2008/02/13 00:47
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

夜明け

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『太王四神記 第10話』はタムドクと引き裂かれてしまった悲しいキハが印象的でした。「私じゃない!」って叫べなかったキハ。火天会に阻まれるのはしょうがないとして、せめて言い訳をさせてあげたかったと思います。。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。かわいそうだぁぁぁ。。。

タムドクの父が自殺したことや、タムドクがキハとああまでして別れなければならなかったのはなぜ?。ヤン王が「タムドクがチュシンの王になることを何人をも阻んではいけない」と言っていました。二人はタムドクが王になるために犠牲になったということなのでしょうか。確かに、タムドクは自覚しようと心が動き始めています。

 

久々にユング心理学の本を開き、テサギの登場人物を本に出てくる象徴や心の構造に当てはめて整理してみました。

心の全体がチュシンの国です。中心である自己が何かはまだわかりません。心の表面化したものである自我がタムドクとして考えるとわかりやすいように思いました。本の中にこんな文章があります。

自我は本来それ自身の任意の欲求に際限なくしたがうようにはできていず、全体の心―全体性―の現実化につとめるようにできているとさえ思われる。心の全体の組織に灯をともし、それを意識化し現実化させることに役立つのは自我なのである。

              【河合隼雄 監訳:人間と象徴 下 より】

これは“個性化の過程”という章の最初の方に書かれてます。人間がどのように心を成長させながら生きていくのかを概略というか抽象した言葉なんだと思います。普遍的無意識という誰もが持っている心の奥底にあるものを意識化して表現していくのが自我。様々な葛藤をくりかえしながら「その人」という全体をつくっていくということです。だから、“自我”がタムドクで、“その人の心全体”がチュシンの国になります。

 

本は下記のような文章が続きます。

個性化の過程は、生来の全体性の胚種と、運命による外的な作用との妥協以上のものである。主観的な体験によって、われわれは何らかの超人的な力が、創造的な方法で積極的に介入しているという感じを受ける。

ときとして、秘められた計画にしたがって、無意識が自分を導いていると感じられる。それはあたかも何者かが自分を見ているかのようである。それを私は見ることができないが、それは私を見ている。―たぶん、夢によって私にたいする意見を告げる心のなかの“偉大なる人”なのであろう。

人間は自分の発展に意識的に参加できるということを前提に心は、元来が持っている質に自分ではどうすることものできない力(運命)が影響して変化します。さらにそれ以上の力が加わって成長をするのだと私は解釈しました。

この文章に出てくる“何らかの超人的な力”がテサギでは天の力ということにならないだろうか。

さらに続けると・・・

しかし、この心の中核の創造的で積極的な面は、自我がすべての意図的な、あるいは、願望による目標を捨てて、より深く、より基本的な存在の形態にいたろうとつきとめるときにおいてのみ作用するのである。自我は何らかの計画や目標をももたず、成長への内的な要請に注意深く耳を傾け、身をゆだねることができなければならない。

これからのタムドクを表しているように思えます。自らの欲求を捨て、自らに与えられた存在の意味に身をゆだねようとしていきます。それが自覚であり、自覚することによって天の力が作用していくということではないでしょうか。

 

キハはアニマではないかと以前書きました。タムドクとキハがあんな引き裂かれ方をされなければならなかったのはなんでか考えてみます男性にとってのアニマは母親的存在であり、運命の女性でもあります。本には下記のように述べられています。

男性の心のすべての女性的心理傾向が人格化しされたもので、それは漠然とした感じやムード、予見的な勘、非合理的なものへの感受性、個人に対する愛の能力、自然物への感情、無意識との関係などである。

どうも、このアニマに大きく影響されて支配されると「人生の困難さに立ち向かえなくなる」「男性をセンチメンタリストにしてしまう」ということのようです。確かに、キハはタムドクを保護して困難から遠ざけようとしました。それは自我が成長しないことを意味するのかもしれません。ですから、どうしても離れなければならなかったのでしょう。自我が目覚めるためです。タムドクのため・・・ではなく、ヤン王が言ったようにチュシンの国のためなのかもしれません。

 

アニムスは誰でしょう。支配的に「~すべき」と善悪の判断をはっきりと決めていくのがアニムス。ヨン・ガリョ率いる部族会議かなあとも思いますが、わかりません。

影はホゲ?その資質は自我も持っているが、嫌って否定したいものになるのですが・・・。スジニは何?アニマの一部でキハとは別の部分かしら?火天会と長老は何?・・・

ドラマが進んでいくと考えが変わるかもしれません。来週以降も楽しみですが、登場人物に感情移入すると辛いわあ。

 

今日の写真は、タムドクが目覚めていくということで朝陽に照らされた富士山です。いつものように散歩中に撮影しました。陽がまだ当たらない街に点々としている車のテールランプの赤色が気に入っています。

下記の長い写真は4枚分を合成したものです。ホントは360度ぐるりと撮影しましたが、掲載しても見難いのでやめました。

新しいIXYの変なモード、ワンポイントカラーで撮影したのが下記です。朝焼けの色をポイントにしました。白黒写真でもなく、カラー写真でもなくという色になりました。薄紅色した空と富士は恥ずかしそうに頬を染めているみたいです。同じ場所から同じ構図で撮影しても雰囲気が違ってくるものです。

  

 


2008/02/08 20:52
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

梅花

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『太王四神記 第9話』の最後のタムドクの顔、涙が溜まった目を少しずつ上げていったあの表情に思わず私も流涙((/_<。)。。争いの中に身を起きたくない、大好きなキハとふたりで穏やかに暮らす夢を叶えたいとがんばったのに・・・。父を失い、信じていたキハに裏切られ(と誤解?)、自分のために命をかけてくれた人たちを失い、絶望のどん底の放心状態のタムドク。あまりの衝撃に身体は冷たくなり、心は小さく固まってしまったのではないでしょうか。後戻りできない現実をどう受け止めていいのか混乱もしているのでしょう。

誤解されてしまったキハにも涙です。王を助けてタムトクの元に戻りたかったのに、王を殺したことになってしまいました。なんと痛ましい叫びだったでしょうか。タムドクに誤解した情報が伝わったと知ったら、彼女は何を支えに生きていけばよいのでしょう。全身全霊をささげてもいいと思った好きな人から誤解されるなんて、苦しいに違いありません。哀れです。

ふたりともこれ以上の辛い思いはないという状態になってしまいました。でも、起きてしまった過去は変えられないので、“運命”という言葉に換えて受け入れるしかないのですね。

 

苦しい事実を受け入れて乗り越えようとがんばっている後輩が現在います。予測しえなかったことがおきて、クライアント側の方とうまく関係がつくれなくなってしまったのです。彼が何かをしたからというわけではなく、誰が担当をしていてもきっと同じことはおきたと思います。でも、彼は「自分じゃなかったら結果が違ったかも・・・」という気持ちをもったようです。

諸行無常の世の中、“絶対”という結果はないのではないでしょうか。それは言い方を換えると、当たり前ということはなんと難しいことであるかということです。「1+1=2である」というのは机上のことで、みかん1個+1個で2個になるはずが、腐って食べられなくなって1個しかない・・・ということもあるわけです(変な例えですけど)。

予定または予測と反したことはどんな場合でも起こります。それは一所懸命に生きていれば必ず回避できるというものではありません。起きてしまったらその事実は事実として逃げずに受け止めて、未来を変えていくしかないでしょう。

事実に対して「誰が悪い」と決めることは人の進歩になりません。起きてしまったことを認めて未来を考えることが進歩に繋がります。悪い人が決まったからといって、じゃあどうするがなければ何も変わらないし、特に悪いと言われなかった人は変わらなくてもいいになり、そのままってことですから・・・。

 

私の後輩は歯を食いしばってがんばって対処している・・・と思います。誰が悪いのだということは口にせず、不慮の事実を受け止めていこうと自分に言いきかせていました。反省というと、彼に落ち度があったように思えてしまいますが、そうではなくてプロとして自分の仕事を省みていました。そして、今自分がすべきことは何かを考えています。もちろん、ひとりで背負うには荷が重いので、上司や先輩たちに手伝ってもらいながらですけど。また、相手の気持ちも理解しようと懸命です。

不慮の事実は彼が関わったことでおきたのですから、彼の心は随分と乱れました。私としては事実の収拾よりも彼の心の混乱が気になります。きっと時間の経過とともにうまく歪みは整えられていくでしょうね。それだけの強さはあると思います(たぶん)。そうであってほしいという願いもあります。なんて本当は、今回の経験を糧に彼がどのように成長していくのかが楽しみなんです。

 

いつも「最善を尽くす」し、「完璧」を目指して努力するヨンジュンさん。きっと繰り返す反省のもとに今の彼があるのでしょうね。“bestを出して、常にbetterを求めていく”というのが仕事においてのプロということじゃないかなって私は思います。私は怠け者なんでbestは時々しかでないんですけど・・・``r(^^;)ポリポリ

『四神記 9話』でとんでもない現実を認めなくてはならないタムドク。この四面楚歌の状況からチュシンの王としての自覚がだんだん芽生えてくるのかな。

 

余談ですが、生物の進化は突然変異によるものということを聞いたことがあります。つまり、いつもと違う変化をするものがあったから進化したのだということです。DNAの転写エラーってことかな?

 

立春が過ぎ、湿った寒気が山を越えてくるようになりました。「明日は太平洋側でも雪です」と天気予報では言っていました。春ですね。新しい芽吹きの時期です。芽吹きの影にはアポトーシス(apotosis)があるんです。アポトーシスとはギリシャ語で「枯れた葉や花が落ちること」なのだそうです。こんな受験シーズンに使ってはいけない言葉かもしれませんが・・・。人のような多細胞生物を構成する細胞の死に方の一種でもあります。個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされるコントロールされ、プログラムされた細胞の死のことです。

  

これは紫陽花の葉脈です。職場の建物の脇にありました。そろそろ次の芽が出てきそうです。

左は紫陽花の上にそびえている大木。何の木かわかりませんが、実は高いところの枝に新芽が出ているんです。

太陽光いっぱいの青空に向って、今年も精一杯生命を繰り返すぞと叫んでいるようでした。

見上げたらかっこよかったので撮りました。

上の写真は通勤途中の小さな神社の白梅の花です。天気がよくて、花の白が青空に映え、近所に「春だヨン」ってこっそり知らせているようでした。実はアングルがいまひとつで自分ではちょっと気に入らない。もう一度・・・と思ったらここで電池切れという悲しい事実がおき、これ以上の撮影がでくなくなってしまいました・。・゚゚・(≧◯≦)・゚゚・。・

 

 


2008/01/27 10:47
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

乗鞍の空

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昨日、「太王四神記オリジナルサウンドトラックvol.2」が届きました。vol.1がコンサートのような雰囲気だったのに比べ、こちらはどっぷりOSTって感じですね。それだけにドラマのシーンが頭をよぎります。

vol.1&2にある5つの♪運命♪を並べて聴いてみました。ドラマのテーマが運命なのか、久石氏がドラマを観て浮かんだテーマが運命なのかわかりませんけど、この曲が様々なアレンジで登場するわけですね。実は『四神記 第7話』を見てから、運命ってなんだろうって考えていたんです。

 

“運命”という言葉をいつものように広辞苑で調べると・・・

人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。

人生は天の命(めい)によって支配されているという思想に基づく。

めぐりあわせ。

転じて、将来のなりゆき。

英語だと【fate】【fortune】【destiny】などのようです。

 

私なりに現世的な言葉でいうと、人生の中で自分の意思ではないものに左右されてしまうもののことなのかなあ。ちょうど『四神記 第7話』はタムドク、キハ、ホゲが大人たちの思いというか策略で変化させられていくところでした。

タムドクはヤン王と神官に「おまえはチュシンの王だ」と言われたのに、護衛に「高句麗のために自害してください」と言われ、信じていたキハが朱雀の守護神であったこと、そのキハがホゲをチュシンの王だと言ったということを知ります。また、二人の王候補がいることで高句麗に争いが起きようとしています。辛い立場の3人を見て、チュシンの王ってそんなに大事なんか~~(`□´)!ってなぜか怒ってしまった私です。

タムドクより一歩大人のキハは好きなタムドクと共にその運命に逆らおうと行動を起こしました。でも、火天会の大長老にそれを砕かれちゃうんですね。運命には逆らえないのですか?

 

私ってあんまり占いとか信じないほうなんです。そりゃ、高校生のころは星座占いとか血液型うらないの雑誌を買って、友達とワイワイ騒いでました。20歳くらいのころ、運命は決まっているものだからと言われたことがあるんです。その言葉にカチンときてしまってから、占いを読むこともしなくなりました。

私、決まっている人生なんておかしいと思うんです。何かにぶち当たったときどうしたらよいか考えて選択できる力を持っているのが人間だって思います。決めるのは天じゃないと思うし、運命だから決まっているなんておかしくないですか?人は変化していくものなんだから、努力したことが報われる人生があるし、その反対もあるって思うんです。そうでなければ、一生懸命に生きる意味がなくなってしまいます。

だから、生まれた時から天が決めた運命によって人生は決まってしまうんじゃないと思います。もし運命というものがあるのなら、生きているその環境に適応するために受容していかなくてはならないことをいうのだと思います。困った時の神頼みは自分ではどうしようもないことを受け入れるための方法かもしれません。つまり、しょうがないよとか、そうするしかないよとか、これでいいんだよとか・・・現実に納得することなんだと思います。

 

今週には父は退院できるはずです。今朝、犬の散歩途中、川にかかる橋の上で、「父が家でTVを見て過ごす時間がありますように(-m-)” パンパン」と空に向って神頼みをしてしまいました。

 

今日の上の写真は秋の乗鞍岳で、ちょうど初雪が降った時でした。この写真、10年以上前のプリントをスキャナしたので傷がいっぱいです。下の方から沸いて流れていく雲が池に映って幻想的だったので撮影。人の力ではどうしようもないものとは時間とともに繰り返し変化する自然なのかなあとも思います。

下の写真はその時にお会いし、目が合った雷鳥さんです。すごい速さでハエマツの間を駆け抜け、すぐに見えなくなってしまいました。夏の茶の羽から冬の白い羽に変わりつつあるところのようです。足まで羽毛に覆われているのねえ。

  

そういえば、占いといえばなんですけど・・・、高校卒業したばかりのころ、怪しげな喫茶店で1回だけ手相占いというのをやってもらいました。その時に言われたことはほとんど覚えていないのですが、そのおじさんに「あなたは私のような仕事が向いている」と言われたことだけ印象に残っています。なんじゃ?占い師?結局今の仕事はそれとはずいぶん遠いけどさ~。


2008/01/21 05:17
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

子供

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今夜は『太王四神記』の第7話の放送日。ストーリーが進む前に思っていることを記しておきたいと思いました。先を知ると別のことを考えてしまいそうなので・・・。

 

子タムドクが子キハに「一生懸命戦い方を学べばよい王になれるのか?」と話した場面があります。その時キハは「私はただ 王子様にもっと強く俊敏になってほしいです。もし危険な状況に直面してもケガをせず逃げてほしいのです。」と言います(思います)。

キハはタムドクを見守る母のような存在だなあと思いました。タムドクの母は彼が生まれた時に亡くなってしまったのでしょ。彼は母がいなくて寂しくはなかったのでしょうか。父や周囲の人々が彼を慈しんで養育したから大丈夫だったのかな。また、母子関係で築かれる大事な心の成長がとてもうまくいったんだなと、勤勉でがんばりやで素直なタムドクから感じます。

タムドクは5つ年上のキハにはやさしい母性を感じるのではないでしょうか?上記の場面の最後にタムドクは「いつも振り向けば見えるところにいてほしい」ということを言っています。タムドクにとってのアニマがキハなのかなと思います。男らしくなるということは自身の中のアニマを排除して他に求めていくことです。また、大人になった時にそのアニマに似た人を異性として意識していきます。母に似た女性を好きになるということですが、それはユングの普遍的無意識の一つです。運命という言葉がそういうことなのかもしれません。

  

 

人は生涯にわたって心と身体は変化していく存在であり、その変化を発達と言うそうです。発達の節目にはその時期に応じた課題があり、達成させながら自己(self)を統合させていくのだそうです。

タムドクがキハに「一生懸命戦い方を学べば・・・」と言った時期は、様々なことを学んで喜びを得ていく、現在でいう小学生くらいでしょうか。仲間と共に社会にある法則を学んで能力を獲得し、その力によって何かを成し遂げていけるようになります。それは、自らの力でがんばって成功する(承認される)と有能感を得られるということです。もしできなかったりすると劣等感をもつとのこと。つまり、喜びには忍耐や苦痛も伴うことを学ぶ時期のようです。養育者が達成可能で価値観をもてるような課題を与えて評価・承認していくことが大切になるようです。社会における自己価値を大きく決めることになるからです。

キハに「いつもそばにいてほしい」の意味はタムドクにとって失敗しても支えてほしいという意味なのじゃないでしょうか。何をやっても駄目な人間だと自分が思わないように・・・。成長したキハはそういう存在になっていましたね。ホゲの母のことで少し劣等感をもったタムドクをも理解して見守っています。

 

  

 

第6話はタムドク、キハ、ホゲが自分は何者かを少しずつ認識していくところでした。自分の思っている自分と社会の求める自分を一致させていく時期になりました。自分が自分であることを確信することを“アイデンティティ”といいます。つまり、「本当の自分とは何か」「自分は何をやりたいのか」「自分は何になりたいのか」を知るということです。

これは2つの側面から感覚していくということでした。一つは社会性から認める感覚で、他者との関係の中で他者との共通性と自分の独自性を感じることであるとか。もう一つは歴史的感覚で、自分はどのように育ち、現在の自分に繋がっているのかを感じることで、そこから未来はどうなるのかをイメーシできるようになるとか。

 

アイデンティティができると自身の人生の選択が可能になります。何かを決断しなくてはならないとき、しっかりと自分で決定できるようになるということです。しかし、このアイデンティティを確立するということは、実は可能性を捨てることでもあるということでした。子供のころのたくさんの夢を捨てて、一つの道を切り開くというか・・・。切り開くというとカッコイイのですが、実はとても辛い作業です。

『四神記、第6話』でキハはその辛い作業をしていましたね。火天会に属するものとして、朱雀である自分を自分として認め、タムドクとのことを捨てようとしていました。タムドクの母性的存在にあったがため、かなり苦しい選択なんだと思います。

 

じゃあ、タムドクは?ヤン王がチュシンの王として彼の存在を明らかにしようとしている反面、タムドクはキハに「神官をやめろ。自分も太子をやめて宮殿を出る。」と言って行動しようとしています。大まかなストーリーを知っているだけに、これは大人になりたくない、アイデンティティ確立からの逃避であると考えてしまいます。キハを母性とすると、それに守られて生きていきたいということです。このようにアイデンティティ確立を先延ばしにすることを“モラトリアム”というそうです。

第7話ではタムドクが自分の歴史を認識したり、周囲の人々と対立したりするようです。これはタムドク自身の心の葛藤も相当なものであると想像できますね。もまれて大人になるタムドクが楽しみです。

 

アイデンティティ確立は青年期におきるとされていますが、現代社会はその時間が長い、もしくは生涯がモラトリアムである人もいるとか。「自分がわからない」などと言っている私も実はそうだったりして・・・。

アイデンティティがうまく確立できないとどうなるか・・・。自分が何者であるのかわからなくて不安定で、人生の選択が自分でできなくなります。アイドル、宗教、群衆、政治などに過剰に自己を同一化し、反社会的行動に繋がる否定的アイデンティティとなることがあるそうです。現代社会の問題なのかもしれませんねえ。

 

なんとか第7話が放送される前に私の頭の中を記事にすることができました。ε=(・o・*) フゥ

上記の写真は日比谷公園で遊ぶ子供たちです。遊ぶことは仲間とのコミュニケーションであり、社会のルールを学ぶことであり、身体の動かし方を学ぶことであり、何か科学的なものも見つけられるかもしれない機会です。

シーソーに乗っているのは私の妹と母親べったりの甥。

それから渋谷ハチ公前交差点。世の中にはたくさんの人がいて、それぞれの人生を社会の中で歩んでいるよってことで・・・。

 

 


2008/01/05 23:23
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

赤ちゃん

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『太王四神記』の4話一挙放送をつまみ見しました。妹にちょっと解説したということもあり、1回見ただけではついていけなかったことがより理解できたように思います。

 

先日よりユングの心理学にある英雄神話と『太王四神記』を比べている私。「人間と象徴―無意識の世界(河合隼雄 監訳)」の中で、世界にある英雄神話の類似点が下記のように述べられています。

・・・英雄の奇蹟的な、しかも知られぬひっそりとした誕生、彼の生涯の初期にみせる超人的な力の証明、そして卓抜さや偉力の急激な上昇、悪との戦いにおける勝利、高慢(hybris)という罪にたいする弱さ、そして、裏切りないしは「英雄的」な犠牲行為によって没落し、彼の死となって終わりをとげる・・・

物語がすべて誕生から死までの全生涯を説明しているとは限らないということです。ただ、神話の本質は個人の自我意識の発達を示唆し、英雄像は人間の人格の発達のそれぞれの段階を反映するということです。

ユング心理学によると(私の勝手な理解)、人は無意識の世界に皆同じ能力(普遍的無意識)があるということになります。それはジェンダー(性差)には関係ないものです。そして、その無意識の中に潜むものを意識化する(認識する)ことが心の成長で、個性化(自己実現)になります。その過程で、価値観や押し込まれた性や仮面をかぶった姿などが生まれてきます。意識化するというのは現実化することで、頭の中で描くだけではないのだと思います。行動に表さなければ自己は自我を認識することができません。

ということで、英雄神話は自我を意識していく過程ですから、私は『太王四神記』を人間のこころの成長ストーリーとして位置づけて観てしまうのです。

 

余談ですが、ヨンジュンさんが「様々な役を演じることで自分にもそんなところがあったと新しく発見する」と言ったのを何かで知りました。もしかしたら心の成長とはそういうことなのかもしれません。

 

人間にとっての神とは絶対的なものなのでしょうか。神によって人生が決められていくもの・・・という考えから脱して、人と人との相互関係で成長していくとしたのが、前回のブログ(2008.1.02)に書いた内容なのだと私の勝手な理解です。ユングは“自己”という世界を球体という決まったものとして考えました。ところが、ミードやロジャースなどは常に変形している流動的なものとして考えています。その辺りが神の作った世界と変化する人間の世界の違いかもしれません。『四神記』で言いたかったことは何かはこれからストーリーを観進めてまた考えていきたいと思います。

 

“英雄”と言う文字を打っていて、「BYJ Classics/Hero」を思い出しました。34歳がキーワードであったことはわかったのですが、なぜ“Hero”だったのかちょっと疑問が沸いてきました。あの時タムドクを演じていたからなんでしょうか?

 

写真は生まれて間もない姪の写真です。沐浴中。生まれたばかりの人間は一人では生きていくことができません。でも、進歩する可能性をいっぱい秘めた生命です。


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