2012/03/31 21:53
テーマ:ラビリンス-過去への旅- カテゴリ:韓国TV(ホテリアー)

ラビリンス-27完.あなたの過去も愛してる

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「何をしていた?」 
ドンヒョクは恐ろしく冷たい声で言った。
ジニョンは彼に掴まれた胸倉のせいで、爪先立ちになるしかなかった。

「今まで。何をしていた!」 
ドンヒョクは尚も声を荒げ、彼女の胸倉を掴んだ手に更に力を加えた。
「くっ・・」 ジニョンは息苦しさに声を詰まらせた。

「ボス!申し訳ありません。すべて僕が悪い・・」 
ジョアンが慌てて仲裁に挑もうとふたりに駆け寄った瞬間、
ドンヒョクが大きく振り上げた肘が、ジョアンの顔面に命中し、
彼はいとも簡単にその場に伸されてしまった。

「ボス!」 それに驚きとっさに動こうとしたミンアの行く手を
レイモンドの腕が阻んだ。
「黙ってろ。」 レイモンドはミンアに落ち着いた口調で言った。

ミンアは行く手を阻むレイモンドと、まるで炎と化したドンヒョク、
倒されながらも何とか起き上がろうとしているジョアンを、
不安げに見ていた。

ドンヒョクはジニョンの胸倉を掴んだまま、彼女を睨みつけていた。
ジニョンもまた、ドンヒョクから決して目を逸らさなかった。
彼女には彼の想いが手に取るようにわかっていた。
「わかってる。」 ジニョンは落ち着きを装い、そう言った。

「わかってる?何がわかってる!」 
ドンヒョクの目はジニョンの胸の奥を刺すように鋭かった。
「心配かけて・・ごめん・・なさい」
ジニョンはドンヒョクの怒りを逆撫でしないよう、注意深く言った。

するとドンヒョクは突然手の力を抜き、ジニョンの首を楽にした。
そしてジニョンがホッと息を吐いた直後、彼は踵を返し、
出口へと突き進んだ。

ジニョンにはドンヒョクのその行動も予測することが出来た。
彼女は彼によって押し付けられた壁に背中をつけたまま
目を閉じ大きく息を吐くと、今度は決心したように目を見開き、
ドンヒョクの背中を強く睨んだ。
「ドンヒョクssi!」

その声を無視して憤然と突き進むドンヒョクの背中に向かって、
ジニョンは更に声を張った。
「シン・ドンヒョク!」
ジニョンの甲高いその声が天井の高い静かな部屋に響き渡った。
ドンヒョクは一瞬ピクリとして立ち止まったかと思うと、
怒りに満ちた顔を変えられないままに、ゆっくりと振り返った。

ジニョンはドンヒョクにつかつかと近づくと、彼に負けじと
強固に睨み上げた。
「何だ。」 ドンヒョクは冷めた声で突き放すように言った。

「何故逃げるの?」 ジニョンは責めるように言った。
「逃げる?」 ドンヒョクはそう言って更に胸を張った。

「ごめんなさい、って謝ったでしょ?
 心配してたって・・素直に言えばいいじゃない。」

「はっ・・」

「意地っ張り。」
「何だと?。」

突然、ジニョンが彼の胸倉をネクタイごと掴み取り、
力の限りそれを自分へと引き寄せた。
ドンヒョクの顔はその勢いのままジニョンへと向かい、
彼の唇はジニョンの唇で乱暴なまでに塞がれてしまった。
その瞬間、ドンヒョクの驚きの目とジニョンの怒りの目が
指一本分の距離で相対した。

ジニョンは彼を逃がすまいと腕に取ったネクタイの付け根を
力いっぱい締め上げるように握っていた。
「く・・」 合わさったままのふたりの唇の間から、ドンヒョクの
「苦しい」という声が小さく漏れたが、ジニョンはそれすらも無視した。
ただ勢い任せの乱暴なキスだった。

  《あなたがどれほど心配していたのか・・
   わかってるわ・・ドンヒョクssi・・・》

ジニョンは自分の想いを彼と交わる唇に込めていた。

  《わかってたまるか》

ドンヒョクは余りに窮屈なキスに、仕舞には苦笑しながら、
胸に呟いていた。
少しして、我慢の限界とばかりに彼はジニョンの体を持ち上げ、
彼女によってもたらされた首の圧迫から自分を解放した。
そして重なった唇はそのままに、彼女に両腕を巻きつけると、
容赦無くその細い肢体を締め上げた。



エマはふたりを目の当たりにして、小さく溜息を吐いた。
目の前に、ひとりの女を恋しさの余り怒る男の姿があった。
その男は自分が長年恋焦がれたひと。
しかしその男が悲しくも焦がれる女は自分ではない。

わかっていたはずだった。
決して自分の前で怒りに震えることのなかったひと。
決して本心を覗かせもしなかったひと。
望めるはずのないものと、とうに知っていた。
それでも重なるふたつの影に胸が締め付けられる自分が
情けなかった。
エマは静かにふたりに背を向け、出口へと向かった。

ルカはそんなエマを黙って見つめていた。
そして慰めるように肩を抱き、彼女のそばを離れなかった。
その後ろをトマゾがふたりを守るように付いて歩いていた。

レイモンドは少しばかり呆れた顔でふたりを眺めながら、
倒れていたジョアンを立ち上がらせると、ミンアに出口を指して、
ここを出るよう合図した。
そして、ジョアンを肩に担ぐように抱き上げ、出口へと向かった。



「く・・くるしい・・・」 ジニョンは唸りながら、彼の胸を押しやって
やっと自分の唇を彼の唇から離した。「苦しいわよ、ドンヒョクssi」
ジニョンは大きく深呼吸しつつ、彼を罵しることを忘れなかった。

「君から仕掛けた。」

「だいたいね。」 ジニョンはドンヒョクに詰め寄り、続けて言った。
「あなたはいつもそうなの。つまらないことで直ぐ怒る。
 怒ると直ぐに黙ってしまう。こ~んな顔してね。」
彼女は自分が仕出かしたことを棚に上げて捲くし立てた。

「つまらないこと?」 ドンヒョクは首を傾げてみせた。

「そうよ! いつも。 怒って。 ばっかり。」
ジニョンはドンヒョクの胸に何度も指を突き刺しながら言った。

「はっ・・つまらないことか?」 
ドンヒョクは肩をすくめ、わざとらしく繰り返して言った。

「ぁ・・そうじゃないけど・・悪かったと思ってるわよ・・本当に・・でも。」
「でも?」

「あ・・あんな風に冷たく背中を向けられたら・・
 いったいどうしたらいいわけ?私は。」
ジニョンは決して形勢逆転に及ぶまいと、踏ん張った。

「・・・追いかけてくればいいだろ?」
ドンヒョクは“当然だろ?”と言わんばかりに言いのけた。
「オモ・・何てこと?・・・・暴君。横暴。」
ジニョンは負けじとばかりに胸を張った。

「悪いのは君だっただろ?」
「悪いのは私だけ?」

「僕への仕打ちを大いに反省することだ。」
「仕打ちって・・大げさよ。」

「大げさ?この三日間、死にそうだったさ。」
「元はと言えばあなたが私を置いてきぼりにしたからでしょ!」

「勝手に動くなと念を押したはずだ。」
「それが暴君だっていうのよ。」

「暴君。結構。」
「ほら直ぐに居直る。・・・だったら!どうすればいいわけ?」

「僕が苦しんだ分、苦しんでみるといい。」
ドンヒョクのその一言でふたりの矢継ぎ早な言い合いが
やっと静まった。かに見えた。

「・・・・・性格悪い。」 ジニョンが一瞬の静寂に呟きを投じた。
「はっ・・今更?」 ドンヒョクは腕を組んで顔を背けた。

「あなたって!ホントに。性格悪い!」
ジニョンが肩を怒らせた瞬間、ドンヒョクが彼女の胸倉を素早く掴んで
今度は彼女の唇を自分の唇へと持ち上げ、押し当てた。
「く・・・」
結ばれたふたりの唇の間で“苦しい・・”と声を漏らしながら、
ジニョンは急に可笑しくなった。
そして怒りで力が入った肩を彼の腕に委ねると、突然笑い出した。

「さっきのお返しだ」 
彼は彼女をふわりと抱くと、唇を少しだけ離し無愛想に言った。
ジニョンは彼の腕の中で柔らかく笑っていた。

「もう、こんなことはしないと約束して。」 
ドンヒョクはジニョンの頬を両手で挟んで、自分から少しだけ離すと
今度は彼女を優しく見つめて言った。

「こんなことって?・・」
白々しいジニョンの返事に、ドンヒョクは片方の眉を上げてみせた。
「タイを締め上げたキス?・・それとも・・すごく心配かけたこと?」
ジニョンは続けて言いながら、自分が乱してしまったドンヒョクの胸元を
丁寧に直していた。

「・・・キスは・・・許す。」 ドンヒョクは仕方ないというように呟くと、
今度はくすぐったいほどに優しくジニョンの唇を噛んだ。
ジニョンの顔がドンヒョクの胸の中で溢れるほどの微笑に崩れた。



ドンヒョクとジニョンが教会から出て来ると、外には
レイモンドやミンア、少しまだふらついたジョアン、
エマの肩を抱いたルカたちがふたりが出てくるのを待っていた。
ジニョンはみんなの顔を見ると、照れ隠しの笑みを浮かべた。
一方ドンヒョクは、彼らに対して無愛想なまま顔を逸らした。

ミンアはジニョンのそばに駆け寄り、涙ながらに無事を喜んだ。
「ジニョンssi~~心配したんですよ~」 
ドンヒョクによって顔に青あざを作られたジョアンも涙声だった。
ジニョンは右手でジョアンの手を取り、左腕にミンアを抱いて、
“ごめんなさい”と繰り返した。

「いつまでも駄々をこねてたのか?」 
煙草に火をつけながら、レイモンドがドンヒョクに向かって
意地悪さ全開に言い放った。
ドンヒョクは俯き小さく笑ったが、その顔を彼には見せなかった。

「駄々・・って、Mr.レイモンド・・」 
傍らでミンアがレイモンドの遠慮の無い言葉に目を丸くして、
レイモンドとドンヒョクを交互に伺った。
今まで何処の誰も、フランク・シンに向かってそんな口を利く人間を
見たことがないミンアやジョアンにとって、或る意味
レイモンドの容赦の無い物言いは、内心小気味よく聞こえた。

ドンヒョクは煙草を優雅にくゆらせるレイモンドをきつく睨むと、
突然何も言わずジニョンの手を掴んで歩き出した。
「ボス!」 ミンアの声が追いかけたが、ドンヒョクは振り向かなかった。

「放っておけ」 レイモンドが言った。
「でも・・」 ミンアはボスであるドンヒョクとレイモンドの間で
おろおろとするしかなかった。

「奴にはプライドを繕う時間が必要なんだ。」
「プライド・・ですか?」

「あいつは・・ジニョンの前では、体裁もプライドも
 かなぐり捨てることができる。シン・ドンヒョクに戻ることができる。
 しかし、私達の前では冷静で、沈着で有らなければならない。
 いつも“フランク・シン”でなければ、自分が許せないのさ。」
レイモンドはそう語った。

「・・・・・何だか・・寂しい気がします。
 私達の前でもシン・ドンヒョクであってくださればいいのに・・」
ミンアが寂しげにそういうと、レイモンドは無言で彼女を見つめた。

「何ですか?」 ミンアは彼の視線に気付いて首を傾げた。
「それは・・・愛情表現なのか?」 レイモンドは言った。
「えっ?愛情って・・まさかそんな・・」
ミンアはしどろもどろになって赤くなった。

「冗談だ。」 レイモンドは少しムッとしたように言った。
「お人が悪いですね、Mr。」

「本当の奴を知ってどうする」 レイモンドは淡々と言った。
「どうするって・・」

「私は知りたくないね。本当の奴を知ったら・・苦しいだけだ」
「苦しい?」

「ああ・・悲しいくらいに苦しい。だがジニョンなら・・・
 彼女なら決して苦しいままで・・悲しいままで終わらない。
 何故ならフランクが・・・それを許さないから。
 彼女になら・・簡単に降参してしまうから。
 ふっ・・そうなんだ・・
 あいつはジニョンに抱かれた瞬間、鋭い爪を隠す・・
 まるで野生の豹が飼い猫になったみたいにね。
 そして彼女の腕の中で体を丸くして眠るんだ。」

「飼い猫ですか」

「ああ、気弱な飼い猫だ、あいつは。
 ジニョンという女にしか懐かない、癖の或る飼い猫。」

「何だか・・納得できそうで、怖いです。あなたの論理。」

「知らなかったか?・・私は正論しか言わない。」
レイモンドはエマが自分の話を後ろで聞いていることを
承知していた。
実を言うと彼は、彼女にそれを伝えたかったのだった。
エマもまた、そのことを理解していた。
レイモンドの言葉を聞きながら、エマは俯き加減に微笑んだ。

「エマ・・・」 ルカが慰めるような眼差しで彼女を見つめた。
「ルーフィー・・・」
エマはルカの優しい眼差しに触れると、心が痛かった。
「ごめんなさい・・・あなた達の・・」
ルカは首を横に振った。「もう何も言わないで・・・」
エマは優しく微笑み頷いた。そしてルカの頬を撫でながら言った。
「ルーフィー・・どうか・・・お父様やお母様の分も・・・
 沢山の幸せを掴んで・・・お願い・・・」

「わかってる・・・わかってるよ、エマ・・・そうする・・・
 必ずそうするから・・・」
ルカはそう言いながら、自分の頬を撫でるエマの手を
優しく包んだ。



「どうぞ、用意が出来ました」 トマゾが言った。
ドンヒョクとジニョンはトマゾに誘導されて、ボートに乗り込んだ。
ジニョンはレイモンド達が乗り込んで来るのを待っていたが、
彼らが乗り込まない内に、操縦士がエンジンを掛け、
今にも発進させようとしていた。

「あ・・待ってください」 ジニョンが操縦士に声を掛けた。
しかし川岸に立つ人々は、一向にボートに乗り込む気配が無かった。
「レイ!・・早く乗って?」 ジニョンが声を掛けた。

「あ・・言い忘れたよ、ジニョン。
 私たちは今夜はここに滞在することにしたんだ。
 部屋もホテル並にあるようだしな。だから・・・
 ここでさよならだ。またその内にな。」

「え?レイ、そんな・・ルカ・・みんなも?」
対岸の人々はそれを認めるように一様に微笑んだ。

「ジニョンssi!・・ありがとう!
 あなたと会えてすごく嬉しかったです」
ルカが満面に笑顔を称えて言った。

「そんな・・だったら、私たちも・・」 
そう言いながらジニョンはボートを降りようとした。
その腕をドンヒョクは掴んで自分に引き寄せた。

「ドンヒョクssi?・・」
「いいんだ・・・ここで別れよう。」

「えっ?だって・・まだ沢山・・お話・・ルカとだって・・
 ちゃんとお別れもしてない」

「いつかまた会えるさ」 
ドンヒョクはそう言ってジニョンの肩を抱いた。

「だって・・こんなあっけないお別れなんて・・」 
ジニョンは涙が込み上げて仕方なかった。
彼女はいつの間にか既に川岸から離されたボートから、
川岸のルカを見つめた。

「ジニョンssi!」
突然ルカがジニョンの名を叫びながら、対岸を走り出した。
ジニョンは彼を目で追った。

「ルカ!・・ルカ!・・ありがとう・・」

「ジニョンssi!僕こそありがとう。本当にありがとう!」

「私を守ってくれてありがとう!
 フランクを愛してくれてありがとう」

「ジニョンssi・・・僕・・僕・・・ジニョンssi!愛してます!」
ルカはボートを追いかけながら大きく大きく手を振った。

「私も。私もよ・・・愛してる、ルカー」

「ジニョンssi!・・さようなら!」

「さよなら!ルカ!」 ジニョンもまたこぼれる涙を拭いながら、
次第に小さくなる川岸に大きく手を振った。
互いの声がもう届かないほどにボートが岸を離れていき、
川岸に立つ人々が更に小さくなって、ついには見えなくなった。

「ジニョンssi・・・ありがとう・・・
 あなたは本当に僕の守護神でした。」
ルカは既に見えなくなったジニョンに向かって呟くと、
静かに袖で涙を拭った。


ジニョンはいつまでも泣いていた。

「まるで恋人同士の別れだな」 ドンヒョクが嫌味を込めて言った。

「だって・・ヒクッ・・」

「僕のことも眼中に無かったな、あいつ」

「ひどいわ・・こんな別れ方・・」 
ジニョンはヒクヒクと声を裏返して泣きじゃくった。

「ルカがそうしたいと言ったんだ」
「・・・ルカが?」

「あの子は今、エマのことを考え、そばにいてあげようとしている
 しかし君がいたら・・・
 子供の癖に、気が回るんだ、あいつ・・・」

「・・・・そう、そういうことなのね」 ジニョンは涙を拭いながら言った。

「だから・・もう泣くのはお止め」 
ドンヒョクはそう言って、ジニョンの髪を撫でた。
「ええ」 ジニョンは納得して大きく頭(かぶり)を振った。

ジニョンはドンヒョクの肩に頭を預け、もうとっくに見えなくなった
川岸の方角を愛しく見つめていた。

「ところで・・」 ジニョンがそのままの姿勢で言った。
「ん?」

「ルカはどうしてエマさんのことで私に気を遣うの?」
「えっ?・・」

「エマさんという人のこと、私、あなたに何も聞いてないわ」
「あ・・それは・・・」

ふたりの背には、赤い夕日が水平線を美しく揺らめかせていた。
「ね、見てご覧・・・」 
ドンヒョクがジニョンの肩を抱いて後ろを振り向かせた。

「わぁ・・綺麗・・」 
ジニョンは目の前に広がった美しい景色に瞳を輝かせ、
感嘆の声を上げた。
「だろ?・・」

「ドンヒョクssi・・・」
「ん?」

「ごまかした?」
「何を?」

「ふふ・・大丈夫よ」
「何が?」

「あなたの過去も・・・」
ジニョンはわざとらしい笑顔でドンヒョクを見上げた。
「ん?」
「・・・愛してるから。」 
「えっ?・・・」 

「ふふ・・何でもない・・」 ジニョンはドンヒョクの胸に頬を寄せた。
ドンヒョクは微笑みながら、彼女の頭をそっと包み込み抱きしめた。
「何だか意味深だな」

「そう?」

「ふっ・・」

「不思議なの・・・たった数日なのに・・・
 ルカと過ごした時間が、あなたと逢えなかった10年分を
 簡単に埋めてくれたような気分なの」
  
「ルカにそんな力があったのか?侮れないな」

「そ、侮れないわ」

「しかし感謝した方がいいかな?」

「そうね、あなたはみんなに感謝した方がいいわ・・
 あ・・忘れないでね、私にも。」

「いつもしてるけど」

「んー足りないみたいよ」

「じゃあ・・この深~い感謝の気持ちはどう表わせばいい?」
 
ジニョンが突然、ドンヒョクの頬を両手で挟んで優しく唇を合わせた。
少しして、ドンヒョクはジニョンの髪をクイと後ろに引いた。
「これでいいの?」
ジニョンは満面の笑顔で「ん・・」と応えた。

ドンヒョクは体を少し反らしたまま、両手をジニョンの背中で交差し、
下へ滑らせると、その腰を優しく引き寄せ抱いた。
そして彼女を見つめながら、ゆっくりと唇を近づけた。
「それなら・・・」


       ・・・お安い御用だ・・・



2012/03/29 21:57
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ラビリンス-26.教会だけの島

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トマゾはドンヒョクらをボートに乗せると、操縦士に合図し、
直ちに発進させた。

ドンヒョクは水路の進行方向に視線を送りながら、トマゾに訊ねた。
「何処へ?」 

「ルカの島に。」 トマゾはドンヒョクをまっすぐに見て言った。

「えっ?」 トマゾの答えに、ルカの方が先に反応していたが、
ドンヒョクがまた続けて訊ねた。「あの島を知っているのか?」 

「はい」 トマゾは穏やかな表情でゆっくりと頷いた。

「ルカの島って?」 ルカはドンヒョクとトマゾの間に入って、
ふたりを交互に見ながら訊ねた。

「知っています。あなたがこの五年もの間、あの建物に手を入れて、
 大事に保存されていらしたことも。」
トマゾはそう言いながら、ドンヒョクからルカへと視線を移した。
「どういうこと?」 ルカがじれったそうに言った。

「君が生まれた場所」 トマゾは今度はルカに向き直って答えた。

「僕が生まれた場所?」 ルカは不思議そうにトマゾを見た。

「ああ、おじい様の教会だ」 トマゾは少しだけ笑みを浮かべ言った。

「おじい様の?それは・・」 

「ここから三十分ほど進んだ所に島がある。
 たったひとつ、その教会だけしか存在しない小さな島だ。
 今は人が訪れることもまったく無い。
 君のおじい様のもうひとつの教会だったんだ。
 そしてフランク様がその島を“ルカの島”と名づけた。」 

「知らなかった・・・
 僕はてっきりあの教会が僕の生まれた場所だとばかり」
ルカはそう言いながら、たった今出て来た教会に視線を向けた。

「誰も知らされてはいない。
 今その事実を知っているのはこの方だけだ」
そう言ってトマゾはドンヒョクに視線を向けた。

「知っているのは私だけ。いいや・・」 
ドンヒョクがトマゾの言葉を引き継いだ。「もうひとり・・・」 
そう言いながらドンヒョクはトマゾの目をじっくりと見ていた。

トマゾはドンヒョクの言葉に頷くように柔らかな笑みを返した。

「そうか・・・あの時の・・・
 だから君の声を聞いた時、聞き覚えがあったんだな。
 ローマで初めて会った時、初対面の気がしなかった。」
ドンヒョクはやっと謎が解けたとばかりに目を輝かせた。

「どういうこと?」 
ルカはドンヒョクが何のことを言ってるのかわからなかった。

「そういうことか。」 ドンヒョクは納得して片方の口角を上げた。

「はい。」 トマゾは穏やかに口元を緩めて答えた。

「いい加減、ふたりだけでわかり合ってないで、
 具体的に話してやれ。」
レイモンドがそう言って、ルカの困惑を助けた。

「あの時・・」 
ドンヒョクが今度はルカを初め、そこにいた全員に向って話し始めた。
「5年前のあの時、ある男から僕に連絡があった。
 あの事故が・・・アレグリーニ家が犠牲になった事故が
 発覚した直後のことだった。
 “子供だけは辛うじて助けた”と。

 “どういう意味だ”、とその時僕は尋ねた。
 その事故で一家全員が亡くなったと知らされ、
 警察の発表はそれを裏付けるものばかりだったからだ。

 男は“多くを語れない”、と言った。 
 しかし、“子供を匿う場所を用意してくれ”とだけ言って来た。
 “誰にも知られる恐れが無い場所を”と。
 それは、あれが単なる事故ではなかったと僕に教えた。

 僕は男に、ルカの父親から聞いていたあの場所を告げた。
 今はもう誰も住んでいない、誰も使っていない寂れた教会。
 そこをいつの日か復興したいと彼が・・・
 ルカの父親がいつも熱く語っていたことを
 その時思い出したんだ。
 
 何かの罠かもしれない。
 その気持ちも無かったわけじゃない。
 しかし僕は天にもすがる思いで、男の言葉を信じることにした。

 男はきっかり3時間後にそこへ来るように僕に言った。
 その前に来て待ち伏せしようものなら・・・
 警察に知らせようものなら・・・子供は渡せない。
 きっかり3時間後だと、念を押された。
 僕はそれを守った。
 そして、ルカとアレッシアを見つけた。」
ドンヒョクは過去を振返りながら、ルカに穏やかな眼差しを向けた。

「フランク・・・」 ルカはフランクの優しい眼差しに
久々に触れた気がして胸が熱くなった。

「この子達は眠っていた。他には誰ひとりいなかった。
 眠っている間に彼らを、アレグリーニ家のもうひとつの教会に・・
 さっき出て来た教会だ・・・
 そこに住むカーディナルのシュベールにすべてを託すと
 僕は直ちにその場を離れ、数日後イタリアを去った。」

「どうして?・・・
 どうして僕達のそばにいてくれなかったの?フランク」
ルカが寂しげにそう言いながらドンヒョクを見上げた。

「もしもそうしていたら・・・君達の所在は直ぐに
 ジュリアーノに知れてしまっていたはずだ。
 そしたら、君達に危険が及ぶことは必至だったろう。」
トマゾがドンヒョクの代わりに答えた。

「あ・・・」
ルカは今まで口にこそ出さなかったが、フランクが一度も
自分達に会いに来てくれないことを嘆いていた。
もう自分達のことなど、忘れてしまったのだと、思っていた。

《フランクはもう僕達のことなんか、どうでもいいと思ってる》

《そんなことないわ。
 彼はきっとあなたのことを愛しく思っていたわ。
 それはきっと今でも変わらない。私はそう思うわ。》

ジニョンの言葉が脳裏に蘇って、ルカの目に涙が溢れた。

「フランク・・・僕を・・・忘れたのかと・・・
 僕のことなんか・・・忘れてしまったのかと・・・」
ルカは搾り出すように、ドンヒョクに想いを訴えようとしたが
言葉にならなかった。

ドンヒョクは黙ってルカを見つめていた。
今の今まで、ジニョンのことで、余裕を無くしていた自分を
認めざる得なかった。
ルカの涙がそんな自分を責めるように、胸を締め付けた。

ドンヒョクはルカの頭を乱暴に撫でながら感慨深く言った。
「大きくなったな。」

その瞬間、ルカの涙が嗚咽に変わった。
まるで11歳の子供に戻ったように声をしゃくりあげ泣いた。
ドンヒョクは思わずルカの頭を自分の胸に引き寄せた。
彼らの成長を守ることが唯一、親友だったアレグリーニへの
償いだと信じて来た。
しかしこの子は自分がそばにいることの方を望んでいたのだ。


ルカが落ち着くまでしばらくの間、ドンヒョクは黙って彼を抱いていた。
ルカの嗚咽が緩やかになると、ドンヒョクは改めてトマゾに問うた。
「しかし・・何故あんなことを?」 

あの時の男をドンヒョクは必至に捜していた。
この世界にルカ達兄妹が生きている事実を知っている人間が、
顔も見えぬ人間が存在することを正直不安に思っていたからだ。
しかしどれほど手を尽くしても、手がかりのひとつも掴めなかった。

「何故、ルカ達を助けた?ジュリアーノの側近である君が。
 彼の裏を掻いてまで。」
ドンヒョクはまだ、トマゾの行動に疑問を抱いていた。
ジュリアーノ一家というイタリア屈指のマフィア組織において、
その側近と言われている男が、簡単に自分のボスを裏切るとは
到底思えなかったからだ。

すると、トマゾは薄く笑みを浮かべ、目の前に腰掛けていたエマに
視線を流した。
「ジュリアーノは彼女に、あなたを裏切るように仕向けました。
 彼女は、ひどく悩んでいました。
 それでも結局、彼女はあなたを助ける方を選んだ。
 つまり、あなたを裏切ることを。

 しかしそのことが原因でルーフィーの一家は・・・。
 
 ルーフィー・・・
 エマは知らなかった。想像できなかった。
 君達一家の末路を。

 しかし私は知っていた。
 それでも・・止める力など・・・私にはなかった。」
トマゾはルカへの贖罪を込めて声を絞り出すように言った。

「トマゾ・・・」 エマは悲しそうな眼差しでトマゾを見つめた。
 
「君達兄妹を助けることが精一杯だった。
 そして信頼できるのはフランク・シン、この人だけだった。
 だから、彼に匿名で連絡を取り、君達を託した。

 彼は直ぐに答えてくださった。
 そして何者からも君達を守る手立てをつけてくださった。

 しばらくして・・・
 彼女にだけは・・エマにだけは教えた。
 君達家族のことで精神的に参っていた彼女に・・・
 君達の生存がせめてもの救いになると・・・
 信じたからだ。

 ルーフィー・・・信じてやって欲しい・・・
 彼女の君達への愛に・・・決して嘘は無かったことを」

その言葉を聞いて、エマは掌で自分の口を押さえ、嗚咽を堪えた。
ルカは黙って頷いた。

ドンヒョクはエマの涙を静かに見ていた。
5年前、彼女の犯した罪に潜んでいた自分自身の罪を見ていた。
彼女の苦しみを見ようともせず、怒りのままに冷たく切り捨てた。

ルカの父親がジュリアーノに狙われる原因を作ったのも
結果的にエマの裏切りによってこの世を去ったのも
元はすべて自分が原因と言えるだろう。
結局トマゾというこの男は5年もの間、自分が招いたはずの
罪の償いを肩代わりしていたのかもしれないと、ドンヒョクは思った。

「すまなかった」 ドンヒョクは誰に向かう訳でもなく呟いた。
しかし、その言葉に誰も答えることはない。
トマゾも・・・エマも・・・ルカも・・・
誰もが自分の心のままに生きただけなのだから。
起きてしまった悲しい現実はここにいる誰のせいでもなかった。

ドンヒョクは長年の胸の閊えが次第に薄れていくような気分だった。
「それにしても・・・
 エマが教会を訪ねていたこともつい最近まで知らなかった
 君のこともまったく知らされなかった。
 用意周到に姿を隠していたんだな。」
ドンヒョクは見事だと言うようにトマゾに訊ねた。

「ええ。彼女がルーフィー達に会う時も
 誰にも知られぬよう緻密に計画を練りました。

 教会のバザーなどの様々な行事を利用して
 誰もが訪れても不自然では無い時を狙い、
 そして私の存在については更に慎重を期しました。
 ルーフィーに私のことは誰にも話すなと口止めもしました」
トマゾはそう言いながらルカに向かって笑顔を向けた。

ルカもまたそのことが思い当たったようで、唇を結んだまま頷いた。
 
「あなたが・・・
 彼らの周辺を逐一お調べになることは予想できましたから。」
トマゾはドンヒョクに向き直って言った。

「なるほど」 
「ルーフィーは・・・頑固で口の堅い子供でした。
 彼は言っていました。
 男というものはどんなことがあっても約束を守るものだと、
 或る人にそう教えられたと。」
そう話しながら、トマゾはまたルカを見た。
ルカはトマゾの眼差しからドンヒョクの方へと視線を移し、
懐かしそうに微笑んだ。

「しかし・・今までよくジュリアーノに知られなかったな・・・・」
ドンヒョクが言った。
「いいえ・・・知られていました。とっくの昔に・・」
ドンヒョクの疑問をトマゾが直ぐに打ち消した。

「・・・・・・」 ドンヒョクは驚きの表情を隠さなかった。
ドンヒョクは、ルカ兄妹の存在がジュリアーノに知られないよう、
今まで決して警戒を怠らなかったからだ。

「ボスは知っていました。
 しかし、彼は決してルーフィー達に手を出しませんでした。」

「何故・・」

「無論、あなたを向かい打つ時の切り札にするためです」

「フッ・・それで・・・」

「はい、そしてついに・・・その時が来ました。
 十日程前、彼は私に条件を出して来たんです。」

「条件?」

「はい。ルーフィー兄妹とエマの命と引き換えに
 フランク・シンの息の根を止めろと。
 フランクの弱みを踏み潰せと。
 その役目をルーフィーにやらせるんだと・・そう言いました。」

「何故君にそんな条件を?」

「おそらく・・・私の気持を知っていたからでしょう」
トマゾがそう言ってエマに向けた眼差しは、その答えを教えていた。

「それで?」 

「それであなたの弱みに・・・
 つまりジニョンさんにルーフィーを近づけたんです。
 それしか時間を稼ぐ手立てがありませんでした。」

「それなのにどうしてこんなことに?」

「ルーフィーがこんなにも早くジニョンさんに辿り着くとは・・・
 大きな誤算でした。
 その状況を知ったジュリアーノは事を急いだんです。」

「当然だろうな。どうしてそうしなかった?
 ジュリアーノの思い通りにしようと考えるなら、
 とっくにジニョンとルカは奴の手に落ちていたはず」

「まだ時間が必要でしたから・・・あなたに。」

「僕に?」 ドンヒョクが首を傾げ聞いた。

「ええ。・・・あなたの重要な目的に。」

「そのために?」

「はい。きっと・・いつの日かそうなさると思っておりました。
 時を待っているのだと、思っておりました。
 そしてこのイタリアに、再びあなたが現れた。
 ローマであなたをお迎えしたあの日感じました、
 その時が来たのだと・・・。」
トマゾは、まるでそれを待っていたかのような口ぶりで言った。

「どうしてそこまで・・・
 正直、まだ君を信じられないよ」 ドンヒョクは苦笑いした。

「それは・・・」 トマゾはエマを見て、続けた。
「それだけが・・・
 あなたがその行動を起こしてくださるそのことだけが・・・
 唯一、エマを救うことだったからです。
 そしてルーフィー兄妹を救うことだったからです。」
トマゾはこれ以上の理由など無いとばかりに、背筋を伸ばし、
凛として答えた。

エマは終始無言のまま涙を流し続けていた。
そして、トマゾの自分への計り知れない愛の形を知り、
驚きと贖罪の思いで彼を見つめるしか無かった。

「僕の目的を知った上で、時間稼ぎまでしたというわけだ」
ドンヒョクは呆れたように、小さく溜め息を吐きながら言った。

ドンヒョクとトマゾの会話が何を意味しているのか、
ルカ以外の人間はすべて理解できていた。

「しかし・・・
 ルカがこんな行動を取ることを予想できなかった。
 ジニョンさんの居所がわからない状況は予想外でした。
 困ったことになったと、正直焦りました。」

「焦る?」

「はい、ジニョンさんがいなくなる・・・
 それがどういうことを引き起こすか・・目に見えていました。
 あなたは例え長年掛けて来た重大な仕事であったとしても、
 簡単に手を離す。
 例外なく、あなたの全神経がジニョンさんに
 向いてしまうからです。」
トマゾのその言葉を、ドンヒョクは認めざる得ないと薄く笑った。

「せめて私にできることは、誰よりも早くジニョンさんを見つけ出し
 彼女をジュリアーノに渡さない。そのことだけでした。」

「返す言葉がないな。」
ドンヒョクは苦笑しながら、片方の口角を上げた。




「ボス、フランク・シンにやられました。
 それから・・・トマゾが裏切りました。」

部下達がジュリアーノの部屋に駆け込んで来たその時、
彼が具体的な報告を受ける間もなく、法の掟の扉が開いた。
その時、ジュリアーノは椅子の背もたれに背中を押し付けたまま
微動だにしなかった。

「FBI。」 
その扉の向こうから現れた男達のひとりがそう言ってバッジを翳した。
「ビアンコ・ジュリアーノ。あなたを連行します。
 あなたには黙秘権があります・・・・・・・・・・・」

目の前で、男の口から自分に科せられる罪状が明らかにされていった。
それでもジュリアーノは胸を張ったまま、決して怯まなかった。
そして独り言のように呟き、笑った。

「もっと早くやるべきだった。
 フランク・シンの・・・喉を掻き切るべきだった。」

 


その島に降り立つと、ルカが育った島と同様の赤い壁が見えた。
聳え立つその高さは、まるで要塞を思わせた。
当然、ドンヒョクはこの建物を図面上知っていたはずだった。
しかし、彼は信じられないほどの焦りから、誰よりも先に進み
片っ端からのドアというドアを開け始めた。

「何処にいるのか早く教えてやれ。」
ドンヒョクの胸の内を察したレイモンドが、後ろから追って来た
トマゾに言った。

トマゾは頷き、この先の扉だと指を指した。
ドンヒョクはトマゾの指先を追うと瞬時に走り出し、
辿り着いた部屋の扉を一息も待たず乱暴に押し開けた。


目の前にその人はいた。ジニョンがいた。

扉が開いた瞬間、今しがたまで寛いでいたらしい彼女が、
驚きの余り、読んでいた本を床に落とした。
我武者羅に探した女は悲哀に暮れるわけでもなく、
震えてもいなかった。
ドンヒョクは信じられない、とばかりに溜め息を吐いた。

彼女がドンヒョクに向かって、彼に逢えた喜びに瞳を輝かせ、
頬を綻ばせたところで、それはもう遅かった。

「ジニョン!」
ドンヒョクは恐ろしく冷たい声を放った。

そして彼女へと突き進むと、彼女を乱暴に壁に押し付け
その胸倉を両手で掴み上げた。
ジニョンは無理やり合わされた彼の目の高さに、一瞬恐れをなした。

「ド・・ドンヒョク・・ssi・・?・」

ドンヒョクは彼女の苦しげな表情にも容赦することなく
更にその胸倉に力を込め、搾り出すような声で言った。

「何をやっていた・・・」

「あ・・ド・・・」

「 何をやっていた!


      ・・・ ソ・ジニョン! 」・・・














※イタリア・ヴェネチアには教会だけしか存在しない島が実在しますが、
  “ルカの島”はそれをモデルにした架空の島です。


2012/03/25 11:28
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ラビリンス-25.仕掛けた罠

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「何か方法はないのか」
レイモンドが痺れを切らしたように言った。

ドンヒョクは腕を組み、目を閉じたままソファーに腰掛けていた。

ジョアンは部屋の中を縦に横にと歩き回り、ジニョンの無事を案じた。
ミンアは仲間達から離れ、キッチンで飲み物や夜食を準備することで
気持ちを紛らすしかなかった。

エマはただ黙ってドンヒョクの正面に座り、彼を伺った。

彼女は想っていた。

長年焦がれていた男が今、ひとりの女を想い、悲しいくらいに、
心ここに有らずと化している。
自分はその女の顔すらも知らないというのに。

今、ルカが起こしていることは、自分が原因であるのかもしれない。
しかし、心の何処かで彼が恋う女がこのまま消えてくれたら・・・
その想いが、微かに胸に過ぎった事実を自分に隠せなかった。



その時ドンヒョクの携帯の着信音がポケットから響いた。
電話の主を確認すると、ドンヒョクは周りの人々から少し距離を置いた。
は電話の主の話を黙って聞いていた。そしてしばらくすると、
電話の向こうに静かに言った。「わかった。」

「誰からだ?」 レイモンドがドンヒョクに近づくと、訊ねた。

「いや・・」 
ドンヒョクは言葉を濁して、シュベールの元へ進んだ。「事務所は何処だ」 

「どうした」 レイモンドがドンヒョクの突然の行動に怪訝な眼差しを向けた。

「・・・ジニョンは無事だ。」 ドンヒョクは浮き上がる気持ちを抑えて言った。

「本当に?」 ジョアンが直ぐに反応した。

「何処に?今の電話はどなたからだったんですか?」
今度はミンアが矢継ぎ早に聞いた。

「何処にいるかは、まだわからない」 

「どういうことなんですか?」

「悪いが、今は時間がない。デスクを使わせてもらうぞ。」 
ドンヒョクは彼らの疑問をかわすと、シュベールを促した。

「あ・・はい、こちらへ」 シュベールはドンヒョクの前を歩いた。

ドンヒョクは足早に部屋を出て行き、ジョアンも慌てて彼の後を追った。
ミンアは突然のことに呆然としていた。「いったい・・どういう・・」

レイモンドはミンアに、今ドンヒョクが出て行った扉を示した。
「向こうに答えがあるんじゃないか?」

「あ・・・はい。」 レイモンドの言葉で我に返ったミンアもドンヒョクの後を追った。




「もう少しの辛抱です」 
三度目の食事を運んで来た時、トマゾがジニョンに言った。

「もう少しの辛抱?」 ジニョンはトマゾの言葉を繰り返した。

「ええ」

「もう少しって?」 ルカが少し冷めた口調で言った。
トマゾは笑みを浮かべるだけで、ルカの満足のいく答えをくれなかった。

「いったい、何をしてるの?トマゾ。
 僕達をいつまでこんな所に閉じ込めるの?
 お願いだよ、ジニョンssiだけでもフランクの所に帰して。」

「それはまだできない。」

「どうして?ここに残るのは僕だけで十分でしょ?
 ジュリアーノの所には僕を連れて行けばいいじゃないか!」
ルカのイライラは頂点に達していて、トマゾに食って掛かることもしばしばだった。

「言っただろ?
 あの方には最後まで仕事をしていただかなければならないと。」
そんなルカに対してトマゾは至って冷静だった。

「仕事って何の?フランクに何をさせてるの?」
知らないところで何が起きているのか、ルカは不安に慄いていた。

「させている?いや・・
 あの方はご自分の計画を実行なさっているだけだ。」

「フランクの計画?」

「ああ、今はそれに専念していただかねば。」

「フランクは・・・何をしてるの?」

「それも・・・直ぐにわかる。」 
トマゾは終始多くを語ろうとせず、ルカの疑問解決に力を貸さなかった。





「先ほどのお電話は?」 ミンアがドンヒョクに聞いた。

「レオからだ。」 

「それで・・どうしてレオ氏の電話でジニョンさんがご無事だと?」

「ある男から連絡があったようだ」 ドンヒョクは立ち上げたPCに向かい、
アクセスを取りながらミンアの質問に答えていた。

「・・・・それで?」

「そのことは後で話す。まずサイモンに連絡を取ってくれ」

「サイモンって・・・あの?・・」

「ああ」

「あの方との取引は既に終結したはずでは?
 もうアメリカに帰られたはずですが」

ミンアがそう言うと、ドンヒョクは「フッ・・」と小さく笑った。
「彼はリチャードの傘下の人間だ」

「リチャード?・・ジュニアの・・ことですか?
 すると、サイモン氏も我々側の?」

ドンヒョクとミンアの会話の内容が理解できなかったジョアンは
ふたりの顔を交互に見ながら、自分にも早くわかるような説明を待った。

「んー、わかりません。彼がどうして・・」
しかし、それはミンアにも理解に及ばないことのようだった。

「いいから、そっちのPCを繋げ。ジョアン、お前もだ。」
 ドンヒョクは顎で指示を出し、力強い眼差しをふたりに向けた。
そして彼は言った。
「いいか、これから数時間は何も言わず僕の指示通りに動け。
 時間が無い。お前達の助けがいるんだ。」 

ミンアもジョアンもドンヒョクの真剣な眼差しに息を呑んだ。
そして今はとにかく、ドンヒョクの指示に従うことが先であることを悟った。




レイモンドとエマはふたりだけ取り残された部屋で、並んで座っていた。

「奴を・・待っていたんですか?」 
レイモンドがエマを見ず、正面を見据えたまま彼女に聞いた。

エマは一瞬、レイモンドの質問の答えを自分に探すように目を閉じた。
「・・・・・・・わかりません・・・待っていたのかもしれないし・・・
 そうじゃないかもしれない・・・でも・・・
 彼が・・・私の元に戻ることは無いとわかっていましたもの・・・
 それはずっと前から・・・
 だから・・・待っていたはずがないんです・・・」

「なるほどね・・待っていたはずは無い。しかし・・・
 待っていたわけだ」 レイモンドはわかったような口ぶりで言った。

エマはレイモンドの言葉に一度だけ笑みを向けたが、直ぐに真顔になった。
「・・・・・・私は5年前・・取り返しのつかない罪を犯しました。
 だから・・・彼を待つ理由も・・資格も無かった。でも・・・・・」

「・・・・でも?」

「・・・・死ぬほど・・・会いたかった。」 エマは溜め息混じりにそう言った。

「まだ・・・忘れることが?」

「人間って・・・死ぬほどに愛した人を・・・簡単に忘れられるでしょうか」

「・・・・・・」 エマの言葉にレイモンドはしばらく言葉を繋げなかった。
「・・・あなたが辛くなるだけだ」 彼はやっと慰めの気持ちを口にした。

「そうですね・・・それができていたら・・・良かったのに・・・」

「・・・・・あいつには・・・無くてはならない片割れがいます。
 その片割れ無しでは、息をすることもできないほどの・・・
 それはきっとふたりの・・・」
「わかっています。」 
“ふたりの運命なのだ”と言おうとしたレイモンドの言葉を遮って、
エマは彼を強く睨みつけた。

「・・・わかっています」 そして彼女は再度繰り返し、ゆっくり俯いた。

「そう・・・」 レイモンドは続きの言葉を呑みこんだ。

しばらくの沈黙の後、エマが口を開いた。「彼の・・・夢・・・」

「夢?」

「時々・・・苦しそうに・・・うなされていました
 きっと同じ夢を見ている・・・そう思いました。」

「同じ夢?」

「・・・・・・“ジニョン”・・・
 その名を叫びながら目覚めるんです。必ず。」
 
「・・・・・・」

「私はそんな時どうしていたと思います?」 
エマはレイモンドに悲しげに笑って見せた。

「・・・・・・」

「気が付かない振りをしていたんです。いつも・・・
 彼が起き上がってベットを降りそのまま帰って行くのを・・・
 気が付かない振りを・・・」

「・・・・・・」

「でも・・・当然調べました。彼に隠れて。
 ジニョンという人が誰なのか。
 彼にとってその人がどんな人なのか・・・
 ふたりがとても辛い別れを経験していたことも・・・
 だから・・・彼が韓国に渡ったことを聞いた時・・・
 少しも驚きませんでした・・・」

「・・・・・・」

「ほんと・・・少しも驚かなかった・・・涙も出なかった・・・
 “ああ、彼のことを忘れることができた”
 “これで私は救われる”そう思っていました。
 ・・・・でも違ったんです
 ルカを見ていて・・・彼もきっとこの子の成長を見たかっただろうと・・・
 そう思った瞬間・・・ひとりでに涙が込み上げて・・・止まりませんでした。
 結局、少しも忘れていない・・・
 だからこそ・・この子達を見守っていた自分に気が付きました
 そんな自分が・・・情けなかった・・・」

「だから・・・取り戻したかった?」 レイモンドは少し意地悪く聞いた。

「・・・そう思うことが・・・罪ですか?」 そう言ってエマは一筋の涙を落とした。

「いいや」 レイモンドはそれ以上の言葉を繋げなかった。




ドンヒョクはミンアやジョアンと共に、アメリカにいるリチャード陣営と
韓国に残っていたレオとの交信に夜を徹した。

「サイモン氏と連絡が取れました。」 ミンアが言った。

「それで?」

「“予想通りです”とボスに伝えてくれ、とのことでしたが・・・」

「わかった。」 
ドンヒョクは視線を上げて答えると、背中を椅子の背もたれに押し付けた。

「それで・・予想通りとは?」 ミンアにはまだ事の次第が読めていなかった。

「ジュリアーノとサイモンとの取引は存在していなかった。」
ドンヒョクはミンアの目を見て力強く言った。

「えっ?・・・・それはつまり・・・」 と言い掛けて、ミンアはやっと全てを悟った。

「そういうことだ。・・・ミンア・・そこで口を開けてる奴に説明しろ。
 これからは事情がわかっていないと出来ない仕事だ。」
そう言って、ドンヒョクはジョアンを顎で指した。


話はこうだった。
今回の目的は、ジュリアーノの多くの罪を暴くことにあった。
収賄、脱税、殺人、数え切れないほどの罪を犯して来たことは間違いが無い。
しかし、ジュリアーノは大手を振って、法の手から逃れ今日まで来ていた。

それを暴くには、緻密に計画を練り、長年を掛けてその証拠となるものを
積み上げ、立証していくことが不可欠だった。

過去の取引の調査はもちろん、真新しい証拠も欲しかったドンヒョクは
リチャードの傘下にあったサイモンとの取引を持ちかけ、罠を仕掛けた。
今回の取引でジュリアーノに渡った資金は、より莫大なものとした。
その数字は当然こちらの手の内にある。
その数字の動向を逐一観察していたのだった。

『ジュリアーノとサイモンの取引は存在しなかった』

つまりそれ程の脱税を、ジュリアーノ側がやってのけた、ということだ。

ドンヒョクは5年もの間、水面下でジュリアーノの裏を徹底的に探り、
確実に彼を潰す手立てをこうじていた。
そしてそれがやっと実を結ぶ時が来ていた。

「証人の確保はどの程度まで進みましたか?」 ドンヒョクはリチャードに言った。

「数え切れないほどいる。
 レイモンドの部下が、誰の手にも届かない場所で匿っている。
 いつでも準備はできている。安心しろ。」
リチャードは事の次第を面白がっているような口ぶりで言った。

「わかりました。」 ドンヒョクは持っていたペンをデスクに下ろした。

「しかしもっと早く動くと思っていたぞ。
 仕掛けた罠は時間を掛け過ぎると効力を失うことぐらい判っているだろ?
 いったい何をしていたんだ?」

「申し訳ありません、少しばかりトラブルが発生したもので」
ドンヒョクはリチャードに見えない所で苦笑していた。

「ソフィアも久しぶりの大仕事に、血が騒いでいるようだ。
 既に裁判資料の準備に取り掛かっている。」

「おふたりには感謝します・・。」

「いや、私達にとっても意義ある仕事だった。
 それはそうと、レイモンドと連絡が途絶えてるんだが。」

「レイモンドならここにいます。」

「イタリアに?何してるんだ?奴は。ソニーがやきもきしていたぞ」

「ええ、おせっかいの虫が騒いだようです。」

「はは・・それもまたレイモンドらしい・・ことかな?」

「まあ、そういうことです」

「とにかく、もう時間を掛けるな。早く解決してしまうんだ。」

「ええ。」

「そしてお前の贖罪の念を払拭しろ。もうそろそろ救われてもいいだろ?」

「救われるでしょうか」

「・・・すべて・・・上手くいく。」 リチャードは最後にそう言った。

ドンヒョクはリチャードの言葉に目を閉じて頷くと、受話器を置いた。



教会のステンドグラスの色がその色を際立たせるほどに明るくなった頃、
ドンヒョクはレオに最後の確認をした。
「どうだ?これでいけるか。」
 
「That rigth!すべて完璧だ。」 レオがテレビ電話の向こうで親指を立てた。

「よし。・・直ぐに奴と連絡を取れ。」

「わかった。」




もうやることはすべてやった、とドンヒョクは言った。
リビングで待っていたレイモンドも、ドンヒョクに向かって無言で頷いた。
ドンヒョクの周りの誰もがひとことも会話することなく、時は過ぎていき、
太陽が真上に差し掛かっていた。その時だった。

「ルカ。」 

突然玄関からルカが現れて、ジョアンが叫んだ。




一時間程前のことだった。
突然トマゾが部屋に駆け込み、ルカに言った。
「ルーフィー。準備を。」 そう言いながら、トマゾはルカにジャケットを投げた。

「何?」 ルカは怪訝な視線を彼に投げた。

「私と一緒に来てくれ。」

「ジニョンssiは?彼女も一緒でなければ僕は何処にも行かない。」
ルカはそう言ってトマゾの腕を振り払った。

「悪いがジニョンさんはここにいて頂く。」

「何故?」

「この周辺は既にジュリアーノの手の者がうろついているんだ。
 今ジュリアーノにとって手に入れたいものはルーフィー、君じゃない。
 ジニョンさんだけだ。」

「だったら、余計にジニョンssiを一人にしておけない。」 

「ルーフィー・・・ここは何処よりも安全なんだ。」 トマゾはそう言って笑った。

「信じていいんだね。」 
この頃になると、ルカもトマゾの言葉を信じるようになっていた。
それはジニョンのトマゾに対する信頼を、理解できるほどに
ルカがジニョンに信頼を寄せていたことに違いなかった。

「急げ。フランク様をお連れするんだ、ここへ」





「君はいったい何処へ行っていたんだ!ジニョンssiを連れ出すなんて!
 ジニョンssiは何処だ。」
ジョアンが矢継ぎ早に問い詰めたが、ルカは彼の声を聞いてはいなかった。
その時のルカはジョアンの周りにいたミンアやエマすら、眼中に無かった。

ルカは探していた。

そして彼らの向こう側から、自分に向かって突き進んで来る男を見つけた。

その瞬間ルカは、あまりの懐かしさと喜びに瞳を輝かせたが
彼の険しい形相に一瞬にして表情を曇らせた。
「フランク・・・」 

「ジニョンは。」 
ドンヒョクは気持ちが急くのを押さえようと懸命に努めたが
ルカの肩を掴んだ手に力が入るのを防げなかった。

ルカはその痛みに思わず顔をしかめ、言葉を詰まらせた。
無論、ジニョンの無事を何より先に伝えに来たはずだった。

「答えろ!ジニョンは何処だ!」
ドンヒョクの目が次第に怒りに染まり、ルカを突き刺さんばかりだった。

「ジニョンssiは無事です。」 ルカはやっと答えることができた。

彼のまっすぐな眼差しに、それが真実であると理解したドンヒョクは
静かに目を閉じると、自分の中の計り知れない怒りと不安を鎮めるよう
胸の奥で深く息を吐いた。

「トマゾは何処だ。」 ドンヒョクは次にそう言った。
彼のその言葉に、エマが驚きの表情を向けた。「トマゾがここに?」

「岸で待っています。」 ルカは答えた。

「案内しろ。」 ドンヒョクは険しい表情のまま、ルカに言った。

「は・・はい。」 
ルカは項垂れて、今入って来たばかりのドアへと向かった。




ボートを横付けした状態で、トマゾはその横に直立して待っていた。

ドンヒョクは直ぐに、ルカを追い越して足早にトマゾへと向かった。
そして彼に到達するや否や、彼の顔面に勢い良く拳を振るった。

トマゾはドンヒョクのその行為を予期していたかのように、足を踏ん張っていた。
そのお陰で辛うじて倒れることは無かった。

「・・・ご案内します」 トマゾはよろけた体を立て直し、唇の血を拭うこともせず、
ドンヒョクに深く頭を下げた。

「一発くらいは覚悟していただろ?」 ドンヒョクは無表情に言った。

「無論です。」 トマゾは答えた。

「すべて・・・望み通りだ。」 トンヒョクはトマゾの目をしっかりと見て言った。

「感謝します。」 トマゾもまた、ドンヒョクの目をまっすぐに見た。

「私の方が・・・感謝しなければならないか?」 
ドンヒョクはそう言いながら、トマゾにハンカチを差し出した。

「いいえ」 トマゾはそのハンカチを固辞し、自分の手の甲で血を拭った。

ドンヒョクはフッっと笑って、トマゾの肩に触れた。

「いや・・・感謝するべきだ・・・


     ・・・・・・ありがとう・・・」・・・






















2012/03/18 17:43
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ラビリンス24.ジニョンの行方

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「どうして・・・」
ルカが目の前に立ちはだかったその男に向かって言った。
ジニョンはその男とルカの顔を交互に伺いながら、
緊張した面持ちでルカの手を掴んでいた。
背後には別にふたりの男がルカとジニョンの行く手を阻んでいた。

「約束が違うな・・ルーフィー・・・その方を・・・
 こちらに渡してくれないか」
男はジニョンに視線を向けながら、ルカにそう言った。
その瞬間、ルカはジニョンを自分の後ろに隠すように
彼女の腕を引いた。

「渡せない。」 
ルカは力強くそう言って、ジニョンの腕をしっかりと掴んでいた。

「ルーフィー・・・」 男はルカを困ったように見つめた。

「トマゾ・・」 ルカはその男をそう呼んだ。

ジニョンも彼に見覚えがあった。
イタリアに降り立った日、自分達を出迎えてくれたその男だった。

「約束って何?彼女を連れて何処へ行くつもり?」
ルカは探るような物言いで言った。

「君は知らなくていい」 トマゾという男は終始落ち着いた様子で、
その声は興奮気味のルカを宥めているようにも聞こえた。

「教えて。・・・・5年前のことを。」
ルカが知りたいこと。そして今ではジニョンも知りたいことだった。

「・・・・・・」 
トマゾは無言のまま一瞬目を見開いて、ひとつだけ溜め息を吐いた。

「僕の両親を殺したの?」 

「・・・・・・」 トマゾは尚も答えなかった。

「教えて。・・・父さんと母さんを殺したのは誰?」

「・・・・・・」

「どうして黙ってるの?トマゾ・・」

「・・・・・・」
トマゾは口を開かないまま、ルカを見つめていた。

「エマ・・」 
「エマは関係ない。」 ルカの口からエマの名前が発せられた瞬間、
トマゾはそれを打ち消すようにやっと口を開いた。

「トマゾは関係があるということ?」
ルカはその疑いをも打ち消して欲しいと言いたげに、彼を見つめた。

「・・・・否定はしない。」 トマゾは溜め息混じりにそう答えた。
その時、ルカは胸が閊えるような息苦しさを覚えた。

「僕を騙してたの?・・・もう五年になるよ・・・トマゾ?・・
 エマと一緒にいつも僕達に会いに来てくれてた・・・
 父さんと昔からの友達だって言ってた」

「・・・・・・」
「それもみんな嘘?」

「・・・・・・」
「ただエマのためだけに・・ジニョンssiを・・・
 ジニョンssiにフランクを諦めてもらう
 そう説得するんだ、って!」

「・・・・・・」
「そう言ってた・・それも嘘?
 ジニョンssiをジュリアーノのところへ連れて行くつもり?
 そうしてどうするの?」
ルカは零れ落ちそうになる涙を必至に堪え、トマゾを睨み続けた。
そしてルカは肝心なことには何も答えないトマゾに向かって
怒りをぶつけた。
「そこをどけ!」
「駄目だ。」 
トマゾが初めて強い口調で言った。

「どけ!」
ルカが更に怒鳴った瞬間、トマゾの拳がルカのみぞおちを抉った。
「ルカ!」
ジニョンはトマゾの腕に倒れこんだルカに駆け寄ろうとした。
しかし後ろにいた男達に腕を掴まれ、無理やり車に押込まれると、
白い布で乱暴に口を塞がれた。

ジニョンは、次第に意識を失ってしまった。





「ここは何処なんですか?」
ミンアがエマに渡された住所を見ながら言った。

「ヴェネチアの島のひとつ・・・そこに古い教会があるの・・・」
エマが答えた。

「ここにルカという子が?」

「あの子達は・・5年前の事件直後から、そこで暮らしていたわ。
 或る人物から逃れるために匿われていた・・・
 そう言った方が正しいわね・・・」 エマは苦笑しながら言った。

「ジュリアーノから・・・ですね」

「ええ。でもいつかは。・・・そう思ってた・・・恐れてたわ・・・
 ジュリアーノに知られてしまう日がいつかは来る。
 それも時間の問題だとわかっていた。
 もしもそんなことになったら・・・」

「知られてしまったと思ってるんですか?」

「・・・・・・トマゾが伝えるなんて思えない・・でも・・・」
エマは信じたかった。ルカのことも、トマゾのことも、
そして自分自身のしてきた事実をも。

「でも?」

「・・・・・・わからないわ」
エマ自身、何がどうなっているのか、本当に困惑しているようだった。

「・・・もし・・・もしもジュリアーノにルカのことが知れていたら・・・
 どうなると?」

「両親の運命を辿るわ」 
そう呟いたエマの表情はとても悲しげだった。

「そんな・・・」

「そんな男。あの男は・・・
 マフィアに生きる人間の冷酷さを絵に描いたような男。」
エマは冷たくそう言った。
その言葉を聞いていたレイモンドは黙したまま目を閉じた。

エマは尚も続けた。
「だから。
 絶対にあの子達の存在を知られるわけにはいかなかった。
 だから。あの子達は・・・
 ヴェネチアから一歩も外に出てはならなかった。」

「それなのにどうして出たんでしょう」 ミンアは訊ねた。

「・・・・わからない・・・」 エマは消え入るような声で呟いた。




「フランクの女を連れてくることになっていた奴ですが・・・」
ジュリアーノの執務室で、部下の男が神妙な顔つきで言った。
「その男が、というよりまだ十代の餓鬼ですが、実は・・・」

部下が言いかけると、彼の言葉の先を読んだジュリアーノが
不適な笑みを浮かべた。
「その餓鬼が?・・・あの時の子供・・・5年前の。」

「ご存知だったんですか?ボス」 
手下の男が驚きの表情を見せると、ジュリアーノは更に
冷たい笑みを浮かべ言った。「だから奴にやらせたんだ」

「・・・トマゾはそのことを?」

「知っている。
 とにかく・・・一刻も早く奴らをここへ連れて来い。
 フランクに渡してはならない、女も。餓鬼も。決して。
 トマゾと連絡を取れ。」

「はい。」





「ボス、ここからは水上タクシーです・・・」

ヴェネチアに到着して、駅近くの駐車場に車を停めると
ジョアンは言った。
ドンヒョクは彼の言葉に返事もせず、無言のまま車を降りた。

ドンヒョクとジョアンが水上タクシーの乗り場に向かうと、
レイモンド、ミンア、そしてエマがドンヒョクを待ち構えていた。
ここに来るまでに、ジョアンとレイモンドが蜜に示し合わせ
落ち合うよう、時間調整していたらしいことも間違い無かった。
ドンヒョクは彼らに皮肉った笑みを向けたが、何も言わなかった。

一行は水上タクシーに乗り込み、目的地へと向かった。




ルカが目を覚ますと、目の前に羽根を広げた天使の姿があった。

朦朧としていた意識が次第にはっきりとしてくるに連れて、
それは、ジニョンの背後に見える天使の絵画の羽根が
まるで彼女の背中から生えているように見えたのだとわかった。

ルカはその時広いベッドに寝かされていた。
部屋を見渡すとそこは、美しい絵画や、品のある調度品が
程よく施されたシンプルな寝室だった。
開放された窓が見当たらず、地下室のようにも思えたが、
壁面に施された幾つものステンドガラス
明り取りの役割を
果たしているようで、決して窮屈な空間ではなかった。

「ここは?」 
ルカは自分の頭を撫でているジニョンの手を握って言った。

「わからないわ」
不思議なことに、答えたジニョンの声に恐怖の色は見えなかった。

「ぁ・・・トマゾ!」 突然ルカが先刻起きた出来事を思い出して、
彼の名を叫び起き上がった。

「今はいないわ」
ジニョンがそう答えた時、背後の扉が開き、そのトマゾが現れた。

ルカはその瞬間身構えて、ジニョンの前に立ちはだかった。
トマゾはルカのその様子に、小さく笑みを浮かべると、
ゆっくりと近づいて来た。

ルカは彼のその様子を目で追い、鋭い眼差しで睨みつけていた。

 

「腹・・すいてないか」 トマゾが部屋に入る時に抱えていたトレイを
ルカのそばに置きながら言った。

「ここは何処?」 ルカは彼の言葉を無視して聞いた。

「いずれわかる」 トマゾはそう言いながら椅子に腰を下ろした。

「何故こんなことを?」 ルカは更に聞いた。

「・・・・・・」
「まただんまり?」 ルカは嘲るように口角を上げた。

「私達を助けるためですね」 傍らにいたジニョンが突然そう言った。
ルカは彼女の言葉に驚いて、問いかけるような眼差しを向けた。

トマゾはそんなジニョンに優しげな眼差しで応えていた。
そしてゆっくりと口を開いた。
「・・・・はい。奥様。
 手荒なまねをして申し訳ございませんでした。」

「ジニョンでいいわ」 
ジニョンは、自分の勘が正しかったことにホッとして答えた。

「いいえ、奥様。しかし今しばらくご辛抱を・・・
 窮屈な思いをさせて申し訳ございませんが、
 しばらくここで身をお隠しいただきたい」

「何故?」 それでもジニョンには理由がわからず訊ねた。

ジニョンは車の中で薄れ行く意識の中、自分達を乱暴に扱う
男達をきつくたしなめているトマゾの声が聞こえた。
そして次に意識が戻りかけた時、彼はまず自分を抱えて運び
丁寧にベッドに降ろした。
次にルカを運んで来た彼の姿がおぼろげに見えた。
彼はルカをベットに降ろした後、その髪を優しく撫でていた。
その眼差しは優しげで、自分達に危害を加える人間とは
到底思えなかった。

「あなた達を狙う者が既にヴェネチアに。」 トマゾが言った。

「それは・・・あなたではない、ということですね」
ジニョンは少しばかり愉快そうに言って、優しく微笑んだ。
トマゾは両方の口角を上げ、静かな瞬きで答えた。


数時間前のことだった。
トマゾはルカとジニョンの居場所の報告を、彼らを追い
列車に同乗していた手下の男から受けた。
車でヴェネチアに向かっている途中のことだった。

報告を受けたトマゾは焦った。
ふたりがジュリアーノの手に落ちる前に、自分がヴェネチアに
辿り着かなければと。
そうしなければ間違いなくルカもジニョンも、命の保障は
無かっただろう。

トマゾには時間が無かった。
彼はアクセルを最大限に踏み込んだ。



「ところで・・ここには私達だけ?」 
さっき自分を車に押し込んだ男達の姿も見えないことを
不思議に思ってジニョンは聞いた。

すると、その意味を理解したトマゾが表情を変えず答えた。

「はい。あの男達は海で泳いでもらいました。
 奴らに・・・いいえジュリアーノに
 この場所を知られるわけにはいきませんでしたので」

「泳いで?こんなに寒いのに?大丈夫かしら」
ジニョンが真顔でそう言うと、トマゾは突然笑い出した。

「あ・・失礼・・・いや、きっと大丈夫です。
 今頃は濡れた服も乾いているでしょう。」

「ホントに?」

「ええ、本当です」

トマゾは可笑しかった。
自分がヴェネチアに到着する前に、男達に捕まっていたら
ふたりは間違いなく今頃ジュリアーノの前に差し出されていた。
それなのに、この女性は川に落とされた男達の安否を
本気で気遣っている。

「どうして・・・」 状況を理解したルカがやっと言葉を挟んだ。

「あの方にはまだ時間が必要でしたので」

「あの方?・・時間?」 ジニョンがその意味を訊ねた。

「今はまだ何もお聞きにならず、ここで静かにしていただきたい」
トマゾはそう言うと、トレイに綺麗に盛られた果物やパンと飲み物を
改めてふたりに差し出し、部屋を出て行った。

ルカはとっさにドアへと向かったが、外から鍵をかける音が聞こえた。




その島に降り立ち、少し歩くと、教会らしい建物が見えた。
それは赤いレンガの塀に囲まれていた。
ミンア、ジョアンそしてレイモンドが警戒するように辺りを見回す中、
ドンヒョクは迷うことなく教会の入口へと向かった。

その様子を見つめていたエマは、ドンヒョクがここに
初めて訪れたのではないことを改めて確信した。

ドンヒョクは玄関に立つなり、呼び鈴を乱暴に数回鳴らした。
すると直ぐに建物の奥から慌てた様子の人の気配が伺えた。

「お・・お待ちしておりました。フランク様」
その言葉と共に中から男が現れ、ドンヒョクに向かって頭を下げた。
この教会に仕えるカーディナル、シュベールだった。

一方ドンヒョクは彼に挨拶も返さず中へと突き進んだ。
一行も彼の後に続いて建物の中へと入った。

「何処にいる?」
ドンヒョクの鋭い第一声がシュベールを攻撃した。

「まだ戻っておりません」

「戻ってない?」 ドンヒョクは振り向きざまにシュベールを睨んだ。

「はい、サンタ・ルチア駅に着く前にも一度連絡があったんです。
 それからすると、もうとっくに着いていなければならないんですが・・」

シュベールの言葉を聞くや否や、ドンヒョクはそばにあった
テーブルを力の限り叩いた。
「いったい何をやっていたんだ。
 ヴェネチアを出すなとあれほど念を押したはずだ!
 そのために、あの子達に持たせる金をも管理させたはず。」

「はい。そのように・・しておりました。しかし手紙を残して・・・」
シュベールは目を閉じて、自分の至らなさを悔やんだ。

「見せろ。」 ドンヒョクはぶっきらぼうに言って手を出した。

「これです」
そう言いながらシュベールは一枚の紙をドンヒョクに渡した。
それはルカが残して行った置手紙だった。

ドンヒョクはそれを目で追った後、エマを一瞥した。
エマはそれに気が付いて、その紙をドンヒョクから奪い取った。

《エマの幸せを掴み取ったら、戻ります
 心配しないで。僕は大丈夫です。妹を頼みます。
                       ルーフィー》

その紙にはそれだけが書かれていた。
エマは読み終わった後もその文字を凝視したまま、
しばらく動かなかった。
ドンヒョクは腕を組み、人々に背を向けた。

「連絡があった時はどのようなことを?」 ミンアが聞いた。

「はい、5年前の真相を知っていたのか、と聞かれました

 最初はとぼけたのですが、あの子の声にただならないものを・・・
 それで、戻って来てくれたらすべて話す、そう言いました。」

「ルーフィーは知ってしまったのね」 エマが言った。

「あなたのことも言ってました。エマも知っていたのかと。」

「・・・・・・」

「他に行くところは?」 レイモンドが堪り兼ねて声を上げた。

「いいえ、あの子はここ以外には何処にも行くところは。」
シュベールはそう言いながらドンヒョクを見たが、彼は
終始無言で厳しい表情をしていた。

「待つしかないのか」 レイモンドは歯軋りをした。




「ジニョンssi・・・
 どうしてわかったんですか?
 トマゾが僕達を助けるためにこんなことをしたと」

「さあ・・・勘かな」 ジニョンは首を傾げて言った。

「ジニョンssi・・」

「ふふ・・・さっきね・・・目が覚めたとき・・・
 彼があなたの髪をそうっと撫でていたの・・・とても優しく・・・」

「だからって・・・」

「あんな目をしている人に悪い人はいないわ」
ジニョンは自信たっぷりな眼差しを向けた。

「でも・・トマゾはどうしてこんなことを?
 フランクに時間が必要って、何のこと?」

「それは・・・わからないけど」
そう言ったジニョンにルカは呆れたように笑った。

「ジニョンssiって・・・」

「ん?」

「不思議な人ですね」 
さっきトマゾが笑った意味がルカにもわかって、顔を綻ばせた。

「えっ?」

「どうしてそんなに人を信じることができるんです?」

「誰でも信じるわけじゃないわ・・・でも・・・」

「でも?」

「ふふ・・・」

ジニョンはルカを見つめて屈託のない笑顔を見せた。



    ・・・「その方が幸せじゃない?」・・・ 





















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