金町遠征(後編)
金町で昼食を済ませて、コモエスタちゃんとキバ島もとい関島編集長と品川に映画を観に行きました。
現地でトチ子ちゃんとも合流。
FFCの『MY MOTHER IS A BELLY DANCER』以来となった映画鑑賞ですが、この日の作品は『Sweet Rain 死神の○度』。
この映画は、コッキーが宮○輝先生、筒○康隆先生と同じぐらい敬愛して止まぬ人気作家・伊坂幸○郎先生の「死神の○度」が原作です。
近年、彼の著書が相次いで映画化されているのですが、個人的にはやはり原作の方が良いと思っています。
この映画も、その点では他の映像化作品と同様だったように思います。
しかし決してデキは悪くなく、むしろ良い映画といえるのではないでしょうか。
ここでコッキーは、いつものように「活字を映像化する」ということについて考えてしまうのです。
コッキーは小説も映画も大好きですが、小説の映画化という挑戦は非常に難しさを伴うものではないかと思うのです。
活字だけを読んで物語を把握し、登場人物について―描写にない人となり、容貌、声などを―想像することは、読者にとって一種の贅沢です。
例え100人が同じ物語に触れても、読者たちが抱く主人公のイメージは必ずしも同一ではなく、いやほぼ100%同一であることはありえず、100の脳内に100通りの「主人公像」が存在しているはずです。そうやって想像することが、大きな楽しみのひとつだといえるでしょう。
ところがこれを誰かが映像化してしまう。監督が、あるいはキャスティングを務めるひとが、これまで読者が自由に抱いていた「像」を具現化してしまうのです。乱暴に言ってしまえば、一読者が自分の「主人公像」を他の読者に押し付けてしまう、といった行為でしょうか。
だからよくアニメ化などのケースでは、「想像してた主人公の声と違う!」なんていう感想が聞かれるのです。
当然これは人物だけに限った話ではなく、そこに出てくる風景などにも当てはまりますネ。
漫画家の水木し○る先生は、多くの妖怪を具現化しました。それまではある程度共通のイメージを抱かれていたものの、描かれることによって具現化された妖怪たちは、各個人の想像力に任されていたイメージの「のりしろ」を切り取られたのです。
これによって、妖怪たちが人間に与える恐怖感はやや目減りしたのではないでしょうか。見たことがないから想像に頼って妖怪像を描いていた人々。とめどなく自ら想像することにより、さらに妖怪に対する恐怖感を増幅させていた彼らですが、「この妖怪はこうですよ」とあっさりと絵によって全貌を曝け出された妖怪たちに、もはや恐怖感など抱きようもありません。
(以前このことについて書いた文を読んだことがあるのですが、著者の名前もタイトルも思い出せません…)
話が逸れましたが、映像化するということは非常に難しい挑戦だと、コッキーは思います。しかし決して否定しているワケではなく、むしろ映像化することに期待しているからこそ、そういった作品を見続けているのです。
だいたいが、原作が好きだから映画化されたものも観ているワケで、よほど原作をぶち壊していない限りは、映画にもそれなりの評価が与えられるんですよね(゜▽゜)
さて伊坂先生ですが、彼の著書の中でもコッキーがもっとも好きな「重力ピ○ロ」もまた映画化されるのだとか。やっぱり観に行ってしまうだろうなあ…楽しみです!
以上、前編は「フットサル日記@金町」、後編は「活字の映像化について@品川」でした!
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