2007/07/01 15:37
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

千島風露

Photo

先日、写真家・星野道夫氏の『Alaska星のような物語』というドキュメンタリーを見ました。 チャンネルをパカパカと変えていてぶつかっただけなので、最終章の終わりの20分ほどだけ。それなのにとても衝撃的な感動があり、胸がいっぱいになりました。繰り返される生命の営みの映像と写真、星野氏の綴った言葉の朗読・・・彼の見たアラスカの自然に吸い込まれてしまったようです。最初から見たかったワンo(;△;)o とりあえず写真集を本屋で立ち見し、文庫本になっているダイジェスト版2冊とエッセイを1冊を購入しました。

 

彼の写真や言葉から自然の偉大さと人とは何かをまた考えさせられました。人間以外の生命はその環境を受容して、ひたむきに生きています。ただ“生きる”ということに一所懸命なのです。世界をどうかしてやろうとか、何かを変えてやろうとかいうのはありません。自然のままの姿ということができます。

 わたしたちはある風景に魅かれ、特別な想いをもち、

 時にはその一生すら賭けてしまう。

 風景とは一つの山であったり、美しい川の流れであったり、

 その土地を吹き抜けていく風の感触かもしれない。

 それをもし自然と呼ぶのならば、

 人間がどれだけ想いを寄せようと、

 相手はただ無表情にそこに存在するだけである。

                      星野道夫 著 『イニュック〔生命〕』より

人間は自然を自分のものにしようと企んでしまうのかもしれません。管理できるものであると思い込んでいるのかもしれません。そんなことあるわけないのに・・・。地球温暖化防止について世界の国々が話し合いを持ちますが、何か寂しいものを感じました。

 

自然の中にあっては人間のつくったルールは意味をもたないと思いました。彼のエッセイの中に、氷海に閉じ込められて動けなくなったクジラを人間が助けたという話がありました。きっと太古からそのようなことは常にあったことで、そのクジラは厳しい環境で暮らすホッキョクグマの生命を多く支えてきたことであろうということです。

ホッキョクグマはあの大きな身体を維持するために、どれだけの食料が必要であるのか・・・。氷の上を歩き回り、穴から顔をだすアザラシを捕って食べます。それが彼らの一番の食料だそうです。ここ最近、北極の氷が少なくなり、彼らは食事がとれなくなっているとか。そういえばMSNビデオで子を連れた母ホッキョクグマが痩せていて、25Kgくらいは体重が少ないのではないかというのをみました。ホッキョクグマは絶滅の危機にあるようです。星野氏がこのことを知ったらどんな言葉を語ったでしょうか。

星野氏の写真にはホッキョクグマだけでなく、アラスカに棲む多くの動物が写っています。動物は生きている時間の多くを食料を手に入れることに費やしています。また、子を産み、育てることにエネルギーを使っています。それらのために同種同士の戦いがあったり、食物連鎖による狩りがあったりしますが、彼の写真はつながっていく生命を表す優しい親子の場面が多いように感じました。本屋で写真集を立ち読みしていた私の顔はニヤニヤと変だったかもしれません。

 

冬を越せたものだけが春を生きていくことができる・・・というのは自然の中では当たり前なんですね。ドキュメンタリー番組の終わりころ、冬から春になるアラスカを背景にこんな言葉が朗読されました。

 きっと同じ春がすべてのものに同じ喜びを与えることはないだろう

 なぜなら、喜びの大きさとはそれぞれが越した冬にかかっているのだから。

 冬をしっかり越さない限り、

 春をしっかり感じることはできないからだ。

 それは幸福と不幸のあり方にどこか似ている。

そうそう、そうだよなあ・・・と私は大きくうなづいてしまいました。人はうまくいかなかったり自分の意と違うことがおきると、「~してくれない」「~して欲しい」と他者を攻めることがあります。人間ひとりで生きていけるわけではないのですが、うまくいかないことを他者が悪いからという考えしかもてないとしたら、それは自己中心的かとも思います。自分に力がないから周りに変化を求めているというか・・・。それとも、そういうしかないほど社会が病んでいるのでしょうか。だとしても人間のせいです。

生きていける能力を教えていくことが育くむということだと理解します。アラスカをはじめ地球に棲む動物は、人間のせいで環境が変わっても自らでなんとか生きようと努力します。それは彼らが自然そのものだからなんだなあと思います。種としての生き方を子に伝え、生命は繰り返されているのですが、それで生きていけなかったら絶滅していくのでしょう。人間は?

 

星野氏は1996年、グリズリーに襲われて亡くなったそうです。旅人として入ったアラスカの自然でしたが、そこで生活するようになり、いつしか自然に溶け込んでしまっていたと思えます。

 

今日の写真は、私の撮影の中で一番北方の場所、10年ほど前に旅した礼文島で撮影した千島風露です。海霧が立ち込めるので、花は細かな水滴で覆われていました。この島は海に面した断崖絶壁に本州でいう高山植物が乱舞しています。

花をできるだけ多くと思ってまとめたら小さくなっちゃって見にくいですね。右クリックで保存して、再度ファイルを開けて見ていただくと、大きく見えます。

礼文は2回訪れたことがあります。夏のほんの短い間に、島民の何倍もの人数の方が上陸します。2回目に訪れたとき、観光用の大型バスが縦横無尽に走れる道路が整備されていてびっくりしました。私は多くの花をまだみることができましたが、いつかここにしかない固有の花がきっとなくなってしまうのだろうなあと恐くなりました。

左は礼文薄雪草といいます。エーデルワイスと同じだとか。まだつぼみでした。

標高50mくらいのところで見られます。この花と海が同時に見える風景があります。

 

下は礼文から見た利尻島です。霧(雲?)の合間に見えた利尻富士は天空の城ラピュタのようでした。

追記】『Alaska星のような物語』のDVDを購入しちゃいました。


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