2008-05-31 09:24:30.0
テーマ:【創作】短編 カテゴリ:その他(その他)

【創作】女神の系譜(後編)


「・・おおきみ、おおきみ、・・ははうえ、母上、お疲れのようですが、目をお開けください・・」
 突然の声に女帝は呼び戻された。
仕方なしに目を開ければ、葛城が覗き込んでいた。
「・・今のをお聞きになりましたか?・・吉報です、蘇我から火の手が上がったとのことです!」
『そが』から・・、と女帝は小声でくり返した。
 なるほど、部屋の中はさっきまでとだいぶ様子が違うようだ。くすんだ顔をした男達の大半が外に出て行ったらしく、部屋の中はがらんとしている。内庭では、ばたばたと駆け回る兵士達の足音や興奮した声、馬のいななきも聞こえる。
 ぶんぶん声はどうしたのだ、と思ったとたん、それはすぐ近くにかしこまっていた。
「鎌足、謹んで申し上げまする。蝦夷の動向はいまださだかではございませぬが、屋敷から出て行った気配もございませぬゆえ、恐らくは自害したものかと・・。」
 そうか、あの、えみしが・・、と覚醒しきれない頭で、女帝はつぶやく。品の良い白髭の横顔が目に浮かぶ。優柔不断などと陰口をたたかれていたが、息子の入鹿とは異なり、書を好むおだやかな人物だったと思う。
が、葛城はそんなことは気にもとめない様子で、次なる一手を繰り出そうとしていた。
「早計に判断してはなりませんが、ここは、母上の、いえ、大王のお言葉が必要です。」
 その言葉が終わるか終わらないかの内に、鎌足が大きくうなずくのが見えた。
「さようでございまする。いまだはっきりしない東漢直の動きを封じるためにも、ここは大王の詔がいただきとうございまする。」
女帝は、『みことのり』と小さくつぶやいたが、そのとたんになにか違和感のようなものを感じた。なにかおかしいような・・。
ぶんぶん声は話を進める。
「はい、詔の内容としましては、一同、混乱を収拾するため葛城皇子様の元に結集せよ、ということでよろしいかと存知まする。この鎌足、すでに原案は用意してございまする。」
 ああ、やはり、そういうことか、と思った。体の中がざらざらしたものでいっぱいになる。
 要するに、何も変わらないのだと女帝は思った。初めからずっと同じようにくりかえしてきたことなのである。きらびやかな衣装を身にまとい王冠をかぶっていても、彼女が自ら考え行動することなど何も求められていないのだ。
 たとえば、厩戸皇子の子、山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)の上宮王家が襲撃されたときも、それから昨日の騒動も、である。コトが起こってから、実はかくかくしかじかなどと知らされる始末なのだ。目の前ですでに血が流れているというのに、である。
すべてがうっとうしくてたまらなかった。
女帝は立ち上がった。
「私は帰る。」
きっぱりと言ってのけると、胸がすっとした。ああ・・、と思った、ひどく意外だった。
 葛城やら鎌足やら、周囲を取り巻いていた者たちがいっせいにこちらを見た。
 一瞬の沈黙の後で、強い口調で言ったのは、やはり葛城だった。
「母上には、もうしばらくここにいていただきます!」
口元にうすら笑いを浮かべながら、鎌足がなだめにかかる。
「大王にはどちらへ行かれるとおっしゃるのですか?板葺宮は昨日のままの状態でございますれば・・・」
もごもごと、大極殿には死体がごろごろしたままだの、警備する兵もいないなどと続ける。
「そもそも大王ともあろうお方が、ご自分のお気持ちのままに、どこかへ行かれたりなさるものではございませぬ。大王のおわすところが宮でございますれば、民の混乱を招くものかと・・」
 女帝は鎌足のしたり顔などには興味はなかった。そなたに大王の心得など説いてもらおとは思わぬとばかり、まっすぐ視線を向けたままで言った。
「ならば、退位する。」
今度は胸がすっとしただけではなかった。目の前が明るくなった。
 周囲が息を呑むのがわかった。
「母上、本気でおっしゃっているのではないでしょうね。」
「このようなことを戯れに口にできようか。」
ふふ・・、と笑うと、葛城は小さくため息をついた。
「此度のことを事前にお知らせしなかったことで気分を害されておられるかもしれませんが、私はただ、コトが露見したときに母上を巻き添えにしたくないと思ったのです。ですから・・・・。」
そうか、それが、そなたなりの気遣いというものなのだなと、女帝は笑みを浮かべた。
 昨日飛鳥寺に同行せよと求めた時点で、十分、巻き添えにしているではないかと思ったのだ。あの時点では、コトの成否は誰にもわからなかったのだから。それをはっきり口に出して言ってやるべきかと思ったが、やめておいた。そういうことは自分で気づくべきものだからである。
「もう、決めたのだ、私は大王をやめる。葛城、そなたが即位すればよい。」
「しかし、母上・・」
冷静沈着と評判の小作りな葛城の顔に、はっきりと戸惑いの色が浮かんだ。
「そうはまいりませぬ!」
突然鎌足が大声を上げた。
「今、宝女王(たからのひめみこ)様が退位されて皇子様が大王位につかれましたら、それこそ敵の思う壷、大王位がほしくて、入鹿めを屠ったと陰口をたたかれまする。」
なにを今さら・・、と女帝は高らかに笑った。
「ならば、何とでも画策すればよい。そなた、かまたりとか申したな、そのようなことは、得意であろう。私が退けば大王位に誰をつけるか、そなたなりにすでに考えていることがあろうが。たとえば、古人大兄皇子(※2ふるひとのおおえのみこ)あたりに即位の話をほのめかし、その出方を探るとか、たとえば、わが弟の軽(かる)を引っ張り出すとか・・・。」
 もう一度にっこりと笑ってみせたが、鎌足は今度は返事をしなかった。ただ、細い目をいっそう細めて彼女を見た。いや、見つめていたのは、彼女ではなかったのかもしれない。その背後にいる誰かの気配を感じ取っていたのかも。
 周囲は白けた雰囲気に包まれていた。十数年そばで仕えている女官長までがおろおろしている。
それが小気味良いというわけではなかった。ただ、このざらざら感を、彼女は少しでも早く脱ぎ捨てたかった。
「ともかくだわね・・」
と女王(ひめみこ)はさばさばと言ってのけた。
「私はこのうっとうしいものを脱ぎ捨てることにしたのよ。だから、あとはそなたたちの好きなようにやればいいわ。」
 女官長を促し、じゃあ、私はこれで失礼するわと、女王は部屋の外に一歩足を踏み出した。
醜きことは嫌だ、もっと心のままに鮮やかに生きてみたい、女王は遠い空に目を向けて、そんなことをつぶやいていた。

                            

※2、古人大兄皇子・・・田村大王の第一皇子。母は蘇我馬子の娘。蘇我本宗家は、この皇子を大王候補と考えていた。

 



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