2012/04/22 17:02
テーマ:奈良 カテゴリ:趣味・特技(その他)

法隆寺にて

Photo

梅の開花が半月以上遅かったのに比べ、桜の開花は平年並。
でも、開花後の気温が低くて、長い期間楽しめたように思います。
通勤途中、夜桜の下で宴会、そして奈良への旅・・・。
桜って気持ちをワクワクさせて行動をおこさせる花なんですよね。

奈良の桜というと、レーズン(さだまさし)の♪夢しだれ♪がすぐ頭によぎります。
歌詞にある法隆寺東院伽藍の枝垂れ桜が満開になった様を観てみたいといつも思っていました。


 
吉野の里の桜には まだ早過ぎると君が 
 
 僕の指をとり誘う先は 春に霞む斑鳩の 
 
 古の夢殿にひとめぐりめぐり会えば 

 ふり仰ぐ満開の桜 誰が名付けたのか夢しだれ 


  

夢殿の横には枝垂れ桜は2つあります。
「夢しだれ」と山本健吉氏が名づけた桜はたぶん老木の方なんだろうと思います。
とても存在感のあるどっしりとした桜。
垂れた枝先は地面に着きそうなくらいの長さがあります。

ネットの桜情報に「法隆寺夢殿満開」の文字を見て、朝一番の新幹線に乗りました。
私が訪れたのは4月14日。
ちょう夢殿の開帳期間中だから、あのちょっと不気味な顔立ちの救世観音さまにも会える・・・と思い心躍らせて向かったのですが・・・
残念ながら観たかった桜はもう散って葉桜になっていました。
どうも早咲きのようです。もう一つの枝垂れ桜は満開でした。

ま、また来ればいいか。
救世観音さまはじっと見つめてきました。


法隆寺でいただく朱印は「以和為貴」です。夢殿では違うものがいただけるかなと思ったのですが、太子堂でしか朱印はしていませんでした。

  

今回いただいたのは左です。右は以前太子堂で購入した朱印帳の表紙裏です。
十七条憲法の一条が書かれています。

十七条憲法の代名詞とも言える「和を以て貴しと為す」の言葉。
単に、「仲良くやりましょう」という意味ではないのだそうです。
2008年9月13日のブログで、第十条をとりあげました。
いろんな考えの人がいるんだから、人が自分と違うからといって怒るな・・・という内容です。

一条はそれと繋がる内容のようです。・・・というか、全文がつながってるのか。


一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ

http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm】より


人は皆同じ考えではないから、誰かに合わせてじっとしていることはなく、それぞれの意見を出し合って物事を進めて行きましょう・・・てことかな。それが『和を創る』ってこと?
 
最近、“ダイアローグ”って言葉を本で知りました。
個人と組織のかかわりや人材育成について考えることがあって読み見かけた本でです。
共感や意識・行動の変化を引き出し合う創造的コミュニケーションのこと。つまり、仕事での経験を内省し、感じたり、気がついたり、思ったりしたことを言葉にして話し合っていき、次のアクションに生かしていくことを指すそうです。
「内省する(リフレクション)」「話し合う(ダイアローグ)」「行動をおこす(アクション)」を繰り返すことで組織が成長していくのだと解釈しました。


奈良でリフレッシュした後だったので、なんだか聖徳太子の言葉とこれらが似てる気がすると思ってしまいました。
「以和為貴」は論語に出てくる言葉であるらしいので、組織での人の在り方を考えた結果とすれば、行き着くところ同じなのかもしれません。

夢殿は聖徳太子が亡くなってから彼を偲んで建てられたようです。しかし、私のイメージ的にこの場所は聖徳太子が内省していた場所なんですよね~。
救世観音のような姿の聖徳太子が八角型のお堂にこもって目を閉じ夢想している・・・。なんたって夢殿だもの。マンガ読みすぎか(^▽^)


そういえば、救世観音は千年以上もぐるぐる巻きにされていたから、作られた当時の金色が残っているんです。昔の仏像はたいてい素材が見えているのにすごいって思います。だけど、あの顔は変わっている・・・。もしかしたら本当に聖徳太子の顔に似せたのかもしれない・・・。聖徳太子は実存しない説もありますけどね。

  

法隆寺には好きな仏像がたくさんありますが、中でも気になるのは丸い顔立ちの夢違い観音さまです。「ゆめちがいかんのん」または「ゆめたがいかんのん」と読むようです。悪い夢を良い夢に変えてくれるとか。
法隆寺と夢ってどんな関係があるのかなあ。


そんなことを考えながら法隆寺を歩いていたら、ゴ~~~~~ンと鐘の音が。
(ノ゚ο゚)ノ オオォォォ-!これがあの有名な法隆寺の鐘の音か。
正午に鳴るそうです。
なんとも言えない唸りです。一突きが1分以上響いています。聞き惚れてしまいました。

 柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺       

私もお腹が空いてしまったので、無料休憩所でコーヒーを飲みながら柿のドライフルーツを食べたところでした。奈良吉野いしいの『柿日和』というもの。とってもおいしいのでいつもネットでお取り寄せします。


  

法隆寺の後、午後から奈良公園、翌日は長谷寺に行きました。
どこもいろんな桜が咲き、風が吹くと花びらが舞いきれいでした。
なんと鹿は舞い落ちた桜の花びらを美味しそうに(?)食べていました。


タイトル下の写真は法隆寺境内。
枝垂れ桜は東院伽藍。
3つめは長谷寺境内。


↓たくさんの桜の風景をウェブアルバムにしました。よかったら見てください。
桜の奈良2012


2012/02/13 19:48
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隠国(こもりく)の初瀬


若草山焼きの翌日、奈良初瀬の長谷寺に冬牡丹を見にいきました。
初夏のような華やかに咲き誇った風景ではありません。
傘をかぶった花はひっそりと可憐でした。 

長谷寺は花の寺といわれるくらい四季折々の花がみられるところのようです。様々な写真を見て、ぜひ桜の時期にきたいなと思いました。

  


 

ここのご本尊は十一面観世音菩薩立像で、全国の長谷観音の根本だそうです。
身丈が10mという大きな木造で、菩薩さまには珍しく錫杖を右手にもっていらっしゃいます。
古来から「初瀬詣」として多くの人たちがお参りされているとのことです。

「源氏物語」にも登場していて、『玉鬘』で夕顔の元侍女であった右近が何度も足を運ぶ姿が描かれています。亡くなった主人の娘・玉鬘に、何年か続けた初瀬詣でで再会することができるという設定でした。



こもりくの 泊瀬の山の 山の際に

    いさよふ雲は 妹にかもあらむ 
              
柿本人麻呂【万葉集・巻3‐428】

  (泊瀬の山際に漂う雲は妻かもしれないな) 


隠国(こもりく)は、初瀬(泊瀬・はつせ)にかかる枕詞で、奥深い山間に隠れた地のことだそうです。確かに今でも山に囲まれた静かな隠れ里といった場所です。参道の店はどこも昭和を感じさせてくれます。

初めて私がここを訪問した時(20年くらい前かな)、ものすごい大雨で、近鉄長谷寺駅から歩いていたら全身びしょびしょになってしまいました。あまりに寒かったので、参拝前に参道の店でにゅうめんを食べました。初めてのにゅうめんは冷えた身体を温めてくれ、ホッとした思い出があります。
以来、この参道にきたらにゅうめんを食べます。


ここは難波や京から伊勢へ旅する街道の途中にあたり、道しるべに「伊勢」の文字があちこちでみられました。
初瀬から伊勢に向かう道の最初の峠を『化粧坂(けはいざか)』というそうです。参道の酒屋のおかみさんからはその由来を次のように聴きました。

昔、難波あたりから伊勢に向かう女人の最初の夜がこの泊瀬になったそうです。翌朝暗いうちに宿を出発すると、一汗かいてちょうど峠で日の出となりお化粧をするのだとか。なるほど~。

そういえば、鎌倉の長谷寺の近くにも化粧坂はあるそうですね。





『こもりくの里』というお酒を中山酒店で購入しました。このお酒はここでしか購入できないものです。原酒ということでアルコール分が濃いです。
亡くなった父が好きで、毎年新酒が出ると電話をしてお取り寄せしていました。
以前は多山酒造という蔵元がラベルにありましたが、現在は倉本酒造さんで造っているようです。

大和は日本酒発祥の地で地酒がたくさんあるようです。なぜか初瀬の里には小さな酒店がたくさんあり、蔵元直営みたいで置いてあるお酒が皆ちがいます。醸造蔵は少し離れたもっともっと山の方にあるそうです。

私自身は日本酒をあまり飲まないのですが、父を偲びつつちびちびと飲んでみます。


どうしてもオリジナル写真の画像がアップできません。
なので、文中にいくつも入れてしまいました。


2012/02/08 03:55
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若草山山焼き

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1月28日、大阪でのセミナー終了後、大急ぎで奈良に移動しました。
大和西大寺駅に到着したのが17:30近かったので、とりあえず平城宮旧跡方面に向かって歩き、山焼きの見れるところ、写真の撮れそうなところを探しました。
すると、何やら人がいっぱい、三脚がいっぱいの場所があったので、私も混ぜてもらいました。
どうやら、皆さん大極殿越しの山焼きが池に映るという構図を狙っておられるようです。

私も頑張ってみました。
山焼きと花火は同時間に見れるものではありません。山焼きの前に花火が上がります。
それを1枚の写真にするためには、通常、多重露光という方法(1枚のフィルムに何度も光を入れる)で撮ります。
シャッターを切りっぱなしにして、手動でレンズに入る光をon・offにする方法です。
花火だけの撮影にも使います。
ただ、デジカメになってから後から写したものを何枚も重ねる処理ができるようになりました。

私もやってみました。
・・・が、山焼きの部分があまり写せていなかったので、山焼きっぽくありません。
それから、信号とか車のライトとかが入ってしまい、花火や火が目立たないです。

隣で撮影していたおじさんによると、当日朝、山に雪が降ったので草が湿っていて燃え方が遅いのではないかと。
1時間くらい頑張ればもっと広い面が写せたかもしれません。

デジタル処理は無料アプリケーションのpicasaを使いました。
ま、初めてですから・・・。
次回は街灯や道路のない平城京旧跡地の真ん中くらいで撮ろうかな。




2011/10/24 19:21
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稲淵の彼岸花

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今日は二十四節気の霜降なのだそうです。
冷気によって霜が降り始める頃ということなのだそうですが、それに反して暖かな日でした。この日から立冬までに吹く北風を木枯らしというのだそうです。
被災地では仮設住宅の防寒対策が進められていると聞きました。震災の起きたあの日は啓蟄と春分の間。でも、雪の舞う寒い季節でした。月日はどんどん過ぎて、また寒い季節が巡ってくるのですね。皆様のお体が辛いことありませんようにと思うばかりです。


【二十四節気】


前記事の“立山登山”はちょうど寒露のころでした。寒露の前は秋分です。

昨年、せんとくんで賑わっていた奈良。私は明日香・稲淵の彼岸花を見たくて秋分の日に友と一緒に出掛けました。ところがいつになく猛暑の夏と残暑が厳しかったためか、お彼岸になっても全然彼岸花が咲いていませんでした。(-"-)

今年はリベンジ!・・・とひとり盛り上がり、お天気が良いことと彼岸花の咲き具合をネットで調べて、急きょ前日に宿を探して奈良に出かけました。


明日香川 明日も渡らむ石橋の
     遠き心は思ほえぬかも

                 作者不明 【万葉集 巻十一 2701】

(明日香川の石橋を渡って明日もあなたに逢いに行きます。離れていても私の心はあなたのことをずっと・・・石橋のように飛び飛びではなく・・・思っています。)


稲淵に行ったら、この歌に詠まれている“飛び石”と呼ばれる場所も見てみたいと思っていました。現存する石橋が1000年以上も前からあったとは思えませんが、こんな風景があったことは事実なんでしょう。水かさが増してしまうと沈んでしまい、逢いたい人のもとに行けなくなってしまいます。川の中に置かれただけの飛び石ですが、それに思いを寄せた万葉の人がいたんですね。

彼岸花はどうだったかというと、たくさん咲いていました。webアルバムを見てください。
そういえば萩と彼岸花の写真は前に掲載したことがあります。



↓ここ↓

【きれい詫び】



  白毫寺の萩

この写真は白毫寺の参道です。
前にも書きましたが、萩の花は万葉集で一番詠まれている花なのだそうです。


高円の 野辺の秋萩 いたづらに
     咲きか散るらむ 見る人なしに 
                
笠朝臣金村【万葉集 巻二 231】

(高円の野辺の秋萩が空しく咲いては散っていきます。もうご覧になる方がいらっしゃらないのに・・・) 

白毫寺は高円山の麓あたりに位置します。昔、志貴皇子(天智天皇の息子)の山荘がこのあたりにあり、それがお寺になったという伝えがあるそうです。上の歌の“見る人”とは志貴皇子で、彼が亡くなったことを悲しんで作られた歌だということです。
彼は平安遷都した桓武天皇の祖父にあたる方で、平安遷都直前になくなったとか。とすると、この歌は1200年ほど前の歌ということになります。

この歌に詠まれている萩は野辺にあったのだから、このような参道を埋め尽くしたような景色ではなかったと思います。しかし、平城京が見渡せる小高い場所で志貴皇子が萩を見ていたのかなあという想像はできました。

この万葉歌碑が境内にありました。


風や草木花の変化から季節の変化を感じ、昔の人の想いにふけってしまう秋の夜長でした。



今年撮影した写真の後ろに、数枚だけ昨年のものが入っています。
昨年の秋分の日は暑かったので歩いていたらビールが飲みたくなりました。
元興寺の門前にある酒店がお気に入りです。店先でちょこっといただくことができます。

↓画像クリック↓ スライドショーでどうぞ。

     
奈良にて


2009/08/09 10:08
テーマ:奈良 カテゴリ:趣味・特技(その他)

水しぶき

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8月になってようやく夏らしい空がみられるようになりました。蝉のジイジイした音や入道雲のモクモクしている姿はなんだか嬉しいです。肌にジリジリくる陽射しを受けつつ、「夏だ~!」と叫び、(;´д`)ゞ アチィー!!とエアコンに飛び込む私です。そういえば下駄を履いてのチャリンコ通勤をしているため、足の甲はすっかり鼻緒型に日焼けしてしまいました。

暑い日の夕方はやっぱり打ち水しないとね。夕立が降った日は本当に涼しいもの。液体が気化したときにエネルギーが奪われる・・・だから温度が下がるんですよね。まあ、昔の人はそんなこと考えもせず、過ごしやすくなるからと撒いたのでしょうが。
私が小さいとき、祖母はバケツに汲んだ水をチョイチョイと撒いていた記憶がります。現在の私は・・・。ホースから水をジャーッと出します。アスファルトやコンクリートが多くなった現代は地面に水がしみこむことはないので、溜まってしまいますが、それでもジャージャーと撒きます。

余談ですが、病院で使用している酸素は元は液体で、それを気化させて使います(酸素ボンベは気体を圧縮しています)。なので、壁から出てくる酸素は冷たいんですよ。たくさん酸素を使用している人の水がブクブクしているところは、冷えて水滴がついていることがあります。

実はこの撒いている水、水道水ではなく、地下水をポンプで汲み上げたものです。だからとても冷たい!我が家は10年前に建て替えましたが、それまでは水道が通っていませんでした。というと、すごいところに住んでいるように思われますが、普通に街です。ただ、昔から地下水がよくでましたので、水道が必要なかったんです。建て替えたとき、2つあった井戸の1つを埋めてしまいました。私は埋めてしまった方の水が好きだったんですけど・・・。同じ地下水でも深さが違ったのか、味が違いました。
今時の土壌は何が溶けているかわからないので、ちゃんと水道の方がいいのではないかということで、今は庭だけ地下水を使っています。


「白村江の戦い」は661年の8月と記されていました。その日も太陽が照りつけ、蝉の鳴くあつーい日だったのでしょうか。

7月のETV特集「日本と朝鮮半島2000年」は律令国家としての日本が整った背景についてでした。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した「乙巳の変」から、持統天皇が藤原京で「大宝律令」を公布した7世紀のころです。「日本」という国ができてきた背景に、唐や朝鮮半島の国の変化が大きく関わっていたということがよくわかりました。番組の最後のあたりで言っていましたが、現在の東アジアの国々の原形ができたのがこのころであったのですね。それまでは“国”というレベルの交流ではなく、豪族による個人的なものでした。
白村江の戦いは唐が大国であったから負けたのではなく、集団としての統率が整っていたかどうかにあったようです。戦い後、中大兄皇子をはじめとした倭のリーダーたちは国防力を強化するために、急ピッチで日本という国を造り上げたのでしょうね。




  熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待てば
        潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
 
【万葉集巻3・8】


これは額田王の有名な歌です。白村江の戦いのために出兵する人々の精気を高めるために斉明天皇の代わりとして詠んだそうです。道後温泉あたりから船出をして九州に向う時のものだといわれています。とても力強く、情景が鮮明にイメージできる美しい歌だなと思います。
今だったら近畿から九州へは飛行機であっという間ですが、当時大軍を率いての行幸はそりゃー時間がかかったでしょうね。兵士だけでなく、大王一家とおつきの女性から子供までが動いているんですから。月単位か、年単位のことかな。旅の途中で大王の孫である大伯皇女は大津皇子を出産してます。出兵というよりも、引越しですね。朝倉宮を建てたっていうのだから、遷都に近かったのかもしれません。

この時、594年生まれの斉明はなんと67歳ってことになるんですよね。女性の大王としては推古についで二人目で、しかも重祚になります。「乙巳の変」の時の大王であった皇極天皇が前の彼女です。あの後、彼女の弟である軽皇子が孝徳天皇になったのに、中大兄皇子たちに難波に置き去りにされて亡くなり、また彼女が天皇になりました。中大兄皇子が即位すればよかったのにね。たぶん、実権は母である斉明ではなく、皇子にあったであろうと推測できます。
聖徳太子も即位せずに厩戸皇子でした。いろんな権力者に狙われず、しきたりに縛られずに政を行なうには、即位しない方がやりやすかったのでしょうか。母を盾にして自由に行動していたのかもしれません。


  香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 
  神代より かくにあるらし 
  古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき

                         【万葉集巻1・13】

香具山は畝傍山が愛しくて耳成山と争ったそうだよ。
神代からあったそうだよ。
昔からそうだから今も美しい妻を争うことはあるよね。


この歌は中大兄皇子が大和三山を歌ったものです。これを中大兄皇子と大海人皇子と額田王の三角関係になぞらえて解釈する説は有名です。
この歌も白村江の戦い前、百済からの援軍要請を受けて九州に赴く途中(明石辺り?)の宴で歌われたそうです。そのため、三山を百済、新羅、唐または倭のことであると考えてもいいかもという説がありました。
『万葉集の風景』というサイトの雑記帳のページにそんな考えが詳しく書いてあるので読んでみてください。おもしろいです。

http://viewmanyou.web.fc2.com/index.html


それにしても、戦いに行くにしては切迫感がありません。古の人ってすごいスローライフなの?


白村江の戦いで大敗をした後、天智天皇は飛鳥に戻りましたが、すぐ都を近江の大津に遷します。当時は大王が変わるたびに宮が変わっていたからですが、天智天皇は唐からの攻めを考えて飛鳥を離れたということでしょうか。まだ中央集権国家としては発展途上でしたので、遷都といっても人々がそんなにくっついてはいかなかったのかな。飛鳥→難波→飛鳥→朝倉→飛鳥→大津って20年あまりで移動しすぎです。

)



「大化の改新」とは律令国家としての体制を整えていったその後の歴史を指していうのですね。そうすると、天智天皇、天武天皇、持統天皇と3代が行なってきたことでしょう。でも、この間に「壬申の乱」が起きています。天智が亡くなった時、息子の大友皇子が即位します(弘文天皇)。大友を倒そうと吉野で旗揚げしたのが大海人皇子です。

彼は天文、占星、陰陽に興味を持ち学んだようです。飛鳥浄御原宮で即位しましたが、後に大きな都を計画します。それが藤原宮です。場所を選定する際、四神の考えを参考にしたといわれています。東の香具山が青龍、西の畝傍が白虎、じゃ、耳成が玄武ということかな。南に朱雀門があったようです。また、朱雀大路を南に延長した土地にある古墳たち(キトラ、高松塚とか)には星宿図があり、天武・持統陵も同延長上になります。
天武天皇は藤原宮の着工前(686年)に亡くなってしまい、それを成し遂げたのは妻の持統天皇になるんですけど。

↓『キトラ古墳の星宿図』というページです。
http://astro.ysc.go.jp/izumo/kitora.html


この時代、朝鮮半島から多くの人たちが日本に渡ってきて、どんどん新しい文化が入ってきたのでしょう。電子通信も文字も紙もなかったのですから、人から人へ伝えることが唯一の伝承手段であったと思います。たぶん、朝鮮や中国の言葉と日本のいろんな方言がグチャグチャに入り混じった状態であったかもしれないって想像します。

藤原宮瓦拓本日本書紀や万葉集は後の人が書いたものですから、脚色も多いでしょうね。どこまでが本当なのかわからないけど、残されたものを関連付けて想像するのは楽しいことです。考えるのは自由ですものね。
人間は関連付けるのが好きな動物なんですって。(⌒▽⌒)アハハ


右は藤原宮址から発掘された瓦の拓本です。着工が690年で完成が704年だから、今から1300年以上も前に作られた瓦からとられたものということになります。
飛鳥資料館で購入しました。




久しぶりの記事になりました。
かなりマイナーなブログだし、あまり更新がないけれど、ここを覗いてくれる人があるのだとカウント数を見てびっくりしました。ありがとうございます。
ボチボチですが、マイペースでこれからも更新します。
ホントは記事にしたいことは次々と出てくるんですよ~。
ただ忙しく、写真も撮れず・・・( p_q)

今日の写真は水撒きの時のしぶきです。
太陽に照らされてキラキラしてきれいでした。

空港は窓から見えた青空と差し込む陽射しが夏っぽくて・・・。
その右は飛行機が止まる瞬間です。電子機器で動いている飛行機ですが、この瞬間パイロットは導いている方を目視して動かしているのですね。

男の子が手を上げているのは、上から霧が出ているからです。
少しでも涼しくしようという工夫があったわが街の駅前の空間です。
並べられたタイルもきれいでした。


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