廃墟の風景 その3
弥勒寺跡。
今度は所変わって百済の遺跡。
まず、この本の全編に渡って言えることだけれど、写真に明確なキャプションがほしい。
彼が本国の記者会見で語っていた誤字、257ページの下から二段目「西塔」は「東塔」、というのは日本語版ではどこのことなのでしょうか。
日本語版では正誤表には載っていなかったから、原稿段階での誤り?
と、ここで思ったのが…
入稿はまず間違いなく紙でなくデータでだろうけれど、彼が自分自身で打ち込んだのかな?ということ。あれだけの文章をタイプするってだけでも大変だったろうなあと思います。
この247ページの塔、五重塔ということで自動的に法隆寺を思い浮かべてしまうけれど、こちらは木造なのか石造なのか…写真を見る限りでは石っぽく見えるけれど…
現在補修中なのが西塔、復元されたものが東塔。
248ページの、新品のようにぴかぴかに復元されているのがおそらく東塔。
257ページの詩の中で、
「歳月の痕跡が感じられないという理由で愛されないこの塔」
というのがこれなのでしょうね。確かに綺麗過ぎて、私もあまり興味を引かれないですね…
でも、254ページの写真は、月明かりに浮かんだ東塔のシルエット、その欠点である「歳月の痕跡」のなさを夜の闇が隠し、とてもとても美しいです。
廃墟好きの私がこの項で最も興味を持ったのはやはり、250ページの復元中の西塔のものと思われる遺構。
251ページでアップになっているのが250ページの遺構のど真ん中にある、塔の心柱を何百年も支えていた土台の石なんですね。下のお地蔵さん(?)みたいなのも気になる。
弥勒寺は武王チャンが妃ソンファ姫に贈ったタージマハールだったのではないかという考えは相当にロマンチックですよね。国立博物館の章で出てきた、
「伽耶文化にすごく惹かれるから前世は伽耶人かも」
「先輩の前世は高句麗人で伽耶人の女性に惚れたからだろう」
「…そうだろうか?」
というようなやりとり。後輩さんのよりロマンチックな考察にちょっと引っ張られるところからして、彼は男性としてはかなりなロマンチストなんでしょうね。お会いしたことはないので、そんな気がするだけですが。
249ページで、彼が口ずさんだというバッハのゴルトベルク変奏曲のアリア。
クラシックに特に詳しいわけではないけれど、中でもバッハは好きで少し集めています。
どこかの貴族おかかえのチェンバロ奏者、ゴルトベルク君(当時14歳)のためにバッハが書いたというこの曲。もともとチェンバロの為に書かれたものということでゴルトベルク君に敬意を表して(?)私はトン・コープマン氏によるチェンバロヴァージョンを良く聴いているけれど、彼が車中で聴いたのはグレン・グールド氏によるピアノヴァージョン。
あの風景には、チェンバロよりはピアノのほうが合いそうですね。
そしてピアノの音色より、当代一甘美な声の持ち主の俳優ペ・ヨンジュンのハミング。是非早く元気になっていただいて、彼のあの声で、あのアリアを聴いてみたい。
(自分的には、あれは昼よりは夜のイメージだと思ったり・・・)
[追記]
日本語版でも同じ257ページの、彼が朗読した詩の下から3段目の「西塔」、こちらが誤植なんですね。
「今のぴかぴかの東塔に多くの人の手の温もりが加われば1000年後には愛されるようになるかも」という前段のことばがあって、「わたしの手の温もりと夢も1000年後に残ることを願う」わけですから…
結局、日本語版は校正にも正誤表にも間に合わなかった、ということ。
・・・翻訳の方が文脈を考えて訳していたら気づいてもらえたかも。
廃墟の風景 その2
宮城県多賀城市に、『多賀城政庁跡』という史跡があります。
ここは奈良~平安期に陸奥国府が置かれていた場所で、創建は8世紀初頭。
皇龍寺は7世紀中頃の完成ですから、半世紀程タイムラグがありますね。
平城京跡、大宰府跡と並んで三大史跡と言われているそうです。
以前訪れたことがあります。
広さは1キロ四方ほどで、新羅の首都に建立された大伽藍皇龍寺とは地方政庁ゆえ比ぶべくもありませんが、正殿の遺構は、土が少し高く積まれた基礎部分に石造りの階段があり、その上に柱を支える土台石が整然と並んでいて、あの本の表紙をみた途端、すぐにここのことを思い出したのです。
日本と朝鮮半島あるいは中国大陸を行き来するには、未だ陸路海路問わず命の危険が伴う長い旅。
そんな時代に、朝鮮半島から建築技術を持った匠たちが海を渡ってやってきて日本の技術者たちにその技を伝えてくれたか、あるいは日本から「ものならはし」の技術者たちが、現地で学んだ後何十年後かに帰国して、そして都から遠く離れた陸奥にその技が伝えられた・・・のかもしれない。
そんなことをぼんやり考えるだけで、何だかわくわくしてきます。
廃墟の風景 その1
この本の表紙がプレスリリースされた時、遺跡・廃墟好きの私はぐいぐい引き込まれ、ここはいったいどこだろうと、とてもとても気になっていました。
おそらく木造建造物の柱の土台石だけが残された遺跡だろうけれども、石の大きさから推察するに、相当太い柱が広大な敷地に整然と並んでいたであろうかなり大きな建造物。それが皇龍寺跡でした。
本を入手して早速このページを開き、ルートマップで場所を確認してみると…
あれっ?載ってない?
というわけでちょっと調べてみましたら、慶州尚道の慶州市というところにあるんですね。
さすが一時栄華を誇った新羅時代に建てられた最大規模の大伽藍というだけあって、8800坪。広すぎてちょっと想像できない。
高麗時代に元の侵攻により焼失したそうです。日本の室町期の元寇はこの少し後にこの流れで起こるんですね。
あのような場所で、現代の超高層建築を想起し、古代の国威発揚の巨大寺院建設と比べてそこに関わる人々の心に思いを馳せる彼は、やはり一味違うお方のようです。
はじめに
こちらでは初めてのブログです。
ペ・ヨンジュン氏の『韓国の美をたどる旅』、予想をはるかに超える濃い内容に、びっくりしています。
私は彼のファンになってから日も浅く(太王四神記以前はあまり注目していませんでした)、彼の人となりについてはあまりよく知りませんでした。
でもこの本は、ドラマや映画である役柄を演じる姿以外では、『ヨン様』と呼ばれ、穏やかに貴公子のような微笑を浮かべているところしかほとんど目にしたことのなかった自分に、この人はどうも日本で一般的に思われているよりいろんな意味ですごい人かも…、と思わせてくれました。
古代、大陸から朝鮮半島を経由して、日本にさまざまな文物が渡来しました。
この本に出てきた仏教、陶磁器、お茶などのほかに、建築技術、青銅、鉄などなど、ありとあらゆるものを、大昔の人たちが海を行き来して伝えてくれました。
その後、長い年月を経て、朝鮮半島では廃れたりしてしまったものでも、日本で独自の発展をみたり、あるいは半島に残っているものとは全く違う形に昇華されたりして現代に残っているものがたくさんあります。
彼の本に登場してきたさまざまなものについて、自分なりにただ単なる落書きみたいなことをしていきたいなと考えました。それによって、彼の書いた内容の自分なりの理解がより一層深まるのではないかなと思います。
といってもズブの素人な上に、韓国には一度もいったことがないので、本当にただの落書きです。
明らかな事実誤認、間違いを書いていたらご指摘くださるよう、お願いいたします。
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