創作愛の群像Ⅱ 第二話 彼
第二話 彼
「失礼します」
誰かがドアを開け、隙間から顔を覗かせた。
シニョンはその瞬間目の前が真っ白になったかと思うと、
意識を失ってしまい、座っていた椅子から滑り落ちるところだった。
僕は目の前で彼女が突然椅子から滑り落ちるのを、
寸でのところで受け止めた。
「大丈夫ですか?」
しかし、腕の中の彼女は既に気を失っていた。
「どうしたの?」 一緒にいたミンスがドアから入って来た。
「誰?この人・・」 目前の光景を不愉快に思ったミンスには、
彼の腕の中の女を気遣うより睨みつける方が先だった。
「わからない・・・部屋に入ったら急に倒れたんだ。
ミンス・・人を呼んで来て・・」
「う・・うん、わかった・・・」
ミンスは《仕方ない》というように答えると、部屋を出て行った。
僕は自分の態勢と、腕の中の彼女が少し楽になるように抱き直すと、
顔に掛かった彼女の髪をその耳に掛けてあげた。
改めて彼女の頬が僕の胸に埋まっているのを眺めながら、
何故か僕は自分の頬が優しく緩むのを感じた。
僕は無意識に、白くて柔らかそうなその頬を手の甲で撫でていた。
彼女がふいに身じろいだ時、僕は少しやましい気持ちになり、
彼女の頬を撫でていた手を急いで引っ込めてしまった。
結局まだ彼女が目覚めなかったので、僕は彼女を抱き上げて、
ソファーに降ろし横にしてあげた。
すると突然、彼女の目が大きく見開かれて、逆に僕の方が驚いた。
「帰って来たのね」 彼女は僕を見てそう言った。
そして僕の首に両腕を回し、強く抱きついてきた。
「帰って来たのね・・帰って来てくれたのね・・」
そう言いながら彼女は、僕の首が苦しくなるほどに腕に力を込めた。
彼女は泣いていた。
まるで迷子になった子供が、探していた親を見つけたかのように
体を震わせて泣いていた。
僕はひどく驚いたが、そんな彼女を何故か突き放すことができなかった。
それどころか、彼女を宥めようと、しっかりと抱きしめていた。
その時、ミンスが部屋に戻って来た。
「ジェホ?・・」
ミンスには、彼がまるで彼女を優しく抱擁しているように見えた。
「何してるの?」
僕はミンスの声にハッとして、「彼女」を抱きしめた腕の力を緩めた。
そこにミンスの後ろから学長が入って来た。
「シニョン・・・」
「シニョン?」 ジェホは学長にそう呼ばれた「彼女」の顔を見た。
「シニョン・・って・・・まさか・・・」
「ジェホ、もう来てたのか。あー遅かったか。
シニョン、驚かせてしまったんだな。
お前が驚く前にちゃんと紹介しておこうと思ったんだ」
ギルジンはそう言いながら、《しまった》というように自分の額を掌で押さえた。
シニョンはまだ、ギルジンの言葉の意味を理解できないでいた。
「やっぱり・・シニョン伯母さんなの?」
ところが横にいる「彼」が目を輝かせてそう言った。
「えっ?」
「シニョン伯母さん・・僕です。」
シニョンは、彼の口から出た言葉にまたも驚いた。
「・・・・・・」《伯母さん?・・ジェホ?》
「シニョン・・忘れたか?ジェホだ」
その意味を教えるようにギルジンが口を開いた。
「ええ・・ジェ・・ホ・・」 それでもまだ、シニョンの理解に及んでいなかった。
「おいおい、まだわからないか?カン・ジェホじゃない・・」
キルジンがそう言いかけると、ジェホが彼の前に手を翳し制すると、
シニョンの前で姿勢を正して言った。
「ご挨拶が遅れました。シニョン伯母さん。ジェホです。
パク・ジェホ」
「パク・・ジェホ?」
「はい。カン・ジェホの甥です」
口をぽっかりと開けていたシニョンが、やっと僅かながら理解したとばかりに
彼らに向かって小さく笑みを作った。
「あ・・ジェホ。あの・・小さかった・・ジェホ?・・・嘘・・・」
シニョンは目の前に立つその青年が、ジェホの甥、彼の妹の子供だと
理解しようと必死だった。
「そう。あの・・ジェホ・・なのね」
「驚いただろ?」 ギルジンが面白がるように言った。
「こいつ、この二・三年日増しに奴に似て来たんだ。
正直、この学校に入学してきた時は、お前のように気絶しそうだったよ」
「おじさん・・大げさだな」
ジェホが満面の笑顔で、ギルジンの胸に拳を柔らかくぶつけた。
「おい、おじさん・・か?」
「あ・・いけない・・。学長。でした」
昔、シニョンとのことで一時は激しい憎しみを抱き、ぶつかり合い
そして後に理解し合い、最期は本当の兄弟のように認め合ったふたりが、
時を隔ててシニョンの目の前にいた。
《いいえ・・・違うのね》
シニョンはその事実に内心ショックを受けていた。
《そうよね・・そんなはずがあるはずないのに・・・》
「でも学長、人が悪いな。伯母さんに会わせてくれるなら
最初から教えてくれれば良かったのに」
「はは・・ちょっとな。ふたりを驚かせたかったんだ」
「先輩・・ホント、ひどいわ」
シニョンは内心の動揺を必死に隠しながら笑った。
「でも、会いたかったんだ・・伯母さんに。ずっと会いたかった」
ジェホが突然、シニョンを見つめて、熱く言った。
「ええ、私も会いたかったわ」 シニョンもやっと冷静になって答えた。
「でも会いに来てくれなかったじゃないか」 ジェホが不満げに言った。
「そうね、ごめんなさい・・・随分とご無沙汰していたわ」
シニョンは12年前、ジェホとつながるすべてのものを断ち切って
この韓国を去った。
「母も会いたがってるよ」
「ええ、ジェヨンは・・元気?」
「はい、元気です」
「あ・・お父様・・ソックssiは?」
父の名前をシニョンが口にすると、一瞬ジェホの目が曇ったのを感じた。
「ええ・・父も元気です」
彼が笑顔に戻ってそう答えたので、気のせいだったのだと思い直した。
「学校が始まったらご挨拶に行こうと思ってたのよ」
「本当に?」
《ええ・・・ただ・・・》
「本当よ」
シニョンは笑って答えたが、本心は少し違っていた。
正直、ジェヨンたち家族のことは、ずっと気にかかっていた。
帰国したら直ぐに会いに行くつもりでもいた。しかし帰国後、
ジェヨンの家族が、ジェホとシニョンの新居だったあの家に
住んでいることを父から聞かされて、足が重くなってしまったのだ。
「じゃあ、今日来てよ」 ジェホは我儘を言う子供のように言った。
「えっ?」
「そうだ、これから・・。いいでしょ?直ぐに母さんに連絡するから」
「あ・・いえ、今日は・・その・・」
「悪いなジェホ、シニョンは今日は俺と約束があるんだ」
シニョンが言いよどんでいると、ギルジンが直ぐに助け舟を出した。
「そうなの?」
「え・・ええ・・そうなの、ごめんなさい。近い内に必ず伺うわ。」
「本当に?約束だよ」
そう言ってジェホが小指を出した。
シニョンが戸惑っていると、彼はシニョンの手を取って、無理に指切りをさせた。
「小さい頃はいつもこうしていたでしょ?伯母さんと。
伯母さんがアメリカに行ってしまう時も、泣いてた僕にこうしたんだ。
『泣かないで・・必ず戻ってくるから』って」
シニョンはその日のことを思い出した。
ジェホを失って、周りの人間をことごとく恨んで生きていた私に
ただひとり、いつも笑顔で、私の頭を撫でてくれた子。
『泣かないで・・・シニョンssi』
そうだった。
その頃彼は大人の真似をして、私のことを『シニョンssi』と呼んでいた。
私がアメリカに発つと知って、泣き叫んで私に抱きついた。
『行かないで、シニョンssi、行かないで・・
シニョンssiは僕が・・伯父さんの代わりに僕が守ってあげるよ、
だから行かないで!』
「でもずっと帰って来てくれなかった」 そう言ってジェホは私を軽く睨んだ。
「ごめん・・・」
「いいよ・・・こうして戻って来てくれたから」 今度は、優しい眼差しで私を見つめた。
私は彼のその見覚えのある笑顔に、思わず視線を落としてしまった。
「ジェホ」
彼を呼ぶ声に振り向くと、さっき窓の外にジェホといた女の子がいた。
「あ、ミンス・・紹介するよ、僕の伯母さん。イ・シニョンssi」
「あ、初めまして。キム・ミンスです」
「初めまして。ジェホのガールフレンド?」
「いや・・」
「そうです。」
ジェホの言葉を遮るようにして、ミンスはきっぱりと答えた。
「そう、よろしくね」
まだ複雑な心境の私は、無理に笑顔を作って答えた。
ジェホとミンスが部屋を出て行くと、ギルジンが言った。
「まだあの家には行きたくないのか」
私は黙ってうつむいた。
「俺の家に来るか?・・・ジェホに嘘は付きたくないからな」
「ええ・・・そうするわ」
「その前に、校内を案内するよ」
「ええ・・ありがとう」
シニョンは、ギルジンの案内で古きものと新しきものが融合した校舎を
懐かしさを噛み締めながら歩いた。
ジェホと過ごした教室や図書館はそのまま残っていたが、
ギルジンが一緒なので、必要以上に感傷的にならずに済んだ。
シニョンが赴く必要がある教室などを主に案内された後、
「ここが最後だ」
そう言ってギルジンがひとつのドアの取っ手を掴んだ。
「教授たちの集会室。俺が新しく用意させたんだ。」
ギルジンが部屋のドアを引いて、シニョンをエスコートした。
シニョンは部屋に入った瞬間、差し込んだ西日が眩しくて
思わず目を細めた。
その光の中にうっすらと人影が浮かんだ。
背が高く、スラリと足の伸びた男性だった。
彼はコーヒーカップを片手に、無表情に窓の外を見つめていたが
その横顔があまりに美しくて、シニョンは一瞬息を呑んだ。
「やあ、こちらにいらしたんですか?」
ギルジンがシニョンの後ろから声を上げたので、彼女は驚いて
自分が一瞬目の前の彼に見とれていたことを知った。
すると、彼は冷たい表情をそのままにゆっくりと振り向いた。
その瞬間、シニョンはさっきとは別の意味で息を呑んだ。
振り向いた彼の片方の頬に、決して美しいとは言い難い
大きな傷跡があったからだ。
「先程到着されたと伺って、探していました」
ギルジンが続けながら、彼に歩み寄った。
「それは失礼しました。学長」
彼が初めて口を開いて、持っていたコーヒーカップをテーブルに置いた。
「先輩・・」 シニョンは後ろから小さく言った。
「あ、丁度良かった。紹介しよう。
シニョン・・お前と同時に新任として赴任されたキム・ジュンス先生。
アメリカからいらした、数学と英語の教授だ。
キム先生、こちらはイ・シニョン・・心理学の教授です。」
「・・・よろしく」 彼はそう言ってシニョンに手を差し伸べたが、
その表情は決して好意的には見えなかった。
「よろしくお願いします」
シニョンは怯んではいけないと、背筋を伸ばし、凛とした表情で応じた。
その瞬間彼が俯き加減に「フッ・・」と笑った気がして、
シニョンは自分が馬鹿にされたのだと、むっとして彼を睨んだ。
「何か?」 シニョンは言った。
「いいえ・・何も・・」
彼はまるでさっきまでの無表情に軌道修正でもしたかのように
彼女を冷たく見つめた。
「何処かで・・・お会いしましたか?」 シニョンが突然そう言った。
一瞬何処かで見かけたような気がしたからだ。
「何処かで?」
「あ、そんなはずないですよね」
「いいえ、お会いしています」 ジュンスが少しだけ笑みを浮かべて言った。
「えっ?本当に?」
シニョンは自分から確認していながら、その答えに驚いた。
「おまえ達、初対面じゃないのか?」 ギルジンも驚いて言った。
「何処で?・・ですか?」 シニョンはまだ答えが見つからず尚も問うた。
「さあ、何処でしょう」
「えっ?」
「思い出してみてください」
「えっ?」
シニョンはこのジュンスという男がわからなかった。
冷たい顔はそのままに、言っていることは冗談にしか聞こえない。
「あの。私を馬鹿にしてます?」
「いいえ」
「だったら何処で?」
「だから・・・当ててみて」
「あのね」
ジュンスはゆっくりと後ろを向き、シニョンから顔を逸したが、
間違いなく肩は笑っていた。
シニョンは面白くなかったが、『会ったことがある』という彼の言葉に
興味を持たずにはいられなかった。
「いいわ。アメリカからいらしたそうだけど、私も10年ほどNYに・・
そこでお目にかかったかしら」
その問いに彼は無言で口角だけを上げた。
「アメリカはどちら?」
「マサチューセッツ」
「学校は?」
「ハーバード」
「うーん・・接点がないわね」 シニョンは唸りながら腕を組んだ。
隣でギルジンがふたりのやり取りを呆れたように眺めていた。
「おい、いつまでやる気だ?」
「だって先輩、この人が・・」
「宿題にしましょう」 彼が真面目な顔で言った。
「宿題?」
「ええ」
シニョンはジュンスを呆れた表情で見つめた。
「真面目におっしゃってるの?」
「ええ」 ジュンスは《無論》というように腕を組み言った。
「いいわ。思い出してみせる」
「待ってます」
妙なやり取りをしたジュンスを残して、シニョンはギルジンと部屋を後にした。
《可笑しな人・・・》シニョンは心の中でそう呟いた。
でも本当に何処かで会ったことがある?それももしかしたら彼の悪ふざけ?
でも初対面の人間にそんな悪ふざけをするだろうか。
だったら、何処で?
シニョンは首を傾げながら、たった今出て来た部屋の方を振り返って
そのドアの向こうの彼を思い浮かべていた。
創作愛の群像Ⅱ 第一話 幸せの証明
愛の群像から18年後の物語 「ジェホ!ジェホヤ・・」 今朝もまた、その名前を呼ぶ自分の声で目が覚めた。 ジェホヤ・・・ 私は20年ぶりにこの学校に戻って来た。
第一話 幸せの証明
目尻に冷たく残った涙の跡に、暗い夢の中でまた、
あの人を追ったことを思い出す。
あなたが目を覚まさなかったあの朝から、私の横を流れる季節は
悲しいくらい味気なくて、彩りさえも寂しく褪せていた。
ジェホヤ・・・
それでも私は生きている。
《何のために?》時にそう呟いてみる。
《何のために生きている?》
でもその問いには、誰も答えてはくれない。
それはジェホ・・・その答えはあなたしか知らないことだから。
あなただけが私の生きる理由だったから。
「シニョン・・起きてるの?早く降りて来なさい!」
母の不機嫌そうな声が階下から聞こえた。
「えぇ・・今行くわ」
私は少しかすれた声を懸命に張って答えると、目の前の鏡に映った自分の
情けない顔の口角を上げ、無理に笑みを造った。
ここに戻ってからというもの、母や父の前では笑顔を見せる、
それが自分の努めのような気がした。
ふたりをもう二度と悲しませないために。
「早く顔を洗って、ご飯食べなさい!今日から登校でしょ?」
母がまだ、声を高くして早口に私を急かしている。
きっと、いつものように慌ただしげに朝食の支度をしながら。
ベッドを降りて部屋を出ると、階下に向かった。
階段を下りる途中で、ふと立ち止まって手摺をそっと撫でてみた。
父がこの家を売って、ジェホと私のために家を用意してくれたことを思い出した。
あの頃はジェホと生きることに精一杯で、父の思いに甘えるしかなかったが
正直、父にそうさせてしまうしか無かったことを、ずっと悔やんでいた。
この家は、身を粉にして働いて得た、父の誇りだったからだ。
ジェホの死後、父の新しい仕事は着実に成功することとなって、
十年前、父はこの家を取り戻してくれた。
それがどんなに嬉しかったか知れない。
結局私は両親に対して負担を掛けるばかりで、何もしてやれなかった。
ダイニングに向かうと、父はとうに食卓についていて、黙々と食事していた。
「お父さん、おはようございます」
私は父の顔をまだ真っ直ぐに見られない。
「ん・・」
相変わらず無表情な父が、顔も上げずに小さく返事をした。
私はそんな父に構わず席に着いた。
「顔は?」母が言った。
「後でいい」
私はそう言いながら、スプーンを手に取ると、スープの中にご飯を入れた。
「はぁ・・だらしないわね、私はいったいいつまで
あなたの面倒を見なきゃいけないの?」
母が私の顔を睨みながら、ため息混じりに言った。
「見てくれなくてもいいわよ」
いつもの母の嫌味に、私も負けじと憎まれ口を叩く。
それでも父は黙々とスプーンを口に運んでいた。
「やっと父さんとふたりだけの生活に慣れてきたというのに、
今度は50にもなる娘まで面倒みなきゃならないなんて・・」
母のその辛辣な小言はしばらくは続く。
さて、私も元気にそれに応戦しなくてはならない。
「48よ」スプーンを口に運びながら答えた。
「同じようなものでしょ!」
母もやっと席に着くと、乱暴にスプーンを取って言った。
「違う。それにみんな若いと言ってくれるのよ、あー、『シニョンさん、
どう見ても30代にしか見えませんね』って」
「はっ・・呆れた。お世辞というものを知らないの?」
「お世辞かそうじゃないかぐらいはわかるわ」
「そう!それは良かったわね。50・・いえ48?それでももう子供、
いえいえ、孫だっていたって可笑しくない年じゃないの」
「お母さん・・ひ孫が欲しいの?」
「はっ・・結婚もしてない人が何を言うの?私はお陰様でひ孫どころか、
きっと死ぬまで、孫だって抱けやしませんよ」
「悪かったわね」
「あれほど、早く結婚しなさいって・・」
「してるわ」
「・・・・・・」
やってしまった。
母がうつむいてしまった。
母が黙ると怖い。今日こそは些細な母娘ゲンカで済ませたかったのに。
案の定、母はメソメソと泣き始めた。
「ごめん・・」
私は大急ぎで母をなだめようと席を立って、母の背中を撫でたが、
既に無駄だった。
「ジェホ・・ジェホヤ・・どうしてあなたは死んじゃったの?
私とあんなに約束したのに。決してシニョンを置いて逝かないって、
きつく約束したのに・・。この裏切り者!」
母が手にしていた皿を床に投げつけて、癇癪を起こす。
私がこの家に戻ってからというもの、そんなことが何度あっただろう。
「いいかげんにしろ。」見かねた父が口を開いた。
「ああっーーー!!」母は更に大声で喚きだした。
「シニョン・・もう行け」
父が犬の子を追い払うような仕草で、私を追い立てた。
「お父さん・・・」
「母さんを興奮させるんじゃない。この家にいたかったらな」
父はため息を付きながら強い口調でそう言った。
「・・・・出て行けってこと?」
「どうして戻って来た?こうして母さんを悲しませるためか?」
「そんなことあるわけないでしょ?ふたりが心配になったからよ」
事実だった。
年老いた両親を放って置けなくなって、私はこの地に戻って来た。
あの人との思い出が詰まったこの地に戻って来た。
「10年以上も放っておいてか?」
父はそう言って、私を強く睨みつけた。
「・・・ごめんなさい」
私はそれを言われると何も言えなくなる。
ジェホがこの世を去って、生きる術を無くしてしまった私は
彼と過ごした地を捨ててしまった。
それから一度として戻ることをしなかった私は、結局両親さえ
捨ててしまったと同じなのだ。
「シニョン。お前はあの時、約束したよな。
余命が短いジェホとの結婚を認めて欲しいと、懇願して来た時、
認めようとしない私に、お前は約束したな。覚えているか?」
「・・・・・・」<覚えているわ>
「お前はこう言ったはずだ。万が一、あいつがお前を置いて
先に逝ってしまった後は、決して心をあいつに残さないと。
『だから結婚を許してくれ』と。」
「・・・・・・」
「それがどうだ。結果はどうだ?あいつが死んでもう何年になる?
今、お前はどうなった?」
「ちゃんと・・生きてるわ」
「ちゃんと?生きてる?・・はっ・・親を馬鹿にするんじゃない。
お前がいつも、無理して笑っていることを知らないとでも思ってるのか?」
「無理なんて・・・してないわ」
「いつまでなんだ?
いつまで引きずっていくつもりなんだ?あいつを・・・」
「・・・・・・」
「シニョン、よく聞け。父さんにとっても、母さんにとってもあいつは・・
ジェホは大事な人間だった。
わかっているだろ?悲しんだのはお前だけじゃないんだぞ。
今でも碁を打つたびにあいつを思い出しては涙が出る。
目の前に、楽しそうに碁を打つあいつの幻覚が見えるんだ。
母さんだって、食事を作りながらいつも泣いてばかりだった。
『これをジェホに食べさせたかった』そう言ってな。
しかしな、残った私たちがいつまでも悲しんでいてどうする?
あいつはそのためにお前と結婚したのか?そうじゃないだろう?
あいつが一番、お前の幸せを願っていたはずだ。そうじゃないのか?」
日頃おとなしい父が珍しく興奮して涙ながらに訴えている横で、
母もまた顔を手で覆っていた。
「・・・・・わかってる」
私は涙を見せないと堪え、やっとの思いでそう答えた。
「わかってる?だったら!その証拠を見せてみなさい。
私たちに・・・ちゃんと見せなさい。
シニョン・・私たちはもう年だ・・・いつまでもお前の幸せは待てない。
お前の幸せを見届けないで、私たちは死んでも死にきれない。」
「・・・・・・」
「・・・そうじゃないと・・・あの世でジェホに・・・報告ができないじゃないか」
険しかった父の表情が崩れ、声を震わせた。
「父さん・・・」
敢えて私が、ジェホと出会ったこの学校に教授として戻ることを選んだのは、
他でもない、今度こそ彼を忘れる為だ。
アメリカに渡って十余年。結局は彼から逃げていただけだった。
<そう、父さんの言う通りよ>
私は未だに彼の呪縛から逃れられてはいない。
だから韓国への帰国を決めた時、戻る場所はここしかない、そう思った。
そして彼を今度こそ、私の心から葬ってあげようと。
父の言う通り、きっと彼もそれを望んでいる。そう思ったからだ。
校舎は幾度か改築されているものの、概容はあの頃のままだった。
ジェホと出会った教室も、ふたりでお茶を飲んだ教授室も、そのままだ。
心でそう呟きながら、シニョンは指で机を撫でた。
「シニョン」その声が背後から聞こえて、振り向いた。
「先輩」
「来たか」
「先輩・・あ、いえ学長ですね。お元気でしたか?」
「ああ、随分と年を取ったがな」
「そんなこと・・・先輩はまだ若いわ」
「はは、お前こそまだまだ若い。あの頃と少しも変わってないじゃないか。」
「それは言い過ぎよ。いつからお世辞が上手くなったの?」
ソン・ギルジン先輩。
私とジェホを影になり日向になり支えてくれた大切な友人。
「しかし・・何年ぶりだ?」
「12年・・・先輩・・・不義理をして、ごめんなさい」
「ああ、心配していたよ、もの凄くな。
あいつもずっと・・・お前のこと、気にかけていた」
《どうして助けてくれなかったの!ジェホを返して!》
「・・・・・ごめんなさい」
ギルジンの妻であり、ジェホの主治医でもあったジョンユンを
あの頃、理不尽にも責め立て、その後は避け続けていた。
《ごめんなさい・・・自分の心のコントロールすら、
できなくなってしまっていたの》
「・・・・今度お宅にお邪魔していい?ジョンユン先輩に会いたい・・・」
「ああ、喜ぶよ」
「怒ってないかな」
「そんな奴じゃないだろ?」
「そうね」
懐かしい先輩の笑顔を久しぶりに見て、不思議と心が和らいだ。
きっと、昔からいつも、私を暖かく見守ってくれていたそのままの
笑顔だったからだろう。
「先輩・・あ・・学長」
「先輩でいいよ」
「クレ・・先輩・・この部屋をわざわざ?」
ここは、壁紙こそ変わっていたが、昔自分が使っていた部屋のままだった。
「ああ、他の部屋の方がいいか?」
「ううん・・・ありがとう」
「授業は明日からだったな」
「ええ」
その時ギルジンの携帯電話が鳴り、彼はその電話に応対すると
シニョンを振り返った。
「ちょっと急用ができたんだ。悪いけど、学校案内は少し待ってくれるか」
「あぁ、案内なんて」
「結構変わってるんだよ、昔と。じゃ、後で」
ギルジンが慌ただしく部屋を出て行く様子に、シニョンは微笑むと
急に静かになった部屋を見渡し、窓辺に向かった。
窓の外に見える景色は昔のままだった。
グランドの土の色も、そびえ立つ木々も、改築された校舎と違って、
ジェホがいたあの時間に今にもタイムスリップしてしまいそうなくらいに
そのままだった。
その時だった。シニョンの瞳が大きく見開いた。
目の前に階段を上ってくる「彼」の姿が見えた。
「えっ?」
シニョンは自分の目を疑った。「ジェホ?」
咄嗟に彼女は窓を開けた。
「彼」が前方に向かって笑顔を向けた。
「ジェホ!」女の声が彼の笑顔の先から聞こえて来た。
「ジェホ、おはよう」
《ジェホ?》
「おはよう」そして「彼」が口を開いて、その声を発した。
それは紛れもない、ジェホの声だった。
《きっと今、私は夢を見ているのだろう。》
しかしその声は、
夢の世界なら、必ず自分に向けられるはずのその声は、
まったく知らない若い女に向けられている。
シニョンは驚きのあまり呆然としながらも、ふたりを目で追っていた。
階段の上で落ち合ったふたりの男女は、軽く抱擁を交わし、
シニョンがよく知っている「彼」のくったくのないあの笑顔は、
自分の知らない女の頬に摺り寄せられた。
あの笑顔は・・・・
あの声は・・・
シニョンは危うく気を失いそうになってしまいそうだった。
震える手で窓を締めると、フラつきながら、やっと椅子に腰を下ろした。
少しして、ドアを叩く音が聞こえた。
「は・・い・・」シニョンは小さく答えた。
「失礼します」《あの声だ》
そして誰かがドアを開け、顔を覗かせた。
まるでスローモーションのように、その顔がドアの隙間から滑り出た。
シニョンは一瞬目の前が真っ白になるのを感じていた。
そしてそのまま、意識を失ってしまった。
私は夢を見ていた。
幾度も繰り返し見たあの日の夢だ。
ジェホが目覚めなかったあの朝、私は彼のそばを離れなかった。
連絡が取れないことを心配した母が部屋を訪れた夜まで
私は彼の傍らで眠っていた。
このままふたりして目覚めなければ、私たちは幸せのままだ。
そうなればいい、そう思っていた。
だから私を起こしてしまった母を恨んだ。
ジェホを私のそばから離した父を恨んだ。
ジェホを灰にしてしまった伯母を恨んだ。
私は涙も流さず、ただ静かにその光景を見ていた。
私の目の前から、ジェホが消えていく風景を・・・
ただ見ていた。
我が家の訪問猫
我輩は人間である
名前はちぃ
この家に住んで8年
パパとママと三人で
平穏な生活を送っている
我輩は外に出たことが無い
しかし
マンションの一階にある我が家からは
人間や車、
多くの動くものを見ることができる
そして、猫という生き物が
日々我が家の横を行き交っている
そのつど我輩は
その猫という生き物を追い掛けて
東の窓から南の窓
そして西側の窓へと素早く移動し
この家を守っている
それは我輩の日課だ
しかし彼らと触れ合うことは
決して無い
「触れ合ってみたいかって?」
「いいや」
告白するが
我輩は無類の怖がりである
玄関の「ピンポン」にさえ怯え
その気配が消えるまで
部屋の隅で縮こまっている
そんな我輩が
素早く塀を乗り越え
我が物顔に
我が家の庭やベランダを闊歩する
そして我輩を鋭く睨みつける
そんな恐ろしいものに
立ち向かえるわけが無い
そうなんだ
こうして負けじと
彼らを睨みつけられるのは
この硝子でできた隔たりが
我輩に勇気を与えているからに
他ならない
我輩は人間である
パパの傍らで眠るのが一番好きな
人間である
サークルにも遊びに来てね^^
ラビリンス-エピローグ.明日の青い空
レイモンドに向かってミンアが言った。
「別れたくなかったから。君と・・」 レイモンドは真顔で答えた。
「えっ?・・えっ?」
ミンアは聞き間違いかと、思わずレイモンドを二度見してしまった。
「冗談だ。」
レイモンドはミンアの間の抜けたような表情に、大げさに笑った。
「!・・冗談がお好きですね。」 ミンアは目尻に力を入れた。
しかしレイモンドはそれに気にもかけず、話を続けた。
「ルカを預かったんでね」
「えっ?」
レイモンドの言葉に今度はそばにいたルカが驚き、声を上げた。
「出発は早い方がいい。二・三日の内に準備をしなさい。」
レイモンドはルカに視線を向けて、そう言った。
「出発って?」 ルカはまだ状況が把握できていなかった。
「アメリカに」 レイモンドはさらりと答えた。
「えっ?・・・」 ルカは相変わらずぽかんとした表情をしていた。
実は、ドンヒョクは以前からレイモンドに、ルカが医者の道に
進む手助けを依頼していた。
今回の一件で、ルカを脅かす存在は消え去ったと言えるだろう。
彼さえ望むなら、渡米の時期を早めるにはいい時期だと
ドンヒョクとレイモンドのふたりは考えていた。
突然のことに心ここに有らずのルカをよそに、レイモンドは笑っていた。
アメリカに戻ったジニョンが、今しがた涙ながらに別れたルカと
近い将来再会を果たす。
その時の彼女の涙の感動を思い描いて、面白がっていたのだ。
「大学はアメリカで通うことになる。住居は私の家だ。
一人暮らしは許さない。アメリカ滞在中は私と
私の義母が厳しく君を教育する。
妹君は、二・三年経って、君が向こうに慣れた頃に・・」
レイモンドは自分の前でいつまでも唖然として立ち尽くす
ルカを見て、話を中断した。「どうした?・・・嫌か?」
「いいえ。いいえ。僕・・アメリカに行けるんですか?
フランクやジニョンssiのいる・・アメリカに?」
ルカはやっと飲み込めてきた話を、確認するように言った。
「ああ、車で10分のところに奴らはいるよ」
その言葉に、ルカは無意識に瞳をきらきらと揺らめかせたが、
はっと我に返って表情を曇らせた。
エマを思うと、素直に喜べない自分がいたのだ。
「ルーフィー・・何て顔してるの?
あなたの小さい時からの夢が叶うんじゃない。
これ以上のいいお話がある?」
ルカの気持ちを察して、エマは空かさず言った。
「いいの?・・僕・・行っても・・アメリカは遠いんだよ
会えなくなっちゃうんだよ」
「一生の別れにはならないわ、そうでしょ?」
エマはそう言いながら、ルカの頭を撫でた。
「・・・エマ・・・」 ルカは喜びと寂しさに複雑な心境だった。
しかし、エマの言う通り、その道は自分が幼い頃から
思い描いていた夢だった。
「行くか?」 レイモンドが確認するようにルカの瞳を覗いた。
「ぁ・・・はい。行きます。」 ルカはアメリカ行きを決意した。
大きな瞳を輝かせ、近い未来に心を躍らせながら。
「あの・・ひとつだけ・・・ジュリアーノはどうなったんですか?
エマはもう危なくない?」 ルカがレイモンドに訊ねた。
「心配するな。奴はFBIの手に委ねられた。」
「逮捕されたということ?」
「ああ、今頃は。
ジュリアーノ一派は壊滅状態だ。」
「・・でもどうやって・・・」
「この五年間の間に、フランクは奴の不当な取引の証拠を
集めていたんだ。ひとつ残らずね。
水面下でじっくりと罠を仕掛けもした。それによって
今までの罪状もすべて明らかにされたというわけだ。
生涯、表に出てこられない位にな。」
レイモンドは胸を張ってそう言った。
「・・・フランクが?」
「イタリアにはそのためにいらしたんだ。
私も何もかも証言することを承諾した。
いいか、ルーフィー・・これでもう、
君達がジュリアーノを恐れる理由は何も無いんだ。」
今度はトマゾが言うと、いつの間にか彼の傍らにエマが寄り添い、
二人並んでルカに温かな微笑みを向けていた。
「本当に?」
「フランクが信じられないか?」 レイモンドが言った。
「ううん・・・ううん・・・信じる。信じます。」
レイモンドは続けた。
「これからは君達は何処にも隠れる必要は無い。
自由に、君達の人生を生きるんだ。
ご両親に胸を張れるような、人生を・・・」
ルカの目から涙が溢れ出た。
そんなルカを、そばにいたトマゾもエマもミンアもジョアンも
温かな眼差しで見つめていた。
「はい。」
ルカはすべての人に感謝の気持ちを捧げたい気分だった。
自分達兄妹のために、命さえも掛けてくれた人々に、
これからの自分の生涯を掛けて、報いよう、そう誓った。
「あーしかしだな・・・ひとつだけ忠告しておこう・・・」
レイモンドが改まって背筋を伸ばした。
「はい」 ルカもまた背筋を伸ばして彼の言葉を待った。
「アメリカに行ったら・・・・」
レイモンドは勿体つけたように話し始めた。
「はい。」
「ジニョンを愛してる、という言葉はだな・・・
フランクの前では使うな。」 最後は小声で言った。
「え?」
「ミンア・・食事の手配をしよう、手伝ってくれ」
レイモンドはキョトンとしたルカの前を、知らぬ顔で通り過ぎた。
ルカはエマと共に、トマゾの案内で小さな島を歩いて巡った。
亡き父の想いが詰まった教会、そしてフランクが守ってくれた教会。
この数年でリフォームされた内装とは打って変わって
年代ものである概観は、古きよきものを損なわないように
美しく補修されていた。
ルカはそれらを感慨深く見渡した。
ここに来る途中、この教会はルカのものだとフランクが言った。
それならば、とその時ルカは思った。
この教会が、親を亡くした身寄りの無い子供達のために
使われることを提案しようと。
そしてこのルカの島で、初めてのささやかな晩餐会が催され、
未来ある若き当主の前途を祝った。
ルカはこの場にいないフランクとジニョンを思っていた。
ふたりに会ったら、いっぱいキスしよう。
ふたりに会ったら、いっぱい愛してるって言おう。
ふたりに会ったら・・・
喜びの輪の中に居ながら、ルカの瞳はいつしか涙に溢れていた。
ルカと、彼に関わった人々の明るい未来の喜びの中で、
ジョアンの言葉が少なくなっていることにミンアは気づいていた。
「どうしたの?ジョアン・・まだ傷が痛む?・・」
そう言いながらミンアは、まだ新しい頬の傷を指でつついた。
「いいえ・・・」 ジョアンは少しばかり機嫌悪そうに返事をした。
「でもさっきからあまり食べてないじゃない?
ワインも・・ほら・・進んでないわ」
そう言いながらミンアは、彼の目の前のワイングラスを指した。
「食欲無いんです」
ジョアンが溜め息混じりにそう言うと、ミンアは彼の額に手を当てた。
彼女のその行動を上目遣いに睨んだジョアンにミンアは
呟くように言った。「珍しいと思って・・」
「ふっ・・」 ジョアンは呆れたように笑った。
「ほら・・言ってごらんなさい」 ミンアはしつこく聞いた。
「・・・・・・・ジニョンssiが無事でいてくれて・・・ルカも・・・
すべて上手くいったんですから、安心しました、すごく。
だから・・・何も・・・
あるわけないじゃないですか」
「そう?・・そうは見えないけど」
ミンアが言うと、ジョアンは意味有りげに大きな溜め息を吐いた。
「フー・・・・・・・僕もアメリカに帰りたい」
「アメリカに?どうして?あなたイタリア大好きでしょ?
それにイタリアの仕事でボスに認められるんだって。
意欲満々だったじゃない。これからまだ三年位は・・」
「わかってますよ。」 ジョアンは少し投げやりに言った。
するとミンアが意味有りげな眼差しを彼に向けた。
「あなた・・・まさかあなたもルカみたいに
“ジニョンssiを愛してる~”なんて言うんじゃないでしょうね
・・・あ・・うそうそ・・冗談よ」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・うそ」
エマは人々から離れ、岸辺に佇んでいたトマゾに歩み寄った。
トマゾは彼女の気配に気づいたが、視線は海に向かったままだった。
「ありがとう」
エマもまた海に向かって佇み、トマゾの横に並ぶとそう言った。
「礼を言われることは何も」 トマゾは返した。
「いいえ、何度言っても・・・言い足りないくらいよ」
そう言いながら涙ぐんだエマを、トマゾは優しい眼差しで見つめた。
「どうやって償ったらいい?」
エマがそう言うと、一筋の涙が彼女の頬を伝った。
「償う?・・・」
トマゾは彼女の涙を見ないように、視線を海に戻した。
「いいえ、償いじゃない・・・そうじゃないわ・・・
でも・・・もう少しだけ・・・私のそばにいてくれる?
その間にあなたの気持ちが私から離れてしまったら・・・
それはそれで構わない・・仕方ないもの・・・でも・・・」
エマは思っていた。自分の気持ちを今、彼に伝えておくべきだと。
「私の気持ちが?・・・あなたから離れる?
どうしてそう思うんでしょう」 トマゾはエマに振り向いた。
「いいえ、言わせて・・・私は・・・この五年間・・・
フランクのことだけを考えて生きて来たの・・・
だから・・・直ぐにはまだ切り替えることはできない・・・でも・・・
あなたさえ、待っていてくれたら・・・
ええ、きっとそう遠くないわ・・・きっと・・・
だからお願い・・・私を・・・」
エマがそう言った瞬間、トマゾはエマの唇を自分の掌で
優しく塞ぎ、小さく笑った。
「あなたが笑うの・・・初めて見たわ」
エマは驚いたようにそう言って微笑んだ。
「そうですか?私は・・・
・・・あなたの傍で・・・あなたを想って・・・あなたを見つめて・・・
いつも笑っていましたが・・・」
「ありがとうございました、Mr.レイモンド
予想もしていなかった晩餐会、みんなとても喜んでいました」
ミンアはリビングでひとり寛いでいたレイモンドに、ワインを勧めた。
「イタリアのワインはお口に合いましたか?」
「ああ、次回からは自宅にも取寄せよう」
「それは宜しかったですわ」
「今日はゆっくり休むといい、明日からはフィレンチェに戻って
残務処理が山積みだろ?」 レイモンドはミンアを労った。
「ええ、あなたも今日こそはお休みください
お疲れになりましたでしょう?」
「ふっ・・世話が焼ける弟夫婦がいるもんでね・・・」
レイモンドは赤いグラスを目の前で少し傾けると、ホッと息を吐いた。
「ボスはお幸せですね・・・」
「ん?」
「Mr.レイモンド・・Mr.リチャード・・ソフィアさん・・・
ボスの力になってくださる味方が・・
しかもかなり強力な味方がいらっしゃるんですもの・・・」
「君達もいるだろ?」
「私達部下は当然です」
「・・・・ところで、宿題はできたか?」
「宿題?」
「ああ、ここに来る前に出しておいた」
「えっ?」
《やきもち?誰が?誰に?》
《君が・・・ジニョンに。》
《私が?ジニョンssiに?・・・何故?》
《時間がある。その間、考えてろ。》
「あ・・・」
「答えは出たか?」
レイモンドはワイングラスを持ったまま立ち上がった。
「あ・・・いえ」
「そうか・・それは残念だ」
そして、ワイングラスをテーブルに置くと、ミンアに近づいた。
「あなたは?」
「ん?」
「あなたはどうして・・・そんな・・宿題を私に?」
ミンアは次第に自分に近づいてくるレイモンドに対して、
僅かに後退しながら聞いた。
「さあ・・どうしてだろう」
「・・・・・・」
「駆け引きは得意なんでね」
ミンアの背中が壁面で行き詰まると、レイモンドは一旦立ち止まった。
「駆け引き・・ですか?」
「さあ・・君が先に答えろ。」
レイモンドが腕を差し出し掌を壁につけられる距離まで近づくと、
ミンアの緊張は頂点に達していた。
「嫌です」 ミンアがそう答えた時には既に、ふたりの唇は
微かに触れそうなほどに近づいていた。
「答えろ。」
「嫌です。」
「そうか。」
レイモンドはそう言うと、ミンアからあっさりと離れ、
さっき腰掛けていた椅子に戻ると、また腰を下ろした。
「へ・・」
ミンアはレイモンドの行動にぽかんと口を開けるしかなかった。
それなのに彼女の困惑を他所に、レイモンドは呆れるほど優雅に
ワイングラスを口に運んだ。
「あの!」 ミンアは次第に腹が立ってきていた。
「からかって面白いですか?」
「いいや、からかった覚えは無い」 レイモンドはワインを飲み干した。
「からかってます。」 ミンアの目にいつしか涙が滲んでいた。
レイモンドはグラスをテーブルに下ろすと、ミンアに視線を向けた。
「答えろ。私が好きか?」
「・・・・・」 ふたりは少しの間睨み合っていた。
「どうなんだ?」
ミンアが少し視線を落としかけた時、レイモンドは聞いた。
彼は彼女を射るように見つめていた。
その瞬間不覚にも、ミンアはその目に射抜かれてしまったようだった。
そして、とうとう降参してしまった。
「・・・・・・・・好きです。」
「よし。」
「・・・・・」 ミンアはまだ悔しさに顔をこわばらせていたが、
レイモンドは満足そうに言った。
「正解だ。」
ドンヒョクとジニョンは広い海の真ん中でしばしボートを停泊させていた。
そして船首に重なるように腰掛けると、長いこと無言で
オレンジ色の風景に酔いしれていた。
「本当に綺麗ね」
「ああ」
「何だか吸い込まれそう」
「吸い込まれてみるかい?」
そう言いながらドンヒョクは彼女の背中を抱いた。
「ふふ・・いいわ、あなたと一緒なら」
「そう、ふたり一緒なら何があってもいいさ・・・
だからもう駄目だよ、あんなことしちゃ・・
もうどんなことがあっても・・・
どんな時も・・・僕のそばを離れちゃ・・駄目だ」
ドンヒョクはそう言いながら、彼女の頬を撫でるようにくちづけた。
「どんな時も?それは無理があるわね」
「例えばの話だよ」
「じゃあ・・韓国は?ひとりで行ってもいいって・・」
約束が違う、とばかりにジニョンは身構えた。
「あー・・その話はご破算。」 ドンヒョクは彼女をしっかりと抱きしめた。
「えーーーー」 ジニョンは彼の胸を自分の背中で押した。
「自業自得。」
ドンヒョクは彼女を更に強く抱きしめて身動きを静止した。
「それはないわ~~ドンヒョクssi・・・お願いよ~~
来月には大きなサミットが・・・
レイも迎えに来てくれてるじゃない・・」
「レイは二・三日はイタリア。その後はアメリカに帰る。」
「そうなの?レイがどうしてイタリアに残るの?」
島を離れる直前のことだった。
レイモンドが突然ドンヒョクの傍らに寄って来ると、
ぼそりと言った。
「フランク・・フィレンチェの事務所を貸してくれ」
「事務所?何をするんです?」
「あー残した仕事を片付けて帰りたい」
そう言いながら、レイモンドはフランクから視線を外し宙を仰いだ。
「仕事ならホテルで・・」 ドンヒョクは解せないとばかりに言いかけた。
「貸すのか、貸さないのかどっちだ。」
珍しく興奮してドンヒョクの言葉を遮ったレイモンドに首を傾げたが
ドンヒョクは「どうぞ」と答えた。
その直後、レイモンドが向けた視線の先にいた人物を確認して
ドンヒョクはその意味を悟った。
「なるほどね」
「何だ?」 レイモンドがドンヒョクを横目で睨んだ。
「いいえ、何でもありません・・・・ぁ・・レイ・・」
「ん?」
「うちの部下には手を出さないように。」
そう言った自分の背中でレイモンドがどんな顔をしているのか
想像すると、ドンヒョクは可笑しくてならなかった。
「・・・・・チェスをしたいだけだ」
レイモンドの呟きがドンヒョクの背中に小さく届いた。
ジニョンは必死だった。
「でもね、テジュンssiとも約束したじゃない?・・
大事なイベントには出席するって・・」
「とにかく・・駄目。」
「えーーーー!」
「無駄な足掻きはお止め。」
ドンヒョクは敢えて無表情を作り、冷めた口調で言った。
「えーーーー!」
ジニョンの嘆きの声が広い海原を走った。
《ジニョン・・・
君と離れることなんて・・・考えたくも無い。
少なくとも今は。
そうだな・・・この数日で縮んでしまった僕の寿命が
君の魔法で・・・延命されるまではね・・・》
ドンヒョクは心でそう呟きながら、ジニョンのうなじにくちづけた。
ジニョンはくすぐったがって首をすくめながら、自分に巻かれた
彼の腕を抱きしめた。
そして甘えるような目で彼の顔を見上げた。
「ね、お願い!!!!」
ドンヒョクはしばし宙を仰ぎ、その甘い眼差しをわざと見なかった。
せめてしばらくの間は彼女の魔法に掛かってしまわないように・・・
夕暮の水平線とは対照的に、頭上の空は抜けるような青さだった。
ジニョンは相変わらず、ドンヒョクの大きな腕の中で往生際が悪かった。
「ねっ!お願い!
許してくれるわよねっ!ドンヒョクssi!」
それでもドンヒョクは彼女の視線から必至に逃れ、
その美しい空に向かって呟いた。
・・・さあね・・・
ラビリンス-27完.あなたの過去も愛してる
「何をしていた?」
ドンヒョクは恐ろしく冷たい声で言った。
ジニョンは彼に掴まれた胸倉のせいで、爪先立ちになるしかなかった。
「今まで。何をしていた!」
ドンヒョクは尚も声を荒げ、彼女の胸倉を掴んだ手に更に力を加えた。
「くっ・・」 ジニョンは息苦しさに声を詰まらせた。
「ボス!申し訳ありません。すべて僕が悪い・・」
ジョアンが慌てて仲裁に挑もうとふたりに駆け寄った瞬間、
ドンヒョクが大きく振り上げた肘が、ジョアンの顔面に命中し、
彼はいとも簡単にその場に伸されてしまった。
「ボス!」 それに驚きとっさに動こうとしたミンアの行く手を
レイモンドの腕が阻んだ。
「黙ってろ。」 レイモンドはミンアに落ち着いた口調で言った。
ミンアは行く手を阻むレイモンドと、まるで炎と化したドンヒョク、
倒されながらも何とか起き上がろうとしているジョアンを、
不安げに見ていた。
ドンヒョクはジニョンの胸倉を掴んだまま、彼女を睨みつけていた。
ジニョンもまた、ドンヒョクから決して目を逸らさなかった。
彼女には彼の想いが手に取るようにわかっていた。
「わかってる。」 ジニョンは落ち着きを装い、そう言った。
「わかってる?何がわかってる!」
ドンヒョクの目はジニョンの胸の奥を刺すように鋭かった。
「心配かけて・・ごめん・・なさい」
ジニョンはドンヒョクの怒りを逆撫でしないよう、注意深く言った。
するとドンヒョクは突然手の力を抜き、ジニョンの首を楽にした。
そしてジニョンがホッと息を吐いた直後、彼は踵を返し、
出口へと突き進んだ。
ジニョンにはドンヒョクのその行動も予測することが出来た。
彼女は彼によって押し付けられた壁に背中をつけたまま
目を閉じ大きく息を吐くと、今度は決心したように目を見開き、
ドンヒョクの背中を強く睨んだ。
「ドンヒョクssi!」
その声を無視して憤然と突き進むドンヒョクの背中に向かって、
ジニョンは更に声を張った。
「シン・ドンヒョク!」
ジニョンの甲高いその声が天井の高い静かな部屋に響き渡った。
ドンヒョクは一瞬ピクリとして立ち止まったかと思うと、
怒りに満ちた顔を変えられないままに、ゆっくりと振り返った。
ジニョンはドンヒョクにつかつかと近づくと、彼に負けじと
強固に睨み上げた。
「何だ。」 ドンヒョクは冷めた声で突き放すように言った。
「何故逃げるの?」 ジニョンは責めるように言った。
「逃げる?」 ドンヒョクはそう言って更に胸を張った。
「ごめんなさい、って謝ったでしょ?
心配してたって・・素直に言えばいいじゃない。」
「はっ・・」
「意地っ張り。」
「何だと?。」
突然、ジニョンが彼の胸倉をネクタイごと掴み取り、
力の限りそれを自分へと引き寄せた。
ドンヒョクの顔はその勢いのままジニョンへと向かい、
彼の唇はジニョンの唇で乱暴なまでに塞がれてしまった。
その瞬間、ドンヒョクの驚きの目とジニョンの怒りの目が
指一本分の距離で相対した。
ジニョンは彼を逃がすまいと腕に取ったネクタイの付け根を
力いっぱい締め上げるように握っていた。
「く・・」 合わさったままのふたりの唇の間から、ドンヒョクの
「苦しい」という声が小さく漏れたが、ジニョンはそれすらも無視した。
ただ勢い任せの乱暴なキスだった。
《あなたがどれほど心配していたのか・・
わかってるわ・・ドンヒョクssi・・・》
ジニョンは自分の想いを彼と交わる唇に込めていた。
《わかってたまるか》
ドンヒョクは余りに窮屈なキスに、仕舞には苦笑しながら、
胸に呟いていた。
少しして、我慢の限界とばかりに彼はジニョンの体を持ち上げ、
彼女によってもたらされた首の圧迫から自分を解放した。
そして重なった唇はそのままに、彼女に両腕を巻きつけると、
容赦無くその細い肢体を締め上げた。
エマはふたりを目の当たりにして、小さく溜息を吐いた。
目の前に、ひとりの女を恋しさの余り怒る男の姿があった。
その男は自分が長年恋焦がれたひと。
しかしその男が悲しくも焦がれる女は自分ではない。
わかっていたはずだった。
決して自分の前で怒りに震えることのなかったひと。
決して本心を覗かせもしなかったひと。
望めるはずのないものと、とうに知っていた。
それでも重なるふたつの影に胸が締め付けられる自分が
情けなかった。
エマは静かにふたりに背を向け、出口へと向かった。
ルカはそんなエマを黙って見つめていた。
そして慰めるように肩を抱き、彼女のそばを離れなかった。
その後ろをトマゾがふたりを守るように付いて歩いていた。
レイモンドは少しばかり呆れた顔でふたりを眺めながら、
倒れていたジョアンを立ち上がらせると、ミンアに出口を指して、
ここを出るよう合図した。
そして、ジョアンを肩に担ぐように抱き上げ、出口へと向かった。
「く・・くるしい・・・」 ジニョンは唸りながら、彼の胸を押しやって
やっと自分の唇を彼の唇から離した。「苦しいわよ、ドンヒョクssi」
ジニョンは大きく深呼吸しつつ、彼を罵しることを忘れなかった。
「君から仕掛けた。」
「だいたいね。」 ジニョンはドンヒョクに詰め寄り、続けて言った。
「あなたはいつもそうなの。つまらないことで直ぐ怒る。
怒ると直ぐに黙ってしまう。こ~んな顔してね。」
彼女は自分が仕出かしたことを棚に上げて捲くし立てた。
「つまらないこと?」 ドンヒョクは首を傾げてみせた。
「そうよ! いつも。 怒って。 ばっかり。」
ジニョンはドンヒョクの胸に何度も指を突き刺しながら言った。
「はっ・・つまらないことか?」
ドンヒョクは肩をすくめ、わざとらしく繰り返して言った。
「ぁ・・そうじゃないけど・・悪かったと思ってるわよ・・本当に・・でも。」
「でも?」
「あ・・あんな風に冷たく背中を向けられたら・・
いったいどうしたらいいわけ?私は。」
ジニョンは決して形勢逆転に及ぶまいと、踏ん張った。
「・・・追いかけてくればいいだろ?」
ドンヒョクは“当然だろ?”と言わんばかりに言いのけた。
「オモ・・何てこと?・・・・暴君。横暴。」
ジニョンは負けじとばかりに胸を張った。
「悪いのは君だっただろ?」
「悪いのは私だけ?」
「僕への仕打ちを大いに反省することだ。」
「仕打ちって・・大げさよ。」
「大げさ?この三日間、死にそうだったさ。」
「元はと言えばあなたが私を置いてきぼりにしたからでしょ!」
「勝手に動くなと念を押したはずだ。」
「それが暴君だっていうのよ。」
「暴君。結構。」
「ほら直ぐに居直る。・・・だったら!どうすればいいわけ?」
「僕が苦しんだ分、苦しんでみるといい。」
ドンヒョクのその一言でふたりの矢継ぎ早な言い合いが
やっと静まった。かに見えた。
「・・・・・性格悪い。」 ジニョンが一瞬の静寂に呟きを投じた。
「はっ・・今更?」 ドンヒョクは腕を組んで顔を背けた。
「あなたって!ホントに。性格悪い!」
ジニョンが肩を怒らせた瞬間、ドンヒョクが彼女の胸倉を素早く掴んで
今度は彼女の唇を自分の唇へと持ち上げ、押し当てた。
「く・・・」
結ばれたふたりの唇の間で“苦しい・・”と声を漏らしながら、
ジニョンは急に可笑しくなった。
そして怒りで力が入った肩を彼の腕に委ねると、突然笑い出した。
「さっきのお返しだ」
彼は彼女をふわりと抱くと、唇を少しだけ離し無愛想に言った。
ジニョンは彼の腕の中で柔らかく笑っていた。
「もう、こんなことはしないと約束して。」
ドンヒョクはジニョンの頬を両手で挟んで、自分から少しだけ離すと
今度は彼女を優しく見つめて言った。
「こんなことって?・・」
白々しいジニョンの返事に、ドンヒョクは片方の眉を上げてみせた。
「タイを締め上げたキス?・・それとも・・すごく心配かけたこと?」
ジニョンは続けて言いながら、自分が乱してしまったドンヒョクの胸元を
丁寧に直していた。
「・・・キスは・・・許す。」 ドンヒョクは仕方ないというように呟くと、
今度はくすぐったいほどに優しくジニョンの唇を噛んだ。
ジニョンの顔がドンヒョクの胸の中で溢れるほどの微笑に崩れた。
ドンヒョクとジニョンが教会から出て来ると、外には
レイモンドやミンア、少しまだふらついたジョアン、
エマの肩を抱いたルカたちがふたりが出てくるのを待っていた。
ジニョンはみんなの顔を見ると、照れ隠しの笑みを浮かべた。
一方ドンヒョクは、彼らに対して無愛想なまま顔を逸らした。
ミンアはジニョンのそばに駆け寄り、涙ながらに無事を喜んだ。
「ジニョンssi~~心配したんですよ~」
ドンヒョクによって顔に青あざを作られたジョアンも涙声だった。
ジニョンは右手でジョアンの手を取り、左腕にミンアを抱いて、
“ごめんなさい”と繰り返した。
「いつまでも駄々をこねてたのか?」
煙草に火をつけながら、レイモンドがドンヒョクに向かって
意地悪さ全開に言い放った。
ドンヒョクは俯き小さく笑ったが、その顔を彼には見せなかった。
「駄々・・って、Mr.レイモンド・・」
傍らでミンアがレイモンドの遠慮の無い言葉に目を丸くして、
レイモンドとドンヒョクを交互に伺った。
今まで何処の誰も、フランク・シンに向かってそんな口を利く人間を
見たことがないミンアやジョアンにとって、或る意味
レイモンドの容赦の無い物言いは、内心小気味よく聞こえた。
ドンヒョクは煙草を優雅にくゆらせるレイモンドをきつく睨むと、
突然何も言わずジニョンの手を掴んで歩き出した。
「ボス!」 ミンアの声が追いかけたが、ドンヒョクは振り向かなかった。
「放っておけ」 レイモンドが言った。
「でも・・」 ミンアはボスであるドンヒョクとレイモンドの間で
おろおろとするしかなかった。
「奴にはプライドを繕う時間が必要なんだ。」
「プライド・・ですか?」
「あいつは・・ジニョンの前では、体裁もプライドも
かなぐり捨てることができる。シン・ドンヒョクに戻ることができる。
しかし、私達の前では冷静で、沈着で有らなければならない。
いつも“フランク・シン”でなければ、自分が許せないのさ。」
レイモンドはそう語った。
「・・・・・何だか・・寂しい気がします。
私達の前でもシン・ドンヒョクであってくださればいいのに・・」
ミンアが寂しげにそういうと、レイモンドは無言で彼女を見つめた。
「何ですか?」 ミンアは彼の視線に気付いて首を傾げた。
「それは・・・愛情表現なのか?」 レイモンドは言った。
「えっ?愛情って・・まさかそんな・・」
ミンアはしどろもどろになって赤くなった。
「冗談だ。」 レイモンドは少しムッとしたように言った。
「お人が悪いですね、Mr。」
「本当の奴を知ってどうする」 レイモンドは淡々と言った。
「どうするって・・」
「私は知りたくないね。本当の奴を知ったら・・苦しいだけだ」
「苦しい?」
「ああ・・悲しいくらいに苦しい。だがジニョンなら・・・
彼女なら決して苦しいままで・・悲しいままで終わらない。
何故ならフランクが・・・それを許さないから。
彼女になら・・簡単に降参してしまうから。
ふっ・・そうなんだ・・
あいつはジニョンに抱かれた瞬間、鋭い爪を隠す・・
まるで野生の豹が飼い猫になったみたいにね。
そして彼女の腕の中で体を丸くして眠るんだ。」
「飼い猫ですか」
「ああ、気弱な飼い猫だ、あいつは。
ジニョンという女にしか懐かない、癖の或る飼い猫。」
「何だか・・納得できそうで、怖いです。あなたの論理。」
「知らなかったか?・・私は正論しか言わない。」
レイモンドはエマが自分の話を後ろで聞いていることを
承知していた。
実を言うと彼は、彼女にそれを伝えたかったのだった。
エマもまた、そのことを理解していた。
レイモンドの言葉を聞きながら、エマは俯き加減に微笑んだ。
「エマ・・・」 ルカが慰めるような眼差しで彼女を見つめた。
「ルーフィー・・・」
エマはルカの優しい眼差しに触れると、心が痛かった。
「ごめんなさい・・・あなた達の・・」
ルカは首を横に振った。「もう何も言わないで・・・」
エマは優しく微笑み頷いた。そしてルカの頬を撫でながら言った。
「ルーフィー・・どうか・・・お父様やお母様の分も・・・
沢山の幸せを掴んで・・・お願い・・・」
「わかってる・・・わかってるよ、エマ・・・そうする・・・
必ずそうするから・・・」
ルカはそう言いながら、自分の頬を撫でるエマの手を
優しく包んだ。
「どうぞ、用意が出来ました」 トマゾが言った。
ドンヒョクとジニョンはトマゾに誘導されて、ボートに乗り込んだ。
ジニョンはレイモンド達が乗り込んで来るのを待っていたが、
彼らが乗り込まない内に、操縦士がエンジンを掛け、
今にも発進させようとしていた。
「あ・・待ってください」 ジニョンが操縦士に声を掛けた。
しかし川岸に立つ人々は、一向にボートに乗り込む気配が無かった。
「レイ!・・早く乗って?」 ジニョンが声を掛けた。
「あ・・言い忘れたよ、ジニョン。
私たちは今夜はここに滞在することにしたんだ。
部屋もホテル並にあるようだしな。だから・・・
ここでさよならだ。またその内にな。」
「え?レイ、そんな・・ルカ・・みんなも?」
対岸の人々はそれを認めるように一様に微笑んだ。
「ジニョンssi!・・ありがとう!
あなたと会えてすごく嬉しかったです」
ルカが満面に笑顔を称えて言った。
「そんな・・だったら、私たちも・・」
そう言いながらジニョンはボートを降りようとした。
その腕をドンヒョクは掴んで自分に引き寄せた。
「ドンヒョクssi?・・」
「いいんだ・・・ここで別れよう。」
「えっ?だって・・まだ沢山・・お話・・ルカとだって・・
ちゃんとお別れもしてない」
「いつかまた会えるさ」
ドンヒョクはそう言ってジニョンの肩を抱いた。
「だって・・こんなあっけないお別れなんて・・」
ジニョンは涙が込み上げて仕方なかった。
彼女はいつの間にか既に川岸から離されたボートから、
川岸のルカを見つめた。
「ジニョンssi!」
突然ルカがジニョンの名を叫びながら、対岸を走り出した。
ジニョンは彼を目で追った。
「ルカ!・・ルカ!・・ありがとう・・」
「ジニョンssi!僕こそありがとう。本当にありがとう!」
「私を守ってくれてありがとう!
フランクを愛してくれてありがとう」
「ジニョンssi・・・僕・・僕・・・ジニョンssi!愛してます!」
ルカはボートを追いかけながら大きく大きく手を振った。
「私も。私もよ・・・愛してる、ルカー」
「ジニョンssi!・・さようなら!」
「さよなら!ルカ!」 ジニョンもまたこぼれる涙を拭いながら、
次第に小さくなる川岸に大きく手を振った。
互いの声がもう届かないほどにボートが岸を離れていき、
川岸に立つ人々が更に小さくなって、ついには見えなくなった。
「ジニョンssi・・・ありがとう・・・
あなたは本当に僕の守護神でした。」
ルカは既に見えなくなったジニョンに向かって呟くと、
静かに袖で涙を拭った。
ジニョンはいつまでも泣いていた。
「まるで恋人同士の別れだな」 ドンヒョクが嫌味を込めて言った。
「だって・・ヒクッ・・」
「僕のことも眼中に無かったな、あいつ」
「ひどいわ・・こんな別れ方・・」
ジニョンはヒクヒクと声を裏返して泣きじゃくった。
「ルカがそうしたいと言ったんだ」
「・・・ルカが?」
「あの子は今、エマのことを考え、そばにいてあげようとしている
しかし君がいたら・・・
子供の癖に、気が回るんだ、あいつ・・・」
「・・・・そう、そういうことなのね」 ジニョンは涙を拭いながら言った。
「だから・・もう泣くのはお止め」
ドンヒョクはそう言って、ジニョンの髪を撫でた。
「ええ」 ジニョンは納得して大きく頭(かぶり)を振った。
ジニョンはドンヒョクの肩に頭を預け、もうとっくに見えなくなった
川岸の方角を愛しく見つめていた。
「ところで・・」 ジニョンがそのままの姿勢で言った。
「ん?」
「ルカはどうしてエマさんのことで私に気を遣うの?」
「えっ?・・」
「エマさんという人のこと、私、あなたに何も聞いてないわ」
「あ・・それは・・・」
ふたりの背には、赤い夕日が水平線を美しく揺らめかせていた。
「ね、見てご覧・・・」
ドンヒョクがジニョンの肩を抱いて後ろを振り向かせた。
「わぁ・・綺麗・・」
ジニョンは目の前に広がった美しい景色に瞳を輝かせ、
感嘆の声を上げた。
「だろ?・・」
「ドンヒョクssi・・・」
「ん?」
「ごまかした?」
「何を?」
「ふふ・・大丈夫よ」
「何が?」
「あなたの過去も・・・」
ジニョンはわざとらしい笑顔でドンヒョクを見上げた。
「ん?」
「・・・愛してるから。」
「えっ?・・・」
「ふふ・・何でもない・・」 ジニョンはドンヒョクの胸に頬を寄せた。
ドンヒョクは微笑みながら、彼女の頭をそっと包み込み抱きしめた。
「何だか意味深だな」
「そう?」
「ふっ・・」
「不思議なの・・・たった数日なのに・・・
ルカと過ごした時間が、あなたと逢えなかった10年分を
簡単に埋めてくれたような気分なの」
「ルカにそんな力があったのか?侮れないな」
「そ、侮れないわ」
「しかし感謝した方がいいかな?」
「そうね、あなたはみんなに感謝した方がいいわ・・
あ・・忘れないでね、私にも。」
「いつもしてるけど」
「んー足りないみたいよ」
「じゃあ・・この深~い感謝の気持ちはどう表わせばいい?」
ジニョンが突然、ドンヒョクの頬を両手で挟んで優しく唇を合わせた。
少しして、ドンヒョクはジニョンの髪をクイと後ろに引いた。
「これでいいの?」
ジニョンは満面の笑顔で「ん・・」と応えた。
ドンヒョクは体を少し反らしたまま、両手をジニョンの背中で交差し、
下へ滑らせると、その腰を優しく引き寄せ抱いた。
そして彼女を見つめながら、ゆっくりと唇を近づけた。
「それなら・・・」
・・・お安い御用だ・・・
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