2011/05/04 21:51
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ラビリンス-8.目覚めた朝に

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         collage by tomtommama



                   story by kurumi









             8.目覚めた朝に













「・・・・あなたを・・・忘れたことはないわ・・・フランク・・・」 
エマは静かにそう言った。

「僕は・・・忘れた。」 エマに答えたドンヒョクの声は氷のように冷たく、
彼との再会に震わせていた彼女の胸を、簡単に突き刺した。

それでもエマは懸命に堪えていた。
そして小さく笑みを浮かべ、ドンヒョクの言葉を繰り返した。「忘れた・・・」
それから彼女は、彼にゆっくりと視線を向けた。
「それは少し違うんじゃない?フランク・・・少し違う・・・
 忘れたんじゃなくて・・・あなたの心には・・・最初から・・・
 私という女は存在していなかったの。
 ・・・そうでしょ?」 彼女は努めて冷静な口調でそう言いながらも、
彼を見る目の淵に力が入るのを抑えられなかった。

しかしドンヒョクは前を見据えたまま、それに答えることもなく、
彼女の動揺を見ようとさえしなかった。

少し間をおいて、エマは姿勢を正すと、ドンヒョクと同じように正面を見据えた。
そして溜息をひとつ吐いた後、今度は声の色を明るく取り繕い言った。
「それにしても・・あなたが結婚したとは知らなかった。
 ・・・ついこの間なの、会長に知らされて・・・驚いたわ・・・
 あなたが結婚なん・・」
「その話は今必要か?」 ドンヒョクは尚も冷ややかに彼女の言葉を遮った。

エマの作りかけた笑顔が瞬時に曇る様子も、彼は見なかった。

「必要な話だけにしてくれ。」 そう言ってドンヒョクは目を閉じた。
結局彼は、彼女にわずかの取り付く島さえ与えなかった。

「・・・・わかったわ・・・」 エマもまた静かに目を閉じた。





カーテンの隙間から差し込む光で、ジニョンは目覚めた。
まだ見慣れない部屋の天井が視界に入って、一瞬、何処にいるのだろうと
寝ぼけた頭に記憶を巡らせた。

「フィレンツェ・・」 ジニョンは呟いた。
その瞬間、彼女はハッとしてベッド脇の時計を見た。
そして、慌てて起き上がりベッドを降りると、シャワー室へ急いだ。
ジョアンが迎えに来る時間まで、あと30分しかなかった。


ジニョンが手早くシャワーを浴び、簡単に身支度を済ませ、
コーヒーでも入れようかとした時、玄関の方でエレベーターの開く音がした。
「お邪魔しても宜しいですか?」 ジョアンの声が聞こえた。

「ええ、今コーヒーを入れようかと・・」
すると、トレイを両手で持ったジョアンが、にっこりと笑って現れた。
「コーヒーとサンドウィッチをご用意しました」

「・・・・気が利くのね」 
ジニョンは起きたばかりで余裕の無い自分との違いに苦笑いしながら、
珈琲豆の容器に入れ掛けたスプーンを元に戻した。

「よく言われます」 ジョアンは笑って頷いた。





ドンヒョクは目覚めた後、いつものようにホテルの周辺で汗を流した。
彼が滞在するホテルはドゥオーモ駅のそばにあった。
ホテルから近隣の公園を経由して、ミラノの象徴ドゥオーモへ向かった。
早朝人っこひとりいないその周辺で走り込むのは爽快だった。

その景色を眺め、大きく深呼吸しながらドンヒョクは、心の中で呟いた。
≪ジニョン・・今度は君も一緒に走ってみるかい?≫

昨夜は緊急な書類作成に追われ、ジニョンに電話できなかったことが
悔やまれていた。しかし・・・
「今の時間はまだ夢の中だね」 
ドンヒョクはポケットから出し掛けた携帯電話を元に戻し、スパートを掛けた。
そしてホテルに戻ると、館内のジムで軽いウエイトトレーニングを行い
熱った体をクールダウンさせた。

しばらくして部屋へ戻り、シャワーを使っていると、扉の向こうで物音が聞こえた。
ドンヒョクは頼んでおいたルームサービスだと思い、水浴びを続けた。

ドンヒョクがバスローブ姿でリビングに戻ると、ソファーにエマが座っていた。
「何をしてる。」 彼はさして驚きも見せず、頭をタオルで拭きながら言った。

「おはよう。お邪魔しようとしたら、丁度ルームサービスが届いていたの
 私の分もこちらへ一緒に運んでもらったわ。
 会議の前に打合せをしたかったの。いけなかった?」
エマはドンヒョクの視線を避けながら、それでも悪びれることなく言った。

「いや」 彼はそっけなく答え、そのまま寝室に向かった。
そして数分後、シャツの袖のカフスを留めながら、エマの待つ部屋へと戻った。

「資料は・・・できているようね」 
エマがデスクの上にまとめられていた書類の束を見て言った。

「ああ」

「後はこれをコピーすればいいかしら」

「頼む。」

「了解。・・・・・・・ゆうべ・・来てくれるかと思った」 
エマが少しだけ躊躇ったように言った。

「何処へ?」 ドンヒョクが聞いた。

「私の部屋へ」 

「何故?」
ドンヒョクは椅子に腰掛け、ジュースのグラスを口に近づけながら、
冷めた口調で言った。

「話をしに」

「何の・・」

「5年前のこと」

「言っていることがわからない。」
ドンヒョクはそう言って、グラスをトレイに戻した。

「・・・そうね・・・あなたはあの時も・・・そうだった。
 私に・・・何も聞かなかった・・・
 本当は聞きたかったことがあったはずなのに・・・」

「じゃあ、聞こう・・君が今、ここにいる理由は?」 

ドンヒョクのその言葉に、エマは俯き溜息混じりに笑った。
「ふふ・・そうね・・・Mr.フランク。・・
 本日のご予定を申し上げて宜しいですか?」 エマが立ち上がり言った。

ドンヒョクは軽く頷いた。

「このホテルの会議室を9時から午前中を予約しております。
 本日お目に掛かるMr.サイモンも昨夜の内にこのホテルに
 滞在なさっていらっしゃいます。
 会合は予定通り10時で宜しいですか?」
エマは凛とした姿勢を崩さず、伝えるべきスケジュールだけを口にした。

「構わない。」 ドンヒョクは短く答えた。

「では。」 
エマは彼の向かいの椅子に腰掛け、ナプキンを手に取った。
「ご一緒にいただいて宜しいですか?」 エマがドンヒョクに向かって、
努めてにこやかに言うと、彼は軽く左の口角を上げることで、
それを承諾した。







「本当に・・・ミラノへ?」 
ジョアンは目の前でサンドウィッチを頬張るジニョンに、確認するように言った。

「・・・もちろんよ」 ジニョンはもぐもぐと口を動かしながら答えた。

「実は昨夜、あの後色々考えてみたんです。やはり止めませんか・・
 ジニョンssi・・あなたは・・」
ジョアンがそう言い掛けた時、ジニョンは彼に向かって掌を向けた。
「ストップ!」 そして彼女はコーヒーで口の中のものを流し込むと言った。
「あなたが行かなくても私は行くわよ。」 

無論、それは到底叶うことではない。ジニョン自身もそれは分かっていた。
しかし彼女は自分の確固たる意思表示の為にそう言ったのだ。
「わ・た・しは行く。」 ジニョンは繰り返し言った。

ジョアンは彼女の頑固さに、無駄な足掻きをするのは止めておこうと思った。
それに自分自身、ボスの仕事に係わっていたい思いが強かった。

ジニョンが言った『ボスに自分の必要性を認めさせる』決して
そういうことではない。
ボスのそばで仕事を始めて二年になる。
この一年、やっと彼に認められたことを実感するようにもなった。

ジョアンは、フランク・シンとの仕事に生甲斐を抱き始めていたのだ。

「わかりました。でもくれぐれもお願いです。
 いつどんな時も僕の言うことを聞いてください。
 決して勝手な行動をお取りにならないこと・・・約束できますか?」
ジョアンは右手を挙げジニョンに掌を見せて、そう言った。

彼女もまた手を挙げて言った。「約束するわ。」
そして続けて言った。「取引・・成立ね。」

「はい。」 ジョアンも笑顔で答えた。


ジニョンとジョアンは朝食を済ませると、荷物を持って駐車場へと降りた。
「ミラノのホテルは昨夜の内に予約しておきました。
 ボス達のホテルから5分ほどの距離です。
  余り近過ぎても困りますので。」

「そうね、ありがとう」 ジニョンは満面の笑みで礼を言った。 

「・・・・ジニョンssi?」

「えっ?」

「ちょっと面白がっていませんか?」 
妙に嬉々としたジニョンの表情を覗き込み、ジョアンは疑うように言った。

「アニョ。」 ジニョンは短く答えて、視線を逸らすように車窓から外を見た。
昨夜食事をした店の前を通り過ぎると、ヴェッキオ橋が左手に見えた。
そしてそのまま昨日と逆の道のりの景色を眺めながら思った。

≪フィレンツェを楽しむのはもう少し後ね≫








「そろそろ」 ドンヒョクは朝食を済ませると、そう言いながら席を立った。

「まだ早いわ」 エマが言った。時間はまだ9時少し前だった。

例え今、彼の自分に対する態度が冷たいものであったとしても
こうしてそばにいることだけで、彼女は満足だった。
「もう少し・・・」 彼女は言い掛けた。≪もう少しふたりでいたい≫

「後は会議室で準備する」 
ドンヒョクは彼女の想いなど気に掛けることもなく、上着を手にした。

エマは軽く頷いて、「そうね」と席を立った。
そして彼女はドンヒョクの手から上着を取り、彼が羽織り易いように広げた。

しかし彼は直ぐに、彼女の手から上着を取り返すと、冷めた眼差しで言った。
「そんなことはしなくていい。」 
「・・・・・・」 

結局上着を自分で羽織り、玄関ドアへと向かうドンヒョクの背中を
エマは無言で追った。






「申し訳ないですが、一緒に上まで上っていただけますか?」
事務所に着くと、ジョアンはジニョンにそう言った。
実のところ、四階までの階段を上ってもらうのは大変だと思ったが、
彼女をひとりで残して行くわけにはいかないと思ったからだ。

「この階段・・好きよ」 ジニョンは作り笑顔で言った。


ふたりが事務所の階に着くと、廊下の向こうに若い女が座っているのが見えた。
ラフなジーンズ姿で、ウエーブした黒髪を後頭部で束ねたその女は
ふたりに気がつくとすくっと立ち上がり、彼らが近づくのを待って
お辞儀をした。

「どなた?この事務所に?」 ジョアンがその女に聞いた。

「ルカ・レリーニと申します。Ms.グレイス?」 
彼女は質問したジョアンにでは無く、彼の後ろに立つジニョンに向かって言った。




「フランク・・・あなたに話しておきたいことがあるの」
エレベーターに乗り込むと、エマは思い切ったように言った。
エマが再会してからずっと、自分に何かを話したがっていることを
ドンヒョクはわかっていた。
しかし彼はそれを無視し続けていた。そして彼は尚もそれを拒絶した。


「5年前のことなら・・・

    ・・・聞く必要は無い。」・・・











2011/04/25 21:54
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ラビリンス-7.白い手

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「フランク・・・久しぶりだな。最後に会った日から何年になる?」

「さあ、数えたことはありません。」
 
「はは・・5年だよ、フランク」
ドンヒョクのそっけない返事に対して、ジュリアーノ会長は努めて
親しげにそう言った。

「そうでしたか?」

「ああ、随分と待ったぞ。
 やっと私の仕事をしてくれる気になってくれたそうだな。」

「報酬が折り合いましたので。
 割のいいビジネスに乗らない馬鹿はいません」

「無論、君がやってくれるなら、金に糸目は付けない。
 以前からそう言っていたはずだが?・・ああ・・そんなことより・・
 結婚したそうだな、フランク・・」
その言葉に、ドンヒョクは神経を逆撫でされたかのように苛立を覚えたが、
彼はそれをおくびにも出さず、左の口角を上げるだけでそれに答えた。

「聞いた時はまさかと思ったぞ。
 君のような男は結婚などに興味はないと思っていたんでね。
 しかし・・それもまた必要な時もあるだろう、なあ、フランク」
ジュリアーノはわざと媚びるように言った。

「そんなところです」 ドンヒョクはその媚を無視して淡々と答えた。

「ははは・・我々にとっては時に、結婚もビジネスだ。
 しかしめでたいことには違いない。何か後で祝いを贈らせてくれ」
ジュリアーノは穏やかそうな笑みを浮かべてそう言った。

「お気遣いなく。・・・それより急ぎの用とは何でしょう」 
ドンヒョクは急かすように言った。
必要以上にこの場所に留まることを嫌悪する自分を辛うじて
抑えていたからだ。

「今日アメリカ企業の人間が入国した。明朝会って欲しい」

「わかりました。」

「それからもうひとつ。」 
会長は軽く手を挙げて、ドンヒョクの背後に向かって合図を送った。
「・・・・・・」 
ドンヒョクがその合図の先を追うように後ろに視線を向けると、
一人の女が彼を横切って、会長の傍らに立った。

「フランク・・・紹介しよう。」

「・・・・・・」 ドンヒョクは無言でその女を視線で追った。

「私の弁護団の主任弁護士だ。・・エマ・・」
会長はそう言って、彼女の背中を軽く押して、ドンヒョクの前に立たせた。
「おおそうだ、君達は旧知の仲だったな」
ジュリアーノは、たった今気がついたとばかりにそう言った。

「・・・ええ」 ドンヒョクは表情も変えず答えた。

エマヌエーラ・ビアジ。
アメリカとイタリアの混血である彼女は人目を惹く美しい人だった。
金色の長い髪を緩い夜会巻きにして、凛とした佇まいの彼女が、
彼に微笑んだ。 「Mr.フランク・・・お久しぶりです」

「ああ・・」 ドンヒョクは笑みを返さなかった。

「今日から彼女とトマゾが君と行動を共にする。彼女には・・
 君の秘書兼弁護士を勤めてもらう」 会長がエマの背後で言った。

「何のために?」 ドンヒョクはエマを見て言った。

「君を見張るために。」 会長が冗談のように言った。

「見張るため・・・」 しかしドンヒョクはそれが冗談でないことを知っていた。
「私は自分の部下以外をそばには置かない。」 彼は毅然としていた。

「君の意見は聞いていない。」 会長はゆっくりとそう返した。

「・・・・・・」

「その代わり、君の秘書には私のそばで仕事をしてもらう。」 
会長はドンヒョクの傍らに立つミンアに視線を向けて言った。

「断る。」 ドンヒョクは強い口調でそう言った。

「君の意見は聞いていない。そう言わなかったか?」
ジュリアーノの言葉にもまた有無を言わせぬ響きがあった。

「私は大丈夫です。」 ミンアがドンヒョクの背中に近づいてそう言い、
口元が見えないよう小声で続けた。「その方が、内側が見えます。
そうさせて下さい。」 

ドンヒョクは目を閉じ、彼女のその言葉に、仕方ないというように頷いた。

「では、必ず一日に一度は彼女と会わせてもらう」

「よかろう。但し、その時はエマも同席させるように。」

「・・・いいでしょう」

「では・・今日のところはここまでだ。フランク・・久しぶりに食事でもどうだ?
 奥方の話を聞かせてくれ」

「いいえ。早速ホテルに戻って、明日の資料を作ります。
 それでは。」
ドンヒョクは、ミンアに目で合図を送り、その場を退席しようとドアに向かった。

「・・・・エマ」 会長はドンヒョクの後を追う様、エマに顎で合図した。

ドンヒョクは部屋を出て、エレベーターに向かった。
エマは少しだけ急ぎ足でドンヒョクの後を追い、彼がエレベーターの
ボタンを押すと同時にその横に並んだ。

ふたりは無言でエレベーターの到着を待った。
数十秒ほどして、エレベーターの到着の合図音と共に、扉が開き、
ドンヒョクはその中に足を踏み入れ、エマも彼に続いた。

エレベーターの扉が静かに閉じ、重力が上に作用した。
20階から1階に降りるまで、ふたりは正面を見据えたまま無言だった。

ドンヒョクとエマがエレベーターを降り、ロビーに向かうと、
トマゾが一足先にエントランスの入り口付近でふたりを待っていた。
彼はふたりを見つけると、外で待たせていた車の運転手に合図を送った。

ドンヒョクとエマが後部座席に、トマゾが助手席にそれぞれ乗り込んだ。
車が静かに動き出すと、エマはドンヒョクの横顔をゆっくりと覗いた。

ドンヒョクは正面を見据えたまま、彼女の視線を無視した。
彼女がその視線を彼の手に落とすと、左薬指の指輪に目が留まった。
エマはその手に自分の白い手を重ねた。





「ミラノへ行きましょう。」 ジニョンは力強くそう言った。

「ミラノへ?・・そんなことしたら・・・
 僕はここで留守番するように言われてるんですよ」
しかもジョアンは、ドンヒョクがいるだろう場所からいつも遠ざかっているようにと
彼に念を押されていたのだった。

「大丈夫よ、電話は携帯。私は自由にイタリアを満喫してる。
 事務所に電話が掛かることなんて心配しなくてもいいでしょ?」

「それはそうですが・・・」
「だったら早い方がいいわ。ね。明日の朝」

ジョアンはしばらく考えて、ジニョンを見た。
「・・・わかりました。では明日事務所に寄って、必要な資料データを
 僕のパソコンに。その足で。・・・いいですか?」 
ジョアンはそう言いながら、徐々に覚悟を決めていった。

「いいわ。ジョアン。ね、思ってたんだけど・・私達・・
 名前の響き何となく似てない?ジョアンとジニョン・・
 ね、似てる。」 ジニョンは浮かれたように言った。

「そ、そうですか?」 ジョアンは後ずさって答えた。

「いい相棒になりそうね」 ジニョンはそう言って手を差し出した。
「さっき、事務所で握手できなかったから」

「あ・・・はい。」 ふたりはしっかりと握手した。
「では、今日のところはお休み下さい。
 明日の朝、七時にお迎えに上がります。」 ジョアンが言った。

「ええ」

「これがこの部屋のカードKEYです。でもくれぐれもお願いですが、
 おひとりでお出掛けになることだけは止めて下さい。」

「わかってるわ」

「では」 ジョアンは自分の部屋に戻って行った。


ジニョンはひとりになると、寝室に入り、クローゼットを開けると
ポールに掛けられている服や、引き出しの中を確認した。
ドンヒョクが言っていた通り、ジニョンの衣類も一揃いあるようだった。
彼女は今日一日に起きたことを思い出しながら、そこにあったバックに
何枚かの衣類を詰め、数日分の身支度を手早く済ませた。
そして疲れたようにベッドに腰を下ろすと、自分の左手の指輪を見つめた。
ドンヒョクが10年前に用意してくれていた小さな石が光る指輪と並んで、
つい一週間ほど前、彼にはめてもらった彼との揃いの結婚指輪を
右手の人差し指でそっと撫でた。

ドンヒョクの言いつけを守らない言い訳を、心の中で呟きながら。
≪フランク・・・あなたのせいですからね。≫




ドンヒョクは自分に重ねられたエマの手を右手でそっと持ち上げると
その手を自分の唇へと運び、儀礼的に軽くくちづけた。
そして、何も言わず、その手を彼女の膝の上に戻した。

エマはドンヒョクのその行為が、見事に自分を拒絶していたことに
視線を落とすしかなかった。
それでも彼女は彼に、ずっと伝えたかった言葉を静かに口にした。

「・・・・あなたを・・・忘れたことはないわ」 

「・・・・・・・僕は・・・・


         ・・・忘れた。」・・・


     





 






 




2011/04/12 00:01
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ラビリンス-6.置き去り

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フィレンツェのドンヒョクのアパートは川を渡って車で5分ほど走った
小高い丘にあった。
五階建ての小さな建物の前まで来ると、ジョアンはそのガレージの扉を
車の中から自動で開けた。
扉が半分程開いた時にはジョアンは既に車を中へと進入させ、
車が入り切ると同時に、その扉は入る時と同様に自動で閉められた。
同時に明かりが灯り、そこが数台分の駐車スペースであることがわかった。

ジョアンは車を降り、ジニョンの方のドアを開けるために急いで回った。
「ありがとう」 ジニョンは礼を言って、車から出た。

「ではご案内します」 そう言ってジョアンはエレベーターに向かった。
「ここはエレベーターがあるのね」 ジニョンはそう言って笑った。

「外観は古い建物ですが、中はかなり近代的に改築されています」
ジョアンはエレベーターにカードを差し込み、扉を開けると、
まずジニョンを中へ入れ、後から自分が入ると、五階のボタンを押した。

「私の部屋はこの二階にあります」

「そうなの?」

「はい、このアパートの住人は我々だけなんです
 イタリアでの仕事の時だけ使います
 レオさんの部屋が四階、ミンアさんの部屋が三階」

「各階に一部屋ずつだけなの?」

「はい、一階スペースはご承知のように駐車場です」

五階に着いてエレベーターの扉が開くと、そこは直ぐに広い玄関だった。
大理石張りの玄関ホールを進んで行くと、同じ床面が更に続き
広いリビングルームが開けていた。

正面はすべてガラス張りで、その向こうに少し前にドンヒョクと歩いた
フィレンツェの街並みの絶景が開けていた。

「素敵」 ジニョンは思わずその景色に声を漏らした。

「すごいでしょう?・・ここは丘に建っていますので、
 私の部屋からの眺めも絶景です・・ここは更に・・ですね
 あの川がアルノ川・・川向こうの左手の奥に今日到着された駅
 少し手前に我々の事務所が近いドゥオーモが見えます」
ジョアンは指を差しながら、説明した。

「・・・・それから、あの橋がヴェッキオ橋ね、映画で見たことがあるの」 
ジニョンも指を差して見せた。

「はい。後で歩いてご案内致しましょう」

「ええ、ありがとう」

「お部屋をご説明します。間取りは各階違ってるんですが。
 あちらのドアが寝室、奥の部屋が書斎で使ってらっしゃると伺ってます。」

「ええ、彼に聞いているから大丈夫よ」
 
「そうですか・・では・・お疲れでしょうから、少しお休みください
 私は部屋に戻っております」

「ええ」

その時、ジョアンの電話が鳴って、彼はジニョンに断って電話に出た。

ジニョンはその間、ひとりテラスに出て、手すりに手を掛けると、
大きく深呼吸した。

≪この国は感動の嵐だ≫ドンヒョクの声が聞こえた。
「ほんと・・そうね」 ジニョンはその声に清々しく答えた。

 

ふと気がつくと、ジョアンがテラスに出てくるところだった。
彼が何か言いたげな表情をしていたので、ジニョンは首を傾げた。
「ん?・・」

「あ・・はい。ミンアさんからでした。ミラノに向かうと」

「えっ?明日じゃなかったの?じゃあ、急いで用意しないと・・」


「あ・・あの・・もうお発ちになりました」


部屋へと向かおうとしたジニョンの足を、ジョアンの声が引き止めた。

「どういうこと?」

「我々は留守番だそうです。ミンアさんから・・移動中の電話でした」

「・・・・・・」 ジョアンの言葉にジニョンは瞬時に表情を硬くした。
そして、彼女はリビングに戻ると電話を取り出し、ドンヒョクに掛けた。
しかし、それからは空しいアナウンスが繰り返されるだけだった。
“この電話は電波の届かない所に・・・”「・・・・・・・・・」

「あの・・・」
「何!」 
ジョアンは振り向いたジニョンを見て、思わず後ずさった。
目に涙を潤ませた彼女が、見事に恐ろしい顔で彼を睨みつけたからだ。

「緊急だったんです。」 
「置いていくことないわ。」

「止む得なかったんです・・きっと」
「慰めてるの?」

「いえ・・そんな・・」
「ひとりにして」

「しかし・・・」
「ひとりにして。」

「・・・・わかりました」
ジョアンはジニョンの余りに寂しげな後ろ姿にそれ以上の言葉を掛けられず、
すごすごと玄関の方へ向かった。

しかし、彼は立ち止まった。
気を取り直し、思い切って踵を返すと、そのままリビングへと戻った。

その気配に気がついて、ジニョンは振り向かないまま言った。
「何?・・ひとりにしてと言ったでしょ?」 強がって放った声が涙に揺れた。

「・・・食事に行きませんか」 ジョアンは彼女の背中にそう言った。
「・・・・・・・・・」 ジニョンは答えなかった。

「この辺は美味しいものが沢山あるんです」
ジョアンはそれでも、優しい口調で食い下がった。

「・・・・・・・・・」

「お腹・・・すきませんか?」 

「・・・・・・すいた。」

 


「奥様、かなり怒ってらっしゃるようです」 ミンアが困った表情で言った。

ドンヒョクは口の左端を上げただけで、何も答えなかった。

『ヤ!シン・ドンヒョク!アニ・・フランク・シン!・・・
  よくも私を置いて行ったわね!』

彼は10分程前に、留守番電話でジニョンの声を聞いたばかりだった。
≪君に言うと、いつも押し切られてしまうからね≫

ドンヒョクはミンアに悟られぬよう、俯き苦笑した。

 

時間は夜の7時を回っていた。
ジニョンとジョアンはアパートのエントランスで落ち合い、徒歩で
ヴェッキオ橋の方へ向かった。
目的の店はその橋の近くにあるトスカーナ料理の伝統料理店だった。
「これからご案内する店は小さな店ですが、歴史があるんですよ
 料金は安いのに・・料理は絶品なんです」 
ジョアンはジニョンを元気付けようと声を張った。

「楽しみだわ」 ジニョンもそれに応えて、努めて笑顔を彼に向けた。

「寒くないですか?」 ジニョンの薄着を見て、ジョアンは言った。

「そうね、少し・・」 ジニョンはそう言って自分で自分の肘をさすった。

「これを羽織ってください。」 
ジョアンは手に持っていたカーディガンを彼女に渡して言った。
「用意してくれていたの?私に・・」 
彼が既に上着を羽織っていたのを見て、彼女はそう言った。

「先ほどお話するのを忘れましたから・・・。
 日中と夜の気温差が激しいですから、お出掛けの時は
 必ず上着を持って出られるといいです」

「ありがとう」 ジニョンは彼の細やかな心遣いに感謝して微笑んだ。


目的の店には10分も掛からず着いた。
ジニョンはジョアンにお薦めの料理を適当に選んでくれるよう頼み、
料理が運ばれてくるまで、彼女は無言で待っていた。
ジョアンは、彼女が突然見知らぬ地で、夫に置いていかれた寂しさと
静かに戦っている間、邪魔をするまいと彼女から視線を外した。

その内に鼻先にいい匂いのパン粥が運ばれ、ジニョンの沈んだ顔が
一瞬綻んで見えた。
「美味しそう」 ジニョンがそう言うと
「美味しいです」 ジョアンが即座に微笑み答えた。

ジニョンは早速、スプーンを手に取り黙々と食べだした。
そんな彼女の様子にジョアンは心の中で安堵し、心から喜んだ。
≪そんな風に食べられるということは、大丈夫ですね≫


「話して。」 
メニューがデザートに差し掛かった時、ジニョンが突然そう言った。

「何をです?」 
「彼の仕事のこと」

「それは・・・」
「言えないの?」

「話してもおわかりになりません」
「わからないかどうか・・わからないでしょ?」

≪仕事なさい。そしてあなたが会社にどれ程必要なのか
 彼に教えてあげるといいわ。≫

ジョアンはジニョンが先刻自分に言ったあの言葉を思い出していた。
≪まさか・・本気で?≫
そう思いながら彼女を見ると、真剣な彼女の眼差しがジョアンを刺していた。

「駄目です、ジニョンssi・・・あなたを仕事に巻き込んでしまったら
 僕はボスに殺されます」 ジョアンは半分本気で眉を下げた。

「ジョアン。確認するわ。
 あなたは私の面倒を見るように彼に命令されているのよね」

「はい」

「ということは私の命を守るのがあなたの指名ね。」

「はい。・・ですから。」
「あなたの命は私が守るわ。」

「えっ?」 ジョアンは何か聞き違えたのかと確認するように首を傾げた。
「フランク・シンから、あなたの命を守る。約束するわ。」
ジニョンは、真顔で繰り返した。

「あの・・・」 ジニョンのその言い様が可笑しくてならなかった。
「つべこべ言わない。」 
ジニョンは有無を言わさないというように、そっぽを向いた。

≪ボスにそっくりだ≫とジョアンは思った。
そう思うとまた可笑しくなって、心の中で笑っていた。
しかも、その可笑しさが、彼には不思議と心地良かった。

「・・・・・わかりました。でもこういうところでは・・
 部屋に戻りましょう」 ジョアンは店内を見回し言った。

「いいわ。」 ジニョンはデザートもそこそこに直ぐに席を立った。

 

 

ドンヒョクがミラノに到着すると、三日前にローマ空港に出迎えた車が
待ち構えていた。
「会長がお待ちかねでございます。フランク様」 
空港で出会った、男が意味ありげな笑顔を作って言った。

「君は?」 ドンヒョクは初めて彼に名前を尋ねた。先日空港で会った時から
気になっていた男だった。

「トマゾ・アルビノーニ。ジュリアーノ会長の秘書を努めております。」
男はそう言って、頭を下げたまま、目だけでドンヒョクを見上げた。
「トマゾ・・・前に何処かで会ったか?」

「先日空港で・・」

「いや・・もっと前に」 フランクはトマゾの目を射るように見た。

「5年前にお目に掛かったやもしれません」 トマゾは穏やかに言った。

彼がジュリアーノの側近であれば、確かに5年前に会っていても
可笑しくはなかった。

「そうか・・」

 

「まず教えて。
 今回のイタリアでの彼の仕事は何?ローマに着いた時
 物々しい出迎えがあったわ。あの人たちはいったい誰?
 彼はミラノに何をしに行ったの?誰に会いに?」

「ジニョンssi・・・一気に質問なさらないで下さい」
ジョアンはキッチンでコーヒーを入れると、ジニョンの待つリビングへと
カップを運び、テーブルに置きながら言った。
「・・・ありがとう・・じゃあひとつずつ・・」
そして、自分もまたジニョンの目の前のソファーに腰掛けた。

「空港に出迎えていたのは、今回のクライアントである
 ビアンコ・ジュリアーノ会長の部下です。
 当初我々がおふたりを出迎えるはずでしたが、会長から申し出が。
 ボスもそうおっしゃいましたので、お任せしました。
 本当は彼らは直ぐにおふたりをミラノへお連れしたかったはずです。
 ボスは敢えて彼らに出迎えさせた上で、ミラノへは行かず、じらしたんです」

「どうしてそんなことを?」
「もちろん、こちらが優位に立つために。」

「ふ~ん・・・じゃあ、ジュリアーノ会長って何者?」

「ビアンコ・ジュリアーノはイタリアの有力者です。
 この国で外国人が仕事をする場合、彼の息が掛かっているか
 いないかでは、雲泥の差があります。」

「なら、彼は・・フランクはどうして優位に立ちたいの?
 その会長をじらしたりするなんて不利でしょ?」

「ボスは・・・・・・・」 ジョアンはその後を、口ごもった。
「フランクは?・・・」 ジニョンは前のめりになって彼の答えを待った。

「ボスは・・・会長が嫌いなんです。」 
ジョアンはふたりだけなのにヒソヒソ話でもするかのように言った。
ジニョンはジョアンのその言葉が嘘っぽいと思ったが、それ以上は
追求しなかった。
「確かに・・彼は好き嫌いが激しいわ」 そう言って笑って見せた。

ジョアンは少しホッとしたように、話を続けた。
≪何か・・・私に言いたくないことがあるのね≫ジニョンはそう思った。

「今回我々は、イタリアとアメリカの交易に係わる仕事をしています。
 ボスに依頼されたことは、ジュリアーノ会長に有利に事が運ぶよう
 アメリカの企業との交渉を担うことです。」

「じゃあ、今彼はミラノで会長に会ってるのね」

「はい、おそらく」

 


ドンヒョクはその頃、ジニョンの想像通り、ジュリアーノに会っていた。

ミラノ郊外の広大な敷地の中央に建てられたジュリアーノの邸宅は、
ルネッサンスを見事に意識した造りで、贅沢を極めていたが、
ドンヒョクには悪趣味としか映らない装飾品が、目障りでしかなかった。

ドンヒョクが通された広間は、壁面に本棚と巨大な絵画以外は
空間にひとつの大きなデスクとひとつの椅子が置かれているだけだった。
その椅子にはそこの主であることを誇示するように、ジュリアーノが
悠然と座っていた。

当然、他に椅子など無い広間の中で、ドンヒョクは立たされたままとなる。

『お前を支配しているのは自分だ』と言わんばかりのジュリアーノの眼光が
ドンヒョクを執拗に捉えていた。
それがジュリアーノという男なのだと、ドンヒョクは口元だけで笑った。

「フランク・・・久しぶりだな。何年ぶりになる?」
ジュリアーノは椅子の背もたれに背中を押し付け、葉巻を手にしながら
ドンヒョクを一瞥して言った。

「さあ、数えたことはありませんが・・」 
ドンヒョクはそう言いながら、ジュリアーノという男を真っ向から見据えていた。
そして少しばかりの社交辞令を装った笑みに、自分の心の声を強かに隠した。

≪いいや・・・

  こうしておまえの前に立つこの日を・・・
  どれほど数えたか・・・


          ・・・知れやしない≫・・・

 

 














 


2011/04/05 22:15
テーマ:ラビリンス-過去への旅- カテゴリ:韓国TV(ホテリアー)

ラビリンス-5.ボディーガード

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ジニョンは怒っていた。

≪それじゃ。って・・・キスのひとつくらいしない?≫
彼女はドンヒョクが消えたドアをもう一度激しく睨みつけたかと思うと、
今入って来たばかりの部屋のドアを憤然と押し開けた。
そして、怒り心頭の顔付きで廊下を突き進み、つい今しがたやっと
上って来た螺旋階段を恨めしそうに眺め下ろしながら、無言で下り始めた。

途中、ドンヒョクに対する余りの腹立たしさに、ジニョンは思わず
自分の髪をくしゃくしゃと掻いた。≪もう!≫

ジョアンはというと、そんな彼女の後を、こちらも無言で付いて下りていた。
ジニョンは二階に差し掛かった時やっと、自分を追って来る
ジョアンの存在を思い出した。
螺旋階段のカーブで、横目に彼の不満げな表情を盗み見た時、
ジニョンは心の中で呟いた。≪私だって嫌なのよ!≫
ジョアンが彼女の視線に気が付いた瞬間、ジニョンはフンと顎を上げた。





「それで?」

「はい。この数日、他の案件のキャンセルが相次いでいます。
 イタリアだけではなく・・ヨーロッパ全土・・アメリカもです」

「これがそのリスト?」

「はい。しかも既に着手していた案件までもです」

ドンヒョクはデスクの端に軽く寄り掛かるように腰掛けて、
ミンアに渡された資料を手に取ると、それを手早く捲りながら、
次第に眉間に皺を作っていった。

「これは憶測ですが・・ジュリアーノ会長の仕業としか・・」

「ん・・・一部はそれもあるだろう・・しかし・・それだけじゃないかもしれない」
ドンヒョクはそう言いながら唇の左端を上げた。

「と申しますと?」

「信用を無くしたんだ。僕が。」 

「あ・・・」

「しかし・・韓国の一件がこれほど早く影響するとは・・・誤算だったな」

「・・・・・・」
「心配するな。大丈夫だ」 
ドンヒョクは沈黙したミンアに向かって笑って見せた。

「あ・・はい。・・・いえ・・心配なわけではありません。」
ミンアは本気でそう言った。
フランク・シンという男がこのまま手をこまねいているわけがないことを
充分承知していたからだ。
「ただ・・あの、ひとつよろしいですか?」

「ん?」

「今後ですが・・・やはりジョアンの穴は大きいです」
ミンアは思い切ってそのことを口にした。

「何とかなる。」 ドンヒョクは資料から目を離さずにそう言った。

「・・・・・」

「君も不服なの?彼を外したこと」 

「あ・・いいえ。ただ・・」

「ただ?」

「彼もこの仕事に賭けていましたから」 ミンアは言った。

「それで?」 

「彼にしかできない仕事があります」

「だから?」 
相変わらず視線を向けないドンヒョクの声は終始冷ややかだった。

「いいえ・・何でもありません。余計なことを申し上げました。」
ミンアはドンヒョクの抑揚のない受け答えに、自分でも予測した通り、
簡単に屈した。

「これをレオに送って。」
ドンヒョクは資料に何やら手早く書き込むと、ミンアに渡した。

「承知いたしました」
ミンアは深く頭を下げて、部屋から出て行った。





もう直ぐ一階に着くと思った時、突然後ろからジョアンがジニョンを追い抜き
先に表へと走り出て、ジニョンに振り返った。
「奥様、申し訳ございません。駐車場まで少しお歩き願えますか」
彼はジニョンに向かって、丁寧に頭を下げそう言った。

「え・・ええ」
ジニョンは結局このジョアンという男に付いて歩くしか無かった。

「恐れ入ります。この辺は生憎駐車場が少ないものですから」
彼の馬鹿丁寧な物言いは、ジニョンを余り心地良くさせてはくれなかった。

「承知してるわ。」
ジニョンはイタリアに渡る前に、この地の交通事情も含めて、
一通りの知識をドンヒョクから聞かされていたので、少々のことでは
驚くことも、困惑することもないと思っていた。
しかしこうして突然、親交も無く、親しみも沸かない男と見知らぬ街に
放り出されるとは思いもしなかった。





ドンヒョクは窓辺に向かうと、数年ぶりに眺める懐かしい街の景色に、
ホッとしたように溜息を吐いた。
ふと見下ろすと、通りを歩くジニョンとジョアンの姿があった。

ジニョンの歩き方を見て、彼は思わず苦笑した。
≪随分、怒ってるね・・ジニョン≫

ドンヒョクはぎこちなく連れ立つふたりの姿を追いながら、
微かに笑みを浮かべ呟いた。

『彼にしかできない仕事があります』先ほどのミンアの言葉が頭を過ぎった。

「彼にしかできない仕事・・・」 ≪だから、頼んだんだ≫





ジニョンとジョアンのふたりが無言のまま連れ立って、5分程歩くと
駐車場に着いた。

「どうぞ」 ジョアンは後部座席のドアを開けて、無表情ながらも
ジニョンを卒なくエスコートした。

前と後ろに別れていても、小さな車のせいか、二人の距離は妙に近かく、
そのせいで否応なしに、ジョアンの表情が視界に入ってくる。

「聞いてもいいかしら」 
ジニョンは居心地の悪い沈黙を敢えて破り、彼に尋ねた。

「はい?」 ジョアンはバックミラー越しにジニョンに視線を送った。

「ジョアンさん、あなたは・・
 夫から私の面倒を見るように言い付かったのよね」

「警護するようにと。」

「私といることが、あなたのお仕事なのね」

「はい。」

「あなたもそれを納得なさっている・・」

「もちろんです。」 ジョアンは力強く言った。

「・・・・そうは見えないけど。」 
ジニョンは助手席の背もたれに頬杖付いて彼を軽く睨んだ。

「えっ?」
「納得しているようには見えない」

「奥様・・・そんなことは・・」 
ジョアンは内心を見透かされたとばかりに、言葉を淀ませた。

「いいのよ。気を遣わなくても」

「そうではありません」

「でもひとつお願いがあるわ・・・私を呼ぶ時に奥様は止めて。
 私は奥様という名前じゃないの・・ソ・ジニョンという名前があるわ・・・
 “ジニョン”・・・言ってみて。」 ジニョンは命令口調で言った。

「・・・・・・」

「早く。」

「ジニョン・・さ・・ま」

「ジ・・ニョ・・ン」

「それは・・・」

「だったら・・“ジニョンssi”・・あなた韓国籍よね」

「・・・・・ジニョン・・ssi」

「いいわ。」 ジニョンは満足そうに微笑んで言った。

「・・・・・・」 
ジョアンは怒った表情の彼女が突然自分に笑顔を向けたことに困惑して、
思わず視線を逸らしてしまった。

「それから・・彼が・・フランクがどう言ったか知らないけど、
 あなたは私に四六時中付いている必要はないわ」

「それは駄目です」

「どうして?・・私はご覧の通り大人よ、自分のことは自分で守る」

「それは無理です」

「無理?」

「はい。ここでは・・特に我々の仕事は」

「ねぇ、ジョアン・・・そう呼んでもいいわね・・・
 フランクは・・・あなた達はそんなに危ない仕事をしてるの?」
ジニョンはそう言いながら、助手席の背もたれを抱くように腕を回して
ジョアンの顔を覗き込んだ。

「いいえ、そうではありません。しかし・・・・・」
ジョアンはジニョンが突然顔を近づけて来たことに驚いて、
思わず顔を窓際に背けた。

「あなた・・この仕事・・私のその・・警護?
 納得して無いでしょ?」

「・・・・いいえ・・」 ジョアンの顔は「Yes」と答えていた。

「わかり易いのね・・あなた」 

「・・・・・・」

「どうして嫌だって言わなかったの?フランクに」

「・・・・・・・・言いました。」 
ジョアンはしばらくの沈黙の後、観念したように答えた。

「それで?」
「・・・・・・」

「有無を言わさなかったのね」 
ジニョンは“想像できるわ”というように頷いて言った。

「・・・・・・ボスは・・常に起こるであろうことを想定なさいます
 それが稀有なことであったとしても、予知できる危険であれば・・
 そのお陰で、我々は今まで仕事上、危険に遭遇したことがありません。
 正直申し上げて、慎重過ぎると思うことさえあります
 どうしてそこまで警戒なさるのか・・・わからないことも時にあります。
 しかしボスは万事、どの場面であれ、物事を軽視することを
 私達にお許しになりません
 僕は・・その・・奥様の・・いえ、ジニョンssiをお守りすることが
 嫌なのではありません。
 ただ、今まで進めていたプロジェクトは僕も・・いえ私も・・
 少なからず係わって来たものです
 それが先日突然、半年間、あなたをお守りするように・・
 ボスに命を受けました。
 S.Jはボスとレオさん、ミンアさん、そして私。4人だけです。
 もちろん、頼りになるブレーンや忠実な現地スタッフはいますが
 決して人手が足りている状態ではありません
 それなのに・・・ボスは私を・・・私に・・・」

「自分の妻の警護を命じた・・・」 
ジニョンがジョアンの言い憎いであろう言葉を代わりに繋げた。

「いいえ・・それはきっと口実なんです。
 ボスは・・私がそのプロジェクトに必要無いと。
 ・・・つまり、ボスに見切られた。・・そう思っています・・あ・・」

ジョアンは胸の内を吐き出すように、ジニョンに向かって本心を語った。
しかし、その直後にジョアンは自分を嫌悪した。
決して言ってならないことを、言ってはならない相手に言ってしまった。
彼女の寛容さに、本心を簡単に引き出されてしまったことを後悔した。

「申し訳ありません。あなたにこんな話をするべきではありませんでした
 どうかお願いです。今僕が言ったこと・・忘れてください。」 
ジョアンは突然車を停めて、ハンドルを強く握り締めたまま言った。

「一度耳に入ったものは消えないわ」 ジニョンはサラリと答えた。
「・・・・・・・・・」

「ふふ・・ありがとう。良かったわ、話してもらえて・・・」
ジニョンの柔らかなその言葉にジョアンは顔を上げ、彼女を見た。

「私ね、知らない人と四六時中一緒にいるなんて息が詰まるの。
 でもあなたはもう知らない人じゃないわね
 あなたの胸の内を知ったから・・・」

「・・・・・・・・・」
「そうでしょ?」 ジニョンは満面の笑顔で微笑んだ。

「あ・・・は・・はい」

「ねぇ、ジョアン?あなたはフランクのプロジェクトを進めていたんでしょ?
 だったら、進めたらいいわ、これからも」

「進めるって・・」
「彼の仕事を裏からサポートすることならできるでしょ?」

「サポート・・ですか?・・」
「ええ、私も手伝うわ。」 ジニョンは大げさに腕組して見せた。

「あの・・ジニョンssi?」

「だってあなたは私と一緒にいることが仕事でしょ?
 逆を言えば、私があなたのそばにいればいいことよね」

「まあ・・そうですが」

「だったら。仕事なさい。・・わかった?
 そしてあなたが会社に、いいえフランク・シンにどれ程必要なのか
 彼に教えてあげるといいわ。」 そう言ってジニョンは腕組をした。

「・・・・・・」 ジョアンは正直ジニョンの言葉に困惑していたが、
満足そうに微笑み頷く彼女に、何も言えなかった。

「ところで・・」 ジニョンは話を変えて言った。「社名の、S.Jって何かの略?」

「社名・・ですか?・・アー英語で“Steal”“Jesus”
 この国の魂を盗むという意味が込められているんです
 もちろん、それは我々だけの隠語ですが・・」

ジョアンはそう言いながら、出会ってから初めて笑った。

「その方がいいわ」
「えっ?」

「笑っている方が素敵よ」 そう言ったジニョンの笑顔の方が・・・
≪ずっと素敵だ≫と、ジョアンは心の中だけで呟いた。





ドンヒョクはこれまでミンア達が集めていた資料の確認を終ると直ぐに、
受話器を取り、内線でミンアを呼んだ。

「はい、ミンアです」 
隣の部屋で待ち構えていた彼女は、直ちに受話器を取った。

「・・・ミラノへ行く。・・手配を頼む」 
「はい。準備は整っております。」

「ん。」
「奥様とジョアンは如何なさいますか」 ミンアは聞いた。

「置いていく」
「ジョアンに任せておいて大丈夫でしょうか」

「・・・あいつはそんなに信用無いのか」 フランクは笑った。

「いえ、そういうわけでは・・・そうですね、大丈夫。」 
ミンアは最後は自分に言い聞かせるように呟いた。

「10分後に出よう。夜には向こうに着きたい」
「承知いたしました。」

ドンヒョクは受話器を置くと、座ったまま椅子をくるりと窓側に回した。

≪ジニョン・・・君の怒りは頂点を極めるね、きっと≫
彼は心の中でそう呟きながら、小さく笑った。

さっき別れた後、ジニョンがさぞかし自分を睨んでいただろうことを、
彼は承知していた。
だからこそ最初から、彼女の顔をまともに見ようともせず、
そそくさと部屋に入ってしまったのだった。

ドンヒョクはこのイタリアにジニョンを連れて来たことを、最初から後悔していた。
その後悔が、自分の中で時間を追うごとに増していることもわかっていた。
そしてそれがもう、遅過ぎるということも。

ドンヒョクは椅子の背もたれを背中で強く押して天井を見上げると、
上に向かって大きく溜息を吐き、静かに目を閉じた。

≪本当に・・・≫


    ・・・「連れてくるんじゃなかったよ」・・・

















 



2011/03/29 00:13
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ラビリンス-4.ドンヒョクの街

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4.ドンヒョクの街








ドンヒョクのイタリアの事務所は、フィレンツェの大聖堂広場から
少し奥に入った通りにあった。

「この街は歩いて巡るに越したことは無い」というドンヒョクに従い、
S.M.N駅周辺の駐車スペースに車を止め、ふたりは肩を並べ歩いた。

赤い屋根に白壁や石壁、街並みの均整の取れた色合いは、
ローマとはまた別の趣があり、柔らかな風情を醸し出している。
ジニョンは時に深呼吸して街の空気を味わいながら、麗しき
ルネッサンスとの出会いを楽しんでいた。

フィレンツェは、街全体が美術館だと言われているほどの美しい街だ。
こうしてこの街が、その評価を維持し続けている事実は、元は
いつの時代かの、だれそれかの意思が強く働いたに違いない。
ジニョンは勝手な空想の中の、その誰かに感謝の気持ちで一杯になった。

ふたりは途中、“サン・ロレンツォ”という教会に立ち寄った。
事務所に一番近い教会らしく、彼がよく訪れていたのだという。
「素敵な教会ね」 ジニョンは中に入ってやっとその言葉を使った。
外観からは想像できない優雅さがそこにはあったからだ。

聞くと、この教会のファサードは未完のままなのだという。
それもまた、ドンヒョクがここを好む理由のひとつなのかもしれないと、
ジニョンは思った。

「どうして未完のままにしたのかしら」

「さあ・・・でも・・それがいいんだ。観光客も少ないしね」
ドンヒョクはそう言って笑った。

「そうね・・」

「ねぇ・・ここでもう一回結婚式なんて・・どう?」

「ふふ・・」
ジニョンは一週間ほど前にアメリカで挙げた式のことを思い出した。
レイモンドの立会いのもとふたりはやっと、生涯を誓い合ったのだった。
そこには三年前に結婚したソフィア夫妻の姿もあった。

『ふたりだけで挙げる』と言い張ったドンヒョクに、レイモンドが
『結婚に証人がいることも知らないのか』とお膳立てを全てやってしまった。
挙式に向かう間中、ドンヒョクは終始不機嫌な顔付きを露にしており、
ジニョンが取り成すも一向に効果は無かった。

この日、ジニョンの両親やドンヒョクの父、妹ジェニーの姿は無かった。
それは、近い時期にジニョンを理事夫人という立場で、彼の代理として
韓国に送り込む為に、取り急ぎ、ふたりだけで式を挙げようと、
ドンヒョクが計画したことだったのだが・・・。

『我慢の限界だったからだろ?』 
レイモンドの愛ある悪態は、ドンヒョクの機嫌を更に損ねた。
無論、その原因は、レイモンドの言葉が図星だったからに違いなかった。

家族の代わりにふたりの誓いを見届けてくれたレイモンドとソフィア夫妻
彼らもまた、ふたりの家族のような存在だった。

やはり10年ぶりに再会したソフィアが『私の半身よ』と言って紹介してくれた
リチャードという紳士は、ドンヒョクの仕事のブレーンでもある人物だった。

10年の間に、ドンヒョクは着実に事業を成し遂げていたが、そこには
彼の良き理解者である彼らの力が大きかっただろう。
ソフィア夫妻のドンヒョクに向ける暖かい眼差しが、それを如実に
物語っていた。

その時ジニョンは不思議な感覚に囚われた。
この10年の時が濃縮してしまったように、彼らと離れ過ごした時間が
まるで存在しなかったかのような錯覚に囚われたのだった。
自分自身もまた、彼らのこの10年に存在していたのだと・・・。


ジニョンはその日、赤いロードをレイの腕に引かれて、ドンヒョクの元へと歩いた。
ジニョンが祭壇に近づくに連れて、ドンヒョクの気難しそうな顔は綻んでいった。
しかしこの期に及んで、レイモンドがドンヒョクに彼女をなかなか
渡そうとしないことにドンヒョクの顔がみるみる強張った。

『冗談も通じないのか。面白くない奴だな』 レイモンドがそう言って笑うと、
ドンヒョクがジニョンの腕を彼から奪い取り、彼を睨み付け言った。
『面白くなくて結構。』

ジニョンはそんなふたりを呆れたように見つめながら、長い間待ち望んだ
ドンヒョクとの幸せを噛み締めていた。




「何が可笑しいんだい?」 
祭壇の前でジニョンが思い出し笑いしているところに、ドンヒョクが近づき、
彼女の顔を深く覗き込んで言った。

「ふふ・・結婚式の時のことを思い出してたの」

「ああ・・あの日は最悪だった」 ドンヒョクは口を尖らせて言った。

「最悪?」 ジニョンは彼を軽く睨んでみせた。

「あ・・いや・・そうじゃないよ・・レイが・・」

「ふふ・・・でも楽しかった」

「結婚式って楽しむものかい?僕はもっと厳かにやりたかった」

「充分厳かだったけど」

「そう?」

「ええ。そうよ」



≪式は実に厳かに進行した。≫
『汝・・・シン・ドンヒョク・・・病める時も健やかなる時も・・・・・・』

『汝・・・ソ・ジニョン・・・病める時も健やかなる時も・・・・・・』

『愛することを・・・誓います。』

そしてふたりは誓いのキスを交わした。

ジニョンが少し頬を染め列席に振り向くと、ふたりを見守る人達の
優しい眼差しがそこにあった。

ソフィアが満面に笑顔のまま、目を真っ赤にして涙を拭っていた。
リチャードはそんな彼女の肩を優しく抱き、その髪にくちづけていた。
レイモンドが感慨深げに、何度も何度も頷いていた。

ジニョンはその瞬間感極まり、突然ドンヒョクのそばを離れると
彼らの元へと駆け出した。
そして、ソフィアの胸に飛び込み、声を上げ泣いた。

『ジニョンったら・・困った花嫁さんね。泣かないの。泣かないの!』 
ソフィアがそう言いながら、ジニョンの背中を優しく叩くと、
ジニョンは更に泣きじゃくった。

『ありがとう』 ソフィアがそんなジニョンを抱きしめて言った。
『フランクを・・待っててくれて・・ありがとう、ジニョン・・』

それは、ジニョンにとって、何ものにも替え難い一日だった。

『あいつも泣いていたよ』
式の後、レイモンドがジニョンにこっそり耳打ちして、言った。
しかしそれをドンヒョクに言うと、彼はこともなげに答えた。
『レイが血迷ったんだ、きっと。』



「本当にもう・・・」 ジニョンはその時を思い出して呟いた。
「えっ?」

「何でもないわ。素敵な式だった。とても。」 ジニョンはきっぱりと言った。

「君がいいならいいさ」 ドンヒョクは少しだけ唇を尖らせてそう言うと
いつものように祭壇に向かい十字を切った。
ジニョンはそんな彼を横目に可笑しさを堪えながら、彼の十字を真似た。

≪本当はあなただって、すごく感動したくせに≫





「ここだよ」 教会を出て、数分のところでドンヒョクが立ち止まった。
ジニョンがその建物の前で、ゆっくりと周囲を見渡すと、斜め向こうに
大聖堂の赤い先端が見えた。
石壁に覆われたさほど高くないその建物は周囲のそれと違わず
ルネッサンスの歴史が残っていた。

ジニョンは以前に、彼の事務所がこのような場所にあるということを、
レイモンドから聞いていた。

≪フランクなら、イタリアの中でもミラノという都市を選ぶと思っていた
 あの街を選んだ男は、シン・ドンヒョクなんだ・・・
 ・・・・行ってみると、君もわかるよ、きっと≫

ジニョンはレイモンドが言った言葉がその時よく理解できなかった。
しかし今、こうしてこの街並みを歩き、この空気に包まれると、
彼が言いたかった意味が何となくわかるような気がした。

≪シン・ドンヒョクが愛した街≫ そしてそれは・・・きっと・・・

≪私が愛せる街≫

「どうした?」
「えっ?・・あ、いいえ・・・」

「この最上階だ。・・・と言っても、四階しかない
 それにエレベーターは無いよ。見ての通り、古い建物だから」
ドンヒョクは上を指差してそう言った。
ジニョンは彼の言葉を聞きながら、彼の指先を追って建物を見上げた。
「素敵」

「そう?」
「ん」

「それでは・・参りますか」
「ええ」




エントランスを入ると、大きく吹き抜けた中央に、りっぱな螺旋階段が
その存在を主張していた。
一階の天井の高さがかなりあるこの建物の螺旋階段を四つ分昇るのは
ジニョンには少し厳しいものだったが、ドンヒョクは憎らしいほどに
涼しい顔で段を進んでいた。

「んっん?」
三階目に差し掛かった時、ジニョンは咳払いしながら、無言で自分の手を
ドンヒョクに差し出した。
彼はしょうがないな、という顔を形だけして見せて、その手を取った。
「運動不足だな」

「その内慣れるわ」
「その必要はないさ・・君がここに来ることは無いから
 言っておくけど・・今日は特別。」

「私も何か仕事させて」
「だめ」

「え~どうして?」
「邪魔だから」

「うー」
「唸るな」

「じゃあ、私は何をしてたらいいの?」
「イタリアを満喫していたらいい」

「そんなの・・」
「観るところは沢山あるよ、この国は。きっと感動の嵐だ」

「そうだろうけど」
ジニョンはドンヒョクに手を引かれたまま、口を尖らして不満を露にした。

「着いたよ」

螺旋階段の終点には、廊下が左右にそれぞれ5メートル程伸びていた。
ドンヒョクはその左側に向かい、一番奥のドアを目指した。
ドアのガラスに「Ltd.S.J.」と書かれていた。

「株式会社・・S・・J・・ソ・・ジニョン・・」 ジニョンが読んだ。

「まさか」 ドンヒョクが笑った。

「冗談よ・・・ね、どういう意味?イタリア語でしょ?」
ジニョンが興味深げにドンヒョクの顔を覗いた時、部屋の中から、
物音が聞こえたかと思うと、こちらが開ける前にそのドアが開かれた。

「ボス・・お待ちしておりました」 
そこにはジニョンと同じ年頃の女性が立っていた。

「ああ、ご苦労様・・・・入って」 ドンヒョクがジニョンを振り返って、
彼女を中へといざない、彼女は彼に促されるままそこに入った。

この部屋もまた、ドンヒョクらしさで彩られていた。
本棚や机、椅子はローマのホテルの部屋とはまた違った趣の調度品だったが、
永い時代を生きて来たダークブラウンの洒落たデザインながら、
機能性を重視していることがよくわかった。
華美過ぎず、かといって、重厚感は損なっていない。
≪好きだわ≫ジニョンは思った。
壁には小さな絵が幾つか飾られていた。≪彼が好きなラファエロの絵≫

ジニョンが感動の眼差しで部屋を見渡している間、入り口のそばでは、
二人の男女がこちらを向いたまま直立して彼女の視線を待っていた。

「あ・・ごめんなさい」 ジニョンはふたりに失礼を詫びた。

「紹介しよう・・こちらは、秘書のミンア・グレイス・・・妻のジニョンだ」
ミンア・グレイス・・・理知的な美しい女性だった。
≪この人が、例の秘書なのね≫
ジニョンは心の中で昨日のドンヒョクの言葉を思い出していた。

「よろしくお願いします、Ms.グレイス」

「お目にかかれて嬉しいです。ミンアとお呼び下さい、奥様」
ミンアは毅然としながらも、穏やかな笑みを浮かべて、好意的に言った。

「あ、私も・・・ジニョンと。・・・」 
ジニョンはミンアに手を差し伸べ、二人はにこやかに握手を交わした。

「そしてこちらが・・・」
「キム・ジョアンと申します。」 
二十代半ばの若い男が、一歩足を進めてジニョンの前に立つと、
頭を深く下げた。
ジョアンはドンヒョクに少し面影が似ている綺麗な男だったが、
彼はジニョンに対して、緊張したかのような無表情な顔を崩さなかった。
ジニョンはその表情に気を取られて、握手するタイミングを失った。

「ジョアンが君と行動を共にする」 ドンヒョクがジニョンにそう言った。
「えっ?」

その時ミンアが緊張した面持ちでドンヒョクを急かすように言った。
「ボス。いらしたばかりで申し訳ございません。
 早速お耳に入れなければならないことが」

「ああ、わかった。ジョアン・・早速だが、今から彼女を頼む」

「かしこまりました。」 ジョアンは即座に答えた。
「ドンヒョクssi・・今からって・・私、今昇って来たばかり」
ジニョンはそう言って、今苦労して昇って来たばかりの階段の方角を指差した。

「悪いけど、僕は今から仕事に掛からなきゃならないようだ。
 彼が僕のアパートに案内してくれるから安心しなさい。
 あーそれから・・
 出掛ける時は必ず彼を呼ぶように・・ミンア・・」

「はい。」 ミンアは直ぐに用意していた携帯電話を差し出した。

「これが君のだ。ジョアンの番号や必要な連絡先が既に入ってる
 彼は随時、君のそばにいる」 
ドンヒョクはジニョンにその携帯電話を渡しながら、ジョアンを指して言った。

ジニョンは困惑を隠そうとせず、ドンヒョクから手渡された携帯電話と、
自分の前で依然無表情に立つジョアンを交互に見た。

「それじゃ。・・ミンア、状況報告を」 
ドンヒョクはジニョンに手を挙げて言った後直ぐに、ミンアに向き直った。
「はい。」 ミンアは即座に返事をして、彼の後に続いた。

「それじゃって・・ド・・」
ドンヒョクはジニョンの声を無視して、ミンアからの報告を聞きながら
別室へと入って行った。
ミンアは一度ジニョンに振り返り、「失礼致します」と頭を深く下げると、
ドンヒョクが入って行った部屋へと消えた。

「あ・・・」
ジニョンはしばし呆然とその場に立ち尽くしていたが、ドンヒョクは
戻ってはくれなかった。

「ふー」
彼女が溜息を吐いた時、隣でもうひとつの溜息が漏れたことを
ジニョンは見逃さなかった。

「ジョアン・・さんだったかしら・・・あの・・いいのよ、私、
 場所を教えて下さったらタクシーに乗って、
 彼のアパートに行きますから」 ジニョンは本気だった。
≪知らない人とずっと一緒だなんて、窮屈で仕方ないわ。≫

「いえ。そんなことをしたら、ボスに殺されます。」 ジョアンは真顔で言った。

「ころ・・そ、そんなこと・・・」≪あるわけないでしょ≫
ジニョンは軽く彼を睨むと、苦笑しながら続けた。
「本当に私のことは心配しなくていいですから・・・」 

「奥様。ボスの言いつけは絶対ですから。」 彼は引かなかった。

「・・・・・奥様は止めて?」 ジニョンはジョアンの目を見て言った。

「奥様は奥様です。」 ジョアンもまた彼女の目を真っ直ぐに見て姿勢を正した。

「・・・そう。」
ジニョンはジョアンの頑なな態度に、心の中で大きく溜息を吐いた。

≪それにしても・・・≫とジニョンは再度ドンヒョクが消えたドアを見た。

『それじゃ。』
ドンヒョクの先ほどの態度を思い出して、ジニョンはまた無性に
腹が立ってきた。

≪それじゃ。って・・・
  よくもひとりにしてくれたわね、ドンヒョクssi≫
  

こんな時せめて・・・



     ・・・≪キスのひとつくらいしない?≫・・・











※ファサード=建築物の正面のデザイン

※サンロレンツォ教会=メディチ家代々の菩提寺で15世紀にブルネレスキによって建てられた
               典型的なルネッサンス様式の建物。

【登場人物】
  シン・ドンヒョク(フランク・シン)この物語の主人公・実業家

  ソ・ジニョン ドンヒョクの妻・元ホテル支配人

  レイモンド・パーキン 実業家
    元アメリカNYマフィア界トップファミリーの三男にして
    そのパーキン家をマフィア界から脱却させた張本人
    フランクの強力なブレーンのひとり

  ミンア・グレイス フランクの弁護士兼秘書

  キム・ジョアン フランクの助手

  ソフィア・ドイル(現コーレル夫人)弁護士
    フランクのハーバード大学での同胞であり
    フランクが10代の頃からの良き理解者

  リチャード・コーレル  実業家
    ソフィアの夫・フランクによって、会社再生を果たし
    以来フランクのブレーンとなる



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