紫蘭
『太王四神記24話』を昨日観ました。とても辛い最終話でした。特に、コムル村が襲われ、飴売りのおじさんが右往左往しながら大声で泣くシーンと、フッケ将軍が勇壮なタムドクを誇らしげに観ながら倒れていくシーンはボロボロと涙がこぼれてしまいました。
でも私、ラストのタムドクの言葉を理解するのが難しかったんです。
やっとわかった。私のすべきことが・・・
この言葉からタムドクは語りをはじめています。“チュシンの王の意味”がわかったのだということなのですが、なぜこの時にわかったのか。タムドクの心理過程がうまく私の中にイメージできなくて悩んでしまいました。タムドクが両目から涙を流しながらたくさんのことを語ったのに、私はそれについていけなくて・・・(_ _。)・・・シュン。
様々な方の見解をブログや公式で見ました。なるほどと想像を膨らませることができました。それをヒントにしながら、録画した24話をもう一度観ました。また、最後のタムドクの語りを一時停止させながら書き取って理解しようとしました。疑問も多いし、かなり私の勝手な解釈ですが、なんとか言葉にしてみます。
戦いの前までで、ちょっと気になっていたのは、とにかく地図を眺めているタムドクが多いなということです。兄弟としてまとまりつつあった国々がぶつかりあってきたことを寂しく思っているのかなと考えました。
4つの神器と王の血(心臓?)を神檀樹に揃えると天の封印が解けるということでした。「封印が解ける」とはどのようなことが起きるのか理解ができませんでした。しかし、解けるとどうも天の力が人間に授けられるようなニュアンスは感じました。だから、火天会はそれらを集めようと必死になっていたのでしょう。物と血があれば天の力がもらえるのか?天というのはそういうものなのかなあ・・・という疑問がありました。神器よりもその守り主、血よりも王としての能力じゃないのかというのが私の思いです。でもそれじゃファンタジーにならないかしらん。
ホゲはなぜあんなにあっさりとタムドクの矢で殺められてしまったのでしょう。ホゲはもっと強いはずです。その後のタムドクの呆然と戦いを眺める表情の意味と繋がる何かがそこにはありそうです。タムドクは戦いを軽蔑しているような顔でした。
いろいろな記事でその解釈のヒントとなることを読みました。二人が戦っている時に、タムドクはホゲからヤン王は自害であったことを告げられたということです。ホゲが天の力を得たいと願うのは、キハがいてこそなんですよね。ところがキハはタムドクと共に死ぬことを選択しています。そう告げられちゃっていますもの。キハを助けるためにホゲはタムドクにわざと討たれた・・・。そうかもしれない!そうだとすると、この時にタムドクは相当な衝撃を受けたでしょう。天の運命ではなく、自分のために生きようとするホゲとキハが私は悲しく、でも愛しく思えます。タムドクもそう思ったかしら?
キハは4つの神器を神檀樹に並べながらタムドクとの想い出を回想しています。キハが考えていたことはなんだったのか・・・。7話の難民村でのシーンに何かヒントがありそうに思って、録画を見ました。あの時、タムドクから
お前の本心が知りたい。朱雀は天からの運命。私のせいで苦しむな。
とキハは言われます。それに対し、
書庫で初めて声をかけてくださった時、私の心臓は高鳴りました。
と告げタムドクと一夜を明かします。さらに翌朝の手紙に下記のように残しています。
あなた様とこの世を生きた後、天罰を受けます。待っていてください。
これ以降すれ違ってしまう二人。というより、タムドクの心が離れていってしまいました。キハはずっとタムドクのことが好きだったし、天の運命でなく、人間として一緒に生きたかったのだと思います。彼女は朱雀としての運命なんかどうでもよかったのでしょう。彼女にとって“天と戦う”とは、朱雀としての自分を亡くし、タムドクをチュシンの王にしないことだったのかもしれません。
アジクの血が4つの神器に触れ、チュシンの王が神檀樹に現れたことで天の封印は解けたようですね。火天会の大長老が「取られてたまるか!」という勢いでタムドクに向って飛んできましたが、天弓の光、つまり天の力で一撃されちゃったのですもの。石の塔みたいなやつも光ってましたねえ。
タムドクはチュシンの王として黒朱雀になったキハを殺さなくてはなりません。それはチュシンの国を造り、守るためなんですよね。でも、タムドクはしませんでした。チュシンの王として黒朱雀を討つ行動と、人間タムドクとしてのキハへの想いを天秤にかけて決断したように感じます。
お前を信じきれなかった。キハすまなかった。
こう言ってタムドクは天弓を折ってしまいました。そして、チュシンの王の果たす役割りは、天の問いに答えることであるとして、下のように言葉を続けています。
人間は誰でも過ちを犯すが、それを悔い改めて知らないことを学ぶものであるということを天に伝えたい。
「自らの力で生きられるのか。それとも天の助けが必要なのか」
私は人を信じる。いつか必ずチュシン国は造られる。私の見果てぬ夢は後世の誰かがかなえてくれる。
この部分がこのドラマの言いたかったことであるというのはよくわかります。この後、タムドクは光の中に入っていきますが、私は死んでいくのではなくて、天に力を返しに行く行動であったのだと思います。「後世の誰かがかなえてくれる」というのは、自分はやめたから他の人ということではありません。人間は学びながら成長していくのだから、その変化でいつかチュシンの国、つまり平和な世の中ができるだろうという意味ですよね。天の力を使って一気に人間の世界を支配・統括すべきことではありません。キハの言葉を借りると、人間の暮らしに天の干渉をさせないということでしょうね。
私がこのように考えたのは、その後の解説があったからです。
高句麗を建国したチュモ王の父は天帝で、母は水の神の娘だった。
高句麗のはじめは天の力が授けたヨチヨチの人間であったということでしょう。歳月によって、人が成長できたかどうかを天は19代のタムドクに問うたということではないでしょうか。これからも人間はがんばれるか、天がないと暮らせないのかということを・・・。それに対してタムドクは、「天に引っ張ってもらう必要はない。後ろで見守っていて欲しい。」と言ったのかもしれません。
長くなりました。今の時点で私が考えていることはこのようなことでした。
今日の写真は紫蘭です。花言葉は「あなたを忘れない」「互いに忘れない」なのだそうです。タムドクとキハを思って・・・
それかれ、先日掲載したみかんの花に実がついていたので撮影しました。これからも成長していくみかんを見守りたいと思います。
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