2009/04/12 13:40
テーマ:仕事 カテゴリ:趣味・特技(その他)

桜花 咲きかも散ると・・・

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桜花 咲きかも散ると 見るまでに
    誰(たれ)かも此処(ここ)に 見えて散りゆく  

          
 柿本人麻呂歌集  【万葉集 第十二巻・3129】
 
桜の花が咲いたと思うとすぐに散っていくのを見ているようだ。
誰かがここに見えたかと思うと、またすぐにいなくなってしまうのが。


この歌は、旅人がある場所で出会っては別れていくようすを桜の花にたとえているのだそうです。「散りゆく」という言葉には寂しさや悲哀が込められているのでしょう。「ここ」で見た風景ではありますが、人の一生での出会いと別れのはかなさを感じます。
この短い言葉からたくさんのものを想像して、その景色や詠んだ人の思いを自分の心に引き込むことができます。つまり、この言葉の羅列は単なる現実の写しではなく、人の体験した世界の表象であるということがわかります。


 

私は以前から自分の体験を言葉にすることについて興味がありました。特に仕事においては職人を自負する私ですから、技術は目に見える行為のやり方だけでは説明できないと思います。つまり、私の仕事は「客観」という表現だけでは伝えられないのだということです。

今年の1月に私は“ナラティフヴ・アプローチ”という研修を受けにいきました。
“ナラティヴ”というのは「物語・物語る」という意味で、ナレーションやナレーターと同じ「語るnarrate」を語源としています。「語る」行為より「語られた」内容に重点をおいているようです。
「ナラティヴ」は時間の流れを持ち、登場する人や物の空間的な関係を説明します。しかし、連続して起きたことや登場させるものは語り手によって前後したり、省略されたりします。また、語りは語り手が聴き手に向ってする行為で、内容は個人が何をしたかだけでなく何を感じたかも含めたものになります。そして、聴き手はストーリーを自分でイメージしながら登場人物のひとりとして追体験できる特徴をもちます。ちょうど小説のように。
つまり、ナラティヴは語り手の自伝ストーリーであるということだと思います。

昨日の私を言葉にしてみます。下記の2つは同じ出来事ですが、明らかにイメージが違うと思います。

①昨日の朝、私は桜の花を撮影するために出かけました。写真は約500枚撮れました。

②私はお天気に誘われて、早朝からカメラを持って出かけました。気がつくと500枚近い写真を撮影していました。それは、青い空を背景にした桜花が美しく、夢中でシャッターを押し続けたからです。

①はただ事実を羅列しただけですが、②は出来事や登場するものをつなげる筋があります。登場するものに「どのように」「どうして」「なぜ」という意味づけがされているということです。人の体験したことですから、何に感じたのか、何を考えたのかがあった方が、同じ事実の伝達でも理解しやすいわけです。私たちがニュースで痛ましい事件を聞いた時、「なんでそんなことしたのか」「その人はどんな人なのか」ということも知りたくなります。それと同じことだと思います。

  


私は研修を受ける動機と研修後の感想を下記のように書きました。

「目に見える技術や記録として残された看護は、看護師から発信された最終的な結果なのだと思う。人が生きることは感じることであり、看護が看護師という人によってもたらされるものならば、その人が患者に巻き込まれて感じ、考えたことがケアの始まりなのだと思う。参考書には載っていない看護を支える自分の内にあるものを表現できるようになりたいと思っている。」

「私たちは日ごろ、情報、根拠、エビデンス、マニュアル、客観的、成果などという科学が生んだ言葉に囲まれて働いている。科学はデータの普遍性を追究するもので、そこに科学者としての個人は存在しない。現象を細かな分析や全体から統計学的視点で意味づけて、できる限りの絶対性を求めているように思える。しかし、個人におきたことは統計的な数値には当てはまるものばかりではなし、すべてが可視化されるもとも言いがたい。もしかしたら、何パーセントかの確率で絶対からはずれることがあるかもしれない。ナラティヴは一回しかない出来事を個人の経験として意味づけていく過程であると理解した。科学がどうしても捨てなければならない人間個人を表現できる方法であると思った。」


後輩たちに伝えなくてはならないのは、知識や手順ではないように思っています。また、人が成長していくには芯となる哲学というか、各々自分を支える土台がないとせっかく学んでも絵に描いた餅になるようになってしまうのではと思います。
私が伝えられる共通する考え方の一つは科学的方法から導かれたものかもしれません。しかし、人間と人間のつきあいを仕事とする医療の技はそれだけではないと思います。かといって、「こうである」と主張できるものをもっているわけではないので、日常の中で少しずつでも話せるようになれればいいし、伝える手段としてナラティヴという方法を学んでみたかったのです。

  
  


茂木健一郎氏の『クオリア降臨』という本を少しだけ読みました。「クオリアqualia」というのは青い空を“青い”と感じること、豆腐を口にいれた時にツルンやひやっと感じること、風が皮膚に当たった時にくすぐったいように感じること・・・などのようなことらしいです。神経細胞が電気的信号で脳に送る情報が統合されてできた感じというか、体験ということかな(詳しくは茂木氏の「クオリア・マニフェスト」というサイトにあります)。ムズカシイ(゚-゚;)

『クオリア降臨』は芸術に包括されているクオリアについて述べられているのだと思います。その《科学と文学の間に》に下記のような文がありました。

生の体験の一回性の中に、この世界の成り立ちに関する普遍的なるものの感触が忍び込んで来ている。すぐれた科学の成果と、良質の文学の味わいには、何かが共通している。両者が提示する「世界はこうなっている」「人間はこんな存在である」という世界知の由来するところは、実は同じなのではないか。その言葉にならない、一つにつながった感触の山脈を、私たちは「科学」とか「文学」といった、人為的な分水嶺で分けようとする。



私は自分の体験を自分の語彙の中からでしか伝えられないので、普遍性のあるものではないかもしれません。でも、聴き手側に私の語りと共通する部分があったとしたら、とても嬉しいでしょう。通じ合えるものがあるってことだから、「これでいいんだ」という自信にも繋がるし、共通する人が多かったらエネルギーのあるチームになっていくと思います。ちょうど、WBCのサムライJAPANのように。
もちろん、語るのは私だけでなく、後輩や同僚、先輩などなどいろんな人であることが大切だと思います。


オバマ米大統領の就任演説は米国民のみならず、日本の人々をも惹きつけました。全文が翻訳されるほどでした。
彼の演説が理解しやすかったのは、自分の過去やアメリカ(我々)の過去を語って現在につなげたからではないでしょうか。アメリカの国民は共感するものがたくさんあったのだと思います。共通感覚を得た人々はアメリカでおきていることを自分のことであると受け入れて、私もがんばらなくてはという気持ちをおこさせました。そして、そのエネルギーはオバマ大統領に集約していったと思います。言葉を伝える大切さをひしひしと感じましたね。



  

ナラティヴ・セラピーは「言葉が現実をつくる」「言葉が世界をつくる」という考え方が元になっているそうです。言葉がなければ世界を伝えることができないのだから、言葉で世界を表現しているという意味においてはわかりやすいと思います。でも、世界があって言葉があるのではなく、先に言葉があって、その言葉が世界をつくっていく・・・つまり、別の言葉で表現したら世界は変わってくるということなのだそうです。現実が変わるというのではなく、自分の認識が変わるってことかな。

言葉(名前)は見えるもの、見えないものすべてを表せるように、新しいものが出るとかならずどう呼ぶかを後からつけています。しかし、ついた言葉はただの記号としての発音として存在するのではありません。言葉に付随したイメージは限りなくあるでしょう。
例えば“ペ・ヨンジュン”。彼を指し示すわけですが、この言葉を聞いた人の認識はどんなものがあるでしょう。好意的にプラスのイメージをする方ばかりではないし、言い方によっては私たちカゾクを斜めに見たイメージを指すものになるかもしれません。
文章になったらどうでしょう。
 ①ペ・ヨンジュンは車を運転しました。
 ②ペ・ヨンジュンは車で出かけたようです。
 ③ペ・ヨンジュンは車から降りてきました。
3つとも同じ現実を語っているとします。①だと「出かけられてよかったね」と肯定的に考えるでしょう。②だと「どこに行ったの?ホント?」と思うし、③は「誰か会った人がいるんだ!」と少し複雑な気持ちになります。このように言葉の綴りによって現実の認識っていろいろに変化するのです。


私は今自分がここにある意味づけをするために、自己物語りを創造してみようとしまいした。自分が主人公の物語、セルフ・ナラティヴというそうです。・・・が、以外とうまくできないんです。家族構成とか出身とか客観的な情報と言われることは出てきます。昔の出来事も写真を見たりすると情景は断片的に思い出すことができます。しかし、何に感動して、何に刺激されて、何に傷つき、何に喜んだのか。誰と出会い、別れて、何を手に入れて、失ったのか。そういう経験を綴って今の自分との繋げる“意味づけ”ができません。o(´^`)o ウーなんでだろ。

自己を語る意味は自分の存在を確かめることになります。なんとなくそこにある自分では輪郭がぼやけて不確かなものになりかねないのだそうです。自己語りは繰り返すたびに筋書きが変化するかもしれません。現在の自己認識が変わると未来の自分も新しく創造することができます。不安定で不確かな自分になったら、セルフ・ナラティブヴしたらよいのかもしれません。

もし、自己を物語ることがうまくできないのなら、ストーリーを引き出して、筋立てしてくれる良い聴き手を探すことかもしれないって思いました。「どうなったの?」「どうして?」「何があったの?」など、聴き手として物語を追体験しようとする会話が断片的な出来事を埋める質問をしてくれるのではないでしょうか。
よーし!!私もそういう相手を見つけようっとp(・∩・)q


 


ま~た長い記事になってしまいました。1月から考え溜めた私の頭の整理箱的なブログだわ。

写真は青空の下で撮影した桜たちです。多くは散っていましたが、枝垂れ桜がいくつかちょうど満開をむかえていました。青空を背景にすると、桜色が映えます。








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