【創作】契丹の王子⑦
用意された馬車で屋敷に帰った私は、周囲から言われるがままに、横になりました。
やっぱり、疲れていたようです。
すでに屋敷の者たちは、懐妊のことを知らされているらしく、誰もかれもが、おめでとうございます、などと、私ににこにこ笑いかける一方、何か食べたいものはあるか、気分は悪くないか、などと、あれこれと気遣っているようでした。
また、長老家をはじめ日頃懇意にしているひとたちや出入りの商人たちから、早くもお祝いと称して使者がやってきたりしましたので、その応対に、侍女たちは追われているようでした。
そんな気ぜわしい空気がただよう中で、お城から届いたという豪華な夜具にくるまれたまま、私はひとり考えていました。
あんなことをいわなければよかったと・・・。
いいえ、あの少年の命を助けてくださいとタムトク様にお願いしたことじゃありません。
母上様のことを口にしてしまったことでございます。
あの方の、母上様への思いは、十分わかっているつもりでいました。
母上様が契丹の国にとらわれたまま亡くなられたことも、そのためにタムトク様が幼い日々をどんな思いで過ごし、王となってからどんな形で復讐を果たされたかについても、直接あの方からお聞きしていましたから。
でも、それほど大きなものをあの方の中に残しているとは、正直いって思っていませんでした。
タムトク様は、強く大きく、いつも堂々としていて、この国の誰からも愛されていらっしゃいました。
そして、その広い胸で、周囲をあたたかく包んでくださる方でした。
そんな方が、内側に抱えていた痛み・・・。
王として堂々とふるまう中で、隠し通していた心のトゲ。
いいえ、それは違いますわね。
サト殿やジャン将軍ら、ごく近くに仕える方々にはわかっていたことでした。
そして私も、本当は気がついていたのでしょう、
ただ、ちゃんと見ようとしなかっただけ・・。
あの方のやさしさ、大きさに、いつまでも甘えていたかったのかもしれません。
たとえば、もうご存知でしょうけど、私は、倭にいたころ、幼いワタルと負傷したサト殿を守るためとはいえ、侵入してきた賊の一人の命を奪ってしまったことがありました。
それはあなたのせいではない、いたしかたないことだ、誰もがそう言いました。
でも、私は、血で汚れたこの手が恐ろしくて・・・。
タムトク様に再会したとき、私は穢れた自分があの方にはふさわしくないような気がしていました。
そんな私を、タムトク様はゆったりと受け止めてくださったのでした。
『自分と愛する者たちの命を守ることは罪でもなんでもない、
・・・そなたが罪だと感じているものなど、
私がいくらでも背負ってやる。
そなたの罪も、それからそなたも、すべて私のものだ。』
そんな言葉を耳にしたとき、この方はなんという方かと思いました。
そして、そんな方とめぐり会えたことに、私は素直に感謝しました。
タムトク様とは、確かにそれだけの広がり、大きさを持った方でした。
なのに、それだけの大きさを持った内なる部分に、突き刺さっていた小さなトゲ、ひそかに息づいていた痛み・・・。
そして、それに気がついていたはずなのに、小ざかしい言葉で、その傷口を広げてしまった私。
あの方の悲しみ、孤独、その深さをちゃんと見ようともしないままに・・。
そして、そのことは、直接あの少年の運命にかかわってくることになるのでした。
タムトク様は冷静で中立な方でしたが、あの冷ややかな、それでいて悲しい瞳の色から考えると、もしかしたらあの少年に厳しい処断を下されるかもしれない・・。
でも、それは、あの少年だけに向けられるものではないのです。
ワタルもチャヌス様もこの生まれてくるお子も、『そのこと』を引きずっていくことになるのですから。
そして、それでは、
なによりも、あの方の中に刺さっているトゲだって、
いつまでも痛いままなのに!
そんなふうに思い悩んでいたとき、部屋にやってきたのは、アカネ殿に代わって屋敷の中を切り盛りするようになった、長老家出身の侍女頭、ウネでした。
ウネは、『タムトク様からのお文』を手にしていました。
言い忘れましたが、私は高句麗に来てから漢という国の文字を学んでいました。
当時こちらでも、文字を自在に操ることのできるのは、お城の高等文官か一部の貴族の方々だけでした。
漢の文化を取り入れることに熱心な長老家は別として、ほとんどの女人は文字などまるで別世界のことでございました。
でも私は、それが、離れて生活することの多い私たちを結ぶものになりそうな気がしましたので、お城の中で、ワタルたちといっしょに教えていただくことにしたのです。
難しくはなかったかって?
それは、もちろんたいへんでしたわ。
ワタルにもすぐにおいていかれましたし・・。
私も必死に勉強したんですよ。
タムトク様も、折をみては、私の手習いを見てくださいましたし・・。
・・うふふ、それはとても楽しかったですわ。
あの方は留学した高等文官顔負けの知識を持っていらっしゃいましたから、私など赤子のようなものでしたでしょうけど、ひとつずつ、それは熱心に教えてくださいましたの。
『そなたは、見込みがあるようだ。』
そんなふうに、にこにことほめてくださって・・。
ええ、そうです、あの方が教えてくださったから、
私のような者でも、どうにかこうにか片言ながら漢の文字も読めるようになったんです。
でも、ワタルにはとてもかないませんでした。
若さというのは恐ろしいものですね。
あの水を吸い込むような吸収力に、わが子ながら、私はひそかに舌をまきました。
ワタルのことはいずれお話するとして・・、そうそう、タムトク様からの文のことです。
そこには、『愛』『慈』『体』『子』『誠』など、私の読めそうな漢の文字が並んでいました。
あの方のやさしい気持ちが痛いほど感じられて、私は涙ぐんでしまいました。
でも、あの少年のことは、ひとことも触れられていないようでしたけれど・・・。
長老家で教育を受けたウネは、興味深々と言った顔で言いました。
「・・・タムトク様、何と書いてこられたんです?」
「秘密です!」
私がすまして言いますと、にっと笑って、
「はいはい、秘密ですね、わかっておりますよ、
私だって、タムトク様のお文をあれこれと詮索したくはございません。
でもね、ちょっと気になる話を小耳にはさんだものですから。」
気になる話?
怪訝な顔の私に、ウネは、はい、と言って続けたのです。
「・・詳しいことは存じません。
ただ、タムトク様がお方様のことをひどくお怒りで、
そのために、こんなおめでたい日だというのに、お屋敷にお帰りにならないんだって・・。」
まあ!
なんといっていいかわからない私に、ウネは左手をひらひらさせて続けました。
「だから、私は、そんなことあるはずないって、そう言ったんですよ。
でも、出陣されているのならともかく、お城にいらっしゃるのにこちらにお見えにならないっていうのは、どうしてかしらってみな申しますので・・・。
何かおかしな噂でもたったら、また側室をお薦めしたらどうかなんて、
妙なことを企てる輩も出てくるかもしれないじゃないですか!
そんなことになってもつまらないと思いましたので、あとでお方様にお聞きしてみようかと・・・」
「・・タムトク様は、政務でお忙しいのよ。」
「お方さま、仕事が忙しいっていうのはですね、昔から殿方がよく使う手なんですよ。
いかにお忙しいって言ってもですねえ、こんな日は何があろうとも、
こちらにおいでになってお祝いのお膳を囲むっていうのがふつうなんでございますからね。」
私は思わず笑ってしまいました。
『ふつう』という言葉がおかしかったからです。
「タムトク様は、ふつうの方じゃないわ。残念ですけど・・・。」
「そ、そうではございますけど・・。」
タムトク様と私にとって『ふつう』という言葉は、特別の意味を持っているのです。
でも、そんなことを、彼女が知っているはずもありません。
それでも、ウネは私の手の中の文を見て、にっこり笑って言いました。
「でも、このような文をくださるなんて、私の取り越し苦労でしたわ。
お祝いのお膳は、明日でもようございましょう!
さっそく、お城に使いを出されて、お待ち申し上げておりますって、
タムトク様にお伝えしてはいかがですか?」
ウネはそこで勢いこんで、得意の長いお説教を始めました。
「お方様、いつも申しあげていますように、なんだかんだと言っても、殿方は素直でしおらしい女人がお好きなんですわ。
賢いお方よりも、むしろ少しぼ~っとしているくらいのほうが、時には好ましいと思うものなんです。
お城でタムトク様との間にどんなやりとりがあったのか存じませんけど、
せっかくタムトク様が文などくださったのですから、
ここは素直にお詫びを申し上げてですね、
お慕いしておりますと、そうおっしゃったほうが・・・」
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