ラビリンス-18.ルカの秘密
「フランクを返してください。」 ルカはジニョンを嘲るように繰り返し言った。
「何故?」 ジニョンはルカを真っ直ぐに見て聞いた。
「フランクはあなたのものじゃない。」
「・・・・・・」
「・・・・彼のそばにはいつも女が群がってた。
彼はそんな女たちをいつも軽くあしらってた。あなただって・・」
「そうなの?」 しかしジニョンは彼女に対して平然として答えた。
ジニョンの落ち着き払った態度に、ルカは苛立ちを隠せず、彼女を険しく睨んでいた。
ジニョンはそんなルカに向かって小さく笑った。
それがまたルカの気持ちを逆撫でた。
「あなた達は10年間も別れていたんでしょ。
まさか、その間にフランクが誰も愛さなかったって、信じてるわけ?
あなた以外に誰も抱かなかったと?」
ルカは口調を荒げてジニョンを攻撃した。
「知ってるのね・・・私達のこと・・・」 ジニョンは驚いてルカを見た。
「ええ。何でも。」 ルカは胸を張って答えた。
「そう・・・・そうね、確かにこの10年間のあの人を私は知らない。
どんな生活を送っていたのか・・どんな人と出会っていたのか・・・
何ひとつ知らない・・・」
ベッドに腰掛けていたジニョンは少し寂しげに言葉を続けた。
「ねぇ、ルカ・・・心から・・愛する人の生きて来た何もかもを知らないって・・
どういう気持ちだと思う?・・・」
「・・・・・・」
「胸がね・・破裂するように苦しいのよ・・とっても・・・
10年・・とっても長い年月だわ・・私はその10年の一分も一秒も・・
彼のことを知らない・・・」
「・・・・・・」
「その世界を想像するだけで・・すごく苦しくなる。悲しくなる。
それでもどうしても想像してしまうの・・・
この時彼はどんな風に生きていたんだろう・・
あの時彼はどんな景色に埋もれていたんだろう・・
私以外の誰を見ていたんだろうって・・
その度にね・・・どうしようもなく胸が締め付けられるの・・」
「・・・・・・」
「でもこれだけは信じられる・・・
私が苦しいのは・・彼に愛したひとがいるとか、いないとか・・・
そういうことじゃない・・・」
「・・・・・・」 ルカはジニョンの言葉を真剣な顔で聞いていた。
「そうじゃないの・・・あるのは・・
あの人が過ごした時間に自分が存在できなかった・・その後悔・・・
そのことが悲して・・悔して・・寂しくて・・ただ・・それだけなの・・」
ジニョンはそう言いながら、先刻見かけた美しい女性に対して
わずかながらでもドンヒョクに腹を立ててしまったことを後悔していた。
≪そうよ・・そんなはずは無いんだから・・・少なくとも今はもう≫
「フランクにはあなたの知らない恋人がいた。彼が今でも。
その人を愛してる。そんなことは考えないの?」 ルカはまた声を荒げた。
「それは・・・ない。・・ないわ」 ジニョンはきっぱりと答えた。
「はっ・・呆れた。」 ルカはジニョンから顔を背けた。
「・・・・・・」
「すごい自信。」 ルカがジニョンを嘲るように言った。
「自信?・・そうじゃない。自信なんて・・・これっぽっちもない・・ただ・・・」
「ただ?」
「ただ・・信じてるだけ。私達の繋がりを信じてるだけ・・・。」
ジニョンはそう言って微笑んだ。
その笑顔が本当に自信と愛に満ち溢れているようで、まぶしかった。
それが余計ルカの胸を掻き毟った。
「そんなことない。・・・彼は・・彼は・・・」
ルカの険しい瞳に次第に涙が滲むのが見え、ジニョンは驚いた。
「・・・ル・・カ?・・・」
「そんなことない。・・あなたのものじゃない。
彼は・・・フランクは・・・あなたのものなんかじゃない!」
「きゃあっ・・」その時、ルカの怒りは頂点に達していた。
突然ルカはベッドに座っていたジニョンの両肩を掴みベッドへと押し倒した。
「あなたのものじゃない!・・彼女のものなんだ!」
「!・・・彼女?」 とても強い力だった。「ル・・カ・・・痛い。」
「ミンア・・・話してくれ」 レイモンドが急かすようにミンアの肩を掴んだ。
「はい。でも車の中で・・・。とにかくエマの所へ急ぎましょう。」
「ああ、わかった」 レイモンドは立ち上がり、ジョアンも出口へと向かった。
ミンアは自分の机の引き出しから、予備の携帯電話を取り出し、
先程の二枚の写真と一緒にバックの中に入れた。
そして、レイモンド、ジョアンの後に続いて事務所を後にした。
エマがドンヒョクの部屋を出て、自分の部屋へ帰ろうとした時、目の前に
トマゾが立っていた。
「トマゾ・・・」
「エマ様・・如何なさいましたか?」
「あ・・いえ、何でもないわ。あなたこそどうしてここへ?」
「あなたの部屋を訪ねたらいらっしゃらなかったものですから」
「何か用だったの?」
「いえ・・あなたのご様子が・・心配だったものですから。」
「私は大丈夫よ」
「もう遅いですから、お休みになった方が」
そう言いながら、トマゾはエマをエレベーターホールにいざなった。
「ええ、そうするわ。明日のMr.パーキンとの商談に備えないと」
「ご無理なさいませんよう」
「それじゃあ、お休み・・あ・・トマゾ・・フランクの・・その・・
奥様のこと・・何か知ってる?」
エマは正直、彼の妻の存在を口にすることさえ辛かった。
「いいえ、何も存じ上げません。
フランク様はご自分の私生活を表にお出しになりませんから」
「そうね・・・」
「あの方はそれほど、奥様のことに関心が無いように思われます
あの方にとっては奥様より大事なものがあるのでしょう、きっと。」
「・・・そうかしら・・・」 エマは俯き呟いた。
「エマ様・・・」
エマは呼び止めるトマゾに振り返った。
「・・・フランク様は必ず、あなたの元へ戻って来ます」
トマゾはそう言って、エマに向かって笑みを浮かべた。
「えっ?・・・」
「あなたを愛する者の力を信じるのです。」
「私を・・・愛する者?・・・」
「はい。」 トマゾは確信に満ちた表情で答えた。
エマはエレベーターの扉の奥に消えた。
それを確認すると、トマゾはポケットの中から、携帯電話を出し
ひとつのボタンを押した。
部屋の中ではドンヒョクがジニョンの携帯電話のGPS機能を駆使し、
追っていた。この世で何よりも大事なものの行方を。
その行方はドンヒョクにとって、今進めなければならないどれほど重要な案件よりも
5年もの年月を掛けてやっと追い詰めた、決して許せぬ相手のことよりも、
ましてこの世の終わりよりも、遥かに重大であることに違いなかったからだ。
この瞬間、彼の苛立ちは頂点に達していた。
電源が切られていて役立たずの機能と、連絡をよこさない部下達の所業と
拭えない不安に、心が押し潰されそうだった。
ドンヒョクは振り上げた拳を激しく机に叩きつけた。
「何をやってるんだ!」
「5年前のことです。覚えておいでですか?
このイタリアにボスが常駐していた頃・・・悲しい事件がありました。」
車に乗り込むと、一呼吸を待たずしてミンアが口を開いた。
「ヴァチカンの?」 レイモンドが直ぐに察して答えた。
「ええ。あの時ボスは、ヴァチカン市国の或る※カーディナルの依頼で、
ジュリアーノ会長の裏の顔を探っていました。
結果的には・・・失敗に終ってしまいましたが・・・」
「確か、あの時にフランクに力を貸していた人物が亡くなったと・・」
「ええ・・滞在先のホテルで・・ご家族と共に火災が原因でした。」
「あの後、フランクがかなり精神的にまいっていたのを覚えてる」
「はい。私も・・・辛かったです。
私にとってもボスの下での、初めての仕事でしたから。・・・
その頃は既にボスは・・・フランク・シンという人は、
このイタリアでも力を認められていて・・
そのボスを信用してカーディナルは仕事を依頼してきたんです
順調でした。
もう少しでジュリアーノの首を押さえられるところまで来てました。
それが・・・5年前のある日・・・
調べ上げた資料データも・・証拠も・・何もかもが事務所から無くなっていました
そして最悪なことに・・・ボスの協力者とその妻・・二人の子供が亡くなりました。
ボスは彼らがジュリアーノの手に掛かったと確信していました
しかし・・証拠も無くて・・・
事件として扱われることさえありませんでした。
・・・何もかも・・・闇に消えたんです。
資料も証拠も証人も・・・何もかもです」
「・・・・・・」
「ボスはご自分を責めていました。ここから消えた証拠のために
あの家族が犠牲になったと・・・
その時の、ボスの悲観にくれるお姿は哀れでなりませんでした。
そのボスの姿を見て、エマが・・・突然泣き崩れたんです。
そして自分がやったことだと告白しました。」
「エマの裏切りがあったのか・・・そのことは聞かされていなかった。
結果だけしか、私の耳には入らなかった。
彼は私には多くを語らなかったから・・・あの頃はまだ
マフィアとしてのパーキン家そのものを彼は警戒していたんだ」
「はい・・きっと・・・。
ボスは驚きを隠しませんでした。呆然としていらっしゃいました。
それでもボスは・・・エマに問いただすことをしませんでした。
ただ、呆然として・・「出て行け」と・・・それだけ・・・
エマはボスの前から姿を消しました。」
「しかし・・何故・・・」
「エマはS.Jで一年以上前からボスと共にこのイタリアで働いていました。
この地でのボスの地位を固めることに大きな役割を担っていた人です。
私にとっても良き先輩でした。
賢明な方で・・ボスのパートナーとしてふさわしいと思っていました。
その頃ボスとエマが親密だったことはご存知ですよね・・・」
「ああ・・しかし・・フランクには・・」
「ええ、わかっています。
それでもエマはボスを心から愛していました。」
「なら・・何故裏切った?」
「愛していたから・・・」
「愛していたから?」
「よくはわかりません。
おふたりに何があったのかも存知ません。
その頃はまだ私はジニョンssiの存在は聞かされていませんでしたし・・・
結果として・・彼女はボスにひどい裏切りをしてしまった。
それだけが残ったんです」
「・・・・・・」
「でも・・・彼女がボスを裏切るとしたら・・・“愛していたから”・・
それしかないと思いました」
「それで?・・・あの写真との繋がりは?」
「・・・・エマと写っていたあの子達・・・私も何度か会ったことがあります
ボスの仕事を通じてです。・・・つまり・・・」
「つまり?」
「あの子達は・・・さっき話したボスの協力者の子供達です」
「協力者の?・・・彼らは亡くなったんじゃ・・」
「ええ。家族全員・・・亡くなりました。」
「5年前に?」 ジョアンが初めて口を挟んだ。
「だって・・あの写真には2008年って・・・書き違えたのかな」
「いいえ・・・日付に間違いは無いと思うわ・・・だって・・・
写真の中のあの子達・・・成長しているもの」
ミンアは自分の中でも整理できない事実を、口にすることで
納得しようとした。
「ということは?」
「亡くなっていなかったということだ」
レイモンドがジョアンに答え、自分自身にも答えた。
「ええ・・・そういうことになります」 そしてミンアも疑念を抱えつつ頷いた。
「しかし・・どういうことなんだ?」
それでも釈然としないレイモンドが独り言のように呟いた。
「わかりません・・・あの時確かに、4人の遺体が発見されたと
イタリア国家警察で発表されたんですから」
「・・・考えられるとしたら・・警察の発表が偽りだったということだ。」
「そんなこと、できるんですか?」
「・・・ミンア・・・そんな裏工作・・嫌と言うほど見てきた」
レイモンドは自嘲するかのように小さく笑って、そう言った。
「夜分遅くに大変申し訳ございません」 ドンヒョクの元に1本の電話が入った。
ローマのホテル総支配人、ベルナンドからのものだった。
「どうした?何か・・」≪あったのか?≫という前に、ドンヒョクの耳に
思いがけない言葉が入ってきた。
「奥様が30分ほど前にこちらへいらっしゃ・・」
「ジニョンが?」 ベルナンドが言い終わらない内にドンヒョクが声を上げた。
彼は思わず立ち上がっていた。
「やはり、ご存知ありませんでしたか?
ご連絡するべきかどうか少し悩んだのですが・・・
あの階に他の誰かをお連れするのは珍しいのではないかと」
「誰と一緒だったんだ?」
「お名前は伺えませんでしたが、お友達だとおっしゃってました
お若い・・・女性です。」
「女性?」 フランクは頭を巡らせていた。
「はい。ジニョン様が“彼女”とおっしゃいましたので・・・しかし・・」
「しかし?」
「ジョアン・・さっき、この写真を見たとき、ルカに似てると言ったでしょ?」
説明している途中で、ミンアがジョアンに写真を示しながらそう言った。
「あ・・はい」
「この子?」 ミンアは小さい方の子を指して言った。
「いいえ・・」
「だってルカって、女の子なんでしょ?・・こっちの子は男の子よ」
「似てるというか・・・面影があるんです。何となく・・髪型も色も違うけど・・」
ジョアンは写真を持ちながら、首を捻った。
「ちょっと、待って?・・そうよ。思い出したわ・・」
ミンアがジョアンの言葉を遮った。「ボスが凄く可愛がっていた子・・・
名前はルーフィー・・将来医者になることを夢見てた・・
それでボスがあだ名を付けたわ
ルカ・・・そうルカと呼んでた。その頃、ボスだけがそう呼んでたの」
「ルカは女の子ですよ・・・男の子じゃ・・」 ジョアンはまさかというように言った。
「・・・彼はとってもキュートな・・男の子だったわ。
成長しているとしたら、今17歳。」 ミンアが答えた。
「しかし、私には・・・」 総支配人ベルナンドが続けた。
「私には男の子に見えました」
「男の子?」 ドンヒョクが言った。
「はい。ティーンエイジャーかと・・・」
「ティーンエイジャー?・・・・まさか・・・
・・・ルカ?・・・」・・・
※カーディナル=枢機卿