【創作】タムトクの恋・番外編~初春
王都の初春は、静かだった。
奥まった中庭にも、冬のやわらかな陽射しが差し込んでくる。
さっきまで凍った地面をおぼつかない足取りで歩いていたユナは、今はタムトクの膝の上にちょこんと座っている。さすがに疲れたらしい。
時折こちらを見上げてはにっこりと笑い、小さな手を伸ばしてくる。
うっすらと伸びた父の顎鬚が気になるらしい。
娘の指が髭をなぞるのをそのままに、タムトクは中庭の木々に目をやった。
蕾はまだかたかったが、これから芽吹こうとしている命があるのだと思った。
半月前までは、戦場(いくさば)にいた。
ふりそそぐ陽射しの中で幼い娘を抱いていると、そんなことも嘘のようだった。
義のためとはいえ人と人とが殺しあう戦場とは、いったい何なのだろうと思う。
限りなく、むごくもやさしくもなれる人間という生き物。
幾多の兵士たちの命を、直接的にも間接的にも奪ってもなお、今ここであたたかな陽射しを浴びている自分とはいったい何なのだろう・・と。
だが、それでもなお、この手の中にある愛、静けさ、あたたかさ、
触れればこわれそうなほど頼りない小さな命・・・、そんなものすべてが、タムトクはいとおしかった。
そんなものたちを守るためなら、自分はどこまでもむごくもやさしくもなれるだろうと、タムトクは心の中でつぶやいた。
「ユナ・・」
タムトクは、こちらを見上げている娘の髪に触れた。
こちらにまっすぐに向けられている丸い大きな瞳。
その透明感。
あたたかさ。
女の子とは不思議なものだと、つくづく思う。
ワタルはもちろん、チャヌスとも異質なものが感じられるのだ。
何よりも、腕の中でぽやぽやとあたたかく触れてくるものが心地よい。
それに、つややかなばら色のほほも小さな口元も・・。
そして、きわめつきなのが、大きな黒い瞳である。
じっと見つめられるとせつない気持ちになるではないか。
タシラカそっくりなのだから当然なのだろうが、そればかりではないらしい。
何か、同じ血のつながりを感じるというか・・・。
とにかく、いつまでも膝の上に座らせて、そのあたたかな存在を確かめていたくなるのだ。
だいたい、王は姫に甘すぎます、そう断言したのは、あのサトだった。
そんな不遜なことを言われても、タムトクはふんと鼻先で笑って返した。
サトも、タムトクよりも8ヶ月早く、父親になったばかりだったのだ。
『そなたに言われたくないな。
息子といっしょにいてやりたいなどと、ここ数日、城に顔も見せなかったではないか。』
『そ、それは・・、それは、ちゃんとご連絡したでしょう!
ジヌが熱を出して、アカネ一人では心配ですから、と。
王も、それなら・・、と王室付きの薬師を差し向けてくださったではないですか!』
『そうだ、だから、そなたも小うるさいことを言うな!』
あのときのサトとのやり取りを思うと、いつも笑ってしまう。
はっきり言って、あのサトとそんな話をするようになるとは思わなかった。
それも、ムキになって、だ。
子供の頃からの遊び友達で、いつもいっしょにいて、王になってからも側近中の側近として自分をささえ、いつも生真面目そうな顔で、タムトク様、それはなりませぬ!などと言っていた、あのサトとである。
お互いに父親としての第一歩を踏み出したのだと、タムトクは思う。
「なにか、たのしいことでもありましたの?」
いつもの声が聞こえて、軽い足音が近づいてきたと思ったら、すぐに肩越しにタシラカの顔がのぞき込んだ。
「そろそろ、眠くなる時間ですわ。」
「そうかな?」
「ええ、そうですわ。
タムトク様も、そろそろお城にお戻りになる頃ではないですか?
お迎えの方も見えるのでは?」
ああ・・、と生返事をして、すぐ横にあるタシラカの顔を見返す。
にっこりとやさしい笑顔だ。
こっちはちょっとどきどきするが、向こうはユナに気をとられているらしく何とも思っていないらしい。
さっと、彼の腕からユナを取り上げてしまう。
なんだ、つまらん、そう思いつつ、タシラカの腕の中を見れば、なるほどユナは指しゃぶりを始めている。
「そなたの声が聞こえたからだぞ。
今までは機嫌よく遊んでいたのだ、
そうだな、ユナ?」
「はい。
ユナはお父様が大好きですものね。」
タシラカが笑顔で返してくる。
悪い気はしない。
そう、タシラカに勝てるはずもない。
だが、さあ、あちらでお昼寝しましょうね、などと、くるりと背を向けてしまわれるとなんだかちょっとつまらない。
彼女の肩越しに、『つまらんぞ』の意味を込めて言ってみる。
「チャヌスの手習いはどうだ?
もう、終わったのか?
そなたが見ていたのだろう?」
ええ、とタシラカがふりかえる。
「ちちうえに見ていただくんだなんて、張り切ってましたけど、半時続けるのがせいいっぱいですわ。
でも、まだやっと二歳になったばかりですもの・・。
ワタルもあの年頃のころはすぐに飽きてしまっていました。
男の子はそんなものです、体を動かすほうが好きですもの。」
なだめるようなやわらかい笑顔。
タシラカ・・。
出産後体調をくずしていた正妃スヨンが亡くなったのは、半年前のことだった。
あとに残された一歳半のチャヌスを、この屋敷に引き取ってはどうかと言い出したのは、タシラカだった。
タムトクがためらいつつもこれを受け入れたのは、ほかにそれ以上適切な道が思い浮かばなかったからだった。
第一に、タムトクが戦続きで城を留守にすることが多かったのにもかかわらず、城内の奥向きのことを取り仕切る能力のある女官長がいなかった。
さらに、ただひとりの妃タシラカは出産後体調がまだ十分回復していなかったし、生まれたばかりのユナの世話もあった。
それに、チャヌスには乳母や侍女たちが取り巻いていたが、その世話に十分目が届くというわけでもなさそうだった。
スヨンの後ろ盾となっていたハン一族は、スジムの事件以来すっかり没落していたからである。
結局、タシラカの提案をタムトクが受け入れたとき、当然、各方面から反対の声が上がった。
城内の古くからの家臣たちは、高句麗王家の正統な血を引く唯一の王子チャヌスを倭の女人などの手にゆだねてよいのかと言い立てた。
その一方、タシラカの後ろ盾である長老家からは、なさぬ仲の王子を引き取って、もし何かあったら痛くもない腹をさぐられるなどと、心配する声が上がったのだった。
そんなものを押しのけての決断だった。
それから半年、周囲の不安をよそに、ともかく何とかここまでやってきた。
チャヌスの世話は乳母や侍女たちにまかせているようだが、彼女の指示で、日に二度の食事は皆でとるようにしている。
自然に、子供たちは仲良くなったようだ。
それもこれも、タシラカの手によるものだとタムトクは思っている。
チャヌスや乳母たちとの距離のとり方に戸惑いながらも、できることには手を差し伸べようとする姿勢があるのだろう。
10日前に戦場から帰ってきたとき、どうだ?とたずねたタムトクに、タシラカは鎧の帯を解く手を一瞬止めて、こんなことを言った。
『なにごともございません、なんて言ったらウソになります。
これだけ大所帯で、子が三人もいればいろんなことがありますわ。
でも、タムトク様のお顔を見るたびに、
ああ、こたびもご無事で帰ってきてくださったわ、子供たち三人も元気だわ、よかったわって、そう思ってしまいますの。
・・それなら、もう2,3人、他の方にお子をつくらせてもいいかですって?
それは、だめですわよ、もちろんですわ。
私、もう手一杯ですから・・・』
あのときのタシラカの眉をつり上げた顔を思い出して、タムトクはまたくすくす笑った。
タシラカはユナを抱えたままちょっと怪訝な顔をしたが、すぐに、彼のくすくす笑いを彼女なりに理解したらしかった。
「タムトク様だって、小さいころは手習いを抜け出して遊びにいらっしゃったことだってあったでしょう?
サト殿を上手に言いくるめたりして・・・」
「ああ、そうだな、そうだったよ。」
「チャヌスも同じですわ。
今も、ワタルとふたりでお父様を待っていますわ。
手習いが終わったら、凧揚げをする約束だとか?
あら、もう、そんな時間はないかしら?」
「城の文官どもは待たせておけばよいが、ワタルもか?
10歳にもなって、凧揚げなんてするのか?
棒術の初稽古はもう終わったのか?」
ワタルに対しては厳しすぎるとわかっていながら、つい強い口調になる。
タシラカはやわらかく返してくる。
「ワタルだって、凧揚げくらいして遊んでもいいでしょう?
父上が帰ってこられらって、うれしくて仕方がないんですから。
それに、棒術の先生は先ほど帰っていかれましたけど、
そろそろもっと手だれの方を探していただきたいとぼやいていましたわ。」
ふむ、とタムトクは苦笑する。
そなた、何でもわかっているのだな、
私が戦場で駆け回っている間に・・。
タシラカの腕の中では、どうやらユナが眠りに落ちたようだった。
タムトクは妻の肩を抱く。
あら・・、とふりかえった彼女の口元に、そっと唇を押し当てていった。
城の文官どもは、もうしばらく待たせておこう。
子供たちは・・、どうするかな・・?
【創作】契丹の王子⑨
明日の夜には帰る、その言葉の通り、その日の深夜、タムトク様は屋敷にもどっていらっしゃいました。
「お帰りなさいませ。」
うきうきと出迎えた私に、タムトク様は、ああ、と無愛想にうなずきましたが、そのまま私の前を素通りして歩いて行ってしまいました。
ちょうど眠い目をこすりながら起きだしてきたワタルが、戸惑ったようにこちらを見たので、私もちょっとあわてました。
もしかしたら、母上様のことでお怒りなのかしら?
そんなことがちらりと頭をかすめましたけど、すぐに、もしかしたら・・と思いました。
ちょっと照れていらっしゃるのかもしれないと・・。
タムトク様を襲った少年が処刑を免れて軽い刑に処せられたと私が知ったのは、お帰りになる少し前のことでした。
様子を見に行かせた警護兵が、側近の方をつかまえて直接聞いてきたというのです。
『それがですね、タムトク様ご自身も処刑には反対だとおっしゃっていたとか。
いえいえ、なんでも、審議の始まった一昨日からずっと少年をかばわれていたとのことです。
契丹がらみとなるといつも厳しいお顔をされるのに、って、みなさん、不思議がっているようですよ。』
その話を聞いて、私はうれしさが体中に広がっていくような気持ちになりました。
でも、すぐに、はっとしました。
審議の始まった最初のときからその少年をかばっていたということは、
私があんなことを言ったために、タムトク様のお気持ちが変わったのではないということなのです。
そうなんです、最初から、タムトク様も私と同じことを考えていらしたのです。
いいえ、私なんかよりももっと深く広く、
ワタルやチャヌス様のことだけじゃなくて、
亡くなった母上様のこと、それからもちろんこの国のことや民のことなども・・・。
考えてみたら、タムトク様って、もともとそういう方ですもの。
大きくて、あたたかで、やさしくて・・・。
そして、亡くなられた母上様にまつわる『内なるトゲ』も抜けたということなのでしょう。
そう思ったら、本当にうれしくて、うれしくて・・・。
いいえ、
じゃあ、どうして昨日は恐ろしい顔であんなことをおっしゃったの?なんて思いませんでしたわ。
だって、男の方って、そういうところがあるでしょう?
これは内緒ですけどね、タムトク様も、そんな、ちょっとかわいらしいと思うようなところがありました。
それは、母上様が亡くなったのはご自分が幼かったせいだと、
そんなふうに思っていらしたことと関係があるかもしれません。
母上様を守るのはご自分の使命だと、幼いころから思っていらしたようなのです。
そして、王様となった今でも・・・。
そういえば、ワタルもタムトク様に似ているところがありますわ。
倭にいたころから、ワタルは、母親である私を守ろうと、せいいっぱい背伸びをしようとするところがありました。
そんな息子をもった母親がどう思うか、もうおわかりでしょう?
うれしい反面、いつもはらはらしてばかりでしたわ。
だから・・、
そんなワタルを見ている私にはわかります、
もしも、母上様が今のタムトク様をご覧になったら、
どんなにうれしく、そして誇らしく思われたかと!
そして、そんな、大きな魂とかわいらしい部分を併せ持っている男の方って、
私、好きですわ・・。
あら、話が横道にそれましたわね。
ともかく、そのときタムトク様は、私に対していかにもそっけないという態度をとっていらっしゃいました。
でも、私は平気でした。
タムトク様の中に刺さっていたトゲが抜けたのだと思うと、もうそれだけで、本当に私はうれしかったのです。
ちょっと心配そうなワタルに、困ったお父上ねと目を丸くして見せてから、
私は、前を歩いていくタムトク様のあとを小走りについていこうとしました。
と、タムトク様は、突然そこで立ち止まりました。
「タシラカ!」
そう、まっすぐ前を向いたまま、いきなり声をかけたのです。
「走ってはならぬ。」
さも重大なことのように、しかも、こちらの方など目もくれずに、そんなことをおっしゃるのです。
私は笑いをこらえて、はい、と答えました。
と、タシラカ・・、今度はため息をつくようにおっしゃって・・。
くるりとふり向いたタムトク様は、ちょっと恥ずかしそうな顔をしていました。
タムトク様は、そのお顔のまま、そばで見上げているワタルの頭を大きな手のひらでなでると、
私に向かっておっしゃいました。
「そなた、起きていてもよいのか?
こんな夜更けまで・・。
お腹の子に障るではないか?」
「はい。
さっきまで休んでいましたの。
お帰りになると聞きましたので、
あわてて起きだしてきたんです。」
そんなことを話しているうちに、私の「にっこり」は、つい大きくなってしまいました。
タムトク様は、まぶしそうな顔をされて、
「・・・無理をするな。」
ぶっきらぼうにそう言い捨てて、そのまま歩いて行ってしまおうとなさいました。
でも、その左手には、いつのまにか、ワタルの小さな右手がしっかりと握られていて・・。
私は、はい、と短く返事をしましたが、つい、その中にうきうきしたものが入ってしまったようでした。
タムトク様はぴたりと足を止めると、向こうを向いたまま、ちょっと硬い口調でおっしゃいました。
「タシラカ」
「はい。」
「あの少年のことだが・・、強制労働になった。」
「はい。」
「正当な審議の結果だ。
そなたのためではない。」
「はい。」
「ワタルもよいな?
仕返しなど、無用だ!」
仕返し?と、その言葉が、私の頭の中ではぐるぐると回りましたが、
そんな私になど関係ないとばかりに、ワタルは、急いでこくんとうなずきました。
何かしら?と思いつつ、私はまた別の思いで、その複雑な表情を見つめました。
数日前におこったこの事件について、ワタルはどのように思ったのでしょう。
あとで聞いた話では、ワタルは自分の父親が襲われたということを聞いて、一番にその場に駆けつけてきたというのです。
倭でもいろいろなことがありましたけど、そのたびごとに、
『母上、だいじょうぶ?けがはない?』
そんなことを、ワタルは何度も何度も口にしていたのです。
そんなワタルが、その事件のことを私にひとことも話そうとしないのは、
小さな身体で、大きすぎる衝撃を必死に受け止めようとしていたのかもしれません。
考えてみれば、まだ10歳なのです。
そうでなくても、高句麗王の息子としてお城の中ではいやおうなしに注目され、いろんなことがあるでしょうに。
母親である私が、知らないことだって・・・。
今回のことだって、そう・・・。
私はちょっと落ち着かない気持ちになりました。
ワタルは、これからどんな道を行くのだろうと・・。
タムトク様の母上様のお気持ちがほんの少しわかったような気がして・・・。
と、タムトク様が、再び私の方をふり返りました。
おいで・・、と差し出された右手に、私も右手を差し伸べました。
あたかかい大きな手のひらの感触、
私を見つめる切れ長の澄んだ瞳・・・。
その向こうに、ワタルの笑顔。
「ワタル、冬が来るころ、そなたに弟か妹ができる。」
「チャヌスみたいな?」
ワタルのけげんそうな顔。
「ああ、そうだ。
チャヌスみたいな赤子だ。
そなたは兄だ。
やさしくしてやるんだぞ。」
「はい!」
急に引き締まった顔になったワタルに、タムトク様はやさしい笑みを浮かべました。
「今夜は、三人で寝よう。」
まあ、三人で・・、と反射的ににっこりしてしまってから、だいじょうぶかしらと、私は後ろをふりかえりました。
侍女頭のウネがあわてて侍女たちに、夜具をあちらに運ぶよう小声で指示しているのが見えて・・・。
私はくすくすと笑いながら、タムトク様を見上げました。
「なんだ?」
「・・なんでもありませんわ。」
そう、なんでもないことです。
ふつうの、男と女の、ふつうのしあわせな生活。
うれしいこと、つらいこと、苦しいこと、
すべてのことを、
ふたりでわかちあっていくのだと・・・。
はい、その日の出来事は、これでおしまいですわ。
全部お話しましたもの。
え?
そのあとのことがあるでしょうって?
いいえ、ご想像のようなことは、その夜は何もございませんでした。
何よりも、ワタルがいっしょでしたもの。
それに、私の体調がまだ不安定なままでしたから、
やさしいタムトク様は、無理なことはなにひとつなさいませんでしたわ。
ただ、そうですわね、ひとつだけお話することがあるとしたら、
ワタルがぐっすり眠り込んだあとのことでございます。
タムトク様は、まだほとんどふくらんでいない私のお腹に手をあてられました。
「不思議だ・・・」
「そうですか?」
「そなたは何とも思わないのか?
・・・そなたと私の創り出した生命がここにあるのだぞ。」
「はい・・。
そこに眠り込んでいる命もありますわ。」
う~む、とタムトク様は、ワタルの無邪気な寝顔を見つめました。
「ふたりで命を創り出せるように・・、
そのように、タムトク様も、私も創られているのでしょう?」
「そうだな、タシラカ、
そなたと私は、そう創られているのだ、
そして、たぶん、それはずっと以前から決まっていたことなのだ。
そして、それを・・・・」
タムトク様はそのあとで、何か母上様のことを口にされたように思いました。
でも、その声はすごく小さくて・・。
ただ、私は・・・、
私は、タムトク様の、母上様への思いが、
そして、母上様の、タムトク様への思いが、
そのとき初めてはっきりとわかったような気がしたのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
できるだけそなたの側にいたいのだ、そんなことを言ったのにもかかわらず、それから1月後、
タムトクは異民族との戦いに出陣していった。
月満ちて、その年の冬、初雪の降る日に、タシラカは女の子を産んだ。
戦陣にあったタムトクが初めて娘をその腕に抱くことができたのは、それから10日の後のことだった。
ユナと名づけられた幼い女の子は、母譲りの大きな黒い瞳と、父に似た意志の強そうな口元を持っていた。
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☆『タムトクの恋』は一応ここで終了したいと思います。ここらで一区切りかなと思いますので。
ただ、また、むくむくとその気になったら、ゲリラ的に書くかもしれませんが、そのときはまた読んでくださいね。
☆このあと、『ホテリアー』に戻るようにしたいと思います。あちらはどうなってるんだという声をいただいているので・・。
☆少しの間だと思いますが、これから留守にします。
ちょっと大変な生活に突入しそうなので、その間、妄想にふけって新しいお話の準備をしたいと思います。
では、みなさん、時節柄、お体に気をつけてくださいね。
【創作】契丹の王子⑧
☆一週間に一度は・・、なんて書きましたが、思いのほか筆(?)が進みました。
思い切ってアップしますね。
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『王に危害を加えようとした罪は重大だが、若年ということを勘案して特に罪一等を許し、
強制労働3年に処することとする・・』
審議が終わり、採決がくだされたのは、あくる日の夜になってからだった。
サトは立ち上がって、王の方をふり返った。
満足する結果だったらしく、ほっとした顔をしている。
審議が紛糾したのは、例の契丹の少年に対し、厳罰でのぞむと思われていた王が意外にも寛容な姿勢を見せたからだった。
『契丹』がからんでくると暴走しかねない王を戒めなければならない、そう思っていたサトにも、ちょっとした驚きだった。
サトでさえそうなのだから、勝ち組にのろうと最初から少年を糾弾していた一派は腰砕け状態になった。
王がそうおっしゃるのなら、寛大なお心を見せるのも時にはよいかもしれませんな、
などと多くはこれに迎合する姿勢を見せたが、
法務官僚の筆頭ハン・スジムなどは、これに激しく反発した。
少年の行為は王に対する明確な反逆のあらわれであり、ひいてはわが高句麗に対する暴力行為である、これを放置しておけば・・・、
などと、ほとんどの者には理解不能な理屈を並べ立てた。
もっとも、スジムの言いたいことはわかっていた。
王の弱腰とも見えるような姿勢の裏には、寵愛する倭のタシラカの意思が働いているのではないかということだ。
すでに、前日の王と倭の側室との会話は、扉の外に立つ警護兵たちによってごく一部の者たちに伝えられていた。
『タシラカ様が王に何か嘆願をしたらしい、それはどうも今回の審議にかかわりのかることで、そのために、王がひどくお怒りになられたそうな。』
この不確かな情報は、城内の人々を少なからず動揺させた。
今回の審議について、王の態度がいつもと微妙に違うと思っていたら、
どうも、その裏には倭のお妃の意向があったらしい、というのである。
慈悲の心は歓迎すべきもので、タシラカ妃の言動が事実だとすると、これはある種の『美談』だということになるが、コトはそれほど単純ではなかった。
古来、女人が、特に王の妃が、政に口をさしはさむのを禁忌とする風潮があるのも、また事実なのであった。
現に、ハン家のスジムなどは、法をつかさどる王が寵妃のひとことによって刑の軽重を決定したとするならば、これは重大なことだといいたいのである。
実のところ、そこにはハン家の人々の思惑が大きく影響していたのだった。
前日の昼ごろ、タシラカの『ご懐妊』が発表されたからである。
せっかくハン家出身の正妃スヨンに正当な嫡子が生まれたというのに、
ここに来てまた倭のタシラカに大きく水をあけられては・・、というわけである。
『・・王のお胤ではないのでは?計算が合わぬ!』
『そうだ、王は、つい先ごろまでずっと戦陣におられたのだからな!』
そんな驚くようなカゲ口まで飛び出した。
が、すぐに、興味深い、だが、彼らにとって不都合な真実が次々に伝えられた。
ひとつは、あの時の子だな、と即座にタムトク王が自ら認めたということ、
それから、和平協定が結ばれるやいなや、王はわずかな手勢を率いて倭のお方の元にお帰りになられたのだという側近たちの話である。
となると、あとはタシラカとワタルの発言力が強まることへの危機感とやっかみもあって、
何でもいいから足を引っ張ってやれという空気になったのだった。
もちろん、足を引っ張る相手は王ではない、・・・そんな恐ろしいことは誰もできるはずもない。
そう、それは、明らかに側室、倭のタシラカである。
まるで、言いがかりだと、サトは思った。
それもこれも、正妃スヨンが気鬱のような状態のまま、はかばかしい回復を見せないからなのだ。
このままでは実質上の正妃は倭のタシラカということになり、
王の後継も、10歳という年齢ながら、その素質十分と目されるワタルに決まりそうな気配なのだった。
アカネなどは、当然よ、と大きな腹を抱えて歓声を上げそうだが、サトは少々複雑な気持ちだった。
ふつうの男として迎えに来てほしい・・、そう言って10年前別れを告げたタシラカ。
タムトクも、できればタシラカの願いをかなえてやりたいに違いなかった。
だが、高句麗王という立場からは、国のことをまず第一に考えなければならず、
となれば、当然、かの『龍のしるし』を持つワタルの力を埋もれさせたままにするわけにもいかなかった。
まあ、そのあたりが王のジレンマなのだと、サトは、文官の作成した書類を前に、王印を自ら手にしているタムトクをながめた。
やがてすべての手続きが終わったのか、タムトクが顔を上げてこちらをながめた。
サトと目が合い、にっこりと笑う。
それから、奥の間についてくるよう目配せを送ってきた。
このあたり、さすが長年仕えた主従ならではのタイミングである。
サトは少しばかり誇らしい気持ちで、王に従った。
「終わったぞ。」
はい、とサトがうなずく。
「では、すぐにでもお帰りに?・・・飛ぶように?」
「飛ぶように、帰りたいが・・。」
少しばかり歯切れが悪くなる。
サトは笑みを浮かべた。
「タシラカ様がお喜びでしょう。」
タムトクはひとつうなずいたが、唇を引き結ぶと、サト、と真剣な顔で言った。
「こたびの裁決は、タシラカには関係のないことだ。」
「はい。
わかっています。
王は一昨日審議が始まってから、ずっと同じ姿勢を貫いておられました。
年端もゆかない者を、激情にかられて処罰しても意味がないと・・。」
うなずいたタムトクに、サトは続けた。
「適切な、正しいご判断だと思いました。
ただ、とりわけ寛大なご判断となった理由を、お聞きしてもいいですか?」
ふふ・・、と、タムトクはうすい笑みを浮かべた。
「ワタルだ。」
ワタル様?とサトは反芻した。
『タシラカ様』ではないのかと・・。
「タシラカではない。
あのとき、・・あの事件の起こったときのことだ、
ワタルが真っ先に駆け寄ってきて、こう言ったのだ、
父上に何かあったら、俺が必ず仕返します!とな。」
タムトクはうつむいて続ける。
「あの目は・・、
ワタルの、あのまっすぐな目は、私には恐ろしかった。」
恐ろしかったという王の言葉に少なからず驚きながら、ああ、とサトも思った。
サトもあの事件のすぐあとに、その場に駆けつけたのだった。
警護兵たちにがんじがらめにされた少年、それから少し離れて立つ王、
周辺は側近たちや兵たちの怒号が飛び交い、かなり混乱した雰囲気だった。
だが、そんなことよりも、そこにすくっと立ちはだかっているワタルの小さな姿がひどく印象的だったのだ。
水のように落ち着きはらって何事もなかったかのようにふるまっている王と、
取り押さえられている少年を、鋭い眼光むき出しのままにらみつけているワタル。
そうか、あのとき、ワタル様が、そのようなことを王に・・。
「さすが、タムトク様のお子です、
頼もしいではありませんか!」
サトは笑って言ったが、タムトクは首を横に振った。
「あのときのワタルの目の輝き、あれはまさしく龍のしるしを思わせるものだった。
一触即発といったところだったな。
正直言うと、うれしくもあった。
その内側に同じものを持ち、おのれの意思を引き継いでくれる息子がそこにいる、
そう思うだけで、ああ、私も父親になったのだなと、そう思ったからだ。
が、喜んでばかりいられない。」
「・・・龍を制御する方法を学ばせねばならないと?
あなたのように?」
タムトクは静かにうなずいた。
「若い龍は、時によっては周囲の者たちにとって脅威となる。
・・・すべてのものを焼き尽くすこともある。」
タムトクの口調にほろ苦いものが入り混じる。
サトは、タムトクの言いたいことがよくわかった。
龍のしるし、
王たる者の力の証。
亡き父王がそのために身を滅ぼし、国を危うくし・・・、
また高句麗王となったタムトクも、この若さでありながら、思いのままに国を統率し、
民の敬愛を一身に集め、軍を率い、敵を打ち破り・・・、
そして、亡くなった母后のために、激情のままに殺戮をほしいままにし・・・。
母后、それから敵と見なした契丹王のことを、タムトクは何も語ろうとしない。
が、ほかの者はいざ知らず、そばに仕えているサトにはわかる、
それが、タムトクの内側のどこかにあるのだということを。
そう、奪われた母への思いとともに!
「それで、もはや禍根は残すまいと、そうお考えになられたのですね。
王としてだけでなく、父として・・?」
タムトクの口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「そうだ、王としてだけでなく、父として!
あらゆる意味で、恨みをワタルに残してはならぬ。
・・私も、ふつうの父親だ。
ふん、『ふつう』とは、なにもタシラカだけの言葉ではないぞ。
私も、いろいろと思うことがあるのだ。」
タムトクは続ける。
「・・私はワタルをどう扱っていいのか、わからなくなることがあった。
いや、かわいくないわけではない、
私そっくりの、血を分けた息子だ。
だが、赤子のころからずっとその成長を見ているわけではない、
いきなり現れた不思議な何者かのように感じることもある。
それでも、
にこにこと、ちちうえ、ちちうえ、と慕ってくれる。」
タムトクは気恥ずかしそうに、ちらりとサトを見た。
「サト、いずれそなたもわかるだろうが、
女人と違って、男というものは一足飛びに親になれるわけではないのだと思う。
生まれ出た子の泣き顔も、笑顔も、しかめつらもこの目で見て、
やわらかな頬をつついたり、頭をなでたり、大声で叱ったり、
轡を並べて馬を駆けさせたり、
剣術の相手になってやったり、
小難しい論語をみてやったり、
いろいろなことをいっしょに考えながら、
少しずつ父親になるのだ、たぶん。
・・なのに、私とワタルには決定的に欠けている数年間があった。」
そうだろう?というように、サトに同意を求める。
「だからこそ、こたびのことで、
・・そうだ、あの少年のことで苦い思いを二人で共有したぶんだけ、
少しだけだが、本当の意味で、私もワタルの父親になれたような気がする。」
タムトクの率直な物言いに、サトは笑みを浮かべた。
「ならば、そのとき、タシラカ様にそのことを直接お伝えすればよかったのでは?
お子に対するおふたりの思いは同じように思えますが・・・。」
「ははは・・・・、
そのつもりだったのだ。
が、できなかった。
タシラカに先を越されたからな。
その話を、彼女に続けさせるわけにはいかなかった。
倭の妃が国の政に口をさしはさんだということになる。」
「確かに。」
そう、王ならば、そんなことは寵愛する側室に許してはならなかった。
なんであれ政に関することで、異国出身の寵妃の願いごとを聞き届けてやったなどということになれば、苦しい立場に立たされるのは王ではなく、当の妃の方だからだ。
「タシラカをここに連れてくるときに、私は約束したのだ、
そなたとワタルは、この私が必ず守ると・・・。
まして、今回のことは、いわば、私の弱さに端を発しているようなものだ。
このようなことで、愛する者たちを窮地に追いやってどうするのだ!」
サトはうなずいたが、勇気を出して、もう一歩進んでみることにした。
「それで、タシラカ様の嘆願をはねつけてお怒りになってみせたと、
そういうわけですね?」
タムトクはこちらに顔を向けると、ちょっと恥ずかしそうな、
それでいて憂いを含んだ笑みを浮かべた。
「それは、・・怒りにかられそうになった理由は、
厳密にいうとそうではない、サト。
そのようなりっぱなものばかりではないのだ。
あまり言いたくはないが・・・・。」
タムトクはためらうように言葉を切ってから、低い声で続けた。
「さっき、王としてでなく、父として・・などと私は言ったが、
実は、もうひとつあるのだ。
・・・幸い薄いひとりの女人の息子として、だ。」
「タムトク・・さま・・」
サトは、からからになった喉を振り絞るようにして、その名を呼んだ。
「何も言うな、サト。
わかっているのだ。
・・母上のことを、タシラカに言われて、胸がひどく痛かった。
とっさに、そなたに何がわかる、そう思ってしまった。
が、あのタシラカが必死になって訴えようとしたことだ、
私を傷つけようとしたのではない、
むしろ、私を救おうとしていたのだ。
・・・そうだ、そんなことはわかっているのだ、
夫婦だからな。」
タムトクは静かな、だが、熱いまなざしで言った。
「怒りにかられている場合ではない、
私も決着をつける時なのだ。」
【創作】契丹の王子⑦
用意された馬車で屋敷に帰った私は、周囲から言われるがままに、横になりました。
やっぱり、疲れていたようです。
すでに屋敷の者たちは、懐妊のことを知らされているらしく、誰もかれもが、おめでとうございます、などと、私ににこにこ笑いかける一方、何か食べたいものはあるか、気分は悪くないか、などと、あれこれと気遣っているようでした。
また、長老家をはじめ日頃懇意にしているひとたちや出入りの商人たちから、早くもお祝いと称して使者がやってきたりしましたので、その応対に、侍女たちは追われているようでした。
そんな気ぜわしい空気がただよう中で、お城から届いたという豪華な夜具にくるまれたまま、私はひとり考えていました。
あんなことをいわなければよかったと・・・。
いいえ、あの少年の命を助けてくださいとタムトク様にお願いしたことじゃありません。
母上様のことを口にしてしまったことでございます。
あの方の、母上様への思いは、十分わかっているつもりでいました。
母上様が契丹の国にとらわれたまま亡くなられたことも、そのためにタムトク様が幼い日々をどんな思いで過ごし、王となってからどんな形で復讐を果たされたかについても、直接あの方からお聞きしていましたから。
でも、それほど大きなものをあの方の中に残しているとは、正直いって思っていませんでした。
タムトク様は、強く大きく、いつも堂々としていて、この国の誰からも愛されていらっしゃいました。
そして、その広い胸で、周囲をあたたかく包んでくださる方でした。
そんな方が、内側に抱えていた痛み・・・。
王として堂々とふるまう中で、隠し通していた心のトゲ。
いいえ、それは違いますわね。
サト殿やジャン将軍ら、ごく近くに仕える方々にはわかっていたことでした。
そして私も、本当は気がついていたのでしょう、
ただ、ちゃんと見ようとしなかっただけ・・。
あの方のやさしさ、大きさに、いつまでも甘えていたかったのかもしれません。
たとえば、もうご存知でしょうけど、私は、倭にいたころ、幼いワタルと負傷したサト殿を守るためとはいえ、侵入してきた賊の一人の命を奪ってしまったことがありました。
それはあなたのせいではない、いたしかたないことだ、誰もがそう言いました。
でも、私は、血で汚れたこの手が恐ろしくて・・・。
タムトク様に再会したとき、私は穢れた自分があの方にはふさわしくないような気がしていました。
そんな私を、タムトク様はゆったりと受け止めてくださったのでした。
『自分と愛する者たちの命を守ることは罪でもなんでもない、
・・・そなたが罪だと感じているものなど、
私がいくらでも背負ってやる。
そなたの罪も、それからそなたも、すべて私のものだ。』
そんな言葉を耳にしたとき、この方はなんという方かと思いました。
そして、そんな方とめぐり会えたことに、私は素直に感謝しました。
タムトク様とは、確かにそれだけの広がり、大きさを持った方でした。
なのに、それだけの大きさを持った内なる部分に、突き刺さっていた小さなトゲ、ひそかに息づいていた痛み・・・。
そして、それに気がついていたはずなのに、小ざかしい言葉で、その傷口を広げてしまった私。
あの方の悲しみ、孤独、その深さをちゃんと見ようともしないままに・・。
そして、そのことは、直接あの少年の運命にかかわってくることになるのでした。
タムトク様は冷静で中立な方でしたが、あの冷ややかな、それでいて悲しい瞳の色から考えると、もしかしたらあの少年に厳しい処断を下されるかもしれない・・。
でも、それは、あの少年だけに向けられるものではないのです。
ワタルもチャヌス様もこの生まれてくるお子も、『そのこと』を引きずっていくことになるのですから。
そして、それでは、
なによりも、あの方の中に刺さっているトゲだって、
いつまでも痛いままなのに!
そんなふうに思い悩んでいたとき、部屋にやってきたのは、アカネ殿に代わって屋敷の中を切り盛りするようになった、長老家出身の侍女頭、ウネでした。
ウネは、『タムトク様からのお文』を手にしていました。
言い忘れましたが、私は高句麗に来てから漢という国の文字を学んでいました。
当時こちらでも、文字を自在に操ることのできるのは、お城の高等文官か一部の貴族の方々だけでした。
漢の文化を取り入れることに熱心な長老家は別として、ほとんどの女人は文字などまるで別世界のことでございました。
でも私は、それが、離れて生活することの多い私たちを結ぶものになりそうな気がしましたので、お城の中で、ワタルたちといっしょに教えていただくことにしたのです。
難しくはなかったかって?
それは、もちろんたいへんでしたわ。
ワタルにもすぐにおいていかれましたし・・。
私も必死に勉強したんですよ。
タムトク様も、折をみては、私の手習いを見てくださいましたし・・。
・・うふふ、それはとても楽しかったですわ。
あの方は留学した高等文官顔負けの知識を持っていらっしゃいましたから、私など赤子のようなものでしたでしょうけど、ひとつずつ、それは熱心に教えてくださいましたの。
『そなたは、見込みがあるようだ。』
そんなふうに、にこにことほめてくださって・・。
ええ、そうです、あの方が教えてくださったから、
私のような者でも、どうにかこうにか片言ながら漢の文字も読めるようになったんです。
でも、ワタルにはとてもかないませんでした。
若さというのは恐ろしいものですね。
あの水を吸い込むような吸収力に、わが子ながら、私はひそかに舌をまきました。
ワタルのことはいずれお話するとして・・、そうそう、タムトク様からの文のことです。
そこには、『愛』『慈』『体』『子』『誠』など、私の読めそうな漢の文字が並んでいました。
あの方のやさしい気持ちが痛いほど感じられて、私は涙ぐんでしまいました。
でも、あの少年のことは、ひとことも触れられていないようでしたけれど・・・。
長老家で教育を受けたウネは、興味深々と言った顔で言いました。
「・・・タムトク様、何と書いてこられたんです?」
「秘密です!」
私がすまして言いますと、にっと笑って、
「はいはい、秘密ですね、わかっておりますよ、
私だって、タムトク様のお文をあれこれと詮索したくはございません。
でもね、ちょっと気になる話を小耳にはさんだものですから。」
気になる話?
怪訝な顔の私に、ウネは、はい、と言って続けたのです。
「・・詳しいことは存じません。
ただ、タムトク様がお方様のことをひどくお怒りで、
そのために、こんなおめでたい日だというのに、お屋敷にお帰りにならないんだって・・。」
まあ!
なんといっていいかわからない私に、ウネは左手をひらひらさせて続けました。
「だから、私は、そんなことあるはずないって、そう言ったんですよ。
でも、出陣されているのならともかく、お城にいらっしゃるのにこちらにお見えにならないっていうのは、どうしてかしらってみな申しますので・・・。
何かおかしな噂でもたったら、また側室をお薦めしたらどうかなんて、
妙なことを企てる輩も出てくるかもしれないじゃないですか!
そんなことになってもつまらないと思いましたので、あとでお方様にお聞きしてみようかと・・・」
「・・タムトク様は、政務でお忙しいのよ。」
「お方さま、仕事が忙しいっていうのはですね、昔から殿方がよく使う手なんですよ。
いかにお忙しいって言ってもですねえ、こんな日は何があろうとも、
こちらにおいでになってお祝いのお膳を囲むっていうのがふつうなんでございますからね。」
私は思わず笑ってしまいました。
『ふつう』という言葉がおかしかったからです。
「タムトク様は、ふつうの方じゃないわ。残念ですけど・・・。」
「そ、そうではございますけど・・。」
タムトク様と私にとって『ふつう』という言葉は、特別の意味を持っているのです。
でも、そんなことを、彼女が知っているはずもありません。
それでも、ウネは私の手の中の文を見て、にっこり笑って言いました。
「でも、このような文をくださるなんて、私の取り越し苦労でしたわ。
お祝いのお膳は、明日でもようございましょう!
さっそく、お城に使いを出されて、お待ち申し上げておりますって、
タムトク様にお伝えしてはいかがですか?」
ウネはそこで勢いこんで、得意の長いお説教を始めました。
「お方様、いつも申しあげていますように、なんだかんだと言っても、殿方は素直でしおらしい女人がお好きなんですわ。
賢いお方よりも、むしろ少しぼ~っとしているくらいのほうが、時には好ましいと思うものなんです。
お城でタムトク様との間にどんなやりとりがあったのか存じませんけど、
せっかくタムトク様が文などくださったのですから、
ここは素直にお詫びを申し上げてですね、
お慕いしておりますと、そうおっしゃったほうが・・・」
【創作】契丹の王子⑥
考えてみれば、ジャン将軍とは、タムトク様と初めてお会いした百済王都以来のつき合いということになります。
サト殿と同じですわね。
最初のころは、タムトク様の前に突然現れた私を、冷ややかな目で見ていましたけど、だんだんやさしい言葉をかけてくれるようになりました。
とりわけ、ワタルに対しては、ヒマをみつけては騎馬や武術の手ほどきをしようとするほどの入れ込みようで、指導係のシギョンが気をもむほどでした。
だからというわけでもないのでしょうが、こういうときは、なぜかいつも一番に駆けつけてくるのです。
その日も、近くの草原で歩兵訓練を指揮していたとのことでした。
城の中庭で教練中のワタルにもまだ知らせていないうちのことでしたから、本当にどこからどう情報を仕入れるのでしょう。
そして、そんな将軍につられるように、あの若い側近や私がつれてきた侍女たち、それから警護兵たちやら近くにいた下働きの者たちまで20人ばかりが客間になだれこんできたのです。
それほど広くない部屋は、ちょっとしたお祭り騒ぎのようになってしまいました。
「いや、まったく、タシラカ様、お手柄でございましたな!」
「将軍、この手柄はタシラカだけのものではない、
私の手柄でもあるのだ。」
「ああ、それは失礼をば!
王のご協力なくしては、お子はできませんからな!」
タムトク様のぬけぬけとした言葉に、ジャン将軍が頭を下げ、その場にいた人たちがどっと笑いました。
タムトク様は、王というご身分でありながら、こんなときすっとその場の人々の輪に入ることのできる方でした。
でも、周囲の人々から見れば、『王』というと、何となく畏れ多い、遠慮のようなものがあったのも事実でしょう。
それを、ジャン将軍はそのきわどい話によって見事なまでに埋めてしまうのでした。
タムトク様も、そこに集まった人たちも、みな楽しそうにしていました。
でも、私は寝台の上に座ったまま、将軍の話をただ黙って聞いていました。
いいえ、きわどい冗談についていけなかったわけじゃありません。
高句麗に来てから、タムトク様配下の武将の方々が屋敷に出入りするようになっていましたので、私も、顔が赤くなるような会話も何となく聞き流せるようになっていました。
そなた、耳年増になったのではないかと、タムトク様が苦笑いするほどでしたわ。
でも、そのときは・・・。
それは、妊娠初期ということで、気分があまりよくなかったということもあったでしょう。
薬師の先生が薬草を煎じてくれたので、胸のむかむかした感じはおさまっていたのですけど、何となく身体がだるいようなふわふわしたものがまだ残っていたのです。
でも、それだけではありませんでした。
そうです、ひどく大切なことを忘れているような気がしてしかたがなかったからです・・・。
「いやあ~、正直言うと、このわしはちょっと心配しておったんですよ。
これだけ仲がいいのに、この10年間でワタル様おひとりで、その後お子ができないっていうのはどうしたものだろうかと・・・。」
「それは、ちょっとしたきっかけの問題だ、将軍。
私とタシラカが悪いわけではない・・・。」
再び、大きな笑い声。
私は、タムトク様と将軍のやりとりを聞くともなしに聞きながら、ひとり考え事をしていました。
ちょっとしたきっかけの問題・・・、
出会い、生まれ出る命・・、
ワタルもチャヌス様も、契丹の少年も、それから、タムトク様も・・。
だから・・・
いつのまにか、私はひとりまったく別のことを考えていたようでした。
依然としてジャン将軍の大きな声が続いていましたけど、話は別の方向に進んでいっていました。
「・・この間も、長老屋敷に出かけたときに、わしはジョフン相手にそんなグチをこぼしたんですわい。
しか~しながら、さすが、天下無敵の長老家のジョフン、
片目をこんなふうにつぶって笑って言いましたぞ、
それはタムトク様のせいだわよ、ご寵愛が過ぎるのもよくないって、わたしゃ、一度ご忠告しようと思っているんだわよぉ、なんてね。」
「ジョフンがそんなことを?」
はははは・・・・・、タムトク様の愉快そうな笑い声!
客間の中が笑い声に包まれましたけど、私はひとりぼんやりとしていたようです。
「タシラカ?」
タムトク様が私の顔を心配そうにのぞきこんでいました。
「気分が悪いのか?
顔色があまりよくないようだが・・。」
「いえ、だいじょうぶです。」
ジャン将軍がおろおろと落ち着かない顔になりました。
「こ、これは失礼をば!
うれしさのあまり、つい度が過ぎました、お許しを。」
「いえ、そういうことではありません・・・。」
私は急いでそう言いましたが、そんなことはまったく耳に入らないかのように、薬師の先生はしたり顔でうなずきました。
「やはり、その位にされたほうがいいでしょう。
お体にさわっては・・・。」
「まことに、そのとおりです!
もしも何かあったら、わしは死んでお詫びをせにゃならんところですわい。」
ジャン将軍が頭を下げ、タムトク様もうなずいておっしゃいました。
「屋敷に帰る馬車を用意させる。
・・いや、いつものあの馬車ではだめだ、
揺れの少ないものを選らばなければな。
用意ができるまで、そなたはここでゆっくり休め。
私は急ぎの合議があるゆえ、そろそろ行かねばならないが、
何も心配しなくてよい。
・・・・ああ、それから、タシラカ、今夜は帰れないが、
明日の夕餉には帰れると思う。」
タムトク様は立ち上がり、将軍たちといっしょに出て行こうとされました。
私ははっとしました。
帰れないほどの急ぎの合議・・・・?
それは、もしかしたら?
私は急いで早くも扉の外に出ていらしたタムトク様に声をかけました。
「お待ちください、タムトク様!」
ふり返ったあの方に、私はすがるように続けました。
「あの・・、お話したいことがあります・・。」
ああ、と、あの方は小さく首をかしげて笑みを浮かべました。
「タシラカ、明日の夜ではだめか?急ぎの審議があるのだ。」
明日の夜?・・・それでは遅すぎます、タムトク様、
ぜひとも、その『急ぎの審議』の前に聞いていただきたいことなんですもの・・、
そう思いながらも、私は何と言っていいかわかりませんでした。
と、ジャン将軍は片目をつぶって言いました。
「これは、タムトク王ともあろう方が!
タシラカ様のことで、家来どもをちょっとくらい待たせるなんてことは、
以前はどうってことなかったでしょうが!
サトがよくグチっていましたぞ。
その上、こたびは、めでたいことなんですからな!
大事なお妃の願いごとのひとつくらい、何をさておいても・・・」
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
「なんだ?
珍しいな、そなたがそのようなことを言うなんて・・」
タムトク様は寝台のところまで戻ってくると、私の手をとりました。
「ごめんなさい。」
そうは言ったものの、私はどう切り出していいかと途方にくれていました。
ただ、あの方のお顔を見つめていました。
タムトク様はふっと笑みを浮かべて、私の肩を抱き寄せて・・・、
「タシラカ、心細いのか?
何も心配することはない。
私がついている。
いつもいっしょだ。」
はい、と私はうなずきます。
タムトク様の手が髪をさらさらとなでるのが感じられて・・・、
その心地よさに、いつしか私はうっとりとなっていました。
と、低い声が耳に響いて・・、
「ワタルのときは、そばにいてやれなかった。
それがずっと気にかかっていた。
すまないと思っている。」
タムトク様・・。
私は涙がこぼれそうでした。
あのときは、それでよいと自分で決めたのですもの、
タムトク様、あなたのせいではないわ。
「・・こたびは違う。
北とも南とも、できるだけ面倒な戦にならないよう、ことを進めるつもりだ・・・。
お互いに、戦になどならずに済めばそのほうがいいのだ。
・・なにより、私はそなたの側にいたい。」
わかるな?というように、あの方の唇が額にあてられて、
はいと、私は答えて・・・・、
そうして、私はそのやわらかな感触のやさしさに励まされるように、そのことを口にしたのです。
「・・・お願いしたいことがございます。」
「なんだ?
何かほしいものでもあるのか?」
「いいえ、タムトク様・・、
・・・ワタルはもうすぐ10歳になります、・・・来年は11歳、
チャヌス様はまだ1歳ですけど、すぐに大きくなります。
・・・・これから生まれてくるこの子も・・・。」
「なんだ?
そなた、なにが言いたい?」
こちらを覗き込んだあの方は、早くもちょっと怖い顔をしていました。
「契丹の少年の話を聞きました、あなたを襲ったという・・・。」
そう言い終わったとたんでした、
タシラカ・・、タムトク様は私の肩を引き離すと立ち上がりました。
私は急いでおしまいまで話してしまおうと、あの方を見上げました。
「・・・ワタルとはたった5歳違いです、
まだ、子供ですわ、タムトク様。
私は・・、
私は恐ろしくてたまりません!
ワタルがもう少し大きくなって誰かを憎み、殺そうとしたら、
そう考えただけで!
どうか、あの子たちに憎しみを残さないでくださいませ。
お願いでございます、
どうぞ、あの少年の命をお助けください!」
タムトク様はこわばったお顔のまま、すぐには何も答えませんでした。
だからというわけではなかったのですけど、私はもうひとこと付け加えてしまったのです。
「きっと、・・・・・きっと、亡くなられたお母上様だって、そのように・・・」
「タシラカ!」
もう一度私の名を呼んだその口調は、それまでとはまったく違うものでした。
いいえ、こちらに向けられたその目の光も、私の知らないものでした・・。
「それ以上、話してはならぬ!」
そう低い声でうめくように私を封じたのは、確かに、タムトク様の中にいる何か別のものでした。
タムトク様!
私はどきどきしながら、目の前の見知らぬ方を見上げていました。
恐ろしさに震えて、それでも、私は・・と!
でも、次の瞬間、私は気がついてしまったのです、
その見知らぬ方の内側に刺さったままになっているトゲのようなもの、それが血を流しているのだと!
「タムトク様・・・」
と、あの方は何かをこらえるように、一瞬切れ長の両目をぎゅっとつぶり、それから、ふっといつもの皮肉な笑みを浮かべて、おっしゃったのでした。
「今の話は聞かなかったことにする、よいな。
そなたは何も心配しなくてよい、ゆっくり休め。
明日の夜には帰るゆえ。」
それは、確かにいつものタムトク様でしたが、
こちらに向けられたまなざしには、氷のように冷ややかな、それでいて、
何か悲しみとも寂しさともつかないものがあって・・・。
ぼうぜんとしている私に、もう一度かたい笑みを浮かべると、あの方はさっと身を翻して出て行ってしまったのでした。
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