2009/08/09 10:08
テーマ:奈良 カテゴリ:趣味・特技(その他)

水しぶき

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8月になってようやく夏らしい空がみられるようになりました。蝉のジイジイした音や入道雲のモクモクしている姿はなんだか嬉しいです。肌にジリジリくる陽射しを受けつつ、「夏だ~!」と叫び、(;´д`)ゞ アチィー!!とエアコンに飛び込む私です。そういえば下駄を履いてのチャリンコ通勤をしているため、足の甲はすっかり鼻緒型に日焼けしてしまいました。

暑い日の夕方はやっぱり打ち水しないとね。夕立が降った日は本当に涼しいもの。液体が気化したときにエネルギーが奪われる・・・だから温度が下がるんですよね。まあ、昔の人はそんなこと考えもせず、過ごしやすくなるからと撒いたのでしょうが。
私が小さいとき、祖母はバケツに汲んだ水をチョイチョイと撒いていた記憶がります。現在の私は・・・。ホースから水をジャーッと出します。アスファルトやコンクリートが多くなった現代は地面に水がしみこむことはないので、溜まってしまいますが、それでもジャージャーと撒きます。

余談ですが、病院で使用している酸素は元は液体で、それを気化させて使います(酸素ボンベは気体を圧縮しています)。なので、壁から出てくる酸素は冷たいんですよ。たくさん酸素を使用している人の水がブクブクしているところは、冷えて水滴がついていることがあります。

実はこの撒いている水、水道水ではなく、地下水をポンプで汲み上げたものです。だからとても冷たい!我が家は10年前に建て替えましたが、それまでは水道が通っていませんでした。というと、すごいところに住んでいるように思われますが、普通に街です。ただ、昔から地下水がよくでましたので、水道が必要なかったんです。建て替えたとき、2つあった井戸の1つを埋めてしまいました。私は埋めてしまった方の水が好きだったんですけど・・・。同じ地下水でも深さが違ったのか、味が違いました。
今時の土壌は何が溶けているかわからないので、ちゃんと水道の方がいいのではないかということで、今は庭だけ地下水を使っています。


「白村江の戦い」は661年の8月と記されていました。その日も太陽が照りつけ、蝉の鳴くあつーい日だったのでしょうか。

7月のETV特集「日本と朝鮮半島2000年」は律令国家としての日本が整った背景についてでした。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した「乙巳の変」から、持統天皇が藤原京で「大宝律令」を公布した7世紀のころです。「日本」という国ができてきた背景に、唐や朝鮮半島の国の変化が大きく関わっていたということがよくわかりました。番組の最後のあたりで言っていましたが、現在の東アジアの国々の原形ができたのがこのころであったのですね。それまでは“国”というレベルの交流ではなく、豪族による個人的なものでした。
白村江の戦いは唐が大国であったから負けたのではなく、集団としての統率が整っていたかどうかにあったようです。戦い後、中大兄皇子をはじめとした倭のリーダーたちは国防力を強化するために、急ピッチで日本という国を造り上げたのでしょうね。




  熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待てば
        潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
 
【万葉集巻3・8】


これは額田王の有名な歌です。白村江の戦いのために出兵する人々の精気を高めるために斉明天皇の代わりとして詠んだそうです。道後温泉あたりから船出をして九州に向う時のものだといわれています。とても力強く、情景が鮮明にイメージできる美しい歌だなと思います。
今だったら近畿から九州へは飛行機であっという間ですが、当時大軍を率いての行幸はそりゃー時間がかかったでしょうね。兵士だけでなく、大王一家とおつきの女性から子供までが動いているんですから。月単位か、年単位のことかな。旅の途中で大王の孫である大伯皇女は大津皇子を出産してます。出兵というよりも、引越しですね。朝倉宮を建てたっていうのだから、遷都に近かったのかもしれません。

この時、594年生まれの斉明はなんと67歳ってことになるんですよね。女性の大王としては推古についで二人目で、しかも重祚になります。「乙巳の変」の時の大王であった皇極天皇が前の彼女です。あの後、彼女の弟である軽皇子が孝徳天皇になったのに、中大兄皇子たちに難波に置き去りにされて亡くなり、また彼女が天皇になりました。中大兄皇子が即位すればよかったのにね。たぶん、実権は母である斉明ではなく、皇子にあったであろうと推測できます。
聖徳太子も即位せずに厩戸皇子でした。いろんな権力者に狙われず、しきたりに縛られずに政を行なうには、即位しない方がやりやすかったのでしょうか。母を盾にして自由に行動していたのかもしれません。


  香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 
  神代より かくにあるらし 
  古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき

                         【万葉集巻1・13】

香具山は畝傍山が愛しくて耳成山と争ったそうだよ。
神代からあったそうだよ。
昔からそうだから今も美しい妻を争うことはあるよね。


この歌は中大兄皇子が大和三山を歌ったものです。これを中大兄皇子と大海人皇子と額田王の三角関係になぞらえて解釈する説は有名です。
この歌も白村江の戦い前、百済からの援軍要請を受けて九州に赴く途中(明石辺り?)の宴で歌われたそうです。そのため、三山を百済、新羅、唐または倭のことであると考えてもいいかもという説がありました。
『万葉集の風景』というサイトの雑記帳のページにそんな考えが詳しく書いてあるので読んでみてください。おもしろいです。

http://viewmanyou.web.fc2.com/index.html


それにしても、戦いに行くにしては切迫感がありません。古の人ってすごいスローライフなの?


白村江の戦いで大敗をした後、天智天皇は飛鳥に戻りましたが、すぐ都を近江の大津に遷します。当時は大王が変わるたびに宮が変わっていたからですが、天智天皇は唐からの攻めを考えて飛鳥を離れたということでしょうか。まだ中央集権国家としては発展途上でしたので、遷都といっても人々がそんなにくっついてはいかなかったのかな。飛鳥→難波→飛鳥→朝倉→飛鳥→大津って20年あまりで移動しすぎです。

)



「大化の改新」とは律令国家としての体制を整えていったその後の歴史を指していうのですね。そうすると、天智天皇、天武天皇、持統天皇と3代が行なってきたことでしょう。でも、この間に「壬申の乱」が起きています。天智が亡くなった時、息子の大友皇子が即位します(弘文天皇)。大友を倒そうと吉野で旗揚げしたのが大海人皇子です。

彼は天文、占星、陰陽に興味を持ち学んだようです。飛鳥浄御原宮で即位しましたが、後に大きな都を計画します。それが藤原宮です。場所を選定する際、四神の考えを参考にしたといわれています。東の香具山が青龍、西の畝傍が白虎、じゃ、耳成が玄武ということかな。南に朱雀門があったようです。また、朱雀大路を南に延長した土地にある古墳たち(キトラ、高松塚とか)には星宿図があり、天武・持統陵も同延長上になります。
天武天皇は藤原宮の着工前(686年)に亡くなってしまい、それを成し遂げたのは妻の持統天皇になるんですけど。

↓『キトラ古墳の星宿図』というページです。
http://astro.ysc.go.jp/izumo/kitora.html


この時代、朝鮮半島から多くの人たちが日本に渡ってきて、どんどん新しい文化が入ってきたのでしょう。電子通信も文字も紙もなかったのですから、人から人へ伝えることが唯一の伝承手段であったと思います。たぶん、朝鮮や中国の言葉と日本のいろんな方言がグチャグチャに入り混じった状態であったかもしれないって想像します。

藤原宮瓦拓本日本書紀や万葉集は後の人が書いたものですから、脚色も多いでしょうね。どこまでが本当なのかわからないけど、残されたものを関連付けて想像するのは楽しいことです。考えるのは自由ですものね。
人間は関連付けるのが好きな動物なんですって。(⌒▽⌒)アハハ


右は藤原宮址から発掘された瓦の拓本です。着工が690年で完成が704年だから、今から1300年以上も前に作られた瓦からとられたものということになります。
飛鳥資料館で購入しました。




久しぶりの記事になりました。
かなりマイナーなブログだし、あまり更新がないけれど、ここを覗いてくれる人があるのだとカウント数を見てびっくりしました。ありがとうございます。
ボチボチですが、マイペースでこれからも更新します。
ホントは記事にしたいことは次々と出てくるんですよ~。
ただ忙しく、写真も撮れず・・・( p_q)

今日の写真は水撒きの時のしぶきです。
太陽に照らされてキラキラしてきれいでした。

空港は窓から見えた青空と差し込む陽射しが夏っぽくて・・・。
その右は飛行機が止まる瞬間です。電子機器で動いている飛行機ですが、この瞬間パイロットは導いている方を目視して動かしているのですね。

男の子が手を上げているのは、上から霧が出ているからです。
少しでも涼しくしようという工夫があったわが街の駅前の空間です。
並べられたタイルもきれいでした。


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