2008/05/30 00:39
テーマ:感情と心 カテゴリ:趣味・特技(その他)

彫刻

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NHKの特番「太王四神記スペシャル」のために募集していた“心に残る名台詞”に私が送ったのは次に記す場面です。あまり目立たないんですけど、職人を自負する私には胸が詰まる思いがありました。

兄が17年間命がけで守ってきた神器を自分の手でホゲに差し出してしまった妹パソン。食せず、眠らず、ただ剣の刃を研ぎ続けた鍛冶職人パソン。自分の手を切ってしまおうと思ったが刃のこぼれた剣や斧がたくさんあって・・・とタムドク王に告げた高句麗の民パソン。王様に下記のように言われて張り詰めた糸が急に緩んで涙があふれていました。

 この手はそなたひとりのものではない

 傷つけたら許さない

タムドクは王として民を大切にしましたが、民の持つ知識や技も大事にしたのだと思いました。トップマネージャーとして臣下の能力を見極め、それぞれに適した仕事を配分しています。男女の区別なくです。パソンは他の誰も真似をできない技を持つ鍛冶職のマイスターです。矢や剣だけでなく、タムドクの依頼で高句麗兵士を守る最高の鎧も作り出しました。それを認め、出来上がった物ではなく、それを作り出す技をもった人が必要なのだということを表した王の言葉であったと思います。

不本意な行動をとらざるをえなかった自分を自分で責め、苦しんでいたパソンですから、王に存在を肯定してもらい、さぞ嬉しかったことでしょう。

 

“技(art)”は人が行なう活動です。似たような言葉に“技術(technology)”というものもありますが、これとは別のものでしょう。テクノロジーは近代科学を応用して生まれたいわば“科学技術”と考えられます。それは社会性を持つ反面、人の感情の入る余地のない合理的なものであると考えられます。

アートは人間の経験と知の活動であると思います。科学技術のように法則性が明らかになっていて、誰でも同じように繰り返すことができるものではないでしょう。創造する個人の感情が含まれ、数字では表すことができない揺れをもっているのではないでしょうか。しかも、その幅は無限で、どんな状況にも合わせることができる生きた技です。揺れの振幅量やスピード、方向は技を持つ個人によって違うでしょうから、技の法則を明らかにすることは難しいといえます。だからこそそれを身につけた個人が大切なのです。

人間の感情が表現された技は芸術と言い換えることもできるでしょう。先日、美術館へ行きました。有名な海外の画家の作品が展示されているということでしたので・・・。芸術的な才能とはユングの言葉で言うと、潜在的な心の全体性を意識化したもの、つまり現実化させたものです。自分の自我が認めなければ才能はないと同じだとか。普遍的無意識という共通した部分をもつ人間であるから、現実化された作品を理解する力はどの人間にもあると考えることができるでしょう。でも、私はその画家の絵を見ても何の感情も沸きませんでした~(^^?))(((;^^)?熱心に絵を鑑賞している人、メモを取っている人など作品の見方はいろいろでしたが、私はさ~っと通り過ぎてしまいました。一応、理解する努力のために画家の人となりの解説をがんばって読んでは見たのですけど・・・。

 

人の生活の中に入り込んだ技は多くの人々を幸せにする力があると思います。きっと誰もが簡単に認めることができるのでしょう。“認める”という言動は技を持った人にとっては賞賛になると思います。認めていてもそれを表現してもらえなければ自信が持てなくなります。アートの承認は人そのものの承認ですから。また、承認は生きる糧をも生み出します。

私の職人としての技はどうでしょう。人を幸せにできるものであればいいなと思います。いやいや、そうなれるように自分を磨いていかなくてはいけないのでしょうね。それにしてもタムドク王のような人に仕えたいものです。

 

 

今日の写真は美術館で撮影したものです。感情を動かすことができなかった画家の作品の後、ロダンの彫刻を見ました。ここは楽しかったです。なんでかというと・・・撮影ができたからかもしれません。また、彫刻の間に自分が入り込み、会話をしているような体験もできたからかもしれません。それにしても、悩んだ(考えている?)姿の彫刻が多かったですね。

下の左は美術館のプロムナードに咲いていた石楠花の一種(葉っぱから)です。蕾が金平糖のようでかわいい!右はブルーペリーの実です。人間の芸術作品よりこちらの方が私には向いていると思っちゃいました。私って、絵画や彫刻の才能が引き出されずに成長したんだなあ~~。


2008/03/23 19:38
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枝垂れ桜

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また別れや旅立ちの季節がやってきました。日本人にとって桜の季節はウキウキ、ドキドキ、ウルウル・・・と落ち着かない季節です。年度替わりであり、別れと出会い、ステップアップが生活のあらゆる場面でおきる“移りゆく季節”であるからなんでしょうね。

2007.3.7のブログに“日本的な感性はうつしの文化”という今回と似たような記事を掲載しました。下に桜に関係する有名な短歌をあげてみました。

 世の中に たえて桜の なかりせば

                 春の心は のどけからまし 

 散ればこそいとど桜はめでたけれ、

               浮き世になにか久しかるべき

 久方のひかりのどけき 春のひに

               しずこころなく 花の散るらむ

 限りあれば 吹かねど花は 散るものを

               こころ短き 春のやまかぜ

日本で“花”というと桜という意味になります。また桜は散るもので、とどまらない自然の摂理の象徴の表現に使われています。しかも、その儚さは美しく、淡い色は暗さを感じさせません。別れに涙はつきものですが、旅立ちという新たな出発への移りであることと桜の意味するものは重なるように思えます。

 

日本で就業、会計、就学などの年度替りが4月になったのは明治時代のようです。なんでなのか明確な理由を探索できませんでした。でも、日本人の「移りゆく」という言葉と“散る花=桜”が年度替りに一致して感じられるのであれば、以外とそれが理由なのかもしれないと思ってしまいました。移りかわっていった先はまぶしいくらいの芽吹きの季節でもあり、がんばろうという気持ちを起こさせます。どうでしょう。

 

3月に職場の送別会がいくつかあります。主役たちの新たな旅立ちを応援したい気持ちは持っていますが、一緒に目標に向って歩いたり走ったりした日々を思い出すと涙(;o;)。。。また4月になると新しいメンバーで残った私たちも新しいスタートをきることになります。ドキドキ・・・

また、先日学び舎の恩師が学校を辞めるというので、卒業生でパーティーを企画・開催しました。全国から集まった教え子たちは先生との思い出を映して語り、先生をいじり、もう大騒ぎでした。職場の送別会とは違い、卒業式か謝恩会のようでした。やっぱり泣いちゃったよ~。

  桜草?

 

父が亡くなった時、命が終わってしまったことが理解できたとしても、父を失った心の乱れを整えることは容易ではないということを体験しました。“命が終わる”ことと“人を失う”ことは同時ですが、違うことを意味するのです。前者は点でおきる事実なのですが、“失う”という現実は残されたものにとってずっと続いているものなのです。

周りの人たちが「どこかで見ていてくれるよ」とあたかも父の存在が残っているような表現をして慰めてくれたのですが、私にとってそれは何の意味も持ちませんでした。また、葬儀等様々な仏事が続いていますが、それもあまりありがたいと思えないのが本音です。行政上、法的上、その他様々な手続きとお寺関係の行事、親類等人々への気遣いなどは私に疲労を蓄積させました。父とのことをゆっくりと振り返る時間をくれないのですもの・・・。

父の思い出に浸る時間が早く欲しいと願っていました。父を失った自分の気持ちにじっくりと向き合いたいと思っています。時を遡って父を頭に浮かべてみたいのです。ところが職場復帰をしてしまったら、また時間がなくなって・・・。なので、お酒の入った送別会は涙が止まらなくなってしまいましたね。封印していたものが緩んだ隙から少し出てきてしまったようです。

 

暖かな日曜日、忌明け法要の引物を買いに母と出かけました。その途中、バス停の横の教会の枝垂れ桜がほぼ満開だったので撮影。それが上の写真です。少し逆行なので空が白く写り、花の白さと重なってしまいました。

今年は近くにいた人がいなくなる寂しさをたくさん味わった春となりました。


2008/01/02 02:26
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ユング心理学に興味を持ち、自分探しをして内向的なブログに陥っていった2007年の最後。12月後半はまとまりがつかず久しぶりの更新になりました。

実は年賀状にコメントを書くことで、新しい年への誓いを自ら確認した私でした。このブログを書くこともそうなのですが、本当は言葉に表現すること、他の方に伝えることが混沌とした自分を整理させるんですよね。しかし、その言葉がわからないためユングの本を読み、心理学の世界を覗いたのかもしれません。言葉も“象徴”ですから、イメージを他人と共通認識するための方法ですものね。

以下の文章は“かじり虫”で“いいとこどり”の知識で整理しています。かなり偏った考えだと思いますが、「信じたいものだけを信じる」人間だし、自分のことなのでそれでいいかなと・・・

 

なぜ自分がわからなかったのかということを考えました。すると、社会心理学という分野にあった“自己概念self-consept ”自己評価self-esteem”“重要他者”というものに出会いました。それらを理解しようと資料を読んでいたら、わからない自分が少し整理されました。

 

精神分析学は心の内側を徹底的に分析するという印象で、ユングによると自己は「心の意識と無意識の両方を含む全体性であり、核でもある」ということでした。

社会心理学という分野は、どうも他人との相互関係で自分を考えていくようです。ウィリアム・ジェームスという人は自己を“知る側:主体Ⅰ”と“知られる側:客体me”という考えで整理したようです。つまり、自己が自己を知るという第三者的立場で自分をとらえる方法です。そして、「私とは〇〇だ」と自分で知覚した自己を言葉にすることが“自己概念”ということです。

ジェームズの考えを受けてミードという人がこのようなことを言っています。自己を自覚するのに大切なのは、他者からの反応だと。つまり、コミュニケーションの際などの他者の態度や言葉を参考に自己I は自己meを認識するというのです。他者からの反応には他者の視点(評価)が含まれることになり、場面によって知覚する自己は多種多様になります。中には他者の反応を予測して前もって自己の内で行なわれる内的コミュニケーション(これをすると相手はどうなるかと他者の立場に立って自分を評価すること)もあるそうです。そしてこのように他者との相互関係で流動的に知覚した自己が蓄積され、統合したものが自己概念ということです。

 

ロジャーズという人の自己理論では、認識した自己と実際に経験している自己が一致していないと健康な心理状態を保てないということでした。日常に私たちが体験していることは、自分の主観的な認識をするもので、同じ体験をしても個人によってその認識は異なるということです。また、数々のことを体験していても自己が認識するのはその一部であり、その積み重ねで自己概念がつくられるということです。

すると体験したものをどう評価するかで自己概念は違ってきます。例えば、与えられた仕事をとりあえず予定通りに仕上げることができた自分がいたとします。それを能力のあるできる自分として評価する人と、内容が雑だったからできない自分として評価する人では同じ体験でも自己象が違います。後者は駄目な自分として自己を評価しており、自己概念と認識した自己は不一致状態にあると言えます。

 

自分をどのように評価するかに重要なのが他者からの反応ということが言えます。自分の言動に対して肯定される反応が他者から返ってくる場合と、否定される場合では自分の体験の認識が異なるでしょう。ここで大切になるのが、“重要他者”という人なのだそうです。

重要他者というのは感情や動機、自己概念、判断に大きな影響を及ぼす他人ということです。わかりやすいのは子供にとっての親でしょうか。『太王四神記』で子供時代のタムドクやホゲは父に認めてもらいたいと思って行動をしますが、肯定してもらえず悩んでいました。誰よりも父からよい評価をもらいたいと願いました。父からの否定的な反応はこれまでの自己価値が下がったように感じたでしょうね。

成長過程では重要他者がどんなことに価値を置いているかが大切なんだと思いました。その影響を受けて個人の価値観が決まっていくのではないでしょうか。

好きな人とか尊敬している人とかも重要他者と言えるでしょう。ブティックのお姉さんに「似合ってますね。」と言われるより、大好きな人からそういわれた方が嬉しいに決まっています。「この人に認めてもらいたい」と思っている人からの反応には敏感になります。

また、尊敬する人に褒めてもらえなくても、関心をもってもらえるだけで自己価値があがることもあります。気にかけてもらっているというか、振り向いてもらったというか、それだけで認めてもらえたと思えます。一番辛いのは無関心でしょう。認めてもらいたい人が自分に無関心であったら、自信なんて喪失しますものね。

 

結局、自分が不安定でいたのは自己価値が下がり、自己概念を変化させなければならない体験をしたのではないかと思います。ただ、その原因を突き止めることが大事なのではなく、自分の言動を変化させることが自己一致に繋がるのかな?( ̄ヘ ̄)ウーン、ま、いいや。それで考えを終結させることにしました。

 

 

随分長い時間をかけてここまでたどりつきました。

今日の写真は神戸国際会議場のロビーで撮影した顔です。いろんな色が並んでしました。人にどう見えるかっていうことでこの写真にしてみましたが・・・。

左は高矢禮の扉に反射した私です。扉のつなぎ目で自分が歪んでいます。

上記の左は上の方に見上げた私とその影が、右のは一目瞭然ですかね。

反射するものによって映り方が違うものです。自分の思っている自分と他人から見た自分は違うということで・・・ 

ロジャーズの考えの根本には人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。(Wikipedia)」という考えがあるそうです。人はどんどん変わっていくものであるから、自己概念も変えていかなければなりません。変えないと苦しくなります。

 

12月30日のMBC演技大賞の授賞式でヨンジュンさんが「申し訳ない」や「残念」とかいう言葉を使っていたのがとても気になりました。他人に向けた言葉ですが、自己に対する言葉にも感じました。怪我をしたことがきっかけで不満足感が残ったのでしょうか。きっと葛藤がかなりあったのだなあと想像します。完璧にこなしたい(できる)自分とそれができなかった自分があって悔しかったのかもしれません。

撮影終了からの何週間は治療をしながら、本を読み、いろんな人と会って心の健康をも取り戻そうとしていたのだろうなあと思いました。長い髪のままのヨンジュンさんはまだタムドクなのかな。

 

 


2007/12/05 09:35
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ツワブキ

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ヨンジュンタムドクに恋する自分を考えている時、たまたま大学の講義ノートを目にしました。そしてユング心理学授業のノートに下記を見つけました。

 無意識を意識の中に統合する      『自己実現』    “個性化”

最近、自分の演出方法がわからなくて混沌としていた私。(混沌の原因は、ヨンジュンさんに恋していることではなく、日々の自分に不安があってのことです。)ユングのいうアニマ・アニムス・老賢者・グランドマザー・自我・自己とは何か、それぞれの繋がりはどのようになっているのかを知りたくなりました。それを知ると、もやっとした自分がはっきりしてくるような気がして・・・。

 

ユング心理学について知るうちに、『太王四神記』の1話を観て「あれ?」と思いました。これって神話の英雄伝説だよね。ということは、自分が道標にしようとしているユングの心理学の世界の映像化に近いかも(・・∂) ?

よくこなして理解していないのですが、ユングの心理学と自分、そして『太王四神記』を照らし合わせて考えてみました。

 

アニマは一般的に男性が描く理想の女性ということですが、人の無意識にある女性的部分ということかな。「性愛」「恋愛」「博愛」「慈愛」と成長していく(させる)ものとか。人との繋がりをもとめるための感情の象徴ということでしょうか。

アニムスは逆に女性が描く理想の男性ということらしいです。理性・合理性・行動力とかいう判断をつけるもののようです。「力」「行為」「言葉」「意味」と段階をふむようです。

それぞれがうまく発達した象徴は「グランドマザー」や「老賢者」というもののようです。グランドマザーは“母なる大地”というすべてを包み込んで育てる母のような力だということです。女性性の究極的な成長でしょうか。ところが、これが過剰になると育てる力が破壊する力になるとか。ん?『太王四神記』のセオ→黒朱雀ってことですかね。

「老賢者」とは英知と指導の象徴で正しい場所に導いてくれる力なのだそうです。男性性の究極的な成長段階です。そう、ファヌンてことですか?

 

授業ノートなどから、自分が無意識で求めているものを意識化していくことが自分を成長させ、自己実現に向うことと理解しました。混沌とした私は何か変化したいということかもしれないと肯定的に今の自分をとらえました。無意識の中に抑圧されたものを見つめて意識化する、つまり自我にとりいれていくことです。それは、自分の何らかの行動として表現されることで自覚するものかもしれません。今、その内容は浮かびません。

タムドクヨンジュンさんに恋する私はそこに自分のアニムスを感じているのかもしれない・・・。そうも思うのです。『太王四神記』のストーリーに自己のこころの投影ができるのなら、私の悩みや不安が少しずつ解けていくかも~~

 

なんだかとても抽象的な内容のブログになってしまいました。そんな私、実は先日、1泊2日で師走の東京へ遊びに行きました。出かけたのは丸の内~銀座界隈です。最近注目を集めている場所なので。週末ということもあり、とにかく人が多かった~~( ; ̄) =3

私は自分がわからなくなると、ひとりでどこかへ行きたくなります。ある日急に出かけたくなるものなのですが、社会から与えられた役割りを放棄するわけにいきません。数日先の状況を見据えて、実行日を決定します。

出かけるのにただ「自分探し」ではわからない自分が迷うので、行動目的を決めて出かけます。そんな時に便利なのはショッピングと写真撮影です。今回は「都会の夜景と紅葉を撮影する」ことを目的に出かけました。

東京は紅葉というより“黄葉”でした。紅葉の季節が終わり、黄葉したイチョウがの葉が落ちて冬を感じた景色でした。下記は東京駅を真っ直ぐ皇居方面に歩いたところです。銀杏並木の先に二つの丸ビルにはさまれた東京駅舎が見えます。

上の写真は日比谷公園で見つけたツワブキです。先日、kyomaikoさんのブログでこの季節に咲く花ということで知りました。黄葉の葉の下でさらに黄色の花が夕日に照らされていたため、黄色の空間に入った感覚でした。きれいでした。

 

夜景は次の機会に載せます。

 

【12/13修正】

以前掲載した写真を削除し、新しく貼り付けました。同じものですけれどね。

 

 

 

 


2007/11/24 19:00
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紙風船(ちょっと追記)

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ヨンジュンさんの怪我は演技ができるくらいであると公知を読み理解しました。もしかしたら、アクションシーンなど傷を負った部分に影響する演技は代役を立てているのでしょうか。そうだとすると、ヨンジュンさんは身体以上に心は辛いでしょうね。自分の描いた行動ができない悔しさを耐え、作品のために俳優として今どうすべきかを考え、方向修正されて取り組んでいることと思います。

自分を直接語らない彼。タムトクである彼の映像を見て、そんなことを考えてしまいました。

 

これまでもヨンジュンさんの演じたキャラクターに恋してきました。はじめはミニョンさん、そしてドンヒョク、インス、チャヌ・・・。みな違うキャラクターなのに恋してしまうのは元がヨンジュンさんだから?今度のタムトクにもドキドキしちゃっています。

私は『太王四神記』の放送はまだ観ていません。12月3日待ちです。現在はあちこちのHPやサークルで紹介された映像や画像からタムトクの人物像を想像しています(・x・ ).o0○また、ネタバレの記事を読んでストーリーやセリフを理解しています。

そんなことを繰り返していたところ、戦うタムトク、怒りの顔、スジニやキハを見る目、思案する姿などを見た私は心臓がバクバクするようになってきたんです。胸のキュンとする感覚。これはまさしく恋だ!゛ (゜・゜*しかもわりと重症・・・かも・・・。

恋・・・なんですよ。「愛してる」ではなくて「恋している」んです。“恋”と“愛”ってどう違うの?と少女のようなことを考えていると眠れなくなる私です。

 

ジャーン!ここで電子辞書の登場です。複数検索するといろんな辞書で引いたのと同じになるから便利です。

 【恋】

一緒に生活できない人や亡くなった人に強く引かれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。(広辞苑)

①{動・形}こう(こふ)。こいしい(こひし)。断ち切れずに心が引かれる。思いわびる。いつまでも慕わしく心が乱れるさま。②{名}こい(こひ)。男女が慕いあって思い乱れる気持ち。(漢字原)

love(和英辞典)

사랑 .  연애(日韓辞典)

 

 【愛】

①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。②男女間の相手を慕う情。恋。③かわいがること。大切にすること。④好むこと。愛でること。⑤おしむこと・・・など(広辞苑)

①{動}いとおしむ(いとほしむ)。いとしむ。かわいくてせつなくなる。②{動}めでる。好きでたまらなく思う。また、よいと思って、楽しむ。③{動}おしむ(をしむ)。いとおしむ(いとほしむ)。おしくてせつない。もったいないと思う。④{名}かわいがる気持ち。いとしさ。また、キリスト教で、神が人々を救ってくれる恵の心のこと。《類義:惜》(漢字原)

love ,affection,heart,など(和英辞典)

사랑, 애정(日韓辞典)

 

“愛”の方が対象が身近な存在のように感じますね。また、結構覚悟ができている状態とも言えましょうか。“恋”は落ち着かず相手に近づいて行きたい気持ちに思えます。ネット検索すると、恋はドキドキしたときめきで、独りよがりで、時間がいらないものと表現していました。それは愛と比べてどう違うかということなので、愛は現実的で、時間をかけて育て、相手を大切にするものだそうです。

さらに漢字源を詳しく見ると「恋」は「戀」。もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられない。それに心が加わり、心が様々に乱れて思い切りがつかないことのようです。ないものをほしがる「慕う」心と類似しているともありました。

 

私のタムトクに対する気持ちはまさしく“恋”です。ヨンジュンさんの演じた非現実な存在に対してもっと知りたい、見たい、近づきたいと思う自分勝手な心の動きですもの。しかもジェットコースターのように陥ってしまったのですから。

じゃあ、ヨンジュンさんに対しては?たぶん”恋”かな。彼の言動に一喜一憂してしまう私。画像を集めたり、カゾクの皆さんと彼の話をしたり、彼の持ち物と類似したものを欲しくなったりします。彼と近い存在になれるわけないのに、近くに感じたい心は乱れ、落ち着きません。でも、それが結構楽しかったりもするんですよね。

恋する相手の中に自分と同じものを探す、または自分が相手と同じでありたいと真似ることは同一化しようとしていることなのかもしれません。それは、相手の中に理想の自分を求めていることなのでしょうか。だから現実的でない方がいいわけです。

 

多くを語らないヨンジュンさんはそんな自分の役割りがわかっているかのようですね。怪我をした時でさえも“俳優ペ・ヨンジュン”として私たちの前に存在するということは、そういうことなんだと思いました。「痛い」「辛い」「苦しい」とかいう部分は自身の口からは表現しないのでしょう。それは私にとっては身近な“愛”の対象からは遠のくことであると考えられました。しょうがないか。

もしかしたら、後から今の辛さを語るかもしれません。でも、その時は困難を乗り越えて成長したヨンジュンさんが語るのだから、私が愛おしいと思ってもそれは過去の彼。やはりいつまでも自分とは近くない憧れの存在でしかないのでしょうね。ずっと切ない私だわ。

 

 

上記写真の紙風船ですが、便箋や封筒の束の中から出てきたものです。昔、季節を感じる便箋やお揃いの封筒を買うのが好きでした。今のようにインターネットや携帯電話のない頃は、よく友達に手紙を書いたものです。でも恋する人に自分の思いを綴ることは容易ではありませんでした。たぶん書いたことはあります。(@⌒ο⌒@)b ウフッ

本当は青空を背景に宙に浮いた紙風船を撮りたかったのですが、風で飛ばされちゃうし、シャッター押せないしで断念。そこで手に持って太陽の光を透かしてみました。

 

追記

コッキーさんのブログを読んで彼の恋を応援したくなりました。彼の彼女を慕うことで乱されつつある心が記事から伝わってきます。いっぱいドキドキしてね。駆け引きをしている時間ってすごい楽しいんだから・・・

 

 


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