廃墟の風景 その2
宮城県多賀城市に、『多賀城政庁跡』という史跡があります。
ここは奈良~平安期に陸奥国府が置かれていた場所で、創建は8世紀初頭。
皇龍寺は7世紀中頃の完成ですから、半世紀程タイムラグがありますね。
平城京跡、大宰府跡と並んで三大史跡と言われているそうです。
以前訪れたことがあります。
広さは1キロ四方ほどで、新羅の首都に建立された大伽藍皇龍寺とは地方政庁ゆえ比ぶべくもありませんが、正殿の遺構は、土が少し高く積まれた基礎部分に石造りの階段があり、その上に柱を支える土台石が整然と並んでいて、あの本の表紙をみた途端、すぐにここのことを思い出したのです。
日本と朝鮮半島あるいは中国大陸を行き来するには、未だ陸路海路問わず命の危険が伴う長い旅。
そんな時代に、朝鮮半島から建築技術を持った匠たちが海を渡ってやってきて日本の技術者たちにその技を伝えてくれたか、あるいは日本から「ものならはし」の技術者たちが、現地で学んだ後何十年後かに帰国して、そして都から遠く離れた陸奥にその技が伝えられた・・・のかもしれない。
そんなことをぼんやり考えるだけで、何だかわくわくしてきます。
廃墟の風景 その1
この本の表紙がプレスリリースされた時、遺跡・廃墟好きの私はぐいぐい引き込まれ、ここはいったいどこだろうと、とてもとても気になっていました。
おそらく木造建造物の柱の土台石だけが残された遺跡だろうけれども、石の大きさから推察するに、相当太い柱が広大な敷地に整然と並んでいたであろうかなり大きな建造物。それが皇龍寺跡でした。
本を入手して早速このページを開き、ルートマップで場所を確認してみると…
あれっ?載ってない?
というわけでちょっと調べてみましたら、慶州尚道の慶州市というところにあるんですね。
さすが一時栄華を誇った新羅時代に建てられた最大規模の大伽藍というだけあって、8800坪。広すぎてちょっと想像できない。
高麗時代に元の侵攻により焼失したそうです。日本の室町期の元寇はこの少し後にこの流れで起こるんですね。
あのような場所で、現代の超高層建築を想起し、古代の国威発揚の巨大寺院建設と比べてそこに関わる人々の心に思いを馳せる彼は、やはり一味違うお方のようです。
はじめに
こちらでは初めてのブログです。
ペ・ヨンジュン氏の『韓国の美をたどる旅』、予想をはるかに超える濃い内容に、びっくりしています。
私は彼のファンになってから日も浅く(太王四神記以前はあまり注目していませんでした)、彼の人となりについてはあまりよく知りませんでした。
でもこの本は、ドラマや映画である役柄を演じる姿以外では、『ヨン様』と呼ばれ、穏やかに貴公子のような微笑を浮かべているところしかほとんど目にしたことのなかった自分に、この人はどうも日本で一般的に思われているよりいろんな意味ですごい人かも…、と思わせてくれました。
古代、大陸から朝鮮半島を経由して、日本にさまざまな文物が渡来しました。
この本に出てきた仏教、陶磁器、お茶などのほかに、建築技術、青銅、鉄などなど、ありとあらゆるものを、大昔の人たちが海を行き来して伝えてくれました。
その後、長い年月を経て、朝鮮半島では廃れたりしてしまったものでも、日本で独自の発展をみたり、あるいは半島に残っているものとは全く違う形に昇華されたりして現代に残っているものがたくさんあります。
彼の本に登場してきたさまざまなものについて、自分なりにただ単なる落書きみたいなことをしていきたいなと考えました。それによって、彼の書いた内容の自分なりの理解がより一層深まるのではないかなと思います。
といってもズブの素人な上に、韓国には一度もいったことがないので、本当にただの落書きです。
明らかな事実誤認、間違いを書いていたらご指摘くださるよう、お願いいたします。
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