ラビリンス-16.戻った理由
「ジョアンを呼べ。5分でホテルに来い、そう伝えろ。」
ドンヒョクの去り際の言葉をミンアは理解に苦しんだ。
≪5分?ボス・・何を言ってるのかしら≫
それでもボスの言いつけを守らねばと、レイモンドの後を追って部屋に戻った。
レイモンドは部屋の隙間に施した自分にしかわからない仕掛けが寸分も
動いていないことを確認すると、やっと部屋に入った。
「何をなさったんです?」 ミンアがドアを振り返りながら聞いた。
「気にするな」 レイモンドは一人掛けのソファーに優雅に腰掛けながら、
小さく笑って答えた。
ミンアが備え付けの電話の受話器を上げた。
「携帯は?」 レイモンドがそれを見て言った。
「会長に」
レイモンドはミンアを一瞥して、自分の携帯を彼女に向かって投げた。
「用心が足らないな。」
ミンアは苦笑して頷きながら、レイモンドの携帯でジョアンの番号を押した。
「・・・ジョアン?」
「ミンアさん?何で今まで連絡くれなかったんですか?
待ってたんですよ!話したいことが山ほど・・・
あれ?この受信・・ミンアさんの携帯からじゃ・・・」≪ない≫
「そんなことどうでもいいわ。ボスからの伝言よ。まず聞いて。」
ミンアはボスの伝言の意味を確かめるのが先、とジョアンの疑問をさて置いた。
「ボスからの?」
「“5分でホテルに来い。”・・これってどういう意・・」
「!・・・・・」
その瞬間、ジョアンは慌てふためいてミンアからの電話を切ってしまった。
「味・・・・・ちょっ・・!ジョアン!」
「どうした?」 ミンアの叫び声に驚いてレイモンドが訊ねた。
「切れました・・・」 ミンアは電話機を持ったまま、呆然と立ち尽くした。
レイモンドが立ち上がり、ミンアから電話を受け取ると、その瞬間に着信が鳴った。
※「Pronto. ?」
レイモンドが出ると、電話の向こうから困惑したような声が聞こえた。
「あ・・あの・・・どなた・・ですか?」 ジョアンだった。
レイモンドはジョアンの質問には答えず、そのままそれをミンアに渡した。
「Hello 。」
「あ・・ミンアさん・・・ごめんなさい。つい弾みで・・切ってしまいました」
≪動揺してしまって・・・≫
「・・・どういうことなの?」 ミンアは問い詰めるように言った。
「ボスは知ってるんですね。」 ジョアンは観念したように言った。
≪さっきボスに見られたと思ったのは気のせいじゃなかったんだ≫
「知ってるって・・何を?」
「僕が・・・ミラノにいること・・」
「ミラノにいるの?・・あなた。・・フィレンツェにいるんじゃ・・・あ・・
もしかしてジニョンssiも?だから・・ボスが?・・・」
「・・・・は・・い。」
「・・・・・・」 ミンアはすべてを納得できたものの、頭を抱えた。
「ボス・・・待ってるんですよね、僕を。」 ジョアンが恐る恐る聞いた。
「ええ。おそらく。」 ミンアは確信して言った。
「行かなきゃ・・いけませんよね」
ジョアンは恐ろしいものに立ち向かう心の準備を始めなければと、覚悟した。
「ええ。死にたくなかったら。」
ミンアは大いに呆れて、嘲るしかなかった。
「・・・・・・」
「ジニョンssiは私達が連れに行くわ」
「私達?・・・そう言えば、この電話・・さっきのお声はもしかして・・」
「ええ。あなた達がこそこそ動いたせいで救いの神がいらしたの。
遠くアメリカから。」 ミンアはわざわざ力説するように言った。
「Mr.レイモンド?・・・では・・ジニョンssiに伝えて来ます。
その足で直ちにボスのところへ。もう1分は経過しましたね」
「2分経ってる。」 ミンアは言った。
ジョアンはドンヒョクの元を訪ねる前に、ジニョンに事の次第を伝えるため
急いで部屋を出ると、隣の部屋の扉をノックした。
ディナーを済ませた後、つい30分ほど前に部屋の前で別れたばかりだった。
昼間ドンヒョクの姿を目撃したジニョンが少しばかり元気をなくし、
「早く休みたい」という彼女に合わせて、ディナーも軽く済ませた。
部屋に戻った時は、ルカはまだ留守のようだった。
しかし、何度チャイムを鳴らしても、気忙しくノックしても、中からの応答が無かった。
ジニョンの携帯に掛けてみると、部屋の中からその着信音が聞こえていた。
それなのに彼女が出る気配は一向に無かった。
ジョアンはその瞬間に顔面蒼白になり、焦る気持ちを抑えられなかった。
ジョアンは慌てて自分の部屋に戻ると、フロントに合鍵を求めた。
直ぐにやって来たホテルマンがスペアキィで鍵を解除し、共に部屋に入った。
しかし、ジニョンばかりか、ルカの姿も無く、彼らの荷物も残っていなかった。
ただ自分が掛け続けていたジニョンの携帯だけが、ベッドの上で震えていた。
ジョアンはまずミンアに連絡を取るべく、レイモンドの携帯に電話を入れた。
「Mr.レイモンド?・・ジニョンssiが!」
「ジニョンがどうした!」 レイモンドはジョアンの只ならぬ声に身を硬くした。
「いなくなったんです」
「いなくなった?どういうことだ!」
「30分前に別れたばかりなんです・・
ジニョンssiが僕に黙って勝手に動くはず・・ありません。
約束してくれましたから・・
油断してしたのがいけなかったんです。僕が悪いんです。
でもいったい・・何が・・」
ジョアンは興奮からか早口で、知らぬ間に声が震えていた。
「落ち着け!ジョアン。・・とにかくフランクのところへ・・・
いや駄目だ。ここへ来い。」
「は・・はい。」
≪いいか。このホテルに入る時は慌てた様子を見せるんじゃないぞ≫
ジョアンはレイモンドの言葉に忠実に、胸の内に逆らって冷静を装い
ホテルのフロントを通過した。
ジョアンはレイモンドの指示通りに動いた。
まずエレベーターを20階で降り、レイモンドの部屋がある18階に
階段で降りた。
そしてレイモンドの部屋をノックする前に彼の携帯を一度鳴らし
その合図と共に開けられた部屋へ滑るように入った。
「事情を。手短に。」 レイモンドはジョアンの到着を待ち兼ねたように
彼の腕を強く引き、肩を押すように椅子に座らせると、すぐさま詰問した。
ミンアもまた、彼の横に陣取った。
ジョアンはできうる限り冷静になろうと努め、話しを始めた。
「ルカという・・ルカ・レリーニという若い女の子が一緒なんです。たぶん。
ふたりの荷物がありませんでしたから。」
ジョアンはそう言った後、落ち着きを取り戻そうと一度深呼吸をした。
「ルカ・レニーニ?誰なの?その子」
ミンアがそう言うと、ジョアンは驚いた顔をした。
「!やはり・・ご存じないんですか?22歳の女の子です。
ミンアさんに雇われて来たのだと、事務所の前で待ってたんです
四日前のことです。僕達は・・・ジニョンssiと僕はその日、
ボスとミンアさんを追ってミラノへ出発する算段をしていて・・
ジニョンssiが・・・いいえ僕がルカも連れてミラノへ向かうと決めました。
その内ミンアさんと連絡が取れれば・・・
彼女のこともわかるだろうと・・安易に考えてました。」
「ルカ・レリーニなんて!名前も聞いたこともないわ。
ジョアン!私が。この国で、しかも若い女の子を雇うなんて。
考えるわけが無いとは思わなかったの!」
ミンアは興奮してジョアンに言葉をぶつけた。
ジョアンはその言葉が身に染みていた。実際、治安も悪く
危険な仕事が多い中、ミンアがそういうことを考えないことは
わかっていたはずだったからだ。ジョアンは自分の甘さを悔いた。
「申し訳ありません。
最初は警戒したんです。でも・・いい子そうだったし
彼女・・ミラノに詳しくて・・案内を買って出てくれて
その・・助かったというか・・・それが・・・」
「それが?」
「何だか妙だと思うことが・・・」
「妙って?」
ミンアが余りにジョアンを追い詰めるように、話を急がせるので
レイモンドはミンアの腕にそっと触れて、それを無言で制した。
「あ・・ごめんなさい、続けて。」
「はっきりとはわからないんです。何が・・と言われても・・・
ただ、ボスのことを話す彼女の言葉に何か含みを感じて。
だからと言って・・さほど彼女に危険を感じたわけではありませんでした」
「手がかりは何もないのか」
「はい・・部屋にはジニョンssiの携帯電話以外、何も残っていませんでした。
でも・・フィレンツェに・・事務所にルカの大きな荷物が残ってます
そこに何か・・手がかりがあるかもしれません」
「行こう。」 ジョアンの話を聞いてレイモンドは即断した。
「今からですか?・・ボスにはどうしたら」 ジョアンは汗を拭いた。
「君はフランクの前で、ジニョンがいなくなったことを
隠し通せる自信があるか?」
レイモンドがそう言うと、ジョアンは首を小刻みに横に振った。
「だったら・・逃げろ。」 レイモンドが言った。
「えっ?」 ミンアも驚いた顔でレイモンドを見ていた。
「私と。」 レイモンドは真顔で続けた。
「決めろ。私に付いて来るか。フランクに殺されるか。」
「・・・・・・」 ミンアとジョアンは共に言葉を失い息を呑んでいた。
そしてジョアンは沈黙の後にごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。
それが彼の返事だった。
ミンアは無言のまま席を立って、手早く身支度を始めた。
「君はここへ残れ。」 レイモンドがミンアに言った。
「何故ですか?」 ミンアは攻撃的に言った。
「まだ何も予測が付かないんだ。何が起きるかわからない。
ルカという子が何者かもわかってない。しかし・・
このイタリアでジニョンが前触れも無くいなくなるということは
フランクの仕事と関係があるとしか思えない。
ということはその向こうに・・ジュリアーノという黒い男がいる。」
「・・・・・Mr.レイモンド。」 ミンアは語調を強めてレイモンドを睨み上げた。
「何だ。」
「だからって・・私にここでじっと待っていろ、と?」
「そうだ。」 レイモンドは当然だと言わんばかりに彼女を睨み返した。
「ジニョンssiはボスの大切な方です。
その方をお預かりした以上、お守りするのが私達の役目です。」
ミンアもまた彼に負けじと顎を上げた。
「お預かりしたのは僕です。」 ジョアンがふたりの間でおろおろして言った。
「あなたは私の部下よ。」≪だから自分の責任でもある≫
ミンアの強い眼差しがそう言った。
「それでも駄目だ。連れては行かない。」 レイモンドは頑として言った。
「・・・・無駄なことは止めましょう。急いで。」
ミンアは荷物を手に取るとレイモンドより先にドアを開けた。
彼は大げさに溜息を吐いて、ミンアの後に続いた。
ジョアンも急いでふたりの後を追った。
「ミンア。・・そっちは駄目だ」 レイモンドはジョアンが来た時と同じように、
エレベーター前に待機しているはずの男に気づかれぬよう階段を使った。
ドンヒョクは苛立っていた。
10分経ってもジョアンが現れることは無く、ミンアからの連絡も無かった。
ジョアンの携帯に電話をしても繋がらず、ジニョンの携帯も圏外だった。
その時、部屋のチャイムが鳴り、ジョアンかと思って急いでドアに向かった。
覗き穴の向こうにはエマがいた。
「何か用か?」 ドンヒョクはドアを開けると迷惑そうに言った。
「どうしてMr.パーキンがイタリアに?」 エマは部屋に入るなり彼に訊ねた。
「こっちが知りたい。」
ドンヒョクはそう言いながら、持っていた書類で机を叩いた。
「フランク?・・・いったい何があったの?」
数時間前からドンヒョクは苛立っていた。エマはそれが気になって仕方なかった。
「何でもない。」 何でもないわけは無かった。
「Mr.レイモンドはあなたがここに戻った理由のために
いらしてるんじゃない?」
「戻った理由?」
「あなたが会長の仕事のためだけにイタリアに来たとは思ってないわ」
「そうなのか?」
ドンヒョクは≪それは初耳だ≫と言わんばかりに鼻で笑った。
「お願い。危険なことは止めて、フランク」
エマはドンヒョクの前に立ち、彼の目を強く見つめてそう言った。
「会長がどれほど恐ろしい人間かわかっているでしょ?
彼に歯向かうことなんて考えないで。」
「何のことを言ってるのか理解できない。」
「お願い。もうあのことは忘れて。」
「あのこと?」
「そう、あのこと。あなたがここに戻った本当の理由。」
「・・・・・・」
「もう終ったことなのよ」
エマが懇願するようにそう言うと、ドンヒョクの表情が次第に険しくなった。
「終ったこと?」 ドンヒョクはエマを激しく睨み上げた。
その目が今までのエマの言葉の意味が正しかったことを肯定していた。
「ええ。終ったの。」 エマは覚悟を決めたかのように言い切った。
「・・・終ってはいない。」 ドンヒョクが答えた。
「だとしても、終わりにして。」
「できない。」 彼はきっぱりと言った。
「・・・・・・私のせい・・・」 エマは呟くようにその言葉を吐いた。
「・・・・・・」
「私のせいだと・・・恨まれても仕方ないわ・・でも・・」
「・・・・・・。」 無言のドンヒョクの目が次第に怒りの色を帯びていた。
「・・・・・・」
「君のせい?・・そうだろうな・・・」 ドンヒョクはエマを更に強く睨み上げた。
「・・・・・・」
「しかしもっと憎むべき奴がいる。・・・いつか・・
そいつをこの世界から抹殺してやる。そう決めていた。
5年待ったんだ。
ずっと・・この機会を狙っていた。
邪魔をする奴は誰であろうと容赦はしない。それが君でもだ。
・・・わかったら今すぐ・・・僕の目の前から・・・
・・・消えろ。」・・・
※Pronto. =イタリア語で「もしもし」発音プロント
ラビリンス-15.目撃
「ジニョンssi・・少し出掛けてきます」 ジョアンが言った。
「何処へ?私も一緒に・・」
「いえ、ジニョンssiはここで待っていてください。
一時間くらいで帰ってきます。そしたら食事に出ましょう。
ですから。お願いです。僕が戻るまで
何処へもお出掛けにならないよう。」 ジョアンは硬く念を押して言った。
今朝からルカがひとりで外出していた。
ジニョンとルカをふたりだけで残すことに、不安を抱き始めていたジョアンは
ひとりで出掛けるには今がチャンスだと思った。
「直ぐに戻ります」 そう言ってジョアンはホテルを出た。
ジョアンはホテルを出ると、帽子をかぶり、サングラスをかけ、
薄手のスカーフを口元まで巻いた。
そして、2ブロック先のフランク達のホテルに向かって急いだ。
ルカのことが気になっていたのは、思えば最初からだった。
彼女を同行させるのではなかったと、後悔しても始まらないことはわかっている。
元はと言えば、ジニョンにペースを乱されたことがジョアンの判断を鈍らせていた。
「言い訳だ、そんなこと。すべて僕のせい」 ジョアンは小さく呟いた。
≪とにかく今日こそはミンアと連絡を取らなければならない≫
しかしできるなら、ドンヒョクとは遭遇しないことが望ましかった。
胸に十字を切りながら、ジョアンはそのホテルを見上げた。
ジョアンがミンアの部屋番号を訊ねようと、フロントに向かったその時だった。
ひとつの影が彼の視線の端を横切るのが見えた。
一度は見間違いかと行き過ぎようとしたが、その影は確かに自分を追っていた。
ジョアンは今度はしっかりと振り返って、その影を追い、焦点を合わせた。
その瞬間、彼は心臓が止まるほどに驚いた。
「何をしてるんですか!」
彼はその影に足早に近づき、できる限りの小声で怒鳴った。
そこには自分と同じように目深に帽子を被り、サングラスを掛け、
その上マスクまでした怪し過ぎるジニョンの姿があった。
「だって・・気になるの・・私も・・ミンアさんのこと」≪いいえ・・ルカのこと・・≫
ジョアンは困ったように溜息を吐き、キョロキョロと周りを見た。
「だからって。・・ボスに知れたら、僕が困るんです」
ジョアンはさっき怒鳴った時よりは少しだけ柔らかい口調でそう言った。
その時、ジョアンの不安が現実となって目の前に現れた。
彼の視線の奥にエレベーターを降りるドンヒョクの姿が垣間見えたのだった。
彼は咄嗟にジニョンの腕を掴み、彼女を抱き寄せ柱の影に隠れた。
「キャッ・・」「シィッ・・静かに。」
ジョアンはジニョンの背中を柱に付けて、彼女の肩越しに上目遣いでボスを追った。
すると、ドンヒョクの横に付いていた女が、ミンアでないことに気づき、
彼は小さく声を漏らした。「アッ・・」
ドンヒョクとその女が、ジョアンとジニョンが隠れた柱の数メートル横を通り、
エントランスへと向かった。
その時、ドンヒョクがチラリとこちらに視線を投げたような気がして、
ジョアンは思わず顔を伏せ、ジニョンを抱く腕に力を入れた。
しかしドンヒョクがそのまま通り過ぎたので、気のせいだったのだと
ジョアンは安堵したように小さく溜息を吐いた。
「ジョ・・ア・・ン・・苦しいわ」 ジニョンが彼の腕の中で蠢いた。
「あ・・ごめんなさい」
ジョアンの腕の中からやっと解放されたジニョンがその視線を何気なく
エントランスに向けた。
「・・・・ドンヒョクssi?」 ジニョンが小さく呟いた。
「ジニョンssi?」
ジョアンは咄嗟に、ジニョンの気を自分に向けるよう名前を呼んだ。
「ん?」
「気のせいです。」
気のせいではなかった。
ドンヒョクは女の人をエスコートして車に乗り込み、そのまま去って行った。
その女性の横顔がとても美しくて、ジニョンは一瞬見とれてしまっていたのだ。
彼女はその場に立ち尽くすように固まった。
ジョアンはそんな彼女の様子を見て、悔やむように唇を強く結んだ。
そして咄嗟に彼女の気を紛らそうと、そばにあったcafeを指差した。
「ジニョンssi・・ほら、見てください
このチーズケーキ美味しそうじゃないですか?」
「あいつ・・・」 ドンヒョクが車の中で吐き捨てるように呟いた。
「えっ?」 エマがその声に反応して彼の横顔を覗いた。
「何でもない。」 ドンヒョクはそう答えると、車窓から外を眺め、
苛立たしげに車窓のガラスを指で叩いていた。
エマはドンヒョクの落ち着かない様子を怪訝そうに眺めていた。
「ホテルは何処だ?」
ホテルを出る前に伝えたはずだと思ったが、エマはそれには触れなかった。
「グランドホテルよ」
「そうだったな」 ドンヒョクは気を静めようと口角を上げ小さく笑った。
「今はジュリアーノの持ち物。・・・一年前はあなたのものだったわね
彼・・最近あなたの持ち物を集中的に標的にしていたわ」
「そんなことは・・どうでもいい」 ドンヒョクは更に静かに言った。
しかしエマは彼のその声に、苛立ちが消えていないことを感じ取った。
ジニョンは大好物のチーズケーキとカプチーノを注文した。
ジョアンは少しホッと胸を撫で下ろしたが、ジニョンはさっきのことを
忘れてくれたわけではなかった。
「・・・・・私が彼を見間違うわけないわ。」
ジニョンはジョアンを見ないまま、カップを手にして言った。
「そうですか?」 ジョアンは白を切ろうと決めていた。
「!・・・・横にいた女性は?。」
今度はケーキを頬張りながら、ジニョンはジョアンに向かって、
詰問口調で言った。
「ミンアさんじゃないですか?」 ジョアンは往生際悪く答えた。
すると突然、
ジニョンはテーブル越しに手を伸ばし、ジョアンの掛けたサングラスを乱暴に取った。
そして彼の目に自分の目を近づけ、凝視した。「ごまかす気?」
「ごまかす?」
ジョアンは思わず首から上を後ろに引いた。
「あれはフランクだった。隣にいたのはミンアさんじゃない。
さて・・誰でしょう。」 ジニョンは自分の指を一本ずつ三本折ってそう言った。
「あー・・・きっと弁護士です」 ジョアンは更にとぼけて見せた。
「ふーん・・弁護士ね。知ってる人?」
「いいえ。」≪嘘じゃない。会ったことも、話したことも無いんだから≫
「ならどうして弁護士だと?」
「・・・・・ミンアさんの代わりだと思って・・」
「何故彼女は彼といないの?」 ジニョンは矢継ぎ早にジョアンに質問したが、
ジョアンもここで負けるわけにはいかなかった。
「知りません!ミンアがいなくて、僕だって頭がこんがらがってるんですから!」
あの後フロントで、ミンア・グレイスが宿泊していないと彼は知った。
「・・・・・・・・ごめんなさい・・・」 ジニョンがうな垂れて神妙に言った。
「あ・・すみません、そんなつもりじゃ・・あの・・あの人は・・
昔うちに・・.SJにいらした人で・・僕達の・・先輩です」
≪ああ・・この人には絶対に嘘はつけない≫
ジョアンは目の前でしょげ返るジニョンに対して、正直になるしかなかった。
あれは一年前のことだった。
ジョアンが初めてイタリアに来て、自分が使うデスクを整理していた。
その引き出しの奥に一枚の写真があって、彼の注意を引いた。
そこには肩を寄せ合ったボスと彼女が写っていた。
『綺麗な人だな・・ミンアさん・・この人は?』
『ああ、私達の先輩よ。』
『ボスと親しそうですね』
『恋人同士だったから』
ジョアンはその日のことを脳裏に浮かべていた。
その時目の前のジニョンがゆっくりと顔を上げるのが見えた。
「知ってたんじゃない。」 ジニョンは目の淵に力を入れていた。
「先輩か・・・綺麗な人ね。」
ジニョンの声のトーンは冷めていた。ジョアンはしてやられたと思った。
「そうですか?ジニョンssiの方が綺麗ですけど」
ジニョンは横目でジョアンを見た。「彼女・・フランクの恋人だったとか?」
ジョアンは思わずコーヒーを噴出してしまった。
彼女にどこまで話すべきか頭をめぐらせていた彼は不意を付かれてしまった。
「ふ~ん・・そうなのね。あなたって、分かり易い。」 ジニョンは笑った。
「あ・・ご・・5年も前のことですよ。あの・・今はボスは・・その・・
ジニョンssi一筋ですから。」
「何慌ててるの?・・わかってるわよ・・そんなこと」
ジニョンがケーキを三つ平らげるのを待って、ジョアンが清算をしていると
ジニョンは彼を置いて、先にcafeを出て行った。
ジョアンは慌てて彼女を追いかけた。
ジニョンはさっき、「気にしてないわ」とにっこり笑って言った。
しかしその後、彼女は何も話さなくなった。
「あの・・ジニョンssi?」
「何。」 振り向いた彼女の顔は、平静とは程遠いものだった。
「いえ・・何でもありません」
ジニョンは前に向き直って、ぎこちなく進んだ。
≪やっぱり・・話すんじゃなかった≫ジョアンは自分の頭を拳で叩いた。
ジニョンはジョアンの前でつい無口になる自分が情けなかった。
≪・・・わかっているわよ。
過去のことよ。でもどうして?どうして5年も前の恋人と?
今。一緒に仲良く連れ立っていなきゃいけないの?
しかも私にはそんな人と一緒にいるなんて言わなかった。
私には話す必要がないってこと?それって有り?
私はあなたの何?ドンヒョクssi≫
ジニョンはジョアンの前を早足に歩きながら、沸々と沸いてくる苛立ちを
ジョアンに気づかれまいと懸命だった。
エマの話通り、会議室にミンアが先に現れた。
ドンヒョクは席を立ち、来客の出迎えに備えたが、彼女の後から入って来た
あまりに見慣れた男の姿にほんの一瞬驚きを見せた。
「Mr.フランク・・ご紹介致します。こちらはアメリカからお越しくださった
Mr.パーキンです・・・Mr.パーキン・・こちらはビアンコ会長の代理人
Mr.フランク・シンです」
ミンアは双方共に初対面であることを強く意識して、卒なく紹介した。
ジュリアーノ会長の側近トマゾが同席していたからだった。
「初めまして・・フランク・シンです」
「お目にかかれて良かった・・レイモンド・パーキンです」
≪流石ね、おふたりとも揺るがないポーカーフェイス≫
ミンアは心の中で感心しながら、ホッと胸を撫で下ろした。
エマもまた、その聞き覚えの或る名前に胸中で驚いてはいたが
ドンヒョクのそ知らぬ態度に合わせて、挨拶をした。
会議室では、1時間に渡り、レイモンドから提示された書類を元に、
今後の商談について、話し合いが持たれた。
「それでは・・明日から三日間の内に必要な書類を作成
ジュリアーノ会長に検分を願った上で、最終案を提示させて頂きます
その後取引終結、その運びで宜しいでしょうか。Mr.パーキン。」
ドンヒョクがそう言って締めた。
「アメリカからの追加資料も必要でしょう。三日後。
異論はありません。」 レイモンドは答えた。
ミンアはわかっていた。
ふたりのこの会話が何を意味しているのか。
三日後、すべての計画を完結させる。ボスはレイモンドにそう言って、
レイモンドはそれを了解したと答えたのだ。
ミンアは自分しか知らないその男達の暗黙の会話に心を震わせた。
「トマゾ・・会長に報告して欲しいことがあるの」 エマはそう言って
トマゾを部屋から外へ誘い出した。
部屋に残されたドンヒョクとレイモンドが向かい合ったまま互いを見ていた。
そして、彼らの視線が交じり合った先にミンアが小さく座っていた。
「なるほど。」 不意にドンヒョクはレイモンドを睨んで、鼻で笑った。
「・・・・・・」 レイモンドは彼に向かって顎を上げただけで、何も答えなかった。
「そういうことか。」
ドンヒョクは口角を片方だけ上げ、そう言うと苛立ったように席を立った。
そしてミンアを一瞥し、冷たく言い放った。
「ジョアンを呼べ。5分でホテルに来い、
・・・そう伝えろ。」・・・
ラビリンス-14.最後の晩餐
「教えてください、Mr.レイモンド!」
「何でもない!」 レイモンドはソファーに、乱暴に音を立てて座った。
「お願いです。先ほどからずっと・・不思議に思っていたんです。
あなたがイタリアへ渡っていらっしゃるなんて・・
ボスから何も聞かされておりませんでした。
しかもジュリアーノ会長と取引なさるなんて・・・
ボスが知らないわけありませんもの」
「やつが知らないこともあるさ」 レイモンドは顔を背けて言った。
「いいえ。」
ミンアが余りに自信満々に言うので、レイモンドは面白くなさそうに
肩を上げて見せた。
「まさか・・・あなた自身が動かれるということは・・・・奥様に?
ジニョンssiに何かあったんですか?」
レイモンドはソファーから立ち上がり、ミンアの声を背中に聞きながら、
窓の外に視線を向けた。
「教えてください。ジニョンssiにいったい何が・・・」
ミンアは白を切ろうとするレイモンドにしつこく詰め寄った。
彼女はジョアンを信用してはいたが、少なからず不安も抱いていた。
ジョアンは自分自身が見つけ、採用を推した自分の部下でもある。
常に彼の仕事の責任も自分が負う覚悟は持っていた。
今回彼に任されたことは、彼の仕事からはかけ離れたものだったが、
重要な任務であることに違いは無い。
とにかくボスは・・・
≪自分達を信用してボスは大事なひとをお任せになった。≫
そんなボスの信頼を裏切りたくない、ミンアは胸の内で祈っていた。
「心配するな。何も起きてはいない。」
「ミンアさんから連絡が無いわね」 ジニョンが言った。
「ええ・・可笑しいんです。何度電話を入れても、留守電だけで・・
今までこんなこと一度だって・・」 ジョアンも表情を曇らせた。
ルカが部屋のテレビを点けて、ふたりの会話の邪魔をしないよう
視線を外していた。
『彼からも無いの・・・』 ジニョンはハングルで呟いた。
『大丈夫です、ボスは』 ジョアンは微かに笑ってジニョンを慰めた。
『そうね』 ジニョンも笑顔を返した。
そんなふたりに背を向けていたルカの表情に陰りが指した。
「心配するな。何も起きてはいない。」
レイモンドはミンアの肩に手を置き、優しく言った。
「・・・・なら・・どうして?」
「起きる前に手を打ちたかっただけだ」
「どういうことです?」
「ジニョンが裏で何かやってる」
「えっ?どういうことです?ジニョンssiのそばにはジョアンがついて・・」
そう言い掛けてミンアは、ジョアンもまたそうなのだと察した。
「ひとりじゃないことはわかっていたが、あいつはフランクのためなら
何をするかわからない。怖いもの知らずだから。・・・君と一緒だ。」
レイモンドはそう言って小さく笑った。
「それで・・あなたが・・・」
「フランクに密告すれば、彼の仕事の妨げになると思ったんでね
あいつはジニョンが絡むと常軌を逸するところがある」
そう言いながら彼は愉快そうに両肩を上げて笑ってみせた。
「それでどうなさるおつもりですか?」
「ジニョンを探す。彼女のそばにいないと」
レイモンドはそう言いながら、また窓の外に広がるミラノの街を眺めた。
≪この方はまだジニョンssiを・・・≫
ミンアは胸の内でそう思いながら、レイモンドの背中を見つめた。
「ところで・・・」 レイモンドが振り返り言った。
「はい」
「フランクとの対面まで一時間はあるな。・・・チェスでもどうだ?」
レイモンドは腕時計を見ながら言った。
「・・・・はい。でも・・・」
「でも?」
「私はかなり腕がいいですが・・・」
「だから?」
「泣きは無ですよ」
「そのままお返ししよう。」
レイモンドとミンアは向かい合って胸を張り、互いに口元だけで笑った。
実はこの三日間、ミンアにとっても緊張の日々だったのだ。
ジュリアーノの身辺を探りながらも、決して油断できる相手ではないことは
充分過ぎるほど理解していた。
今こうしてレイモンドがミンアに、フランクの仕事を優先できるよう、
大義名分を作ってくれたのだ。
ミンアは、暗中に太陽の光を届けられたような気がして、安堵していた。
しかし案の定、レイモンドはミンアに陥落した。
チェスの駒で彼女を指し、まるで子供のように“もう一回”とねだる
彼の姿が可笑しくて、ミンアはお腹を抱えて笑っていた。
彼女は思っていた。
≪ボスとジニョンssiの為に、どんなことでもする・・・・
怖いもの知らずって・・・
それはあなたのことではないですか?≫
「ジニョンさん、ミラノ見学しませんか?」 食事中にルカが言った。
ジニョンはこの数日で次第に、ルカがいったい何者なのか、
わからなくなっていた。
「見学?」
「ええ、落ち着いてイタリア見学なんてなさってないでしょ?」
そう言ってにっこりと微笑んだ彼女を見ると、とても愛らしくかったが、
時に見せる隠された何かを感じ取るようになっていたことも事実だった。
「そうね、私はともかく・・ジョアンは疲れてると思うわ。
休息も必要かもね」
「『最後の晩餐』は是非観て頂きたいです」 ルカがそう言った。
「ダ・ヴィンチね」
「ええ、お薦めです」
「そうね、観に行きましょうか、ジョアン?」
ジニョンは席に戻って来たジョアンに向かって言った。
「えっ?」
「最後の晩餐」
「ああ。そうですね、では午後はミラノ見学でも」 ジョアンも同意して言った。
「良かった、実はそう思って昨日予約しておいたんです。
普通は急には予約なんて取れないんですけど・・
偶然取れたものですから・・」
「気が利くのね」 ジニョンはルカの頭を撫でた。
ドンヒョクはソウルにいるレオに電話した。
「調べは付いたか?いつになったら結果が出る?」
「ボス、もう少し待ってくれ。
今回は特に慎重にやってるんだ。念には念を入れて・・
失敗は許されないからな。」 レオは苛立ったように答えた。
「わかってる。しかし時間は掛けられない。三日が限界だ。」
「ああ」
「それで・・お前はいつこっちへ?」
「レイモンド次第と思ってたんだがな・・・」
「どうした?レイはとっくに・・」≪韓国に渡っているはず≫
「ジョルジュの話だと彼の訪韓は当面延期らしい。
それでこっちの作業も少し遅れてるんだ」
「聞いてないな。」 ドンヒョクは怪訝そうに言った。
「俺も聞いてなかったさ。さっきジョルジュに聞かされたところだ」
「・・・・とにかく急げ。」 ドンヒョクはレオを嗾けるように声を荒げた。
「わかってる。焦るな。」 レオは苛立ち紛れに先に電話を切った。
「焦るな?」 フランクは切れてしまった受話器を睨んでいた。
そしてその受話器を投げるように置くと、先に切られてしまった腹いせに、
思わず机に拳を叩きつけた。
「こっちはどこまで進んでるんだ?」
三回目の泣きを入れたレイモンドが、自分の駒を何処に進めようか
思案して言った。
「七割です。本当でしたらもっと早く進められたんですが・・・
ご存知のように私もジョアンも動けなくて・・」
ミンアはそう言いながら自分の駒を進め、迷わず置いた。
「あ・・ちょっ・・それは待て。」 レイモンドはミンアの駒を浮かせ持った。
「駄目です。誰にも手は抜かない。師匠の教えですから。
例え子供のような腕前の相手であっても・・」
「こ・・」 レイモンドは一文字に口を結んで、彼女の駒を元に戻した。
「・・・・・・・それで?」 レイモンドは無愛想に話の続きを要求した。
「えっ?」
「上手く行っているようか?
君がそばにいなくて、フランクは困ってるんじゃないか?」
「エマが付いています」
「エマ?・・・・エマって?」
「エマヌエール・ビアジ」
「エマヌエール?・・・あの?」
「ええ。あのエマです」
「どうして彼女が?」
「今や彼女はジュリアーノ陣営の主任弁護士です」
「ジュリアーノ側に付いたのか・・・待てよ・・彼女・・私を知っていたか?」
「たぶん。少なくともお名前だけは。」
「そうか・・失敗・・・だったかな」 レイモンドはそう言いながら、
自分の駒をなかなかチェス版に下ろそうとしなかった。
「大丈夫だと思います。・・・降参ですか?」
「まさか!・・・何故そう思う?」
「昨日会ったんです。その時に感じました・・・
彼女の心はまだボスにあると・・・」
「5年も経ってるのに?」
レイモンドはまさか、という顔をした後、やっと駒を下ろした。
ミンアはレイモンドの顔を一度じっくりと見つめた後、小さく溜息を吐いた。
「10年。想う人を忘れられなかった人を・・二人知っています。
・・・・チェックメイト。」 ミンアは美しい姿勢でゲームの終焉を示した。
「・・・・・・・。」
「もう泣きは無しです。時間ですから」 そう言ってミンアは時計を指した。
「・・・・・Ms.グレイス・・・師匠に似て性格悪いな。」
レイモンドはまだチェス版から顔を上げられないまま、そう言った。
「お蔭様で」
「治した方がいいぞ。」
レイモンドはやっと椅子の背もたれに背中を付けて伸びをした。
「残念ながらご期待に添えそうにありません」 ミンアは得意そうに笑った。
≪最後の晩餐≫
レオナルド・ダ・ヴィンチの珠玉の名作といわれる壁画。
その作品がある「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」に三人は出掛けた。
「ジニョンssi、この辺からご覧になるといいですよ」
壁画の部屋に入ると、ルカがそう言って、壁画から少し離れた位置を示した。
「絵の奥行きがわかります」
「・・・・・・」 ジニョンがルカの顔をまじまじと見ていた。
「どうかなさいましたか?」
「ふふ・・“ジニョンssi”って・・」 ジニョンがそう言って笑った。
「あ・・いけませんでしたか?ジョアンさんのが移っちゃたみたいです」
「いいのよ・・・・遠近法ね」
「ええ」
「素敵ね・・・」
ジニョンはまるで体いっぱいに光を浴びるように胸を張りながら、
その偉大な絵を眺めた。
「ねぇ、ジニョンssi・・」
「えっ?」
「・・・この絵が何を語っているか、ご存知ですか?」
「ええ、何かで読んだことがあるわ。確かこの絵は・・
キリストが自らの死を悟って、裏切り者を糾弾している場面よね」
「ええ、そうです。・・ジニョンssi?どの人物が裏切り者かわかりますか?」
「ユダよね」 そう言ってジニョンは「ユダ」であろう人物を探し始めた。
「うーん・・カンニングしてもいい?」 ジニョンが解説プレートを指差して笑った。
「ふふ・・ヒント・・左側にいます」 ルカが笑った。
「あ・・わかっ・・」
見つけたジニョンがルカに振り向くと、彼女が神妙な顔をして
こちらを向いていたので、ジニョンは怪訝そうに小首を傾げた。
ルカの眼差しはジニョンやジョアンの方を向いていたが、その心は
彼らを通り越しているように見えた。
「・・・・ユダは・・・イエスに心から心酔し・・愛していたんです・・・
なのに・・どうして裏切ったりしたんでしょう・・・
でもこの時はきっと・・後悔していたのかもしれませんね」
遠い眼差しで絵を見つめながら、ルカはしみじみとそう言った。
ジニョンとジョアンがその言葉を聞いて、無言でルカを見つめていた。
するとルカは、たった今彼らの視線に気がついたかのように、
作り笑いを見せた。
・・・「・・・・・見つけました?」・・・
ラビリンス-13.偽りの商談
レイモンドは早速動き出した。
まず彼はソウルのジョルジュに電話を掛けた。
「・・・レイ・・一大事ですか?」
ジョルジュは眠い目をこすりながら、ベッドサイドに手を伸ばした。
そして定位置に置いた腕時計に辿り着くと、迷惑そうに片目を開けた。
「・・・まだ夢の中だと言ってください」
「残念ながら夢じゃない。明日の訪韓は延期だ」
「ええ・・明日の・・・!・・なんですって?」
瞬間的に夢から覚めたジョルジュが、ブランケットを跳ね除け、起き上がった。
「後は頼む。お前を代理人に立てる書類は作成済みだ。
必要な内容もすべてメールしておいた。じゃ・・」
「じゃ・・って・・ちょっ・・レ・・レイ!」
レイモンドはジョルジュの寝花を襲い、小言を言われる前に電話を切った。
そして彼は子供が悪事を企むようにほくそ笑み、呟いた。「これでOK。」
ソウルホテルに関することはすべてジョルジュに引継いだ。
アメリカの仕事はモーガンとソニーにすべてを委ねる予定だ。
それが済んだら・・・
とにかく自らのイタリア行のために、取引案件を捻り出さなければならない。
イタリアの有力者ビアンコ・ジュリアーノに取引を突然持ちかけることは
容易なことではなかったが、モーガンの伝で潜り込むことに成功した。
無論、ジュリアーノ側が喉から手が出るほどの宝をぶら下げて。
「若、ご一緒に。」
案の定、イタリア行きを心配したソニーが留守番を拒絶しようとしたが、
レイモンドはそれを許さなかった。
「ひとりの方がいい。奴らを刺激したくない」
彼は敵の前で、決して賢く無い、柔な実業家であらなければならないと考えた。
しかし大事なことは、イタリアで動くに当たり、フランク・シンとの関係が
親密であることを彼らに知られるわけにはいかないことだった。
皮肉なことに長年アメリカのマフィア界で名を馳せていたパーキン家の知名度と
フランク・シンという男が一匹狼を信念としており、レイモンドを含め
他の企業に席を置くことが皆無だったことは好材料だった。
ともあれ、レイモンドはジニョンと話した翌日の夜にはイタリアへ渡り、
その翌朝にはジュリアーノ会長との会談に成功した。
「あなたがアーノルド・パーキン氏のご子息でしたか」
その男は、実に好意的に彼に握手を求めた。
≪ビアンコ・ジュリアーノ・・・何とも胡散臭い男だ≫
「父をご存知で?」
レイモンドは胸の内とは裏腹に、彼と同じように好意を示した。
「無論です。父上とお目に掛かったのは20年程前にもなりますかな。
仕事を通じて懇意にさせていただきました。」
「仕事を通じて・・・」≪はっ・・どんな仕事なのやら≫
「しかし、こんなりっぱなご子息がいらっしゃったのに
事業の一切を整理なさるとは、驚きました」
ジュリアーノはそう言いながら、レイモンドに着席を勧めた。
レイモンドは彼が何を言わんとしているかは承知していた。
マフィア界で、その世界から足を洗うことが如何に蔑まれているか。さぞかし、
パーキン一族の愚行はこの世界で大きな笑いものとなっているのだろう。
「この度は、突然の申し出にご快諾いただき、感謝します」
しかしレイモンドは、ジュリアーノの胸の内を読んだ上で、堂々と胸を張った。
「古き友人からのたっての推薦がありましてな。しかし・・・
申し上げておきますが、商売に伝が通用するのはここまでです
交渉ごとはすべて私の代理人が引き受けておりますので、
悪く思わんでください。」
ジュリアーノが高価な人参をぶら下げたレイモンドを歓迎しないはずはなかったが
彼はそのことをおくびにも出さなかった。
「はい、承知しております。
それで、その代理人にはいつお目にかかれますでしょう」
「今夜にでも引き合わせましょう」
「よろしくお願いします。」
「最初にご忠告申し上げておきますが、私の代理人は手ごわいですぞ。」
ジュリアーノは殊の外にこやかな笑顔を作って言った。
「お手柔らかに、とお伝えください」 レイモンドもまた笑顔を返した。
「ところで、こちらへはおひとりで?」
「ええ。実は今回、旅先から直接こちらへ伺ったもので
部下の入国が遅れております。できれば会長の方で
どなたかこの地をご案内願える方をご紹介いただけると助かります」
「ええ、それはお安い御用です。」
ジュリアーノは奥で待機していた男に手を挙げ合図を送った。
「この者は英語も堪能ですので、何かと役に・・」
「あー・・申し訳ないが・・・」 レイモンドは彼の言葉を遮った。
「せっかくのイタリアですので観光も兼ねてみたいかと思っております。
失礼だが・・時を共に過ごすのはやはり無粋な輩より、
麗しい女性に限ります。」
レイモンドは敢えて男の下心を顔に表してそう言った。
「はは・・それは確かに。しかし弱りましたな・・・私のところは
主に男所帯でして・・・無論、観光案内のお供はお好みの女性を・・」
ジュリアーノの言葉の途中で、レイモンドは彼の後ろに控えていた
ひとりの女に視線を向けた。
「ああ、彼女は残念ながら・・・」
ジュリアーノがレイモンドの視線の先に気がつき、言いかけたが
レイモンドはそれを無視して立ち上がり、その女に近づいたかと思うと、
突然彼女の顎をくいと持ち上げ言った。
「彼女をお借りしたい。」
「あの・・レ・・」
「シィー・・」
その女性が言いかけた時、レイモンドは歯と歯の間から微かに音を出して、
彼女の言葉を制した。
「それは困りましたな・・」
ジュリアーノが言葉を濁すと、レイモンドは冷たい眼差しで彼を横目に睨んだ。
「まあ、いいでしょう。二日だけでしたら。・・・Ms.グレイス・・
パーキン氏に失礼の無いように。」 ジュリアーノはそう言った。
正直、彼はフランクを思いのままに操るためにもミンア・グレイスは
まだ手元に置いておきたかった。
本当に手元に置きたいものが手に入るまでは。
しかし彼は、表向き自分が優勢に立ったとはいえ、レイモンドの機嫌を
損ねてしまうことは得策ではないと考えた。
「彼もお供させます。それから車を一台手配致しましょう」
ジュリアーノはそう言って先ほど紹介した男を示した。
「恐れ入ります。」 レイモンドは淡白に礼を言った。
エマが交渉を固めた企業に向け、作成した契約書を持って
ドンヒョクを訪ねて来た。
「今・・トマゾから連絡が・・会長からの伝言だそうよ。」
エマはデスクチェアーに座ったドンヒョクに書類を差し出して言った。
「ん・・」 ドンヒョクはそれを受け取り、早速目を通しながら聞いていた。
「アメリカの或る企業の代表と会って欲しいそうよ。」 エマはそう言いながら
備え付けのコーヒーメーカーから、コーヒーをカップに二つ注いだ。
「別件で?まだこっちが片付いてないぞ」
「ええ。そう言ったわ。でもごり押しされた。」
エマはドンヒョクにカップのひとつを渡し、話を続けた。
「昨日突然入って来た商談らしいわ。
でも会長側にとって、かなりいい条件の案件らしいの。
会長は美味しい飴だと喜んでるようよ。
でもできるだけもったいつけて、更にいい条件で取引するように。
それが彼の伝言よ」
ドンヒョクはそれを聞いて顔を上げ、鼻で笑った。
ジュリアーノの仕事を片付ける度に、悪に加担しているような気分になる、
ドンヒョクは胸の中でそう思った。
「お好きにどうぞ。それでいつ?」
「今夜」
「随分急だな。ミンアとのミーティングは外せないぞ」
「そのミンアが彼の付き添いで案内してくるそうよ」
「ミンアが?」
レイモンドはミンアと共に、ジュリアーノが用意したホテルへと向かった。
見張り役と思われる男と同行している間、ふたりは口を利かなかった。
ホテルに到着し、男がチェックインの手続きを済ませて言った。
「Mr.パーキン・・・最上階のスィートをご用意致しました。
我々は別室にて待機させていただきます
一時間後、代理人が到着次第、ご連絡をさせていただきますので
しばらくお部屋でお寛ぎください・・」
男はそう言って、レイモンドにカードキィを手渡した。
「いや、・・彼女は随時私と行動を共にしてもらう。
部屋は一緒で構わない。しかし悪いが・・・」 レイモンドはそう言いながら、
フロントにカードキィを戻し、部屋を変えるよう指示した。
「お気に召しませんでしたか?」 男が言った。
「狭い部屋が好みなものでね」 そう言ってレイモンドは片方の口角を上げた。
「さて・・一時間。・・ふたりで過ごすには充分な時間だな」 そしてレイモンドは
ミンアの手の甲にキスを落として言った。
「Mr.パーキン、困ります。彼女はそのような・・」 男が言った。
「私は困らない。」 そう言ってレイモンドがミンアを見つめた。
「ご一緒に参ります」 ミンアは答えて言った。
「・・・とうことだ。」 レイモンドは男に対して顎を上げ口元で笑った。
レイモンドはミンアの腰に手を回し、彼女の体を必要以上に引き寄せて、
ベルボーイが彼らの前を歩き案内する後に続いた。
レイモンドはエレベーターに乗り込んだ後も、ミンアに回した手を離さず
時に彼女の髪にキスを落としたり、その頬に指を這わせたりしていた。
ミンアは困惑しながらも彼の成すがままに寄り添った。
部屋に入り、ベルボーイが丁寧な説明を始めたが、レイモンドは
高額なチップを彼に差し出し睨みを利かせると、手の甲をドアに向って振った。
ベルボーイは彼に頭を下げると、できうる限り俊足にドアから出ていった。
ドアが閉じられると同時にレイモンドはミンアから腕を離すと、
椅子にどかっと腰掛ながら言った。
「ここはいったいどこまで奴の目が光ってる?
・・ベルボーイすら堅気じゃないぞ。」
ミンアは≪そうなのか≫と笑いを堪えた。
「それより、どういうことなんだ?Ms.グレイス」
「Mr.レイモンド・・・驚きました」 ミンアもホッとしながら同時に言った。
「驚いたのはこっちだ。どうして君があんな場所に?
フランクと一緒じゃなかったのか」
「ボスはジュリアーノ勢の弁護士を同伴しています。
私はいわゆる人質なんでしょう。会長が考えそうなことです」
「そんなことを言ってるんじゃない。フランクはどうしてこんなことを許してる?」
「私がそうしたいと申しました。」
「君が?」
「はい。その方が・・」
「君は馬鹿か。」
レイモンドは思わず立ち上がり、呆れ顔でミンアの言葉を遮った。
「ば・・!・・どういう意味でしょう」
「馬鹿だから馬鹿と言ったまでだ。」
「!・・・・・・」
「君も。
あいつらが今までやって来たことを知らないわけじゃあるまい?
しかも。これからフランクがやろうとしていることも!
もしもフランクが何らかのミスを犯したら、奴らが君をどうするか
予測できないわけじゃないだろ!」 レイモンドは珍しく怒りを露にした。
「ボスはミスなど犯しません。」 ミンアは胸を張って返した。
「フランクとて完璧じゃない。」 レイモンドは更にミンアを睨みつけた。
「それでも。ミスはしません。」 ミンアもまたレイモンドを睨んだ。
「ハッ!・・あいつの周りにいる女はどうしてこうなんだ?
どいつもこいつも・・恐れを知らない、馬鹿ばかりだ」
「ミスター!先ほどから馬鹿・・馬鹿・・と失言ではありませんか?・・・・
そんな風にあなたに言われる筋合いは・・・あ・・・」
ミンアが突然、何かを察したように目を見開いた。
「あの・・・どいつもこいつもって?・・
いったい誰のことをおっしゃってるんです?・・
・・・まさか・・」・・・
ラビリンス-12.警告
ジニョンはコーヒーを片手に、カーテンを開けた。
窓の向こうは、狭い道路を挟んで建つビルの壁面が視界を阻んでいる。
しかしイタリアの街というのは、それだけでも風情を醸し出すものだと、
彼女は微笑んだ。
彼女は昨夜のドンヒョクからの電話に、充分に応じられなかったことを
少し悔いていた。
『逢えなくて寂しいって・・言わないの?』
≪・・・わかってるじゃない・・・バカ・・・≫
今この時も、2ブロック先のホテルにはドンヒョクがいる。
≪今すぐに・・・私がドアをノックしたら・・・どんな顔をする?ドンヒョクssi≫
「お早いですね」
ジニョンが振り向くとスポーツウエア姿のルカが立っていた。
「ルカ・・何処に行ったかと・・・・ジョギング?」
ジニョンが30分ほど前に目覚めた時には、隣のベッドに
ルカの姿は無かった。
「ええ・・いいお天気ですよ、気持ちいいです、とても」
ルカは肩に掛けたタオルで額の汗を拭きながら、そう言った。
「旅先でも運動を?」
「ええ・・いつものスタイルですから・・私の」
「スタイル?」
「ええ・・・どうかなさいました?」
「ふふ、ちょっとね・・あなたと同じこと言った人のこと思い出したの・・・
・・・シャワー浴びてらっしゃいな」
「ええ、そうします」
「その後に食事に出ましょう?」
「ホテルを出たところに、素敵なcafeがありました」
「じゃあ、そこで。急ぎなさい、ジョアンは時間に正確よ」
「はい」
その日から、ジニョンとジョアンはルカの案内の元、ミラノでの活動を始めた。
まずは彼のクライアントであるジュリアーノ会長の周辺を探ったが
予測していたこととはいえ、会長サイドの包囲網の硬さは並大抵ではなく、
重要な手掛かりを掴むことなど、容易ではなかった。
「まだ始まったばかりだわ」
ジョアンの不安げな表情を見て、ジニョンは慰めるように微笑んだ。
「ええ、そうですね」 ジョアンもまた笑顔で返した。
しかし二日目になっても、大きな進展が見られないばかりか、
ドンヒョクとミンアからの連絡さえも無く、ジョアンの不安は募るばかりだった。
一方ドンヒョクの交渉相手であるサイモンは、ドンヒョクが提示した条件に
なかなか首を縦に振らず、交渉は思ったよりも難航していた。
しかし、当のドンヒョクは一向に焦りを見せていなかった。
「会長が催促して来たわ」 エマが言った。
「・・・それで?」 ドンヒョクは平然と口角を上げた。
「あなたと話したがってる・・」
「交渉が終るまでは会わない。任せるはずじゃないのか」
「彼が納得しないわ」
「納得させるのが君の仕事だろ?」
ドンヒョクはそう言いながら、彼女を睨み上げた。
「・・・承知致しました、ボス」
「・・・・・・」 ドンヒョクはエマが自分をボスと呼んだことに眉を潜めたが
何も言わず机上の書類へ視線を移した。
エマは一昨日、彼の胸に飛び込んでしまったことを後悔していた。
今はまだその時ではなかった。
こうして彼と共に引き受けている案件の解決に、重きを置かなければ・・・
今はそれを優先させるべきなのだ。
彼の信頼と・・・愛を取り戻すために。そして・・・
命にも等しい彼を守るためにも。
彼に話すべきことは、今しばらく胸にしまおう、エマはそう思った。
しかし、こうして彼を前にする度、胸のざわめきが彼女を攻め立てた。
彼を「ボス」と呼んだのは、そんな自分の激し過ぎる想いへの戒めだった。
「用はそれだけか」
ドンヒョクは持っていたペンを書類の上に放り投げ、エマに視線を合わせた。
「ええ」
「他に言いたいことは?」 ドンヒョクは彼女を見据えたまま冷たく言った。
「無いわ。」 エマは淡々と答え、いつの時もすべてを見透かそうとする
彼の視線から逃れるように踵を返した。
そんな折、ジョアンはドンヒョクが交渉を担っているアメリカ企業の
重要な情報を掴むことにやっと成功した。
ジョアンが根気良く、彼らの尾行を続けていた賜物だったが、
ジニョンは、時折彼が自分をホテルに残して出歩くことに
少なからず不満を抱いていた。
しかし、ジョアンにとって自分が大きなお荷物であることを、
彼女は自覚もしていた。
それだけに、その悪条件の中の彼の功績は素直に喜ぶべきだと思った。
ジョアンの調べはこうだった。
アメリカの企業主は、フランク・シンが韓国でホテルを手に入れた経緯を
探っているというものだった。
フランク・シンは自分の利益の為にクライアントを裏切り、大きな損失を与えた。
その事実を突き止める為、念入りに調査しているらしいとのことだった。
その為に今商談を滞らせ、時間稼ぎをしていると。
言うまでも無くそれはソウルホテルのことだった。
「それって、重大なこと?」 ジニョンがジョアンに不安げに聞いた。
「ええ、この手の交渉ごとは優位に立つ方が勝ちですから」 ジョアンが神妙に答えた。
「そう・・」
「しかし・・どうしたものか」 ジョアンは頭を抱えた。
その時突然ルカが言った。
「ボスが韓国で手に入れたホテルって、ソウルホテルのことですか?」
「・・・どうして?・・それを?」
ジニョンが驚いて言うと、ジョアンもまた驚きの表情でルカを見た。
「実は・・色々調べてみたんです」
「うちの会社のことを?」
「ええ、会社がどんな仕事をしているのか・・気になるのは当然でしょ?・・・
ボスは今までに・・いくつものホテルや企業のM&Aに
係わってらしたんですよね。成功率はかなり高いと評価されてました。
つまり、奪うと決めたものはかなりの確立で奪ってきた。
そういうことですよね。
しかも依頼された仕事は選びに選び抜いて、気が向かない仕事は
決して引き受けたりはしなかった。
その代わり、引き受けた以上、どんな手を使ってでも成し遂げる。
フランク・シンという人は・・ボスはそういう方でしょ?」
ジニョンとジョアンはルカの言葉に目を見張っていた。
「それなのに・・・
ソウルホテルの一件ではボスはかなりの損失をなさっています。
自分の財産を注ぎ込んでまで。
ボスはどうしてそんなに、そのホテルを手に入れたかったんでしょう」
「驚いたわ」 ジニョンは目を見開き、ルカを見つめた。
「えっ?」
「あなたの口からそんな言葉が出るなんて・・・」
「そうですか?」
「・・・・・・」
「そんなにしてまでそのホテルを奪った理由が気になったんです」
「奪った理由?・・・奪ったりしてないわ。・・・・救ったのよ」
ジニョンはルカに対して、少し興奮したように語気を強めた。
「救った?」
「ええ、彼は・・いえ、ボスは・・ホテルで働くすべての人の為に
あのホテルを救ったの。」
「働くすべての人の為に・・・」 ルカはジニョンの言葉を繰り返した。
「そうよ。」
「ボスって・・慈善事業家なんですか?」 ルカの言い方は皮肉に聞こえた。
「慈善・・事業?」
ジニョンには更に胸の中に怒りに似たものが湧き上がっていた。
「ええ。だって・・誰が好き好んで自分の財産を投じたりするんです?」
この時のルカの言い方はまるでジニョンの怒りを煽っているようだったが、
ジニョン自身にはそれとはわからなかった。
「・・・・愛する人のためさ。」 ジョアンが言った。
「ボスは・・・愛する人の為に、すべてを捨ててもいいと思ったんだ」
そう言ってジョアンはジニョンを優しく見つめた。
ジニョンは彼のその言葉に救われる想いがした。
「愛する人のため?・・・そんなこと、なさる方だとは思いませんでした」
そう言ったルカの表情に何か含んだものを感じた。
「君はボスの何を知ってると言うんだ?」
ジョアンがまるでジニョンの代わりに言ってくれているようだった。
しかしその後、ルカは何も答えなかった。
「・・・・眠くなったので、もう休みます」 ルカはジョアンから視線を逸らした。
「そうね・・今日はご苦労様。ジョアン・・もう休みましょう。」
ジニョンは納得がいかないような顔をしたジョアンの肩に手を置いて言った。
ジニョンもルカの思いがけない言葉に、つい興奮してしまったが
彼女が思っていることは、きっと世間の多くの人間が思うことなのだろうと、
そう解釈するしかないと考えた。
「それから・・さっきのことは・・私に任せて」
「えっ?」
「アメリカ企業の調査の件」
「任せるって・・どうなさるおつもりですか?」
ジョアンはジニョンに向かって、不安そうに言った。
「大丈夫よ。危険なことはしないわ。さあ、もうお休みなさい。
それから・・・ありがとう。」
ジニョンはジョアンがルカに言ってくれたことに対して感謝していた。
「・・・わかりました。おやすみなさい」
そう言いながらジョアンは、既にベッドに横になってたルカに向かって
疑心暗鬼な視線を投げて、部屋を出て行った。
夜中の2時過ぎに、ジニョンはルカに気づかれないように起き上がり
部屋の外に出て、国際電話を掛けた。
「どうした?ジニョン・・君から電話があるなんて・・
そろそろ韓国に渡るか?それなら迎えに行くぞ」
電話の相手はレイモンドだった。
「あ・・レイ、まだ行けないわ。それよりお願いがあるの」
「お願い?」
「ええ、実は・・・」
ジニョンの話を聞いて、レイモンドは驚いていた。
現在彼はドンヒョクの依頼で、或る案件を調べていたが、まさか
ジニョンがドンヒョクの仕事に係わって来るとは思いもしなかったのだ。
イタリア滞在中、ジニョンを彼の仕事からできるだけ遠ざけておくと
ドンヒョク自身から聞いていたからだ。
≪フランクが知ったら、やっかいだぞ、ジニョン≫
レイモンドは心の中で呟いた。
「Mr.サイモンがサインするそうよ」
エマがドンヒョクの部屋にやって来て言った。
突然、滞っていた商談の事態が急転した。
「どういう風の吹き回しだ?二日前はあんなに渋っていたのに」
ドンヒョクがいつも以上に慎重に事を運んでいたこともあり、
なかなか交渉が結実しないことに、ジュリアーノ会長も痺れを切らしていた。
しかしドンヒョクにとってはそれで良かったのだ。
無論、彼にとって今回の案件に失敗は許されない。
しかし彼が今何より重きを置いているのは、時間を稼ぐことだった。
「ええ、とにかく、あなたの交渉に応じるそうよ。」
「・・・わかった。」 ドンヒョクは無表情にそう言った。
「調べたよ。確かにソウルホテルを嗅ぎ回っていたやつらがいた。
でももう心配はいらない、ジニョン」 レイモンドは電話口でそう言った。
「ソウルホテルの件は表向き、私が動いていることにしてある。
何処からの調査が入っても、フランクの評価がマイナスになることはない。
むしろ、好材料となるよう仕向けておいた。」
「レイ、ありがとう。」
「しかし・・・気に入らない。」
「えっ?」
「どうして君がこんなことを?」
「何でもないの・・でもレイ、お願い。
私があなたに・・その・・こんなことお願いしたなんて・・彼には・・」
「当然だ。」 レイモンドは怒ったように言った。
ジニョンは思っていた。
何よりも、ソウルホテルの存在が、ドンヒョクの負担になって欲しくないと。
誰が何と言おうと、彼はホテルに係わるすべての人達の為に
ホテルを守ってくれたのだから。
その彼をホテルの為に窮地に追い込むことはできない。
「しかしジニョン、これ以上、フランクの仕事に係わるな。
これは警告だ。」 レイモンドが強い口調で言った。
「どうして?」
「どうして?どうしてもだ!
彼の仕事に首を突っ込むのはここまでにしておけ。いいな。
もしも聞かないようなら、すべてをフランクに密告するぞ。」
レイモンドはジニョンを脅すように言った。
にも係わらずジニョンはつい噴出してしまった。「密告って、レイ・・」
「冗談じゃないぞ。“はい”と言いなさい。」
「・・・はい」 ジニョンは口を尖らせながら答えた。
「まったく。」
レイモンドはジニョンとの電話を終えると、デスクチェアーに深く座り
大げさに溜息を吐いた。
実際のところ、レイモンド自身もイタリアでのドンヒョクの援護を担っていたが
彼がドンヒョクに依頼されたことは、遠く離れた大陸でもできることだった。
それよりも自分はソウルホテルの復興を進めなければならない、
それが自分の役目だと、レイモンドは認識していた。しかし・・・
「そうは行かなくなったな」 彼は呟いた。
・・・ジニョンのやつ・・・
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