2008/05/23 00:04
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

茜空

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今日も『太王神記』のお話です。あと一つどうしても考えたいことがあったので・・・

タムドクの最後の言葉に注目しています。

 だからもう大丈夫だ

この最後の長いセリフはキハに向って語るように始まっています。途中、チュシンの王として天に答えているようにも思えますが、この「大丈夫だ」はキハに言っていると考えていいんですよね。だとして、何がどう大丈夫なのでしょう。

「だから」は前の言葉をとって「天の力を天に返すから」ということかな。とすると、「天に力をかえすから、もう大丈夫」ということになります。

「天に力を返す」と何が大丈夫になるのでしょう。語りの全文から考えると、人間が天の力に振り回されずに歴史を重ねていくことができるということでしょうか。それは人間が学びながらチュシンの国を作っていくということです。

でも、「大丈夫」がキハ個人に向けての言葉であるのならば、「自分は天を信じるのではなく、人間を信じる。だからタムドクとしてキハのそばにいることができるよ。もう、天と自分を取りあって戦わなくても大丈夫だよ。」という意味にならないだろうか。少なくとも私はそのように解釈したいです。

 

そのあたりを突き詰めたいと思い、6話~17話あたりのタムドクとキハの想いのシーンばかりを拾って、ドラマを観てしまいました。そしたら、もう涙がポロポロでてしまって。。。(*ノ-;*)

撃毬の試合に出場したことで霊廟に謹慎となったのタムドク。抜け出してヨン家に行き、帰って来てヤン王に自分は太子をやめると言うシーンがあります。そして下記のように言います。

 私は愛する人と過ごしたいのです。

宮殿での暮らしをやめてキハと共に過ごしたいということです。また、その後キハも霊廟でヤン王に同じことを話します。ヤン王は二人の同じ想いを理解していても、チュシン国のためにそれはできない、阻止しなければと思っています。

 ふたりで遠くに行って幸せに暮らせといってやりたい

このように言った後にチュモ剣を自分の胸に刺します。これはタムドクとキハの縁を切ろうとしたヤン王の命を張った行動だったんですね。キハに濡れ衣を着せる事でタムドクからキハを離したのです。天のために・・・。王の苦渋の策は見事に成功と言えます。でも、父親としては本当はキハとの幸せを優先したいと思ったでしょうね。

   

タムドクの子を身ごもったと知ったキハ。初めはとてもうれしかったと思います。チュシンの王の子ではなく、人間タムドクの子です。ふたりが結ばれたのは難民村で本心を語った時ですもの。チュシンの王、朱雀の守り主という天の運命に逆らって幸せに暮らそうとしていたふたりにできた子。

でも、天に翻弄された人々によってふたりは引き裂かれ、キハはタムドクに利用されて捨てられたと思ってしまいます。

 私が望んだのはあの人だけ。それが罪なの?

自分の意思で生きていけないキハは自らの命を絶とうとしました。でも、それは天によって止められてしまいます。そう、タムドクが王として自覚しはじめていたため、彼の子は王の子であり、キハは自分の命を絶つこともできませんでした。

 

キハはスジニのように自分の気持ちを素直に表出することができません。運命がそうさせるのでしょうか。それでもキハを信じたいと思っていたタムドクでしたが、誤解の積み重ねから17話でとうとうキハに「思いは消えた。」と言って二人の間を断ち切ってしまいます。辛い・・・。この後のキハの行動は子のために生きようと態度を変えていますが、それは黒朱雀のようでもありますね。大神官を殺したり、ホゲの心を利用したりと、母親としてのなりふり構わない行動のようにみえるからです。

 

タムドクはキハに裏切られたと何年も思って生き、スジニを女性としてみるようになっていきました。ところが最終話でキハが自分の子供を産んでいたと知り、キハのことをまた考えたのではないでしょうか。難民村で結ばれた時の子であることは、容易にわかったはずです。だとすると、彼女の本心がふたりで幸せに暮らしたいということであったのだとタムドクが気がついたということはないでしょうか。キハは大切に子をお腹で育ててきたということになります。それなのにキハを突き放し続けてきたタムドク。自分のためにキハが苦しんできたことを察したのでしょう。

タムドクは昔のふたりの思い、つまり振り向けばそこにいて欲しいと願ったあのころの、天の運命に逆らってでもふたりで幸せになろう」としたあの時の気持ちで生きることができるよとキハに言いたかったのではないでしょうか。また、「今はキハを信じることができるよ、もう悲しい想いをすることがないよ」・・・そんなことも“もう大丈夫”には含まれているように私は思いました。

 

ふたりの気持ちを追っていたら、タムドクが両目から涙を流しながら語ったシーンにようやく私も胸が詰まり。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。。また、キハに「よかったね。」「辛かったね。」「がんばったね」って声をかけたくなりました。

それにしても、ムン・ソリさんのキハはすばらしいです。

今日の写真は天(?)です。

上のは池袋の西武池袋線の改札を出たあたりで撮影した夕焼けです。ビルの間から見えた茜空。闇が左上から迫りつつあります。

次のは近所の川で撮影した朝です。闇に太陽の光が差し込まれつつあります。

左の写真は飛行機からみた富士山です。私の撮影ではなく、長崎の友の撮影です。

天とは空にあるわけではありませんが、このようなきれいな光と闇を見ると、空から天は人間を見ているのかもしれないなあと感じてしまいます。飛行機で空に行ってもまたその上に空がある・・・。天はもっと上?


2008/05/20 23:05
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

紫蘭

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『太王四神記24話』を昨日観ました。とても辛い最終話でした。特に、コムル村が襲われ、飴売りのおじさんが右往左往しながら大声で泣くシーンと、フッケ将軍が勇壮なタムドクを誇らしげに観ながら倒れていくシーンはボロボロと涙がこぼれてしまいました。

でも私、ラストのタムドクの言葉を理解するのが難しかったんです。

  やっとわかった。私のすべきことが・・・

この言葉からタムドクは語りをはじめています。“チュシンの王の意味”がわかったのだということなのですが、なぜこの時にわかったのか。タムドクの心理過程がうまく私の中にイメージできなくて悩んでしまいました。タムドクが両目から涙を流しながらたくさんのことを語ったのに、私はそれについていけなくて・・・(_ _。)・・・シュン。

 

様々な方の見解をブログや公式で見ました。なるほどと想像を膨らませることができました。それをヒントにしながら、録画した24話をもう一度観ました。また、最後のタムドクの語りを一時停止させながら書き取って理解しようとしました。疑問も多いし、かなり私の勝手な解釈ですが、なんとか言葉にしてみます。

 

戦いの前までで、ちょっと気になっていたのは、とにかく地図を眺めているタムドクが多いなということです。兄弟としてまとまりつつあった国々がぶつかりあってきたことを寂しく思っているのかなと考えました。

 

4つの神器と王の血(心臓?)を神檀樹に揃えると天の封印が解けるということでした。「封印が解ける」とはどのようなことが起きるのか理解ができませんでした。しかし、解けるとどうも天の力が人間に授けられるようなニュアンスは感じました。だから、火天会はそれらを集めようと必死になっていたのでしょう。物と血があれば天の力がもらえるのか?天というのはそういうものなのかなあ・・・という疑問がありました。神器よりもその守り主、血よりも王としての能力じゃないのかというのが私の思いです。でもそれじゃファンタジーにならないかしらん。

 

ホゲはなぜあんなにあっさりとタムドクの矢で殺められてしまったのでしょう。ホゲはもっと強いはずです。その後のタムドクの呆然と戦いを眺める表情の意味と繋がる何かがそこにはありそうです。タムドクは戦いを軽蔑しているような顔でした。

いろいろな記事でその解釈のヒントとなることを読みました。二人が戦っている時に、タムドクはホゲからヤン王は自害であったことを告げられたということです。ホゲが天の力を得たいと願うのは、キハがいてこそなんですよね。ところがキハはタムドクと共に死ぬことを選択しています。そう告げられちゃっていますもの。キハを助けるためにホゲはタムドクにわざと討たれた・・・。そうかもしれない!そうだとすると、この時にタムドクは相当な衝撃を受けたでしょう。天の運命ではなく、自分のために生きようとするホゲとキハが私は悲しく、でも愛しく思えます。タムドクもそう思ったかしら?

 

 

キハは4つの神器を神檀樹に並べながらタムドクとの想い出を回想しています。キハが考えていたことはなんだったのか・・・。7話の難民村でのシーンに何かヒントがありそうに思って、録画を見ました。あの時、タムドクから

 お前の本心が知りたい。朱雀は天からの運命。私のせいで苦しむな

とキハは言われます。それに対し、

 書庫で初めて声をかけてくださった時、私の心臓は高鳴りました。

と告げタムドクと一夜を明かします。さらに翌朝の手紙に下記のように残しています。

 あなた様とこの世を生きた後、天罰を受けます。待っていてください。

これ以降すれ違ってしまう二人。というより、タムドクの心が離れていってしまいました。キハはずっとタムドクのことが好きだったし、天の運命でなく、人間として一緒に生きたかったのだと思います。彼女は朱雀としての運命なんかどうでもよかったのでしょう。彼女にとって“天と戦う”とは、朱雀としての自分を亡くし、タムドクをチュシンの王にしないことだったのかもしれません。

 

アジクの血が4つの神器に触れ、チュシンの王が神檀樹に現れたことで天の封印は解けたようですね。火天会の大長老が「取られてたまるか!」という勢いでタムドクに向って飛んできましたが、天弓の光、つまり天の力で一撃されちゃったのですもの。石の塔みたいなやつも光ってましたねえ。

タムドクはチュシンの王として黒朱雀になったキハを殺さなくてはなりません。それはチュシンの国を造り、守るためなんですよね。でも、タムドクはしませんでした。チュシンの王として黒朱雀を討つ行動と、人間タムドクとしてのキハへの想いを天秤にかけて決断したように感じます。

 お前を信じきれなかった。キハすまなかった。

こう言ってタムドクは天弓を折ってしまいました。そして、チュシンの王の果たす役割りは、天の問いに答えることであるとして、下のように言葉を続けています。

人間は誰でも過ちを犯すが、それを悔い改めて知らないことを学ぶものであるということを天に伝えたい。

「自らの力で生きられるのか。それとも天の助けが必要なのか」

私は人を信じる。いつか必ずチュシン国は造られる。私の見果てぬ夢は後世の誰かがかなえてくれる。

この部分がこのドラマの言いたかったことであるというのはよくわかります。この後、タムドクは光の中に入っていきますが、私は死んでいくのではなくて、天に力を返しに行く行動であったのだと思います。「後世の誰かがかなえてくれる」というのは、自分はやめたから他の人ということではありません。人間は学びながら成長していくのだから、その変化でいつかチュシンの国、つまり平和な世の中ができるだろうという意味ですよね。天の力を使って一気に人間の世界を支配・統括すべきことではありません。キハの言葉を借りると、人間の暮らしに天の干渉をさせないということでしょうね。

私がこのように考えたのは、その後の解説があったからです。

高句麗を建国したチュモ王の父は天帝で、母は水の神の娘だった。

高句麗のはじめは天の力が授けたヨチヨチの人間であったということでしょう。歳月によって、人が成長できたかどうかを天は19代のタムドクに問うたということではないでしょうか。これからも人間はがんばれるか、天がないと暮らせないのかということを・・・。それに対してタムドクは、「天に引っ張ってもらう必要はない。後ろで見守っていて欲しい。」と言ったのかもしれません。

    

長くなりました。今の時点で私が考えていることはこのようなことでした。

今日の写真は紫蘭です。花言葉は「あなたを忘れない」「互いに忘れない」なのだそうです。タムドクとキハを思って・・・

それかれ、先日掲載したみかんの花に実がついていたので撮影しました。これからも成長していくみかんを見守りたいと思います。

 


2008/05/18 00:35
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

銀杏の葉

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『太王四神記』、BShiの放映は1話からずっと録画をしてきました。そのためにケーブルテレビのセットトップボックスをハードディスク付き、デジタル対応のものに替え、ブルーレイレコーダーを購入したのですから・・・。ところが23話の録画に失敗(・o+) アチャ!同時間に他の録画予約もしてしまったのです。そんな時に限ってリアルタイムで観れなかった私(゚◇゚)ガーン!

いろいろなブログを検索してあらすじを見まくりました。でも、やっぱりちゃんとみなければ理解できません。どうするか・・・。kyomaikoさんのアドバイスもあり、先日ニフティの有料サイトで観ることができました。モバイルサイトのポイントがたくさん溜まっていたので、それを使えばいいということに気がついたのです。小さくて字幕を読むのが一苦労でしたが、全部みれました~~。

 

最終話に向って、たくさんの大事なことが含まれた回だったと思います。特に“天弓”の意味、数年後のそれぞれの立場、タムドクの心の変化などなど。

私が一番注目したのは、タムドクも疑問に思った“天弓”に関する文書のことです。なぜ天は天の力を壊せる仕組みにしたのかということです。“天弓”はチュシンの王だけが使え、四神の力を生かすことができる弓であると思われました。弓はチュモ剣に仕組まれていて、それがタムドクの心臓に刺さった時に現れ、青龍が目覚める時に射られました。ところが弓は、チュシンの王によって壊することができ、そうすると神物も破壊され、四神の主も死んでしまうということです。しかも、その時はチュシンの王も死んでしまうということでした。

天は意図的にそのような仕組みをつくったのでしょうか。コムル村の長老は天弓が壊れることはチュシンの国ができなくなることなので、タムドクにそれを伝えたくなさそうにし、さらに古文書を焼くと言っていました。タムドクは流して聞いていたというか、天の力に疑問を持っていたので「こんなもの」「そんなこと」という扱いをしていました。

 

17日は地上波で7話の放送があったので観ました(吹き替えなのでいつもはみないのですけど)。難民村の人々に驚いたタムドクは「自分に何ができるのか」とキハに言っています。チュシンの王になること、高句麗の王になることが目標なのではなく、その国に暮らす人々を見て何かしなくてはならないと考えたのかなと思います。

回を重ねるごとに、タムドクがチュシンの王であると誰もが認めていくようになるのですが、ふと私は思いました。タムドクは王として国を治めていこうとしましたが、チュシンの王という地位を得ようとしているのではなかったと。王になろうと決めた時、ヒョンゴに「本当の王になる方法を教えて欲しい」と語ったことがあります。つまり、天の力を自分のものにしようとしたのではなく、人々の暮らしのために行動した結果が「チュシンの王」として選ばれたということです。天に選ばれていたのではなく、天の力が後からタムドクについてきたと考えてもいいかもしれません。

天の力を持っているとされるタムドクが一番天の力にすがろうとしなかったと思いました。こんなことに今頃気が付いた私はよくストーリーを理解していなかったのかもしれません。今夜急にタムドクが人間ぽい王に見えてきました。これまでは“天”とか“神”とかいうものを被せてタムドク像を作ってしまったようです。

みかんの蕾

みかんの花

少し前に新聞のコラムに村上陽一郎氏の文章を見つけました。それは万能細胞研究について国家を挙げて支援する報道をとりあげて、科学の本質について語った内容でした。万能細胞研究については先日も金融会社が研究に出資できるよう会社を設立したニュースがありました。

村上氏は政治家のノーベル賞受賞者を造るという発言を「品格がない」と言っています。本来科学は世界を知ろうとする知的活動でした。近代科学の成立後科学者を探求に駆り立てたのは「真理」への思い、つまり「好奇心」だったと。その活動を支援する社会には、多様な人間の在り方を肯定し、大切にするという動機があったのだそうです。ところが、誰にでも開かれていた科学に特許とか知的財産という問題が絡み、賞を獲ることを目標にする人間もあらわれてきたということです。また、社会や国家の利益とも結びつくようになりました。

なるほどと思いました。人間は欲張りなんですよね。自分のものにしたがるというか・・・。

 

このこととテサギの「チュシンの王」になることがなんだか似ているなあとおもったのです。「天に選ばれること」、「王になること」が目標ではなく、人々が幸せにくらせる国をつくることが大切です。「天」に執着していないタムドクは後者を目指していたと思います。「天と戦っている」というのは、なんだかわからない力(なんとかしてくれそうな抽象的な力)にすがらない、その力を信じない、つまり、人間としての力、自分の能力を発揮させて乗り越えていくことそのものをさすのかなあと思っています。うまく言葉になりませんけど。

23話で天を憎むようになったタムドク。タムドクと天の力の関係についてはきっと最終話でわかるのかもしれないと期待しています。

 


2008/05/12 13:28
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

マンネングサ

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今夜『太王四神記23話』が放送される前に記しておきたいと考えていたことがあります。でも、うまく考えがまとまらなくて、とうとう直前になってしまいました。もやもやしているけれど、自分の記録として書き記しておきます。

 

キハとホゲの会話が前回のヨン・ガリョの手紙と同じで、ドラマの主題となるものが要約されていると思いました。下記のような会話でした。

《キハ》

天はタムドクが試練を乗り越えられるのかを見守っているのだ。自分たちはその試練に使われる道具に過ぎない。これ以上天が人に干渉することは許せないので、天と戦う。

《ホゲ》

天が不在の地は地獄になるかもしれない。人間は限りなく残酷であり、信じることができない。

《キハ》

地獄でもいい。人間は自分の運命を自分で切り開けるのだ。

単純に語彙通りに受け取ると、キハは「天の力を借りずに人間として自ら生きていきたい」と思っているのだと思います。どういう生き方がそうなのかはわかりません。特に“天と戦う”とは何をすることでしょうね。タムドクと戦うことではないですよね。

“天”とはなんでしょう。【広辞苑】によると「人間の認識能力を超えていて、答えることができない超越的なもの。」ということだそうです。“神”と同義のようですが、なんとなく“天”は空間というか場所的なイメージがあって、“神”は意図的なエネルギー(力)というイメージを私は持っています。キリスト教でいうと“神”は「人間の外(天上)にある。」ということですから・・・。人間の外にあって、人間が認識できないもの」が“天”や“神”だということになりましょうか。

人間は自分が体験した不思議なこと、つまり人間の論理では理解できないことを天(神)の業として受け止めてきたのだと思います。天(神)が世界を創造したということが元になっているのでしょう。天(神)は正義・愛・善というものであるとイメージして敬ってきた反面、天(神)は恐ろしく理不尽でもあると認めてきたということだと思います。

 

近代科学の発展でわからないことがたくさん説明できるようになって、魔法のように思われたことが見える形になりました。その結果、神話や迷信として語られてきた世界を合理化し、追放しました。神話とはユングによると内的体験をシンボル化して表現し、それによってその体験を明確にし、また再現しようとするものだそうです。物語にはにんげんがどこから来て、どこに行くのかという存在意味が掲示されているということです。【林道義 著「人と思想:ユング」より】

不思議な体験を合理化してきたことで、人間は非合理的な自分の無意識の内容、つまり内的体験に直接立ち向かわなくてはならなくなったとも言っています。世の中すべて科学で説明できることばかりではありません。わからないことは多く、そのわからないことが現代人に不安を与えるからです。

 

最近、こんな研究結果を読みました。全く動いてはいけないと言われた人に①「いつまで」ということを提示して時計を見せた場合と②提示しなかった場合の心拍数の変化です。もちろん、先が見えて予定がわかる人の方が心拍数の変化がなかったというのは想像つきます。つまり、いらいらしないってことでしょうね。実は③体の向きは好きなように変えてもいいという場合もあったのですが、動けても「いつまで」の予定がないとやはり気持ちは穏やかではいられないようです。

見えない、先がわからないことは人間にとってとても大きな不安です。タムドクがホゲと戦う前に「先が見えなくても決断しなくてはならないのが王だ」と語っていたと思うのですが、それも試練なんでしょうかね。

  

まとまりつかないのですけど、自分が何者でどのようになっていくのかがわかる、または何らかの形で示してもらえることが安心につながるのだということがわかりました。そのよりどころが天(神)の啓示なんでしょう。でも、人間は自分で選択して運命を決定できる力を持っています。受身で生きていくのではなく、自分の生に積極的になりましょうということかな。

人間は古代の木や植物、動物を何かの象徴としていることがあるのですが、ユングはそれを「超越の象徴」といい、人間の努力を表現していると言っています。本には“心的生命の発展や成長”とも書かれていましたテサギでいうところの『四神』なのではないかと私は思いました。それぞれタムドクの精神がともなう時、つまりタムドクが何かを乗り越えて成長した時に四神は目覚めていますから・・・。

普遍的無意識に住む象徴的住人には、ヘビとかトカゲといった大地の深みから現れて地下の国のメッセージを意識の領域に伝達するものもあるそうです。大地と天との間の仲介役とも書いてありますが、無意識の世界とは天のような善と大地深くの悪と両方が含まれているということのようです。矛盾する2つはどちらかを選択するのではなく、繋がっているものでそれらの要素を和解させることが自我の役割りになると、私はユングの言葉を理解しました。

大地の深くのエネルギーって火天会のことかな。その2つに翻弄されているのがキハのように思います。このドラマの中でキハはとても人間らしいかもしれません。タムドクは人間キャラクターとして出来すぎに思いました。

 

さてと、今夜の23話が楽しみです。

 

写真は最近撮影した花たちです。記事内容とは離れてしまいました。

マンネングサは一面で絨毯のようできれいでした。蓮の咲いている沼はたぶん個人のお宅です。撮影してすみません。


2008/04/30 13:18
テーマ:太王四神記 カテゴリ:趣味・特技(その他)

イカゲソ焼き

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『太王四神記21話』の冒頭、ヨン・ガリョがタムドク宛に自分の気持ちを語っています。その内容はこのドラマが表現したいテーマの1つなのかなと思っています。

天がタムドクをチュシンの王だと示しているということをヨン・ガリョ自身は認めいてます。しかし、その天の示しに自分は納得できないと言い、下記のように語ります。

 天がすべてを決めるのならば

 我々人間が努力したり苦労したりするのは

 何のためでしょう。

 天がチュシンの王をすでに決めたとしていたら

 その証拠と基準は何だったのでしょう。

私は2008.1.27のブログにも「運命は決められているものではない」という内容のことを書きました。このヨン・ガリョの語りは自分の考えていることを後押ししてくれているようで、ちょっぴり嬉しくなりました。運命とは決まっていることではなく、努力や苦労で変わるということです。

 

ヨン・ガリョの言葉、「天の基準」を考えてみました。2008.4.27のブログで「自然に存在するもの」はそれ自身で変化する能力を持っており、その変化がどのようになっているのかの法則をさぐるのが科学であるということを書きました。

西洋的な考えで人間は、「神から地の世界を支配することを托された」ということらしいです。それは「自然を支配する立場に立つことを許された」という意味で、人間の権利とも言い換えられるようです(村上陽一郎 著『科学史からキリスト教をみる』より)。人間が自然の法則を知る能力を持ち合わせていることが理由になるようです。自然とは神が創ったものだから、「自然の法則」は「神の定めた法則」ということのようです。支配をするからにはその法則を知らなくてはならない、知るための方法が科学ということかな。

私は全く信仰がないのでこのあたりの考え方の理解が曖昧です。

ただ人間は欲望を持ち、それを充足したいといつも思って生きています。その欲望は単に“生命を維持する”という生物学的なものだけでなく、承認されたい、便利になりたいなど高度なものもあり、限界がありません。人間は科学を技術というものに変え、より自分たちの欲求が満たされるように自然を変化させる力をも持つようになりました。技術は使用する人の意図が含まれているので、自然に不具合であったり、人間間でも異なる意図のために衝突を起こしたりするようになったのだと思います。

 

ヨン・ガリリョの言葉の中に含まれる「天が決めた」ということと自然の法則とが同義ではないかと私は考えました。だとすると、「人は努力したり苦労したりしたことで変化できるもの」ということが決めてたことです。それは自分に課せられた課題を克服しながら成長していく能力のことなのだと思います。

ヨン・ガリョは「チュシンの王をつくろうとしていた」といい、それが過ちであったと悟ったのだと思います。どんな人間になるのかは他人が操作できるものではなく、自分自身にかかってきます。また、ガリョは「自分の力で王になれ」とホゲに言ってやりたいと言いました。タムドクには王になる能力があるのだと認めた上でのことだったと思います。

決して争うことを良しとせず、民のためにどうするべきかを考えて行動すること、1つの国のことだけでなく世界を広く理解した上で足元を考えることができる・・・こんなことが天の定めた基準ではないでしょうか。

 

テサギの話題なのにイカゲソ焼きの写真で、なんと似合わないことでしょう。実は後輩ともんじゃ焼き(左)を食べにいったんです。おいしかった~~。

その時後輩は「動きのある写真を撮れ」と難しいことを言いました。静止画に動きを感じるとはどういうことかというのをちょっと考えたんです。

人が何かを認識する際には過去と現在と未来をつなげていると思います。つまり、ある一点の前後を想像できるということです。写真はある時間の一点で止まっています。しかし、その瞬間の前後が想像できれば動きのある写真といえるのではないでしょうか。

イカゲソ焼きに動きはあるか・・・。湯気が画面をやわらかくしているため動きを感じられると勝手に思っています。もんじゃ焼きの写真はコテがあるけどなんだか止まっているようで、動きが感じません。焼けて膨らんだところがパンと割れているところが撮れたらよかったのにと思いました。

一番動きを感じる写真は、シャッタースピードを遅くして、撮影に時間をかけ、その結果が画像に表現できていることかな。

 

生物が時間を感覚するのは天が決めた法則。さらに次を予測をしながら行動を決定できる能力は天の定めたチュシン王の基準。。。ということでいかが?


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