振りまいたり。
子猫にとっては母猫は逃げてしまったのではなく、
しばらくの間いなくなっただけで、
またいつか戻ってくると信じているのかもしれない。
ところが1月経っても母猫は戻ってこなかった。
ウェニャンは捨てられたというショックと
母を失ったという喪失感を同時に感じているようだ。
ツツジの茂みから子猫がこちらを見ている。
ウェニャンの瞳から、すぐにでもぽたぽたと涙がこぼれ落ちそうだ。
長い間そうしてぺたりと座り込み「待ち」の姿勢をとっていたウェニャンは、
ついに道へと飛び出した。
塀の下の草むらで草を噛んでみたり、
階段の下でごろごろと寝転がって愛嬌を振りまいたり。
しかしまた道路にぼんやり佇み、誰かを待っている。
車の下に入り込んで隠れんぼうをしたり、
写真を撮っている僕のところへやってきて僕を知っているそぶりを見せた。
しかし、ウェニャンはすぐに我にかえって道路に佇み、
また「待ち」の姿勢でぼんやり立ち尽くすのだった。
この世に生を受けまだ2ヶ月と経たない子猫は、
こうして今日も待ちの姿勢を学んでいる。
現れない待ち人を待つことほど、無意味なことはない。
だが、現れない待ち人を待つことほど無意味なことはないということを、
ウェニャンはまだ知らない。ともすれば、
捨てられたがゆえに野良ではなく暖かな家の中で育てられることになったのだから
結果的にはむしろ良かったのではないかという人もいるだろうが、
捨てられたという記憶と現れないものを待ち続ける孤独は、
癒せぬ傷となりウェニャンの中に残ることは明らかだ。
-イ・ヨンハン氏ブログ 「雲と鮭、あるいは雨期の旅人宿」、2008/06/18の記事より-
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