ラビリンス-21.悲しい告白
ルカの告白は続いた。
「・・・数ヶ月前のことでした。エマが妹の誕生日に来てくれて・・
いつものように一緒に過ごしていたんです。
僕達が嬉しくて上機嫌だったのは言うまでもなかったけど・・
この日エマもいつもと違って妙にハイテンションで・・
ちょっと不思議に思ってたんです。
僕達とふざけあってたかと思うと・・・
突然、彼女が急に黙りこくって・・・
顔を覗くと、彼女の目が潤んでて・・・
僕は驚いて・・“どうしたのか”って聞いたんです。
僕・・・そんなエマを見たことがなくて・・・
とても心配になって・・・
肩をそっと抱いて、頭を撫でてあげて・・・
そしたら急に・・
彼女が声を上げて泣き出して・・・
どうしたらいいか・・わからなくなりました
そんな風に泣くなんて・・無かったですから・・。
そうしたら・・しばらくしてエマが呟いたんです。
“フランクが・・韓国へ行ったわ”って・・
・・その言葉の意味が僕にはわかりませんでした。
でもただ泣くだけの彼女に・・何も聞けなかった。
・・彼女もそれ以上何も言いませんでした。」
「・・・・・・」
「でも一週間ほど前・・トマゾが僕のところへやって来て・・」
「トマゾ?」
「ええ。彼はエマを僕達のところに連れて来てくれた人です。
彼がこう言いました。
フランクはエマを裏切って結婚してしまったと。
エマのために、フランクの前からその女を引き離すんだと。
ごめんなさい・・あなたのことです。」
ルカはジニョンにすまなさそうに言った。
「ええ・・続けて?」
「エマのためになるなら、僕は何でもすると言いました。」
「それで私のところへ?」
「はい。フランクとMs.グレイスはミラノへ行っていて、
事務所にはいないと聞いていました。
でも直ぐにあなたに会えるなんて思わなかった。
ジョアンさんといるあなたが、フランクの奥さんだなんて・・
想像できなくて・・・フランクの相手ならその・・もっと・・」
「・・・・言いにくそうね・・・フランクの相手なら、もっと?・・・
とにかく・・私がフランクの妻には見えなかった
そうでしょ?」 ジニョンは笑いながら、ルカの言葉を代弁した。
「・・・・・ごめんなさい・・・でもそれは最初だけです。
その内に・・・“ああ、この人がそうだ”と思えましたから。」
ルカは慌てて打ち消すようにそう言った。
「そう?」
「ええ・・前にも言ったでしょ?あなたがいつも・・
“フランクを愛してる”って顔してるって・・あれ、本当です」
「ふふ、それは・・何だか少し・・悔しい気分。」
ジニョンはわざと口を尖らせて見せた。
「ははは、仕方ないです、本当ですから・・・それに・・・」
「ん?」
「それに・・・とても温かかった」
ルカは静かな口調でそう言いながら、ジニョンを優しく見つめた。
「温かい?」
「ええ、あなたを見ていると幸せな顔をしたフランクが見えたんです」
「そうなの?」 ジニョンも優しい眼差しでルカを見つめた。
「約束では・・・直ぐにあなたを連れ出して、
ミラノでトマゾに引き渡す予定でした。でも・・・」
「でも?」
「・・・・できなかった。」
「何故?」
「わかりません・・ただ・・あなたを見ていると・・・
トマゾに渡すべきじゃない、そう思ったんです・・・だから・・
ミラノのホテルを抜け出したんです。あなたを連れて・・・」
「じゃあ、私を助けるために?」
ルカは首を縦に振った。
「そのトマゾという人は・・・
その人は私をどういう風にしようとしてると思ったの?」
「・・・・エマのためとしか・・わかりません。ただ・・」
「ただ?」
「この二日でわかったことがあります。」
「わかったことって?」
「調べたんです。」
ミラノに来て、時折ルカがひとりで出掛けていたことが
ジニョンの脳裏を過ぎった。
「調べた?・・何を?」
「知らなかったんです。今まで誰も・・教えてくれなかった・・・」
「・・・・・・?」
「ジュリアーノが僕の両親の仇だということ」
「・・・仇?」
「さっき、5年前に僕の両親が亡くなったこと話ましたよね」
「ええ」
「両親は・・泊まっていたホテルの火災で亡くなったんです」
「・・・・・・」
「僕が11で・・妹は6歳でした。」
「・・・・・・」
「僕らは、何が起こったのか理解できなかった。」
ルカはゆっくりと丁寧にジニョンに自分の辛い過去を語り始めた。
ジニョンはまだ決して大人とは言い難い彼の口から語られる
悲しい出来事を、身を切られるような思いで聞いていた。
「僕たちは両親が死んでしまったことさえ、しばらくの間
教えてもらえませんでした。
その事実を知ったのは事件から二週間程経った頃です。
結局僕たちは両親の死に顔すら見れなかったんです。
・・・子供心に、理不尽だと思いました。
悔しくて・・悲しくて・・
周りの大人たちに食って掛かって、困らせたんです。
その頃は何もわかってなかったから・・・
でも・・やっとわかりました・・・
あの時僕たち兄妹が逃げるように
ミラノを離れなければならなかった理由」
「理由?」
「ええ、あの火災で僕達兄妹も死んだことになっていたから。
その事実を知ったのも二日前です。このミラノに来てから。」
「そうなの?」
「僕たちはずっとヴェネチアを出ることを許されませんでした。
大人になるまでは出てはいけない、と。
つい最近までそのことに疑問も抱かなかったんです。
生活に不自由はなかったし・・学校へも通わせてもらって・・
親がいないことも忘れさせてくれるほど、
みんなに親切にしてもらってた・・
僕がお金のことが心配で大学を諦めようとしていたら
シュベールさんが・・
あ、彼は僕たちを世話してくれたカーディナルです
父が残していた資産があるからと、言いました
それで大学進学も、医者になる望みも叶うと。
半年後にはアメリカへ留学をして、望みを叶えなさい、
彼にそう言われました。
その代わり、それまでは決してここを出てはならないと。」
「そう・・」
「でもヴェネチアを離れてはならない理由が他にもあったんです。」
「・・・・・・」
「僕らが生きていることをジュリアーノに知られないため。
すべてはジュリアーノの追っ手から僕らを守るためだったんだと・・・」
「追っ手?・・・」
「5年前、フランクと父は、その男のことを・・・
ジュリアーノ・ビアンコという男のことを探っていました。
父はジュリアーノを失脚させるための、証人だったそうです。
父の存在はジュリアーノにとって脅威だったと。
だからそのために・・・」
「そのために?」
「殺されたんです・・父も・・母も・・」
「そんな・・」
「間違いありません。」
「フランクは今、そのジュリアーノという人の仕事をしているわ」
「ええ。そして・・・もうひとつわかったことがあります。」
「もうひとつ?」
「トマゾとエマが、ジュリアーノの部下だということ。
あなたを連れて行く先が、そのジュリアーノのところだということ。」
「・・・・・・」
「僕は・・・何もかも知らなかった。」
そう言ってルカは両手の拳を握った。
「さっき部屋にいた時、電話があったのはトマゾでした・・
彼はフランクのホテルの場所を知っていました。」
「だから逃げたの?」
「ええ。」 ルカは辛そうに考え込んでいた。
「・・・これから・・どうするつもり?」
「・・・・どうしていいか・・わからないんです
僕はエマがとても大事です
エマのためなら・・どんなことでもできる・・・
そう思っていました・・いえ、そう思っています」
「・・・・・・」
ジニョンは苦しそうなルカの心情を察し、口元だけで笑顔を作った。
「・・・・・・ねぇ、ルカ・・・」
「ジニョンssi・・あそこに見えるエンジェル・・・」
「えっ?」
ジニョンが口を開くと、ルカが突然橋の欄干を指差した。
「あれは・・・あなた・・」
「えっ?」
ジニョンはルカが指差す方角を見上げようとした。
しかしその先を確認する間もなく、突然ルカが表情を強張らせ、
「シィ・・」とジニョンに向かって指を立た。
そして乱暴に彼女の腕を引くと、そのまま自分の腕に彼女を抱き、
橋の下に隠れるように身を潜めた。
「どうしたの?ル・・」
その瞬間、ルカは彼女の口を自分の掌で塞いだ。
「うっ・・」 ジニョンは思わず彼の腕中で身を捩って抵抗した。
「いたか!」
「いいや、城にはいなかった!」
その時、頭上から複数の男の声が聞こえた。
そのせいでルカが声を潜めていることに気づいたジニョンは
ルカに“承知した”と目で合図した。
ルカは頷き、ゆっくりとジニョンの口から掌を外した。
「まだこの辺りにいるはずだ!探せ!」
「はい!」
男達は少なくとも4~5人いるような様子だった。
「ルカ」
ジニョンはルカの視線を川面に誘導した。
「逃がしたのか」
橋の上で待っていた男が、駆け寄って来た男達に向かって
苛立ちを見せた。
「はい。我々が川辺に下りた時は一足違いに、ボートで。」
「追わなかったのか?」
「はい・・いえ・・・その・・すごいスピードでして・・」
「!・・・相手はたかが女と子供だぞ。」
「申し訳ありません。」
男は目の前で小さくなる輩から視線を外すとため息を吐いた。
「ありがとうございました」
ジニョンはボートを降りながら、その主に向かって礼を言った。
あの時偶然、川岸に碇泊しようとしていたボートが視界に入り
ジニョンはとっさにルカをそれに誘導した。
そして、物々しい輩に追われているらしいふたりを察した船主は
迷うことなく一度泊めたボートのKEYを回したのだった。
「いや・・気をつけなされ」
「ジニョンssi・・・ここからフランクに連絡してください」
ボートから降りると直ぐにルカが真剣な顔で言った。
「・・・・・・」
「あなたを迎えに来るように。」
「あなたは?」
「僕は・・・トマゾに会います」
「だめよ・・ひとりじゃ駄目。」
「これ以上あなたを危険に晒すわけにはいきません。
でも僕はトマゾの本心を知りたい。
エマの本心を知りたい。」
「・・・・私も・・・知りたいわ。」
「いいえ、あなたはフランクのそばにいなきゃ駄目だ。」
「あなたが。・・・
私をフランクの元に連れて行ってくれるでしょ?」
「・・・ジニョンssi・・・」
「そうでしょ?」
ルカはジニョンの真剣な眼差しに降参したように手を上げた。
「・・・・・わかりました。・・ジニョンssi、一旦あそこへ戻りましょう。」
「あそこ?」
「サンタンジェロ城」
「えっ?だって・・あそこには・・」
「奴らは僕達が直ぐに戻るとは思わないはずです」
その頃、ドンヒョクはサンタンジェロ城に続く橋の袂で、
見慣れたバイクを見つけ、その周辺にジニョンとルカがいると
懸命に探していた。
しかし、ふたりの姿は何処にも無かった。
しばらくの間、バイクのそばで待ったが、それも無駄だった。
「いったい・・・何処へ・・・」
その時、ドンヒョクの電話が鳴って、彼は慌てて応答した。
「ジニョン?」
電話の主はレイモンドだった。
「まだ見つからないのか」 レイモンドが言った。
「ああ」
「もうすぐローマに着く」
「・・・・・・」
「とにかく会おう、エマを連れて来た」
「・・・・・・」
「フランク。」
「会いたくない。」
「策を練ろう・・今は・・溜飲を下げろ。
ジニョンのことは・・エマは知らなかったことだ。
ジョアンにもどうすることもできなかった。
そうだろ?
ジニョンは今・・彼女の意思でルカと行動を共にしている。
違うか?」
レイモンドはドンヒョクを諭すように言った。
「・・・・・・」
「フランク!」
「・・・・ホテルへ。」 ドンヒョクは声の調子を下げて答えた。
「わかった。」
わかっていた。
確かにそうだった。今、ジニョンは自分の意思でルカと一緒にいる。
― なら、連絡することもできるはず。
―
「どうして、連絡しない!」
ドンヒョクは胸を掻き毟られるほどの怒りと不安に震え
傍らのバイクを苛立ち紛れに押し倒した。
・・・何故だ!ジニョン・・・
ラビリンス-20.フランクの心
《ラビリンスをお読みくださっている皆様へ》
上映会の日までには書き上げようと思っていた作品が、その期間MVで頭がいっぱいになってしまい
こんなにも遅くなってしまいました。皆様ももうストーリーもお忘れになったことでしょう(笑)
できれば最初から再読していただき、この回に入っていただきたいところですが
そんな時間の無い方のために、少しだけあらすじを^^
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【ここまでのお話】
ドンヒョクは10年の時を経て、やっとジニョンと結ばれた。
結婚式の1週間後、予ねてより依頼を受けていた仕事のためにふたりはイタリアの地を訪れた。
イタリア・フィレンチェにはドンヒョクの事務所があり、そこで働くミンアとジョアンの手により
或る人物から依頼された案件は既に進行していた。
フィレンチェに着いた早々ジニョンは、仕事を理由にドンヒョクから置き去りにされてしまった。
それに憤慨したジニョンがジョアンを嗾けてドンヒョクの後を追い掛けようとするが
そこにルカという謎の女性が現れ、ジニョンとジョアンと行動を共にすることになる。
ジニョンはジョアンと共に、ドンヒョクに知れぬよう背後で彼の行動を伺う内に、
彼の傍らに寄り添う美しい女性エマを見かけた。
その女性が5年前ドンヒョクの恋人であったことを知ったジニョンは、複雑な感情を抱く。
また、ドンヒョクを操ろうと企むジュリアーノというイタリアマフィアのボスは、
その最終手段として、ドンヒョクの弱みであるジニョンを手中にしようと企てていた。
そんな中、ルカがジニョンを連れ、ジョアンの前から姿を消した。慌てたジョアンは、
ジニョンを案じて急遽イタリアを訪れていたレイモンドとミンアと共にジニョンの後を追うが、
既にその事実を知ったドンヒョクに怒りを買うこととなる。
一方ルカに連れ出されたジニョンは、その行動に何か訳があるのだと感じていた。
(後は19話をお読みください^^;)
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ジニョンはルカが運転するバイクに跨り、その腰に腕を巻きつけていた。
少し走ると、ルカの肩越しにビルの隙間から白む空が垣間見え、
夜明けの訪れを告げていた。
ジニョンは数日前、ドンヒョクと同じ道を走った時のことを思い出した。
時間帯が違うだけで、同じ街並みがこんなにも違って見えるものなのかと
彼女は、今自分が置かれている緊迫した事態を案ずることよりも、
その背景の神秘に心を囚われていた。
しばらくしてルカは川沿いでバイクを止め、ヘルメットを取った。
いつも後頭部の高い位置で結ばれていた長い髪は解かれ、
ヘルメットからさらりと赤い髪が零れ落ちた。
ジニョンもヘルメットを取ると、互いに無言のままバイクを降りた。
ジニョンは自分を無視して歩き出したルカの後を、小走りに追った。
橋の麓には川沿いに通じる細く急な石段があり、ルカがそれを
一気に駆け下りると、ジニョンも急いでその後に続いた。
その間中ルカはジニョンを決して振り返らなかったが、
彼女が自分の後を追っていることは背中で承知していた。
階段を下りると、川の辺に無造作に放置された白い椅子が
目に留まった。
見渡すとこの辺り一帯がオープンカフェの店先になっていて、
その椅子はきっと、店仕舞の際、片付け忘れられたものだろうと
推測できた。
ルカはその椅子のひとつの腰掛部分の埃を、自分の袖で
丁寧に拭き取ると、ジニョンに向かってそれを差し出した。
ジニョンは少しだけ微笑んで、彼に従いその椅子に腰を下ろした。
ルカもまた、もうひとつの椅子に、今度は埃もそのままに
腰を掛けた。
「・・・・どうして・・あんなことを?」 ルカが最初に口を開いた。
「どうして・・・こんなことを?」 ジニョンはそれに答えず、逆に問うた。
ルカはジニョンの物言いに思わず笑ってしまった。
「そうですね・・・僕から・・答えるべきですね」
≪僕・・・≫
ジニョンは“彼”のその言葉を肯定するように笑顔を返した。
「あなたを連れて来るように言われたんです」
ルカは川面に視線を移して言った。
「私を?・・誰に?」 ジニョンはルカの綺麗な横顔を見ていた。
「・・・・・・」 ルカはその誰かの名を答えなかった。
「・・・・・・」 それでもジニョンはルカの口が開くのを辛抱強く待った。
ルカはしばらく沈黙を続けた後、一度目を閉じ、決心したかのように
一息吐いてやっと口を開いた。
「結局は・・僕が決めたことです。僕がそうしたかったから。
決して誰かに命令されたわけじゃなかった。
あなたが消えてくれればいい・・本当にそう思ってましたから」
「消える?」
「ええ、フランクの前から・・・」 ルカはジニョンの方に顔を向けた。
「誰のために?」
『フランクは・・彼女のものなんだ。』
先刻、ルカの口を衝いて出たその言葉と、その時の
彼の切なげな表情が、ジニョンの脳裏に蘇った。
彼が自分自身の為ではなく、他の誰かの為にドンヒョクを
取り戻そうとしていたことは間違いなかった。
「・・・・・・」 ルカはジニョンの顔をじっと見つめていた。
「・・・でもあなたって凄い人だな」 そして彼は話を逸らした。
「えっ?」
「あなたには驚かされてばかりです」
「驚くって?」
「僕が男だって・・さっきわかったでしょ?それなのに・・・
あなたをさらって・・あなたに怖い思いをさせた僕を・・
あなたはこうして逃がした。何故です?」
「・・・・あなたを・・怖いと思わなかったから・・・
それじゃ答えにはならない?」
「・・・・・・僕はこう見えて、いっぱしの大人の男ですよ。」
「そうなの?」
「・・・17は・・大人でしょ?」
その時ルカは少し不満げに、そして何気なく自分の年齢を告白した。
「17歳なのね・・・確かに、大人ね」
「・・・馬鹿にしたでしょ」 ルカはジニョンの顔を下から覗いて言った。
「アニョ・・」 ジニョンはとぼけて空を仰いだ。
ルカは声を立てて笑った。
「でも、もっと世の中の怖さを知った方がいいです、ジニョンssi」
「オモッ・・お説教?これでも私、いっぱしの大人の女よ」
ジニョンのその言葉にルカはあどけない表情を向け、笑った。
「ほんとに?」
「ふふ・・でも、フランクにもよく言われるわ。
“君ほど怖いもの知らずはいない。世の中は君が思っているほど
生易しくはないんだ”って・・・」
「フランクはいつだって正しいです。」 ルカは断言したように言った。
「でも・・・あなたは怖くなかった。」
「僕がまだ・・子供だから?」
「大人の男なんでしょ?いっぱしの。」 ジニョンは首を傾げて言った。
「ははは・・」
ルカはまたも声を立てて笑った。よく考えてみると、ルカと知り合って、
彼がこんな風に笑うのを見たことは無かったかもしれないと、
ジニョンは思った。
そして彼のその笑い方が、少しドンヒョクに似ていると感じて、
心が和んだことも事実だった。
ルカはなかなか本筋に入ろうとはしなかった。
それでも、ジニョンは決して彼を急かさなかった。
ジニョンの中で湧き出る謎を、彼がひとつずつ解決してくれるのを、
その隣で黙って待っていた。
「ヴァチカン・・ご存知ですか?」 ルカがまた口を開いた。
「訊ねてみたい所よ・・・まだだけど・・・」 ジニョンは答えた。
「この橋を渡って、川沿いを行くと直ぐです」
「そう・・・」 ジニョンはルカの視線を追って答えた。
「僕の両親はそこで死んだんです。5年前。」
「・・・・・・」
ルカの唐突な言葉に、ジニョンは相槌さえ忘れていた。
「・・・・・・エマは・・・フランクをずっと愛していました」
今度は、亡くなった両親の話ではなく、“エマ”という名を
ルカは口にした。
「エマ・・・・・」≪きっとあの人のことね≫
フランクのそばにいたあの女性のことだとジニョンは確信していた。
だから初めて聞くその名前の主のことは、敢えて聞き返さなかった。
≪そういえばあの時、ジョアンに彼女の名前すら聞かなかった。
それは私が、あの女性の話を聞きたくなかった・・から?≫
「・・・・あなたも・・フランクをよく知ってるのね」
結局ジニョンは、“エマ”の話題を避けてそう言った。
「ええ・・・・・あの人・・子供が余り好きじゃないんです。
特に僕のような生意気な子供は」 そう言ってルカが笑った。
「そんなこと無いと思うけど」
「彼いつも・・僕達にはすっごく無愛想で・・・
怖いくらいだったんです。」
「きっとこ~んな顔してたのね」
ジニョンは自分の両目を吊り上げて見せた。
「ええ、まさしく。」
ルカはそう言いながら、ジニョンの顔を見てケタケタと笑った。
「僕は彼のこと、直ぐ好きになりましたけど。
とにかく僕、わざと彼にまとわり付いていたんです。
うるさがられて邪険にされても、僕はめげなかった。
彼に近づきたくて、彼のようになりたくて・・・
彼の話し方や笑い方や・・歩き方まで後ろでまねたりして、
本気で怒られたことがあります」
「何だか想像ついちゃう。
きっとあなたのこと、可愛かったと思うわ彼。」
ジニョンが言うと、ルカは「そうかな」と嬉しそうに微笑んだ。
「僕の父とフランクはとても懇意にしていて・・・
僕達は会う機会が多かったんです。
どんな時も彼は僕を子ども扱いしませんでした。
為になるからと難し過ぎる本を宛がったり・・・
チェスの相手をしてくれても、決して容赦してくれなかった・・・
僕はいつも泣きながら彼に向かってました」
ルカは話しながら、懐かしげに宙を仰いだ。
「それから僕は色んな話を彼にしました。
好きな女の子のことや、学校で起きたくだらないことまで。
そんな時も彼は自分の仕事をしていたり、本を読んでいたり・・
決して僕の話を聞いている風じゃなかった。
僕はいつも彼の横で勝手におしゃべりしてたんです
でも、話の途中で口を挟む彼の言葉はちゃんと的を射ていて・・
聞かない振りをして聞いている、それが憎たらしい程に得意な人でした。
でもそんな彼が・・フランクが僕は・・・大好きだったんです」
フランクの話は尽きないとばかりに、ルカは目を輝かせ、饒舌だった。
「そう・・・」
ジニョンはそんなルカを愛しげに見つめていた。
ドンヒョクはその頃ローマのホテルに到着していた。
そこで起きた詳細を、総支配人ベルナンドから聞きながら、
何か手掛かりがないかと、ジニョンの部屋へ足を踏み入れた。
「一緒にいたのはこの子だったか?」
ドンヒョクはベルナンドに、ポケットから一枚の写真を出して言った。
「あ・・いえ、もう少し・・それにこの子・・」
「これは5年前の写真だ。今、彼はもう直ぐ17になる」
ドンヒョクはベルナンドの釈然としない思いを解決させるべく、
そう付け足した。
「ああ、それでしたら・・はい、この子だと思います。
それにこの子、以前ここへおいでになっていませんか?」
「僕がここを買った頃、一度だけ連れて来たことがある」
「ああ、やはり・・あの時の・・・可愛い坊ちゃんですね。
ですから何となく見覚えが・・・」
「ああ・・」
「それがどうして今回、フランク様に内緒でこのようなことを・・」
「・・・・ヴェネチアを出すなと、あれほど。」
ドンヒョクはベルナンドの問い掛けには答えず、
溜息交じりの苛立ちを覗かせて、独り言を呟いた。
「警察へ届けた方がよろしいでしょうか」
ベルナンドは只ならぬドンヒョクの表情に思わずそう言った。
「あ・・いや・・それはいい。」 ドンヒョクは我に返った様子で答えた。
「両親にさえ話さなかった将来の夢を・・
フランクにだけ話したことがあります」
「将来の夢?」
「ええ、僕は彼に言ったんです。・・医者になりたいと。
そしたら彼が“それじゃあ、君は※イエスのルカだ”って。
それ以来、彼だけが僕を“ルカ”って・・」
「そうなの・・・」
「楽しかった・・本当に楽しかった・・あの日が来るまでは・・・」
「あの日?」
「・・・・・・」
「・・・あ・・」
ルカのさっきの言葉が蘇って、ジニョンは言葉を詰まらせた。
≪僕の両親はそこで死んだんです、5年前≫
「僕と妹はその日、ミラノの知り合いの家にいて助かったんです。」
その言葉だけで、彼の両親の死の原因が慮られ
ジニョンは言葉を呑んでしまった。「・・・・・・」
「その後僕達兄妹は、知り合いのカーディナルの世話で
ヴェネチアの教会で暮らすことになりました。
学校にも行かせてもらって・・食べるものにも不自由は無かった。
周囲の人達はとても優しくしてくれたし・・・でも・・・
本当は寂しかった。父にも母にも会えなくて・・・
大好きだったフランクにも会えなくなってしまった・・・
妹は、何故父や母がいないのかということすらわかってなかった・・・
だから僕はあの子のそばで、泣くことができませんでした。
本当は僕だって・・・泣きたかったのに・・・」
ルカはそう言いながら、寂しげに笑った。
ジニョンは握り締めた彼のこぶしをそっと包みこむように触れた。
「そんな頃でした。エマが僕達の前に現れたんです。」
「・・・・・・」
≪エマ・・・そうね・・・彼女のことは・・避けては通れないわね≫
ジニョンは彼の手を離し、姿勢を正した。
「僕達はエマのことを知っていました。フランクの・・・
恋人でしたから・・・」
そう言いながらルカはすまなそうにジニョンを見た。
「いいのよ・・気にしないで・・・」
「・・・それ以来、彼女はたびたび僕達を訪ねてくれました。
いつも沢山のプレゼントを持って・・・妹はとても喜びました・・
あ・・僕もだけど・・・・
僕達はいつも彼女がやってくる日を指折り数えてました。
僕達が決して寂しくないように・・・
エマはいつも僕達に寄り添ってくれました。」
「どうしてルカのことをボスに報告しなかったんですか?」
ミンアはずっと疑問に思っていたことをエマに訊ねた。
「・・・・・・」 エマはなかなか口を開かなかった。
「身勝手だと思わなかったんですか?ボスがどれほど・・」
「・・・何を言われても・・反論はしないわ。」
エマはそう言いながら車窓から外を見た。
「答える義務があるわ。」 ミンアは詰問するように身を乗り出した。
「彼らが・・・ルカ兄妹がフランクとの唯一の繋がりだった。」
レイモンドがエマの心を代弁するかのように、静かに呟いた。
「・・・・・・」
レイモンドの言葉にエマは、ただ黙って彼を睨みつけると
瞳の端から一筋の涙を落とした。
「“何故僕達にこんなに親切にしてくれるの?”
ある時、僕はエマに聞いたことがありました。
そしたら彼女・・こう言ったんです。
“フランクがきっとこうしたかっただろうから・・”って
僕達兄妹の誕生日がくると・・・
“フランクが喜ぶわ”
“フランクもあなた達の成長をきっと見たかったわね”って・・」
「・・・・・・」≪彼女は本当にフランクを愛していたのね≫
「彼は・・・フランクは・・・心だけを持って去って行ったわ・・・」
エマがやっと口を開いた。「私の・・・心だけ・・・」
「勝手なこと言わないで。元はといえばあなたが・・」
ミンアはエマを責めるように言った。
「ええ、そうね。わかってる、わかってるわ・・・でも・・・
・・あの子達に会うと・・そのことを忘れることができた
彼への裏切りを忘れることができた
あの子達に会う度に
フランクの心を・・彼の代わりに届けている・・・
そんな錯覚を覚えた
あの子達を懸命に守ることで・・・
フランクの愛も取り戻せるような気がしていたのかも・・・」
「・・・・・・」
「だから・・終って欲しくなかった・・・」
「・・・・・・」
「だから・・・伝えなかったの・・・」
エマは溢れる涙に耐えながら、言葉を繋げた。
ミンアはそれ以上彼女を責めることができなかった。
ルカが今、何をしようとしているのか、ドンヒョクは思いを
巡らせていた。
「ルカ・・ジニョンに何を?」
≪エマのためなら・・・そうなのか?、ルカ・・≫
ドンヒョクは湧き上がる苛立ちと反比例するように、ゆっくりと車のギアを入れた。
「ルカ・・・どうか・・・
私にお前を・・・
・・・憎ませるな」・・・
※イエスのルカ=キリスト教「新約聖書」に収められている四つの正典「福音書」の記者のひとり。
医者であったと推測される。ルカは十二使徒(イエスの直接の薫陶を受けた弟子)ではない。
ラビリンス-19.過去を追いかけて
「ティーンエイジャー?・・・・まさか・・・ルカ?・・・」 ドンヒョクは呟いた。
「如何なさいましたか?フランク様」
「いや・・ああ、何でもない。ベルナンド、頼みがある。
妻の様子を見て来てくれないか。今すぐ・・何気なくだ。
私は直ぐにそちらへ向かう。私が到着するまで
何とか引き止めておいて欲しい」
「かしこまりました」
ドンヒョクは電話機を閉じ、身支度を整えながら、思いを巡らせた。
≪その子がもしも・・ルカだとしたら・・・何故?ジニョンと?≫
総支配人ベルナンドはドンヒョクとの通話を終えると直ぐに、
調理室に連絡を取り、果物の盛り合わせを大至急用意するよう命じた。
ジニョンの部屋を訪ねる為の大義名分を用意するためだった。
「痛いわ・・ルカ・・・あなた・・・」 ジニョンが間近にあったルカの目を見て
不思議そうに言った。「あなた・・・もしかして・・・」
その時だった。
電話の着信を知らせる音がルカの体から聞こえた。
ルカは上体を起こし、ジニョンの体から離れると、自分のポケットから
携帯電話を取り出した。
ジニョンもまた体をベッドから起こし、ルカの様子を伺っていた。
ルカは数秒程、短い会話をして電話を閉じ、ジニョンに振り向き言った。
「ジニョンssi・・直ぐにここを出ます」
「えっ?」
「早く支度を」
「ね、ルカ・・いったい何なの?」
「早く!」 ルカは声を荒げてジニョンの手首を強く掴んだ。
ルカはジニョンの手を掴んだまま部屋を出ると、エレベーターへと向かった。
ルカが下のボタンを押した時、もう片方のエレベーターがもう直ぐ
この階へ到着しようとしているところだった。
ルカは咄嗟に階段を駆け下り階下へ降りると、エレベーターのボタンを押した。
そしてその扉が開いたと同時に中へ駆け込み、数字の1を手早く押した。
ジニョンはルカの慌てた様子を間近に見て、その胸の内を思い図っていた。
「フランクのせいなの?」 ジニョンがルカにそう言った。
「・・・・・・」 ルカは答えなかった。
「あなたがこんなことをしているのは・・・フランクのせい?」
ジニョンは重ねて聞いた。
「黙れ。」 ルカはジニョンから目を逸らしたまま、彼女を制した。
レイモンド一行がミラノに戻ったのは、夜中の二時を過ぎていた。
三人は静寂漂うホテルのロビーを横切り、エレベーターへ向かった。
彼らに気づいた警備員が、不審そうに声を掛けて来たが、
ミンアが上階に滞在中のフランク・シンの部下である証明をし、
至急会う必要があるのだと了解を求め、難を逃れた。
「ボスへ連絡が行きますね」 エレベータの扉が閉じるとジョアンが言った。
「それは構わない。どうせ後で彼にも会わなければならないだろう」
レイモンドがそう言った。
「そうね。でもまずはエマに会わないと」 ミンアが言った。
ミンアはエマの部屋の呼び鈴を鳴らした。5回鳴らした後、やっと応答があった。
「エマ・・ミンアです。夜分に申し訳ありません」 ミンアは声を潜め言った。
「ミンア?・・どうしたの?」 エマの声は当然驚いていた。
「緊急にお話があります」 ミンアの声は緊迫していた。
「ちょっと待って。」 エマは答え、直ぐにドアの鍵を開けた。
「入っても宜しいですか?・・・同行者がいますが」
そう言ったミンアの後ろに、レイモンドと若い男がミンアと同じく
真剣に自分を見ていたので、彼女は「どうぞ」とだけ言った。
エマは就寝していた様子は無く、PCの画面が開いていた。
「お休みじゃなかったんですか?」 ミンアが言った。
「ええ、明日の準備を・・」
そう言いながらレイモンドの顔を見たが、事実はそうではなかった。
フランクのことが気になって仕方なかく、眠れなかったのだった。
「率直に伺います」 レイモンドが言ったので、エマは頷いた。
「ジニョンは何処です。」
「えっ?・・・ジニョン?・・・ジニョンって・・フランクの?」
エマは戸惑ったようにそう答えた。
「ええ。フランクの妻のソ・ジニョンです」 レイモンドは強調して言った。
「どうして・・私が?・・彼女の行方を?」
「ルカ」 ミンアが口を挟んだ時、エマが驚いてミンアの方に視線を移した。
「ルカは、いいえルーフィーとアレッシア兄妹は・・・生きていたんですね」
ミンアは事実を突きつけるように言った。
「何を言ってるの?あの子達は両親と一緒に。」
「とぼけないで、エマ。・・ルカがジニョンssiを連れ回してるの。」
「ルーフィーが?・・何故?」
ミンアは自分のバックから写真を出した。
エマは差し出された写真を見て驚いた。「これを・・どこで?」
「ルカが持ってたものよ」
「・・・・・・」
ルカとジニョンがエレベーターで一階に下りると、ロビーが騒がしかった。
きっと自分達が部屋にいないことが、上で確認されて知らされたのだと
ルカは悟った。
その時だった。
「ルカ・・こっちへ」 ジニョンが言った。
ジニョンはルカをバックヤードへ誘導し、裏口へと向かった。
今度はルカの手をジニョンが引いていた。
「何処へ?」 ルカは慌てていた。
「いいから、付いて来て。」 ジニョンはそう言った。
裏口を抜け少し歩いた所で、ジニョンはシャッターの前に立った。
そして、バックからカードkeyを取り出しそのシャッターを開けた。
そこはガレージだった。
ルカはジニョンの行動をただ見守っていたが、その中のバイクを見つけて
彼女の顔と交互にそれを見て驚いていた。
「keyは・・ここよ。」
ジニョンは先日ドンヒョクに教えられたバイクのkeyの隠し場所をルカに示した。
「どうして?」 ルカは驚いた表情をそのままにジニョンに言った。
「いいから、急ぎなさい。直ぐにここも気づかれる。運転は?」
ジニョンが言うとルカは頷いた。「だったら、お願い。私自信ないから」
そしてふたりは急いでバイクに乗り、ガレージから滑り出た。
その頃、既にローマに向かって車を走らせていたドンヒョクは、
ベルナンドからの連絡で、ジニョンがホテルから消えたことを知った。
「バイクで?・・・ジニョンのやつ・・・」
そう呟きながら、ドンヒョクはほんの少しだけ安堵していた。
何故ならジニョン自身がその手段を選んだということは、彼女には少なからず
余裕があると、理解できたからだ。
「しかし・・・」 ドンヒョクは考えあぐねた。「何処へ?」
「フランクを呼んで来い。」 レイモンドがジョアンに言った。
「はい。」 ジョアンは急いで一階上のドンヒョクの部屋を目指した。
「教えて・・・エマ・・・いったいどういうことなの?
いったい何が起こってるの?」 ミンアがエマに問いただすように聞いた。
「何が起こってるか?・・・私だってわからない・・・でも・・
ルーフィーが関係しているのだとしたら・・・」
エマは頭の中で考えを巡らせ、数時間前にトマゾが言った言葉を
思い出していた。
『あなたを愛する者達を信じて』≪トマゾ?・・・まさか・・≫
「ちょっと待って?」 エマはそう言って携帯電話を出した。
「何処へ?」 レイモンドがその電話に手を添えて用心深く聞いた。
「トマゾへ・・昼間にお会いしましたでしょ?・・彼ならもしかしたら
この経緯を知っているかと」
「彼はジュリアーノの側近ですよね」
「ええ。でも・・彼は大丈夫です」
そう言ったエマの真剣な眼差しにレイモンドは電話に翳した手を退けた。
しかしその電話は繋がらないようだった。
「可笑しいわ」
「どうしたんです?それにどうして彼に?」 ミンアが疑念を持って聞いた。
「彼はルーフィーのことを知ってるの」
「ということは・・ジュリアーノも?」 今度はレイモンドが聞いた。
「いいえ・・・会長は知らないはずよ。トマゾは彼らの情報を掴んだ時
私だけに教えてくれたはずだから」
そう言いながらエマはがっくりと椅子に腰を落とし、深呼吸を繰り返して、
気持ちを落ち着けていた。
「どういうことなの?・・話がちっとも繋がらない。エマ・・」
ミンアはそう言いながら彼女の横に座った。
「・・・あの日・・」 そしてエマは遠い日の真相に触れ始めた。
「私はジュリアーノから、フランクの命と引き換えに
全ての証拠を渡すように要求されたわ」
「5年前のことね」
「ええ・・私は・・迷わなかった。
他の事は何も考えなかった。
フランクを助けてくれるなら・・何でもする。そう言ったわ。
そして・・・私はそれを実行したの
まさか・・あんなことになるなんて・・本当に思わなかった。
アレグリーニ一家があんなことになるなんて・・・
彼が・・・全ての鍵を握っていたことは確かだったけど・・・
まさか本当に・・そんなことが起きるなんて・・・」
エマは懺悔すべき悲しい出来事を思い出して震えていた。
「エマ・・・」
「ミンア・・・私は愚かだったかもしれない・・・でも後悔はしてなかった。
そうするしかないと信じていたから・・・。
彼が・・フランクがあんなにもショックを受けて、苦しむ姿を見るまでは。」
「・・・・・・」 ミンアは微かに震えるエマの肩を抱いた。
「覚えてるでしょ?あの時の彼の・・・慟哭を・・・
その時私は初めて、自分のしたことの恐ろしさを思い知ったの・・・
彼は何も聞かなかった・・・それは彼が私を見放したということよ・・・
そのことが罵られるよりも辛かった・・・でも・・・
私はそれでも・・最後まで彼を守らなければと思ってた。
ジュリアーノの・・執拗な追っ手から。
それができるのは私しかいない、そう思ってた・・・
だからジュリアーノの元へ行ったの。
皮肉なことに私がフランクを裏切ったことが、彼の心証を買っていて
私は更に月日を掛けて、彼のブレーンに潜り込むことができた。
ジュリアーノのそばにいれば、彼がフランクを狙うことも防げるかもしれない
そう思ったからよ・・・
そして・・あの事件から半年が経った頃、トマゾが教えてくれたの」
「何を?」
「子供達が生きていたことを」
「・・・・・・」
「驚いたわ。警察は間違いなく、一家全員が亡くなったと発表していたし
ジュリアーノもそう思っていたはず。
私は直ぐに会いに行ったわ。
そして・・あの子達を見つけた・・・・
あの子達の無邪気に遊ぶ姿に・・涙が出たわ。
“ああ、生きていてくれた”・・・でも逆に彼らへの罪悪感が沸いてきた。
だから・・彼らには本当のことを言えなかった・・・
私があなた達のご両親を・・・彼らの顔を見る度に胸が潰れる思いだった。
あの子達の住む教会に行く度に懺悔してた。
そしてこの子達を見守っていく・・そう誓ったの・・・
だから頼んだの。トマゾに・・決してジュリアーノに知らせないでと。
そして私は、隠れて彼らの元を訊ねてた。
誕生日やクリスマス、復活祭・・
彼らと頻繁に時間を過ごすようになった」
「トマゾはどうして、ボスに話さずあなたに?」
レイモンドがわずかに信用し難いと思い、聞いた。
「・・・・彼は・・・私を大切に思ってくれています。だから・・
誰にも話さないと誓ってくれました。
もしもジュリアーノに知れたら、彼は自分への復讐を防ぐためにきっと、
ルーフィー達を・・・そう思ったんです。
ジュリアーノは用意周到な恐ろしい男ですから」
その時、ジョアンが戻って来た、「ボスは部屋にいないようです」
「いない・・よう?」 レイモンドが怪訝な顔をした。
「ええ。
先程の警備員が仲間を連れて、ボスの部屋の前で騒いでいました。
きっと僕らのせいでしょう」 ジョアンは肩を上に上げて言った。
「二時間ほど前にはいたわ」 エマが言った。
「何処へ?」 ミンアが言うと、「もしかしたら・・・」 とエマが口を挟んだ。
「さっき会った時、彼が妙に落ち着いていなかったの・・
もしかして、奥様のことと関係が?」
「そうだろうな。
ジョアンが彼の命令を無視して会いに行かず、私達もしばし彼を避けた。
無論、ジニョンとも連絡は取れなかったとなれば、
奴がじっとしているわけは無い。
私達もここまでに時間が掛かり過ぎた。」
レイモンドはそう言って唇を噛んだ。「ジョアン・・フランクに連絡しろ」
レイモンドは彼に命じた。
「はい。」
「ローマへ行きましょう」 エマが言った。
「ローマへ?」
「心当たりがあるわ。その前に、このホテルの騒ぎを収めてこないと」
エマはそう言って、フロントに電話を入れた。
『ジョアン?・・どこのジョアンだ?』 ジョアンが電話をした相手は冷たく答えた。
「あ・・あの・・申し訳ございません。」 ジョアンは滴るほどに汗をかいた。
『謝る必要は無い。お前を買いかぶった私のミスだ。』
「・・・・・・」
ジョアンが電話を持ったまま言葉を失うほどに、その声は凍りついていた。
「代われ。」 隣にいたレイモンドがジョアンから携帯を奪い取った。
「ジョアンを責めるな。私が指示した。」 その電話の向こうにそう言った。
『何も話したくない。』 その向こうの凍りついた男はそう答えた。
「話さなくていい。ただ、何処に向かっているかだけ教えろ。」
レイモンドもまた冷たく言った。
『・・・・ローマ。』 その言葉だけを残して、電話は切れた。
「フランクもローマだ」 レイモンドは運転席のジョアンに言った。
「はい。」
ジョアンが車をエントランスに回すと、ミンアが支度を整えたエマを連れて
車止めで待っていた。
ミンアは後部座席にエマを乗せ、後に続いた。
「ローマの何処へ?」 レイモンドがエマに振り向いて聞いた。
「ヴァチカンへ」
レイモンドはジョアンを見た。
・・・「急げ」・・・
ラビリンス-18.ルカの秘密
「フランクを返してください。」 ルカはジニョンを嘲るように繰り返し言った。
「何故?」 ジニョンはルカを真っ直ぐに見て聞いた。
「フランクはあなたのものじゃない。」
「・・・・・・」
「・・・・彼のそばにはいつも女が群がってた。
彼はそんな女たちをいつも軽くあしらってた。あなただって・・」
「そうなの?」 しかしジニョンは彼女に対して平然として答えた。
ジニョンの落ち着き払った態度に、ルカは苛立ちを隠せず、彼女を険しく睨んでいた。
ジニョンはそんなルカに向かって小さく笑った。
それがまたルカの気持ちを逆撫でた。
「あなた達は10年間も別れていたんでしょ。
まさか、その間にフランクが誰も愛さなかったって、信じてるわけ?
あなた以外に誰も抱かなかったと?」
ルカは口調を荒げてジニョンを攻撃した。
「知ってるのね・・・私達のこと・・・」 ジニョンは驚いてルカを見た。
「ええ。何でも。」 ルカは胸を張って答えた。
「そう・・・・そうね、確かにこの10年間のあの人を私は知らない。
どんな生活を送っていたのか・・どんな人と出会っていたのか・・・
何ひとつ知らない・・・」
ベッドに腰掛けていたジニョンは少し寂しげに言葉を続けた。
「ねぇ、ルカ・・・心から・・愛する人の生きて来た何もかもを知らないって・・
どういう気持ちだと思う?・・・」
「・・・・・・」
「胸がね・・破裂するように苦しいのよ・・とっても・・・
10年・・とっても長い年月だわ・・私はその10年の一分も一秒も・・
彼のことを知らない・・・」
「・・・・・・」
「その世界を想像するだけで・・すごく苦しくなる。悲しくなる。
それでもどうしても想像してしまうの・・・
この時彼はどんな風に生きていたんだろう・・
あの時彼はどんな景色に埋もれていたんだろう・・
私以外の誰を見ていたんだろうって・・
その度にね・・・どうしようもなく胸が締め付けられるの・・」
「・・・・・・」
「でもこれだけは信じられる・・・
私が苦しいのは・・彼に愛したひとがいるとか、いないとか・・・
そういうことじゃない・・・」
「・・・・・・」 ルカはジニョンの言葉を真剣な顔で聞いていた。
「そうじゃないの・・・あるのは・・
あの人が過ごした時間に自分が存在できなかった・・その後悔・・・
そのことが悲して・・悔して・・寂しくて・・ただ・・それだけなの・・」
ジニョンはそう言いながら、先刻見かけた美しい女性に対して
わずかながらでもドンヒョクに腹を立ててしまったことを後悔していた。
≪そうよ・・そんなはずは無いんだから・・・少なくとも今はもう≫
「フランクにはあなたの知らない恋人がいた。彼が今でも。
その人を愛してる。そんなことは考えないの?」 ルカはまた声を荒げた。
「それは・・・ない。・・ないわ」 ジニョンはきっぱりと答えた。
「はっ・・呆れた。」 ルカはジニョンから顔を背けた。
「・・・・・・」
「すごい自信。」 ルカがジニョンを嘲るように言った。
「自信?・・そうじゃない。自信なんて・・・これっぽっちもない・・ただ・・・」
「ただ?」
「ただ・・信じてるだけ。私達の繋がりを信じてるだけ・・・。」
ジニョンはそう言って微笑んだ。
その笑顔が本当に自信と愛に満ち溢れているようで、まぶしかった。
それが余計ルカの胸を掻き毟った。
「そんなことない。・・・彼は・・彼は・・・」
ルカの険しい瞳に次第に涙が滲むのが見え、ジニョンは驚いた。
「・・・ル・・カ?・・・」
「そんなことない。・・あなたのものじゃない。
彼は・・・フランクは・・・あなたのものなんかじゃない!」
「きゃあっ・・」その時、ルカの怒りは頂点に達していた。
突然ルカはベッドに座っていたジニョンの両肩を掴みベッドへと押し倒した。
「あなたのものじゃない!・・彼女のものなんだ!」
「!・・・彼女?」 とても強い力だった。「ル・・カ・・・痛い。」
「ミンア・・・話してくれ」 レイモンドが急かすようにミンアの肩を掴んだ。
「はい。でも車の中で・・・。とにかくエマの所へ急ぎましょう。」
「ああ、わかった」 レイモンドは立ち上がり、ジョアンも出口へと向かった。
ミンアは自分の机の引き出しから、予備の携帯電話を取り出し、
先程の二枚の写真と一緒にバックの中に入れた。
そして、レイモンド、ジョアンの後に続いて事務所を後にした。
エマがドンヒョクの部屋を出て、自分の部屋へ帰ろうとした時、目の前に
トマゾが立っていた。
「トマゾ・・・」
「エマ様・・如何なさいましたか?」
「あ・・いえ、何でもないわ。あなたこそどうしてここへ?」
「あなたの部屋を訪ねたらいらっしゃらなかったものですから」
「何か用だったの?」
「いえ・・あなたのご様子が・・心配だったものですから。」
「私は大丈夫よ」
「もう遅いですから、お休みになった方が」
そう言いながら、トマゾはエマをエレベーターホールにいざなった。
「ええ、そうするわ。明日のMr.パーキンとの商談に備えないと」
「ご無理なさいませんよう」
「それじゃあ、お休み・・あ・・トマゾ・・フランクの・・その・・
奥様のこと・・何か知ってる?」
エマは正直、彼の妻の存在を口にすることさえ辛かった。
「いいえ、何も存じ上げません。
フランク様はご自分の私生活を表にお出しになりませんから」
「そうね・・・」
「あの方はそれほど、奥様のことに関心が無いように思われます
あの方にとっては奥様より大事なものがあるのでしょう、きっと。」
「・・・そうかしら・・・」 エマは俯き呟いた。
「エマ様・・・」
エマは呼び止めるトマゾに振り返った。
「・・・フランク様は必ず、あなたの元へ戻って来ます」
トマゾはそう言って、エマに向かって笑みを浮かべた。
「えっ?・・・」
「あなたを愛する者の力を信じるのです。」
「私を・・・愛する者?・・・」
「はい。」 トマゾは確信に満ちた表情で答えた。
エマはエレベーターの扉の奥に消えた。
それを確認すると、トマゾはポケットの中から、携帯電話を出し
ひとつのボタンを押した。
部屋の中ではドンヒョクがジニョンの携帯電話のGPS機能を駆使し、
追っていた。この世で何よりも大事なものの行方を。
その行方はドンヒョクにとって、今進めなければならないどれほど重要な案件よりも
5年もの年月を掛けてやっと追い詰めた、決して許せぬ相手のことよりも、
ましてこの世の終わりよりも、遥かに重大であることに違いなかったからだ。
この瞬間、彼の苛立ちは頂点に達していた。
電源が切られていて役立たずの機能と、連絡をよこさない部下達の所業と
拭えない不安に、心が押し潰されそうだった。
ドンヒョクは振り上げた拳を激しく机に叩きつけた。
「何をやってるんだ!」
「5年前のことです。覚えておいでですか?
このイタリアにボスが常駐していた頃・・・悲しい事件がありました。」
車に乗り込むと、一呼吸を待たずしてミンアが口を開いた。
「ヴァチカンの?」 レイモンドが直ぐに察して答えた。
「ええ。あの時ボスは、ヴァチカン市国の或る※カーディナルの依頼で、
ジュリアーノ会長の裏の顔を探っていました。
結果的には・・・失敗に終ってしまいましたが・・・」
「確か、あの時にフランクに力を貸していた人物が亡くなったと・・」
「ええ・・滞在先のホテルで・・ご家族と共に火災が原因でした。」
「あの後、フランクがかなり精神的にまいっていたのを覚えてる」
「はい。私も・・・辛かったです。
私にとってもボスの下での、初めての仕事でしたから。・・・
その頃は既にボスは・・・フランク・シンという人は、
このイタリアでも力を認められていて・・
そのボスを信用してカーディナルは仕事を依頼してきたんです
順調でした。
もう少しでジュリアーノの首を押さえられるところまで来てました。
それが・・・5年前のある日・・・
調べ上げた資料データも・・証拠も・・何もかもが事務所から無くなっていました
そして最悪なことに・・・ボスの協力者とその妻・・二人の子供が亡くなりました。
ボスは彼らがジュリアーノの手に掛かったと確信していました
しかし・・証拠も無くて・・・
事件として扱われることさえありませんでした。
・・・何もかも・・・闇に消えたんです。
資料も証拠も証人も・・・何もかもです」
「・・・・・・」
「ボスはご自分を責めていました。ここから消えた証拠のために
あの家族が犠牲になったと・・・
その時の、ボスの悲観にくれるお姿は哀れでなりませんでした。
そのボスの姿を見て、エマが・・・突然泣き崩れたんです。
そして自分がやったことだと告白しました。」
「エマの裏切りがあったのか・・・そのことは聞かされていなかった。
結果だけしか、私の耳には入らなかった。
彼は私には多くを語らなかったから・・・あの頃はまだ
マフィアとしてのパーキン家そのものを彼は警戒していたんだ」
「はい・・きっと・・・。
ボスは驚きを隠しませんでした。呆然としていらっしゃいました。
それでもボスは・・・エマに問いただすことをしませんでした。
ただ、呆然として・・「出て行け」と・・・それだけ・・・
エマはボスの前から姿を消しました。」
「しかし・・何故・・・」
「エマはS.Jで一年以上前からボスと共にこのイタリアで働いていました。
この地でのボスの地位を固めることに大きな役割を担っていた人です。
私にとっても良き先輩でした。
賢明な方で・・ボスのパートナーとしてふさわしいと思っていました。
その頃ボスとエマが親密だったことはご存知ですよね・・・」
「ああ・・しかし・・フランクには・・」
「ええ、わかっています。
それでもエマはボスを心から愛していました。」
「なら・・何故裏切った?」
「愛していたから・・・」
「愛していたから?」
「よくはわかりません。
おふたりに何があったのかも存知ません。
その頃はまだ私はジニョンssiの存在は聞かされていませんでしたし・・・
結果として・・彼女はボスにひどい裏切りをしてしまった。
それだけが残ったんです」
「・・・・・・」
「でも・・・彼女がボスを裏切るとしたら・・・“愛していたから”・・
それしかないと思いました」
「それで?・・・あの写真との繋がりは?」
「・・・・エマと写っていたあの子達・・・私も何度か会ったことがあります
ボスの仕事を通じてです。・・・つまり・・・」
「つまり?」
「あの子達は・・・さっき話したボスの協力者の子供達です」
「協力者の?・・・彼らは亡くなったんじゃ・・」
「ええ。家族全員・・・亡くなりました。」
「5年前に?」 ジョアンが初めて口を挟んだ。
「だって・・あの写真には2008年って・・・書き違えたのかな」
「いいえ・・・日付に間違いは無いと思うわ・・・だって・・・
写真の中のあの子達・・・成長しているもの」
ミンアは自分の中でも整理できない事実を、口にすることで
納得しようとした。
「ということは?」
「亡くなっていなかったということだ」
レイモンドがジョアンに答え、自分自身にも答えた。
「ええ・・・そういうことになります」 そしてミンアも疑念を抱えつつ頷いた。
「しかし・・どういうことなんだ?」
それでも釈然としないレイモンドが独り言のように呟いた。
「わかりません・・・あの時確かに、4人の遺体が発見されたと
イタリア国家警察で発表されたんですから」
「・・・考えられるとしたら・・警察の発表が偽りだったということだ。」
「そんなこと、できるんですか?」
「・・・ミンア・・・そんな裏工作・・嫌と言うほど見てきた」
レイモンドは自嘲するかのように小さく笑って、そう言った。
「夜分遅くに大変申し訳ございません」 ドンヒョクの元に1本の電話が入った。
ローマのホテル総支配人、ベルナンドからのものだった。
「どうした?何か・・」≪あったのか?≫という前に、ドンヒョクの耳に
思いがけない言葉が入ってきた。
「奥様が30分ほど前にこちらへいらっしゃ・・」
「ジニョンが?」 ベルナンドが言い終わらない内にドンヒョクが声を上げた。
彼は思わず立ち上がっていた。
「やはり、ご存知ありませんでしたか?
ご連絡するべきかどうか少し悩んだのですが・・・
あの階に他の誰かをお連れするのは珍しいのではないかと」
「誰と一緒だったんだ?」
「お名前は伺えませんでしたが、お友達だとおっしゃってました
お若い・・・女性です。」
「女性?」 フランクは頭を巡らせていた。
「はい。ジニョン様が“彼女”とおっしゃいましたので・・・しかし・・」
「しかし?」
「ジョアン・・さっき、この写真を見たとき、ルカに似てると言ったでしょ?」
説明している途中で、ミンアがジョアンに写真を示しながらそう言った。
「あ・・はい」
「この子?」 ミンアは小さい方の子を指して言った。
「いいえ・・」
「だってルカって、女の子なんでしょ?・・こっちの子は男の子よ」
「似てるというか・・・面影があるんです。何となく・・髪型も色も違うけど・・」
ジョアンは写真を持ちながら、首を捻った。
「ちょっと、待って?・・そうよ。思い出したわ・・」
ミンアがジョアンの言葉を遮った。「ボスが凄く可愛がっていた子・・・
名前はルーフィー・・将来医者になることを夢見てた・・
それでボスがあだ名を付けたわ
ルカ・・・そうルカと呼んでた。その頃、ボスだけがそう呼んでたの」
「ルカは女の子ですよ・・・男の子じゃ・・」 ジョアンはまさかというように言った。
「・・・彼はとってもキュートな・・男の子だったわ。
成長しているとしたら、今17歳。」 ミンアが答えた。
「しかし、私には・・・」 総支配人ベルナンドが続けた。
「私には男の子に見えました」
「男の子?」 ドンヒョクが言った。
「はい。ティーンエイジャーかと・・・」
「ティーンエイジャー?・・・・まさか・・・
・・・ルカ?・・・」・・・
※カーディナル=枢機卿
ラビリンス-17.写真に隠された謎
「いつか・・必ず。
あいつをこの世界から抹殺してやる。そう決めた。
ずっと・・この機会を狙っていたんだ。
邪魔をするなら、僕の目の前から・・・消えろ。」
エマはドンヒョクの怒りに震わせた言葉を、彼の目を真っ直ぐに
見つめながら聞いた。
そして、その怒りに立ち向かうかのようにゆっくりと口を開いた。
「・・・・愛しているの。」
「・・・・・・」 予測していなかったエマの告白にドンヒョクは一瞬言葉を失った。
「あなたを愛してる。」 彼女は決して彼から目を逸らさなかった。
「・・・・邪魔をするなら消えろ。・・そう言ったんだ。」
ドンヒョクは気を取り直して彼女の不意打ちの告白に反撃した。
しかしエマは話し続けた。
彼に再会してからずっと胸にしまっていたことを。
「あの時のことを許してとは言わないわ。ただ・・聞いて欲しい」
「・・・・・・」
「あなたが一度も聞いてくれなかった・・・あの日のこと・・
私があなたを裏切った理由。」
「・・・・・・」
「わかってるわ・・あなたはあの瞬間から・・私に心を閉ざしてしまった」
「・・・・・・」
「でもあれは仕方なかったことなの。そうしないわけにはいかなかった・・・」
「そうしないわけにいかなかった?」
それまで無言だったドンヒョクがやっと口を開き、彼女の言葉を繰り返した。
その言葉には長年拭えなかった激しい怒りが見えた。
「ええ。あなたを守るために。」
「僕のために?」
「ええ。」
「僕のために・・・・あの家族を犠牲にしたというのか。」
「ええ。」 エマは敢えて力強く答えた。
「何故・・・」 その瞬間、ドンヒョクの怒りの眼差しに悲しい光が差した。
「何故?・・・私が・・あなたのためなら何だってできるから。
・・・いつだって。あなたを守るためなら・・・何でもできるから。
あの時も・・・あの後も・・たった今も・・・・
この5年間・・その為に、その為だけに私は・・
ここで・・会長のそばで生きていたんですもの。」
エマは自分が言いたかったことは、正にこのことだと言わんばかりに、
彼に向かって胸を張った。
「・・・・・・」
ドンヒョクは自分の思いを伝えるエマの必死な様子に言葉を詰まらせた。
「あなたを守れるのはこの私しかいないのよ。」
その頃ジニョンはローマ行きの列車に乗っていた。
20分程前だった。
≪ジニョンssi・・・起きて下さい≫
ジニョンがその声に気がついて目を開けると、目の前にルカの顔があった。
≪どうしたの?・・・ルカ・・・≫
≪私と一緒にここを出て欲しいんです≫
≪・・・・どういうこと?≫
≪何も言わず、私の言う通りにして下さい。そうしないと・・・≫
≪そうしないと?≫
≪手荒なことをしたくありません≫
ルカはそう言ってジニョンの目の前に小型の銃を突き付けた。
ジニョンは目を大きく見開き彼女を凝視した。
そして、彼女のその行動が決して冗談ではないことを知った。
ジョアンに気づかれぬようにホテルの部屋を出る時、ルカは
ジニョンから携帯を取り上げ、ベッドの上に置いた。
その携帯には※GPS機能が付いていることを認識していたからだった。
ルカはホテルを出るとタクシーを拾い、「ミラノ中央駅」と言った。
ジニョンは隣に座るルカの顔を覗いた。
その目は遠くを見ているようで、自分が連れ出して来たにも係わらず
ジニョンに対して神経が行き届いているふうには見られなかった。
「何処へ?」 ジニョンは彼女の横顔にそれだけを聞いた。
「ローマへ」
「目的は?」
「今は言えません。」 短い言葉だけでジニョンに答えるルカは
ジニョンの腕だけをしっかりと掴んで正面を見据えていた。
ルカの行動は常軌を逸していたが、ジニョンには不思議なことに
彼女に対して緊迫した恐怖心は生まれていなかった。
それよりも彼女のことが気掛かりだった。
≪いったい何があなたにこんなことをさせているの?≫
ルカの横顔を見つめながら、ジニョンは胸の内で呟いた。
「あなたを守れるのはこの私しかいない。」 エマはドンヒョクを睨み、
そう言った。
ドンヒョクも彼女を睨み返していたが、彼は直ぐに視線を逸らし、
机に向かった。
今、彼には何よりも先に解決しなければならないことがあったからだ。
「出て行ってくれないか。」
言葉だけをエマに投げるとドンヒョクはパソコン前に座り、手早くKeyを叩いた。
そして現れたログイン画面にPWを打ち込んだ。
「今聞いて。」 しかしエマは彼の机に叩きつけるように両手を付いた。
この時彼女は、彼の注意が何処にあるのか、誰に向かっているのか
本能でわかっていたのかもしれない。
一方ドンヒョクは、自分が計り知れない癇癪を起こしかけていると自覚していた。
「いいから。・・・出て行け。」 彼はありったけの自制の力をもって静かに言った。
エマは彼の静かな口調に、逆に切羽詰ったものを察した。
「何かあったのね」
ドンヒョクは答えなかった。
「奥様のこと?」
エマがそう言うと、ドンヒョクは彼女を下から睨み上げて、冷たく威嚇した。
結局エマは黙ってその場を退き、彼の部屋から出て行かねばならなかった。
「どうして?・・・」 エマはたった今出て来た扉に背中を押し付け呟いた。
いつもそうだった。
どんな言葉を持ってしても、彼に対し揺るがない愛を曝け出し、
その想いを惜しげなく捧げようとも・・・
その瞬間に、彼の心が決して自分に無いことを思い知る。
「どうして・・・私じゃいけなかったの?・・フランク・・・」
ジニョンとルカを乗せた列車は、夜遅くにローマテルミノ駅に着いた。
ルカはタクシーを拾い、目的の場所を運転手に告げた。
その時、ジニョンは驚いた。ルカの口から出たホテルの名は
先日ジニョンも一緒に滞在したフランクのホテルだったからだ。
「どうして?・・・」
ジニョンがそう言うと、ルカは一度目を閉じて口元だけで笑った。
「あなたのホテルだからです」
「・・・・・・」
レイモンド、ミンア、ジョアンの三人は車でフィレンツェに向かった。
街に着いた時には夜もかなり更けていた。
階段の明かりだけが灯る古いオフィスビルには、まるで中世の亡霊が
何世紀にも渡り宿り続けているようで、身震いがする。
三人は誰しも無言で事務所まで駆け上がった。
事務所の鍵をジョアンが開け、壁のスイッチに手を伸ばし明かりを点けた。
そして、ルカが置いていった荷物をレイモンド達に示した。「これです」
レイモンドは大きなスーツケースを受け取り、ミンアはボストンバックを手にした。
スーツケースには鍵がかかっていたが、レイモンドは迷うことなく
それを壊し、ケースを開けた。
開けた瞬間、レイモンドは妙だと思った。
中にはジーパンとTシャツが数枚ずつ無造作に入れられただけで、
生活の匂いも無く、決して就職する為に詰められた荷物とは言い難かったからだ。
ミンアが開けたボストンも同じだった。
彼女が諦めかけた時、何気なく手を差し込んだボストンの底板の下から
二枚の写真が出てきた。
「ボス?」 一枚はドンヒョクの写真だった。
「どうしてルカがボスの写真を?」 ジョアンが不思議そうに言った。
「これって、結構前の写真ですよね」 彼は続けて言った。
「ええ、きっと5~6年前。
私がボスの仕事をするようになって直ぐの頃だわ」 ミンアが答えた。
そしてもう一枚は・・・
「・・・これは・・・エマ?・・・それと・・・」
その写真には、エマと十歳前後と思われるふたりの子供が写っていた。
「!・・・この子達は・・確か・・・」 ミンアが驚いた顔をした。
「どうした?」 レイモンドが直ぐに気がついて、彼女の顔を覗いた。
「あれ?」 すると今度はジョアンが不思議そうな顔をした。
「どうした」 レイモンドはふたりの顔を交互に見ていた。
「この子・・・何だかルカに似てる・・・でもこの子は・・・
あ・・日付が書いてあります・・・2008.12.24・・・3年前か・・・」
ジョアンが写真の裏の日付を読み上げている間、ミンアは無言で
その写真を見つめていた。そして・・・
「3年前?・・・そんな馬鹿な・・・」 ミンアが呟いた。
「ミンア・・・知ってるのか?この子達を」
「・・・・・・」
レイモンドはミンアが何かを知っているのだと理解した。
しかし、それは彼女の表情から、簡単なことではないようだった。
彼はミンアの顔を見つめたまま、彼女の口が開くのを待っていた。
タクシーがホテルに到着すると、ルカはジニョンに部屋のKeyを
フロントで受け取らせるべく、指示を出した。
ジニョンはフロントへと向かった。
「おかえりなさいませ、ジニョン様・・・」
ジニョンがフロントの受付嬢に声を掛けようとした瞬間、脇から
ひとりの男が進み出て、ジニョンに向かって声を掛けた。
一週間程前フランクに紹介されたばかりのホテル総支配人だった。
もしもこういう状況下でなければ、ジニョンはホテリアーとしての彼の誠意に
感動を覚えたことだろう。
それほど、今の自分は疲れ切っていて、決して先日滞在していた時の
顔付きとは思えないと、ガラスに映った自分の顔を見てそう思ったからだ。
「遅くにごめんなさい。あ・・ベルナンド・・さん?だったかしら・・・」
「はい、さようでございます」
「お友達とお出掛けしていて遅くなってしまったの
今夜はここに泊めてくださる?」
ジニョンは自分でも上出来と思えるほど、落ち着いてそう言った。
「もちろんでございます。いつでもおふたりがお泊りできるように
お部屋は整っております。
ご友人の方には別室をご用意いたしましょうか」
ベルナンドは、誠意を笑顔に乗せてルカに視線を向けるとそう言った。
ルカも満面の笑顔で彼に会釈した。
「ありがとう・・・でもいいの・・・彼女も一緒で・・・
私の部屋のkeyをお願いします」
ジニョンはドンヒョクが用意してくれた自分の部屋のkeyだけを受け取った。
「かしこまりました。・・・ご案内は・・・」
「結構よ・・・大丈夫。」 ジニョンはそう言って微笑んだ。
ジニョンがフロントマネージャーと話している間、ルカはジニョンに
ピタリと付いていた。
ふたりは直ぐに最上階へ上がり、ジニョンはルカを部屋に招き入れた。
「どうぞ・・・」
「素敵な部屋ですね・・・・ミセス.シン」
ルカが部屋に入るなり、ベッドに腰掛ながら、ジニョンに向かって言った。
当然このホテルに向かったルカがそれを知らないわけは無かった。
「・・・・いつ・・知ったの?」 ジニョンがルカに聞いた。
「直ぐに。・・・だってジニョンssi・・
フランクのこと“愛してる”って・・いつも顔に書いてありましたよ」
ルカは笑顔を作ってそう言った。
「それより・・・どうしてここが私達のホテルだと知ってたの?」
ジニョンは一番の疑問を投げかけた。ドンヒョクから、このホテルが
自分達の所有であることは、殆ど知られていない、と聞かされていたからだ。
「・・・明日の朝にはここを出ます。」
ルカはジニョンの質問には答えずそう言った。
「・・・・・・」
「きっと直ぐにここも知れるでしょうから、長居はできません
・・・・とにかく、今夜だけは休みましょう
ジニョンssiもお疲れでしょう?途中で起こしてしまいましたから」
「何をするつもりなの?ルカ。お願い、話して。
どんな理由があってこんなことを?」
ジニョンは知りたかった。≪いったいこの子は何者なの?≫
「・・・・・理由ですか?」
「ええ、聞かせて」
「気になって眠れませんか?」
「ええ。眠れないわ。」
「そうですよね。」 ルカは笑ったが、目は笑っていなかった。
「・・・・実は・・・あなたにお願いがあるんです。」
「お願い?」
「ええ。簡単なことです、とても。」
「・・・・・・」
「フランクと・・・」
「・・・・・・」
「別れて欲しいだけです」 ルカは真顔でそう言った。
「えっ?」
「フッ・・そんなに驚かないで?ジニョンssi」
「どういうこと?」
「返して欲しいんです」
ジニョンは更に驚いて、一瞬言葉を失った。
「・・・・・返す・・って?」
「ええ。」
「どういう意味?」
「さっき・・・このホテルをどうして知ってるかって・・・・
おっしゃったでしょ?」
「・・・・・・」
「ここで・・・過ごしたことがあるからです・・・彼とふたりで・・・」
「・・・・・・」
「あ、いいえ、ここじゃない・・・もっと広い部屋だったな・・・
あーそうだ、ラファエロの大きな絵が掛かってた」
ルカは部屋を見回しながらそう言った。ジニョンはメインスイートの
部屋のことを言っているのだと、直ぐにわかった。
「とっても素敵な部屋ですよね、あの部屋。」
「いつ?」 ジニョンは聞いた。
「5年前です」
「5年前って・・・あなたまだ・・17?」
「ティーンエイジャーでも熱烈な恋愛できますよ、そうでしょ?」
ルカはそう言って、意味有りげに笑った。
「・・・・・・」
「ジニョンssi・・知らないんですか?
フランクって・・・女が放っておかないんです・・・」
ルカの言葉を聞きながら、彼女のような子の台詞には似合わないと、
ジニョンは漠然と思っていた。
「アメリカにも恋人はいたようだし・・Ms.グレイス?
彼女も・・・そうでしょ?この国にもいったい何人の女がいたのか・・・
ねぇ、ジニョンssi・・・彼があなたのこと・・ずっと愛してたなんて
まさか・・思ってませんよね」 ルカはまたもニヤリと笑った。
「・・・・・・」 ジニョンは言葉に詰まった。
ジニョンは今日数時間前に、「フランクの5年前の恋人」だという女を見かけた。
大人の知的な美しい女性だった。
そしてまた、彼との関係を仄めかす若い女が目の前に現れ、笑っている。
「フランクを・・・
・・・返してください」・・・
※GPS=米国による衛星測位システム、欧州の衛星測位システムはガリレオといい
現在はまだ利用されていない。今回は創作の便宜上GPSを利用していますが
EUはアメリカのGPSを利用するのを拒否し、独自に衛星測位システムを計画しているとか^^
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