2013/06/15 23:21
テーマ:創作 愛の群像 カテゴリ:韓国TV(愛の群像)

創作愛の群像Ⅱ 第十二話 カン・ジェホの嫉妬

Photo





第十二話 カン・ジェホの嫉妬




キム・ジュンス

突然シニョンの前に現れ、彼女の思考を占領しつつある
ひとりの男。

『愛してる』
その告白を嬉しくない女が、果たして、この世にいるだろうか。
しかもその相手は十年もの間、自分を想ってくれていたという
麗しい男だ。

《少なくとも私はご多聞にもれない女だと言える》 
シニョンは心の中でそう呟いて、自嘲した。

今も忘れえぬ最愛の夫カン・ジェホが他界して18年、
今までにも自分を求めてくれた男が皆無だったわけではない。
しかし、そのいずれの時も、心を揺さぶられることは無かった。
そうしてシニョンは 《自分はもう誰も愛せないのだ》 と
自覚することになる。その繰り返しだった。

それがどうしたと言うのだろう。
シニョンは今この時も、自分の心が大揺れに揺れていることを
自覚している。

そして恐れにも似た何かを抱いている。

この気持ちは果たして本物なのか。

これが本当の愛と言えるのか。

ただ命の恩人であるジュンスへの恩情でしかないのではないか。

  《錯覚よ》

はるか昔、ジェホに向かって投げた自分の言葉が、彼を強く
傷つけたことを思い出した。

自分の胸に同じ言葉を投げつけてみた。

  《錯覚》

  《・・・錯覚でしょ?ジェホヤ・・・》





翌日、シニョンはまた朝早く家を出ると、学校へ向かった。
そして、前日に購入しておいたあのエメラルドマウンテンを
バックから取り出すと、コーヒーメーカーを使って、丁寧に
淹れ始めた。

二人分の量を。

シニョンは昨日ジュンスが置いて行ったコーヒーカップを
トレイに並べ、コーヒーメーカーからコーヒーが抽出される様を
じっと見つめていた。

約束したわけではなかった。

だから、彼がそのドアを開けて入ってくる保証もなかった。
それでもシニョンは二人分のコーヒーを淹れ、それをカップに
丁寧に、ゆっくりと、注いだ。

その時だった。
ドアをノックする音が背後から聞こえ、シニョンは自分の頬が
一瞬にして高揚するのを実感した。

「どうぞ」 シニョンは応えた。

思った通りの人物が、思った通りの時間にそのドアを開けて
入ってきた時には、シニョンの心がはっきりと《錯覚ではない》
と自分に告げた。

「・・・僕のために?」 ジュンスはコーヒーカップを見て言った。

「・・・・おそらく」 
シニョンは過剰な反応を見せまいと、懸命に冷静を装ったが、
頬の火照りを実感しないわけにはいかなかった。

「喜んでも・・いいかな」 
ジュンスは今度はシニョンの目を見つめて言った。

「自信家なんでしょ?」 
シニョンは赤面しているはずの自分の顔を、ジュンスに隠すよう、
彼に背を向けた形で、カップをテーブルに移動した。

「・・・ええ。かなり」 ジュンスはシニョンの背後からそう答えた。
シニョンは彼に背を向けたまま、口角を上げ、頬を綻ばせていた。



ふたりは昨日のようにソファーに並んで座った。

シニョンは考えていた。二人の間に生まれている温かな何かが、
進展するには少しばかり早過ぎる。
今までの自分ならきっと、こんな風にジュンスを受け入れるまで、
かなりの時間を要していただろうと思う。

それでもシニョンは前に進んだ。
それは、そうすることが自分の心に沿っていると、不思議と
信じられたからだ。

「エメラルドマウンテン・・これもあなたが?」 シニョンが言った。

シニョンのその質問の意味を簡単に理解したジュンスは、
黙って頷いた。

「僕が好きなんです。あなたにも飲んで欲しくて・・・」

「だからジアに?」

ジュンスはまた黙って頷いた。

「今度ジアに会ったら、文句言うことが沢山有りそう」 
シニョンはそう言って愉快そうに笑った。

「僕のためにしたことです」

「・・・ずっと・・長い間・・ジアには沢山支えてもらってたの・・・
 でもそれは・・・あなたに支えられていたということなのね」
シニョンはアメリカで起きていたいくつもの優しい偶然と奇跡を、
ひとつずつパズルを組むように思い出し、感慨深くそう言った。

「ジアが長い間そうしたのは、彼女もあなたが好きだったからです」

「私もジアが大好きだったわ・・・それって・・・
 あなたのことも好きだったという・・ことになるのかしら・・・」

シニョンは自分が発している言葉が、まるでおとぎ話のようで、
恥ずかしかった。《いい年をして、何を言っているんだろう》
正直なところ、ジュンスが笑ってくれたら救われるような気もした。

「そう思ってくれるなら・・・ジアに感謝しないといけないね」
ところが当のジュンスは、彼女の言葉を素直に受け取った。

「ふふふ・・・」 
シニョンは急に可笑しくなって、声を上げて笑ってしまった。

「可笑しいですか?」

「ええ、私たち・・・可笑しい」

「そうかな」

「だって・・・」
「まだ出会って間もない」 
ジュンスがシニョンが言うだろう言葉を、繋げるように重ねた。

シニョンはジュンスの真剣な眼差しに、笑うのを止めた。

「ごめんなさい。・・・正直まだ・・・よくわからない・・・でも・・・
 あなたのことを考えると・・・何だか不思議なの・・・
 自分の心がすごく揺れているのがわかる。
 胸が熱くなるのがわかる。
 そんな自分の思いを、否定したくない・・今は、そう思ってる。
 それだけじゃ・・・駄目かしら」

「・・・すごい進歩です」 ジュンスは満足げに言って微笑んだ。

「でも・・・」

「でも?」

「私は・・・
 私の中に住んでいるひとりの人を死ぬまで離すつもりはないの。
 いいえ、きっと離せない。
 それって・・・あなたにとって許せること?」

「・・・さあ・・どうでしょう」 
ジュンスは一瞬考えてそれだけを言うと、彼女から視線を逸した。
そして彼は正面を見据えたまま、コーヒーカップを口に近づけた。

シニョンはジュンスの横顔を見つめ、彼の言葉を自分の中で
反芻してみた。
《そうね。許せるわけがないわ》

「・・・やってみます」 ジュンスが俯き加減に言った。

「えっ?」

「男として・・・
 あなたの中に住むひとりの男に勝てないのは悔しい気分です。
 しかし、僕が好きになった人が、その人を忘れられないままの・・・
 あなただとしたら・・・許すしかないような気もします。
 だから・・・努力してみます。許せるように・・・」
ジュンスはそう言って輝くように微笑んだ。

シニョンはその瞬間、彼の屈託のない笑顔に、愛しいジェホを
重ねてしまった。

それはジュンスへの裏切りなのだろうか、それとも・・・
ジェホへの裏切りなのだろうか。

シニョンはジュンスの視線から逃れ、カップに口を近づけると、
自分の思いを彼に悟られないようコーヒーを口に流し入れた。

その時だった。

「シニョンssi・・入ってもいい?」
ドアをノックする音の後にパク・ジェホの声が重なった時、
シニョンは時計を見た。


『僕にもそのコーヒーご馳走して』

『明日授業に入る前だったらいいわ』


《約束していたんだった》 
シニョンは思わず動揺して、立ち上がった。
その動揺は、パク・ジェホが、自分がカン・ジェホのことを
思っていた時に現れたからかもしれなかった。

「どうしたんです?」 
ジュンスがシニョンの異変に気がついて言った。

「あ・・いえ・・何も・・」

「入ってもいい?」 ジェホの声が再度ドアの外から聞こえた。
昨日ノックと同時にドアを開けたことを窘められたジェホは
シニョンの許可を素直に待っていたのだった。

ジュンスは徐ろに席を立ち、シニョンの代わりにドアを開けた。
「どうぞ、パク・ジェホ君」

ジェホはドアを開けた瞬間、またもシニョンの部屋で出くわした
キム・ジュンスの顔を見て顔を強ばらせた。
そしてそのままシニョンに振り返り、彼女を強く睨みつけると、
無言で踵を返し、その場を立ち去ってしまった。

「ジェホ・・ジェホヤ・・」 
シニョンはジェホの態度に驚いて、彼を呼び止めたが、
彼は立ち止まらなかった。

「大分、嫌われたみたいですね。パク・ジェホ君に」 
ジュンスが言った。

「ごめんなさい。あの子・・
 昨日からあなたに対して失礼な態度ばかりで・・・」

「いいえ・・・甥ですから・・・あなたの・・・」 
ジュンスはそう言いながら、怒りを背中に描いたパク・ジェホの
後ろ姿を見送った。





その日の授業が終わりに近づいたとき、シニョンは教室の
学生たちを見渡した。
そこに、後方の窓際に陣とったジェホが授業中終始、
そっぽを向いている姿があった。

終業のチャイムが鳴ると、生徒たちは各々席を立ち、
教室を後にしていく。
そんな中、ジェホはなかなか自分の席を立とうとしなかった。

シニョンは教壇で、生徒たちの提出物の整理をしながら、
彼のその様子を時折視界に入れていた。

キム・ミンスがジェホの肩に触れ、何やら声を掛けていたが、
ジェホは彼女を邪険に追い払っていた。

結局教室の生徒の席にはジェホの姿だけとなった。

ジェホは席に座ったまま、無言でシニョンを睨みつけていた。

「いつまでそうしてるの?」 
シニョンは机に視線を落としたまま、言った。
ジェホは答えなかった。

「コーヒーを飲めなかった位で怒ってるわけじゃないわよね」 
シニョンは再度彼に声を掛けた。

「・・・僕は子供じゃない」 ジェホがやっと口を開いた。

「約束・・忘れていたわけじゃないわ」 
シニョンは今度はジェホを見て言った。

「あいつ・・・シニョンssiの何?」

「あいつって、キム教授のこと?そんな言い方、失礼じゃない?」

シニョンは教材を胸に抱え立ち上がった。
そして、ジェホに近づきながら言った。
彼女がそばまで来ると、彼は音を立てて乱暴に立ち上がった。
シニョンは一瞬その音に驚いて、一歩後ずさった。

「答えてよ」 一歩下がったシニョンに、一歩近づいたジェホが
詰問するように言った。

「な・・何を答えるのよ」 
シニョンは、今度は後ずさらないようその場に踏ん張って、
ジェホを見上げ言った。

「あいつを好きなのか?」 
ジェホは鬼気迫る表情でシニョンを睨みつけた。

「ジェホヤ・・・」 
シニョンは彼に何を言っていいのかが、わからなかった。

挙げ句の果て、ジェホはシニョンの肩を強く掴むと、彼女の
体を激しく揺さぶり、怒鳴った。
「答えろ!あいつはあなたの何!」

「ジェホ!」 
シニョンは興奮するジェホを諌めるように名前を呼んだ。

「許さない」 
ジェホの声は怒鳴り声から次第にトーンダウンしていった。

「えっ?」

「許さない」 ジェホは更に小さな声で繰り返した。

「許さないって・・何を?」

「僕を忘れるのは・・許さない」 
ジェホは消え入るような声で言うと、シニョンの肩に額を付けた。

「言ってることが・・・わからないわ」 シニョンはそう言った瞬間、
持っていた教材を床に落としてしまった。
ジェホが突然、彼女を引き寄せて、強く抱きしめたからだった。

「ジェ・・ホ・・・」
シニョンは抵抗しようと体を捩ったが、彼は彼女を抱きしめた力を
緩めなかった。
「離しなさい・・ジェホ」

「嫌だ」

その時シニョンはジェホの肩越しに、教室の入口に立つ
キム・ミンスを見つけた。
シニョンは力の限りでジェホの胸を押し、彼を自分から離した。

「ジェホ・・・」 
ミンスの声に気づいたジェホは、自分の気持ちのやり場を
無くしたように教室を早足に出て行った。
ミンスは呆然と立ち尽くすシニョンを、強い眼光で睨みつけた後
ジェホの後を急いで追った。

《何だったの・・・》 シニョンは不思議な感覚に襲われていた。
ジェホの突然の行動に、シニョンは言葉を失っていた。




この日から三日間、ジェホはシニョンの授業に姿を見せなかった。

一方キム・ジュンスは、シニョンと自分の関係をより近づけようと、
学校以外でもふたりの時間を作るよう、シニョンに求めた。

シニョンは彼のその想いに応え、ふたりの歩み寄りはさほど
無理なく、自然な形で実りつつあった。

シニョンがジュンスの想いを知って、まだ数日しか経っていない。
だとしても、
シニョンはこの事実を不思議なことだとは思わなかった。



週末の日曜日も、シニョンはジュンスの誘いに応じて、
東海までドライブした。

東海の海辺に近づくと、ふたりは車を降りて、緩い海風を浴びた。
防波堤から望む水平線を見つめ、しばし無言で立っていた。

「元気がないですね」 
ジュンスがシニョンと同じように水平線に視線を向けたまま言った。

「そんなことないわ」 

「僕に嘘はつけませんよ」 ジュンスはシニョンの目を覗きみた。

「・・・・・・」 シニョンは黙って彼の目を見つめた。

ジュンスは風になびくシニョンの髪を、彼女の耳に掛けてあげながら
彼女の目を熱く見つめた。

ジュンスの唇が自分に近づくのを、シニョンは黙って見つめていた。
彼女は、彼の睫毛がゆっくりと閉じられるのを確認した後、
自分も目を閉じた。

彼の大きな腕が腰に回され、抱きしめられた感触に彼女は
間違いなくときめいていた。
耳に掛かる彼の息に、頬を撫でる彼の指に、彼が自分に
注ぐ愛情すべてに心を奪われていた。

いつの間にかシニョンは彼の首に自分の腕を回していた。


たった今まで沈んでいた自分の気持ちを、キム・ジュンスという男は
まるで魔法を掛けるように、簡単に払拭してしまう。
その事実を実感し、シニョンは涙した。

静かな口づけ、優しい口づけ、そして長い口づけだった。
シニョンはこの瞬間に、
この口づけが永遠に終わらなければいいとさえ思った。

しかし、それは必ず終りを告げる。
ジュンスの長い睫毛が、自分からゆっくりと離れていく様を、
シニョンは薄く開けたまぶたの先で見送っていた。
それでも彼女は、彼の首に回した腕を解かなかった。
ジュンスもまた、彼女の腰に回した腕を解かず、互いに少しだけ
顔を離して互いを見つめていた。

「少しは・・・元気になりましたか?」 ジュンスが言った。

「・・・ええ。そうみたい」 シニョンはあっさりと認めた。

「なら、良かった」
ジュンスはそう言いながら、シニョンの後頭部を優しく撫でた。




星が空にひとつふたつと浮かび上がる頃、シニョンとジュンスは
ソウルへと戻った。
ジュンスはシニョンを自宅まで送り届けると、『また明日』と言って
彼女の頬に軽く口づけた。

シニョンはたったそれだけのことで赤面する自分が、可笑しくて
ならなかった。

《まるで子供ね》

ジュンスと過ごしている時間、あれ程気になっていた
パク・ジェホとのことも忘れかけていた。

こんな感情は、ジェホと愛し合ったあの頃に味わっただけ
だったことを、改めて思い知った。

それは・・・
ジュンスに申し訳が無いことなのか、

ジェホに申し訳が無いことなのか、

未だに混乱する自分の胸の内が、憎らしかった。



ジュンスの車が名残惜しそうに消え去った後に、角の向こうから
ジェホが現れ、シニョンは肝を潰さんばかりに驚いた。
「きゃっ・・あー驚いた・・・ジェホ・・驚かさないで」

ジェホはシニョンの驚きを無視して、彼女の手首を強く掴んだ。
「痛い!ジェホ・・何するの?」

しかしジェホはシニョンの抵抗を無視して、その腕を掴んだまま、
彼女を連れ去った。

そして車道に出ると、瞬時に手を上げてタクシーを拾った。

ジェホはシニョンを止まったタクシーに無理やり押し込むと、
運転手に行き先を告げた。
その時、シニョンは驚いたようにジェホの顔を見た。

車の中で、シニョンはずっとジェホの強ばった横顔を見ていた。

しばらくしてタクシーが止まったのは、薄暗くわかりにくかったが、
そこは紛れもなくシニョンにとって見覚えのある場所だった。

車を降りた彼女は、驚いたように辺りを見渡していた。
一方、後から降りて来たジェホは、無言のまま彼女を見つめて
いるだけだった。

「どうして・・・ここへ?」 シニョンは彼に聞いた。

ジェホはゆっくりと答えた。

「久しぶりに来てみたくなったんです・・・僕の・・・

  いいや、僕とあなたの・・・隠れ家に・・・」

シニョンは、そう言ったジェホの顔を驚愕の眼差しで見つめた。











   


2013/06/06 00:21
テーマ:創作 愛の群像 カテゴリ:韓国TV(愛の群像)

創作愛の群像Ⅱ 第十一話 エメラルドマウンテン

Photo






  









第十一話




「今日は早いのね」
珍しく起こされる前に身支度を整えたシニョンを見て、
母は訝しげな顔をした。

「学校で準備するものがあるのよ」
シニョンはいつもと違う自分の心を、簡単に見透かされそうで、
できるだけ母の視線から逃れていた。

今朝は、シニョンにとってまるで違う朝だった。
眠れずに夜を明かし、頭の中はキム・ジュンスの存在で
いっぱいだった。

単に彼に『告白』という衝撃を与えられたことが原因ではない。

キム・ジュンスは・・・
あの恐ろしい現実の真ん中に自分と共にいた人間だった。
あの日、自分を命懸けで守ってくれた人だった。
そして、ずっと長い間、きっと自分の知らないところで、
影から見守ってくれただろう人だった。

そしてその彼が、自分を長い間、想い続けてくれたという。

こんな自分に《愛してる》とのたまう、何とも奇特な人だ。

幾度も繰り返す母との口論の度に、突きつけられる自分の現実が
否定しようもないことは自分が一番よく知っている。

《そうよ、私はもう若くない》

腹立たしいのは、彼自身がそのことを意に介してないということだ。

「可笑しいのよ、あなたが」

「何が可笑しいですって?」 突然母が私の思考に割って入った。

「えっ?」 
シニョンは自分が独り言を言いながら、黙々とスプーンを
口に運んでいる途中で、母の声に気がついた。

「私の何が可笑しいの?」 母はそう言ってシニョンを睨みつけた。

「オンマのことじゃないわ」

「じゃあ、誰のこと?」

「誰でもない」

「シニョン・・何だか昨日から変じゃない?」

「そ・・そんなことない・・いつもと・・いつも通り・・行ってきます
 お父さん、おはようございます。行ってきます」
シニョンは急いで食器を片付けると、慌ただしく玄関に向かったが、
途中ですれ違った父にも、挨拶だけを残して玄関を出た。

「こんなに早く学校に行って何するんだ?」 父が母に言った。

「知りませんよ」 母はぶっきらぼうに答えた。



シニョンはいつもより二時間も前に学校に着いた。校庭では
早朝学習のために登校している生徒を数名見掛けただけで、
鳥の囀り以外は余計な音がない気持ちのいい静けさだった。

シニョンは誰よりも早くここに来ていたかった。

登校中にキム・ジュンスに会ってしまったら、どんな顔をして
いいのかわからない。
そうなったらきっと、今日の授業をまともに進められないような
気になっていた。

こうすれば、
少なくとも今日初めて顔を合わせるまでの時間を稼げる、
そんな馬鹿なことを真面目に考えた。

しかしそれは部屋に到着して直後、簡単に覆された。

シニョンがコーヒーを飲むためにポットの電源を入れた時、
彼女の理由のわからない動揺の根源が、突然ドアを開けた。

「随分早いですね」

シニョンは驚いて、思わずコーヒーカップを落としてしまった。
ジュンスは近づいて、彼女の足元に落ちたカップを拾い上げ、
それをテーブルに置いた。

「驚かさないで。急にドアを開けるなんて、失礼よ」
シニョンは大急ぎで険しい顔を作り、一気に捲し立てた。

「ノック・・しましたよ」 ジュンスはさらりと言った。

「き・聞こえなかったわ」 《駄目よ、動揺を見せては》

「考え事してたとか?例えば・・僕のこととか」
彼はそう言いながら、シニョンの顔に自分の顔を近づけた。

「自意識過剰だわ」
そう言って彼を非難しながらも、シニョンの動揺は頂点に達していた。
彼女は後ずさりして、彼との距離を保ち、それを隠そうとした。

「違いましたか?それは残念」

「何か御用?」 

「コーヒーでも如何ですか?僕の部屋で」

「調べ物があるんです」

「ん・・・そう・・・じゃあ、コーヒー淹れて持ってきてあげましょう」

「いえ、私はこれで」 
シニョンは今入れようとしていたインスタントコーヒーの瓶を指した。

「駄目です。こんなものは」
ジュンスはそう言って、シニョンのインスタントの瓶を取り上げると、
彼女が制止する間もなく、それを持ち去ってしまった。

シニョンは呆気にとられ、ジュンスが出て行ったドアを見ていた。
しかし直後にハッと我に返ると、急いで《調べもの》の資料と
覚しきものを机に広げ、椅子に座ると、体裁を整えた。

10分程してジュンスは戻って来た。
今度はちゃんと聞こえたノックに、シニョンは声を震わせないよう
注意しながら、「どうぞ」と言った。

彼はトレイに洒落たコーヒーカップをふたつ乗せ入って来た。

「ここで飲むおつもり?」 シニョンはふたつのカップを見て言った。

「いけませんか?」

「調べものがあると言ったでしょ?」

「手伝います」

「結構です」

「ん・・・じゃあ、30分コーヒータイムにしましょう」

「30分も?」

「じゃあ、20分?」 ジュンスはシニョンの目を覗き込むようにして、
彼女の答えを待った。

「・・・・10分なら」 
シニョンは今この時、自分の顔が、《仕方なく受け入れた》という
表情を彼に見せていることを願った。

「ん・・やってみましょう」 ジュンスはそう言って、テーブルに
ふたつのカップを丁寧に並べて置いた。

シニョンはジュンスの細やかな強引さが可笑しくてならなかったが、
唇を結んでそれを堪えると、彼に促されるまま、カップの前の
ソファーに座った。

「並んで座っても?」
ジュンスはシニョンの座ったソファーを目で指して言った。
彼の仕草がとても紳士的で、スマートだとシニョンは思った。
彼女は無言で座った位置を移動し、自分の隣にスペースを空けた。

「Thenk you」 ジュンスが柔らかい声で言った。

「You wellcome」 
シニョンは自分でも驚くほど自然に彼を受け入れた。

ふたりは並んで座ると、静かにコーヒーカップを持ち上げた。

シニョンはカップから仄かに漂うその香りに、一瞬目を見開いた。
彼女はジュンスに無言で視線を向けたが、彼は正面を向いたまま
カップの淵で小さく深呼吸し、優雅に香りを楽しんでいた。

シニョンは何も言わなかった。

ただ彼と同じように、黙して静かにそれを味わった。




「・・・・10分・・・経ちましたね」 ジュンスがポツリと言った。

シニョンは時間が余りに速く経ったような気がして、確認するように
腕時計を見た。

「調べものがあるんでしたね」 ジュンスは少し残念そうに言った。

「・・・・・」

「始めますか?」

「・・・どうして?」 シニョンは正面を向いたまま彼に聞いた。

「えっ?」

「どうしてなの?」

「何が・・ですか?」 ジュンスはシニョンに視線を向け聞いた。

「どうして、私なの?」 今度はシニョンもジュンスを見た。
 
ジュンスは正面に向き直って、少しの沈黙の後にゆっくりと答えた。
「・・・・・イ・シニョンだから」

「わからないわ」

「努力してください。わかるように」

「いくつだと思ってるの?」

「知らないとでも?」

「あなたと十も違うわ」

「八つです」

「大して変わらないわ」

「そんなことが気になりますか?」

「ならないわけないでしょ?」

「どうして?」

「どうしてって・・」

「十年経てば僕は50歳です。あなたはその時58歳。
 二十年後は僕は60歳で・・あなたは68歳。
 三十年後・・70歳と78歳? どちらもおじいさんとおばあさんだ。
 遺伝学上僕の方が早く白髪頭になるだろうから、
 きっと見た目年齢は逆転するでしょうね」

「ちっとも面白くない話だわ」

「はは・・そうかな。いい話だと思いましたが」

「・・・・・・」

「あなたは・・・とても若くて、とても綺麗です」

「もっと面白くない」 シニョンは憮然として言った。

「卑屈だな」 ジュンスがさらりと返した。

「・・・・・!」 シニョンはジュンスの横顔を睨みつけたが、
その顔がシニョンの怒りを面白がっているように見えて、
余計に腹立たしかった。

「どちらにしても残された人生は後三十年、長くて五十年?・・・
 こんなことを言い合ってる時間がもったいないと思いませんか?」

    『怒るのはもう止めてください
     あなたとの時間がもったいないです
     今日一日、損をした気分でした』

  聞こえたのはカン・ジェホの声だった。


「・・・・・・ど・・どれだけ長生きするつもり?」
シニョンは心に聞こえたジェホの声を頭から振り払うように、
ジュンスとの会話に戻した。

「あなたとなら・・・長生きできそうな気がする」

「直ぐには答えられないわ」

「いいですよ、考えてくれて・・・でも余り待ちたくないな」

「待ってくれなんて言ってないわ」

「十年待った僕に言う言葉ですか?」

「・・・それはあなたが」

「そう、僕が勝手に待ったんです。しかし・・・
 僕とあなたには、ひとつしか答えはありません」
ジュンスは突然、厳しい表情になって、強い口調で言った。

「・・・・・・」

「無論。一緒に生きる、という答えです」

「勝手なのね・・・私の気持ちは?」

「昨日も言いましたよね。僕を知って欲しいと。これから・・・。
 そしたら自ずと、あなたの気持ちはわかるはずです」

「自信家なの?あなたって」

「ん・・・否定はしません」 ジュンスはニッコリと笑った。

その後しばらく、ふたりは黙って互いの瞳を見つめていた。
シニョンはキム・ジュンスという男の真実を見るために。
ジュンスはイ・シニョンに自分の真実を届けるために。

その時だった。ドアがノックと同時に開けられた。

「シニョンssi、おはよう。もう登校して・・・た・・の?」
ジェホの笑顔が、ジュンスを見つけて、真顔に変化するのを見て、
シニョンは直ぐにソファーから立ち上がった。

「ジェホヤ・・おはよう。あなたも珍しく早いのね」

「キム先生、おはようございます」 
ジェホはシニョンの言葉を無視して、ジュンスを睨むように見た。

「ああ、おはよう、あ・・パク・・ジェホ君?」
ジェホに挨拶を受けたジュンスは、仕方なくというように立ち上がった。

「へー、すごいな、僕の名前をご存知なんですか?
 あなたの講義は受けたことないけど」
ジェホは少しばかり刺々しくそう言った。

「君の大叔母さんの家に居候しているんでね」
ジュンスはそんな彼の反応を意に介さない様子で答えた。

「ああ・・」

同じ位の長身の男ふたりが、目の前で、何故か睨み合っていた。

「ど、どうしたの?ふたりとも・・」

「どうもしませんよ、シニョンssi・・
 それじゃあ、調べもの?頑張ってください」
ジュンスはそう言いながら机の上の資料に意味有りげな視線を
向けると、そのまま部屋を出て行った。

シニョンは自分がわざとらしく広げていた資料を、ジュンスに
見透かされたのだと、それを片付けながら赤面していた。


「何だか虫が好かない男だな」 
ジェホがソファーにドスンと腰掛けながら言った。

「教授に向かって失礼よ」 
シニョンはジェホを嗜めるように言った。

「ところで、どうしてあいつと?」 
ジェホは唇を尖らして見せた。

「どうしてって?コーヒータイムしてたの」

「ふーん」 
ジェホはまだ少し残っていたコーヒーの匂いを嗅いだ。
「苦そうだな」

「そうでもないわよ。
 酸味も苦味もほどよくて、香ばしい香りが心地いいわ」

ジェホはシニョンの言葉にカップに鼻を付け、匂いを嗅いでみたが、
よくわからなくて首を傾げた。

「エメラルドマウンテン・・・」 シニョンが言った。

「エメラルド・・マウンテン?このコーヒーの名前?」

「うん・・・NYである人に薦められて・・・飲み始めたコーヒー・・・
 最初はね、名前が素敵だなって・・・
 でも好きになったのはきっと、昔ね、ジェホが入れてくれていた
 コーヒーの香りに似てたから」

「ふ~ん・・・エメラルドマウンテン・・か・・
 じゃあ、今度僕にも淹れてよ。
 伯父さんが好きならきっと僕も好きだよ」

「ええ、今度買ってくるわね」

「あるんじゃないの?」 ジェホは目の前のコーヒーを見て言った。

「忘れてたの・・・」

「忘れてたって?・・何を?」

シニョンは今、心が自然と落ち着きを取り戻したように思った。

韓国に戻ってからのこの二週間は正直、心が疲れていた。

父や母との確執とも取れるわだかまり、
カン・ジェホを知る人たちとの喜ぶべき再会の連続は、
嬉しくもあり、切なくもあった。

「韓国に戻ってから・・・すっかり忘れてたの・・・

 私・・・このコーヒーを飲むと・・・

 本当に心が落ち着くの・・・」








2013/06/04 22:57
テーマ:創作 愛の群像 カテゴリ:韓国TV(愛の群像)

創作愛の群像Ⅱ 第十話 ジュンスが数えた時間

Photo





第十話
   



「ずっと・・・こうしたかった」 
ジュンスはシニョンの唇から、自分の唇を離したものの、
近づけた顔はそのままに、そう囁いた。

「・・・・・・」
シニョンはそんな彼の瞳を、目を丸く見開いたまま、
無言で見つめていた。
たった今しがた、《愛してる》と告白をくれた男の顔が、
鼻先が付かんばかりの距離を挟んで、そこにあった。

シニョンはこんな突飛もない状況の中、意外と冷静に
彼の瞳の色を見つめている自分に気がついた。

《なんて綺麗な目なの?・・・それに比べて・・・》

シニョンはハッとしたように突然、ジュンスの胸を強く押して
彼を突き放した。
そして急いでドアを開けると、彼の熱い視線から逃げるように
車を降りた。 

一方、ジュンスはそのまま車に留まっていた。
振り向かず門扉へと突き進むシニョンの後ろ姿を、眼差しだけで
追いながら、彼女がドアの向こうに消えるまでを見送った。
そして・・・
一度目を閉じ、自分を納得させるように溜息をひとつだけ付いて、
車のギアに手を掛けると、アクセルを静かに踏んだ。




シニョンは玄関に入ると、その扉に背を付けたまま動けずにいた。
少しして、玄関脇に掛けられた姿見に映る自分に気がついた。

《・・・なんて顔してるの?》

さっき、ジュンスを突き放してしまったのは・・・
決して彼の突然の口づけに怒ったわけじゃなかった。

彼の思いもかけなかった告白に腹を立てたわけでもない。

それは彼の瞳が余りに美しかったからだ。

あの日自分を助けるために負ったあの頬の傷でさえ、
眩いほどに美しかったからだ。

それに比べて・・・
彼に不釣合いな自分の姿が、急に恥ずかしくてならなかった。

シニョンは鏡に映る自分をしげしげと見つめた。
頬に掌を当て肌をさすってみたり、それを上に引き上げてみたり、
僅かに深くなってきたほうれい線を目立たなくもしてみた。

鏡の中でまるで百面相を描く自分が、更に滑稽だった。

シニョンは引き上げてみた頬から手を離して、重力に任せ
それを元に戻すと、声を上げて笑った。

《何をしてるの?シニョン》 

「何をしてるの?シニョン」
自分の心の声に、こちらを覗いた母の声が重なって聞こえた時、
鏡の中の自分の頬がみるみる赤くなるのがわかった。

「何でもないわ」

そう言ってシニョンは、母の横をすり抜けて、自分の部屋へと
駆け上がった。

「可笑しな子ね」
背後からの母の声が、からかっているように聞こえて、無性に
憎らしかった。



部屋に入ると、シニョンは着替えもせず、真っ先にベッドに
どんと横になった。

天井を睨みつけても、そこにはキム・ジュンスがいた。
今この時、彼女の頭の中はまるでジュンスに乗っ取られて
しまったようだった。
気がつくと彼女は、彼に口づけられた唇を指でなぞっていた。

「冷静になれ・・シニョン・・・冷静になれ・・・」
シニョンは自分に言い聞かせるように、何度も何度も呟いた。

「イ・シニョン!
 子供じゃあるまいし・・あんなこと位で動揺してどうするの!」
終いには、自分の吐き出す独り言に、焦りを見つけて苦笑した。

そして突然ハッとして、携帯電話を取り、アドレス帳を開いた。
しかし、その人の番号はなかった。
《それはそうよ、入れた覚えはないわ》

その時だった。
静かな部屋に電話の音が鳴り響いて、シニョンは思わず
持っていた電話を落とすところだった。

「もしもし」 
表示された番号は見知らぬものだったが、シニョンは迷うことなく、
受信ボタンを押した。

「シニョンssi?」

《やはり・・・》 キム・ジュンスだった。

「あ・・は・・はい、ど、どなた?」 
シニョンは彼からの電話だと想像していた自分をごまかすように
冷静を装ったが、その声は間違いなく動揺を伝えていた。

「・・・驚いたな」 ジュンスは名前を名乗らず、ただそう言った。

「えっ?」

「いえ・・電話に出るのがすごく早かったから」

「あ・・今・・電話を持ってたから」

「ああ、そうだったんだ」

「この電話番号・・どうして・・・?」

「あー・・学長が教職員の名簿を・・」

「ああ、気がつかなかったわ」《あれがあったわね》

「もしかして・・」

「えっ?」

「もしかして今、僕に電話しようとしてましたか?
 それで・・番号がわからなかった、とか・・」

「んっ・・《勘がいいやつ》・・あ・・あの・・・お願いがあります」 
シニョンは咳払いすると、《大事な話がある》とばかりに
ベッドの上に正座した。

「はい、何でしょう」

「あ・・あの・・・あの事件のことだけど」

《そうよ、このことを言っておきたくて電話したかったの》

「ええ」

「私とあなたがその・・出会った日のこと、伯母や先輩、
 あ、いえ学長に話しましたか?」

「いいえ、誰にも話していません」

「ほんとに?・・あぁ、良かった。
 あの・・そのこと・・誰にも言わないで欲しいんです」

「言わないで欲しいって?」

「私があの事件に巻き込まれたこと、誰も知らないから」

「知らないって・・・」

「あの日、心配して連絡くれた人たちにも嘘をついたの。
 私は発見されてからはすぐに動くことができたし・・・。
 《あなたのお陰ね》
 何とかごまかせたわ・・電波が届かない所に旅行に出てたって・・・。
 といっても、丸一日連絡が取れなくて、みんなは・・・
 かなり気をもんだらしいけど・・・」

「どうしてそんなこと・・・」

「ひどいショックを受けると思って。
 離れていると特に余計な心配をしてしまうでしょ?ただでさえ。
 だから、知らなくて済むことはそのままにしておきたかったの。
 その時も・・・今も・・・これからもよ・・だから・・」

「あ・・それじゃあ、今まで飛行機に乗れなかった理由も?
 今まで言わなかったの?これからも話すつもりはないと?」

「・・・・・・乗れなかった・・って、どうしてそれを?」

「あ・・・ごめんなさい。
 あなたにはまだ話してないことが沢山あるね・・・」

「いつから?」 シニョンは少し呆れたように言った。

「えっ?」

「さっき話していたわ。『いつあなたを見つけたか』って」

「ああ」

「いつから・・私を?」

「ん・・・あなたを思い出した直後から、人を介して調べてた」

「・・・・・・」

「驚いた?」

「ええ、私の知らないところで、少しずつ年を取っていく私を、  
 ずっと見てたってわけね。何だか嫌な感じ」

シニョンはジュンスと話していると、もうずっと以前からの
旧友であるかのように、次第に打ち解けていくような気分だった。

「悪いストーカーだとは思わないで」

「そんなこと言ってないけど」

「心配だったんだ。あなたが健康を損ねてないか。
 あの事件を引きずってないか。ちゃんと生きてるか・・・
 幸せに暮らしてるか・・・」

「あなたの方が大変だったのに?」

「あなたも・・・重いPTSDに苦しんでいた」

「どうしてそれを・・・・・・あ・・・まさか・・」

「・・・・・・」

「あの頃、私にはまだNYに知り合いもなくて・・そうよ
 相談できる相手も誰ひとりとしていなかった。
 それがある時、偶然に出会った韓国籍の女性いたの。
 彼女は精神科医をしている人だった。
 彼女と何度か話していて、自分がその病気だとわかったの。
 10年前のことよ。今でも彼女とは親交を結んでる。
 ジア・・・キム・ジア・・・もしかして・・・あなたが?」

「・・・僕のいとこだ。彼女は」

「どうしてその時に言ってくれなかったの?」

「ベッドの中だけで生きた二年間、あなたのことだけが
 生きる支えだった。
 ジアが話すあなたのことが僕に勇気をくれていた」

「・・・・・・」

「そしてやっとベットから解放されると、今度は違う目的が
 生まれた」

「・・・・・・」

「あなたに会いたかった」

「・・・・・・」

「きついリハビリに耐えられたのは、この足で歩くことができたら、
 あなたに会える、そう思えたからだ。
 一歩進めば、あなたに一歩近づく、二歩進めばまた二歩近づく。
 そうやって、毎日毎日、あなたへの距離を数えた」

「・・・・・・」

「そしてやっと、それが実現したのが五年前」

「五年前?」

「あなたとジアが会うことになっていたカフェで、
 あなたと背中合わせに僕は座った。
 目を閉じて、あなたの声を聞いたんだ。
 少し舌っ足らずでハスキーな・・甘い声だった。
 意識が無かった夢の中で聞こえていた・・・
 あなたの声だった」

「どうして・・・私にお礼を言わせてくれなかったの?」

「突然こんな傷を持った見知らぬ男が現れたら、
 困ったでしょ?
 だから、そっと影から見てた。はは・・笑えるでしょ?」

ジュンスが初めて自分の顔の傷のことに触れたので、
シニョンは少し驚いた。

「ごめんなさい」

「何が?」

「あなたの・・・傷・・・私のせいだわ」

「怒るよ」

「事実だもの」

「僕は好きなんだ、この傷」

「・・・・・」

「あなたでなくて良かったって、この傷を見るたびに思えたから」

「ジュンスssi・・・」

「それに僕にはまだやらなければならないことがあった。
 あなたに出会うための準備」

「出会うための準備?」

「もうひとつ告白すると、僕はもともと研究者で、教職になんて  
 興味は無かった。だから正直、子供たちに教えることには
 今でもあまり自信がない。
 でも、あなたに近づくためにこの道を選んだ。
 教職一筋のあなたにしてみれば、不道徳極まりないね」

「どうしてそこまで?」

「何度も同じことを答えなきゃいけない?」

「何だか悔しいわ」

「悔しいって?」

「私だけが何も知らなかったなんて」

「これから・・知ってくれればいい。
 いや・・知って欲しい、僕のことを」

「・・・・・・」

「どうしたの?」

「それは・・・無理よ」

「何故?」

「無理なものは無理」

シニョンはまだ、自分が胸の内で思ったことを吐き出すことは
できなかった。
どう考えても自分が彼にふさわしいとは思えなかった。

《何故自分なのか》 理解できない。

苦境の中で、自分に行き着いた彼の心を慮ったとしても、
道理に適うわけがない。

そう思った。

ふたりはしばらくの間電話を耳に宛てがったまま、無言で
時を数えた。

「ごめんなさい」
シニョンはそうひと言だけ告げると、ゆっくりと電話を切った。

ジュンスはシニョンに切られてしまった電話の向こうの無機質な
機械音に耳を傾けていた。
そしてたった今しがたまで、その向こうにいた彼女に向かって、
呟いた。

「いいや、駄目だ、シニョンssi・・・僕は・・・

 あなたでなければ・・駄目なんだ・・」





 
 






[1]

TODAY 182
TOTAL 597127
カレンダー

2013年6月

1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
スポンサードサーチ
ブロコリblog