2008/09/13 21:41
テーマ:感情と心 カテゴリ:趣味・特技(その他)

駅コンコース

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自分がうまくコントロールつかないからか、他人とのコミュニケーションが下手なのかわかりませんが、最近は何か言われてイライラすることが多いように思います。ちょっとしたことで怒りを主とした不快な感情が沸き起こってくるのです。

「怒り」は「攻撃行動」を生む情動ということです。その源には、他人を否定したい欲求と自分を否定することを認めるという矛盾が含まれているとか。攻撃の発動は自己を防衛し他人を否定する欲求の実現なのだそうです。自尊心(自己を肯定する気持ち)が傷つけば傷つくほどイライラするそうです。
「怒り」の感情の裏には「〇〇してくれない」という不満のメッセージが隠れているということのようです。それは「悲しみ」の感情とも言い換えられるとか。「悲しみ」には攻撃性はありません。したがって、同じ不快感情でも自己を防衛するために沸くのが「怒り」ということでしょうか。「悲しみ」よりも「怒り」を感じるのは、傷つきたくない自分がそこにあるということなのかもしれません。

「悲しい」気持ちを感じたくなくて、「怒り」という攻撃行動をもった感情に変えているともいえます。つまり、自分を否定することができないから、「怒り」という感情で相手を思い通りにしようとする心が働くとか。その自分の怒りを表現した行動は、「私の不快はあなたのせいだから、あなたは私の欲求を満たすようにするべき」と感じられるコミュニケーションになるでしょう。



聖徳太子の定めたといわれている十七条憲法の十条を思い出しました。


十に曰く、心のいかり(忿)を絶ち、おもてのいかり(瞋)を捨てて、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われ非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、たれかよく定むべけんや。あいともに賢遇なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきごとし。ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。


心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さないようにし、人が自分と違うからといって怒らないようにせよ。人には皆それぞれ心があり、お互いに譲れないところもある。彼がよいと思うことを、自分はよくないと思ったり、自分が良いことだと思っても、彼の方は良くないと思ったりする。自分が聖者で、彼が愚者ということもない。ともに凡人なのである。是非の理は誰も定めることはできない。お互いに賢者でもあり愚者でもあることは、端のない環のようなものだ。ということで、相手が怒ったら、自分が過ちをしているのではないかと反省する。自分一人が正しいと思っても、衆人の意見も尊重し、その行なうところに従うがよい。
(訳:http://www.geocities.jp/myjmhs/Kenpou17.htmlより)


これって仏教の教えなのだそうですね。わかっちゃいても難しいなあって思います。いつもこう思える人間こそが聖者かもしれませんね~。


すぐにイライラしてしまう私は、常に他人の言葉から自己防衛したいほど心に余裕のない愚者・・・かなあ。私には日々何か反省する過ちがたくさんあるってわけだわさ。聖徳太子さんよ、なんか私、これ読んで落込じまったよ。「怒り」でなく悲しいんだからいいのか。(自問自答;;;;(;・・)ゞ)






駅のコンコースの写真は、少し色を調整しました。白黒でもなくカラーでもなく・・・。いろんな人がいろんなことを考えて往来しているのかなあって思いました。

それからイライラする気持ちを和らげるようピンクの花2つ(名前がわからない)と虫取り親子です。


*tenさん、タグってヤツを使って写真のアップができるようになりました。tenさんが作ってくれたのをコピペして使いまわししていますが・・・。見本は削除していただいてもよさそうです。ありがとうございした。


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