2012/01/22 09:06
テーマ:感情と心 カテゴリ:趣味・特技(その他)

大寒

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一年で一番寒い“大寒”です。冷たい雨や雪が降ったりして、大寒らしい気候です。

     



昨年、20年以上前からの同年代の友
にいつもとは違う変化がおきました。

一人ではなく何人かに・・・。
 

関西方面にお嫁に行った彼女は「食事がとれず1ヶ月で9Kg痩せた」と急に電話がきました。

高校の同級生だった彼女はうつになって仕事を辞め、さらに自己破産をしてしまいました。

また、一緒に働いたことのある後輩は仕事を続けられなくなって職場を離れました。

40代後半の女性たちだけがこんなに疲れているのでしょうか?

 

   

昨年国賓として日本を訪問されていたブータンの国王夫妻。
ブータンは物質的な豊かさではなく、伝統や文化を重んじて心の豊かさを大切にしようという考え方で国作りが行われているということでした。心理的な幸福、家族や友人との絆、文化や環境の保護などを指標として政策がたてられるとか。物やお金があること、便利なこと、豪華なことなどが幸せのものさしではないということなのだろうと思いました。

科学技術や産業の進歩によって、めまぐるしく変化する世の中はどこに向かっているのか・・・。この変化は地球に存在する生命にとって幸せをもたらすものなのかと私も思います。

 

現在、日本のエンゲル係数はどんどん減少しているのだそうです。消費者がより値段の安い食べ物を求めていることが一つ要因になっているとどこかで聞きました。反面、通信やゲームに莫大なお金を使っているとか。
どこに日本人は価値を求めているのでしょう。
生きていくために欠かせない“食”には価値をおかなくなったように思ってしまいます。

 汝とは汝の食べたものである

福岡伸一氏の『動的平衡』に書いてあった言葉ですが、とてもお気に入りです。最近、味の素のコマーシャルでも「あなたはあなたの食べたものでできている」と同じことを伝えていて嬉しくなりました。

 

   

ブータン国王の国会での演説は、日本の伝統的な価値観を褒めて震災を受けた国民を元気づけてくれるものだったと思います。

「他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。」

 

日本人の伝統的価値観および資質ってこういうものなんだと改めて気づかされました。でもうまく伝承されているのかなあ。
インターネットの普及でユビキタスな社会がどんどん推進されてきて、世界の国々の物理的垣根が小さくなってモノの往来が簡単になりました。人々の心もそれによって大きく変化したでしょう。だけど、日本人の心が置いていかれてないかなって思います。

 

ワンチュク王の慶應義塾大学での講演も翻訳されてネットで見ることができました。

「多様性と変化に富んだ世界において、一つ明確なことがあると私は感じています。それは、個人の独立と無関心の度合いが大きくなってきているということです。高度に技術が発展した世界では、小規模で真の意味での人間関係を築く必要性はもはや高くありません。私たちはすでにひとつの「グローバル・ビレッジ」になったのかもしれませんが、そこには、個人という島々がバラバラに存在しています。私たちは、携帯電話のようなコミュニケーション・ツールを持つ一方、自然で親密な人間の絆を持っていないのです。」

 

繋がっているつもりでつながっていない、人々が孤独感を感じているのは事実です。
震災後に結婚する人が増えたといいます。家族の大切さ、人とつながる大切さ、助け合う絆を日本人は東北の方々に教えていただいたのではないかと思います。
人は競争原理、成果主義だけでは生きていけないわけで、映画『
Always三丁目の夕日』で描かれているような、貧しくても人々が繋がっている社会がちょっぴり恋しく思いました。

   

 

私の友たちは社会の中でもまれて苦しんで疲れてしまったのかもしれません。それでも生きていくために次を見据えて懸命になっています。
現代社会のツールであるメールや携帯電話を使って、たまにはつながりを確認してみようかなあ。


寒い大寒のあとは立春です。



写真について

タイトル下:軽井沢プリンスの池(1月1日)
次とその次の2枚:軽井沢矢ケ崎公園(1月2日)
*軽井沢大賀ホールで金聖響さん&シエナ・ウインドオーケストラの演奏を聴いた帰りに撮影。


最後1枚:日没直後の昇る満月(1月9日)
*自宅近くで撮影。


2009/12/27 16:10
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『涙の理由』

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クリスマスに同年代の方々とお酒を飲みました。おふたりは大学の先生で、学生実習を通じてお話するようになりました。一緒にお酒を飲むくらいにお近づきになれた先生たちは初めてです。それにしてもクリスマスの金曜日に3人とも用事がなかったというのはなんともはや・・・(*゚.゚)ゞポリポリ

3時間ほどおしゃべりしながら、おいしい料理を食べながら、ビールそして赤ワインを飲みました。一人の先生は全くお酒がダメなので、ふたりでワイン2本、つまりひとり1本のんだことになるかな。お酒が入ると気持ちが緩んでたくさんおしゃべりしてしまう私。ついつい職場の愚痴が出てしまいました。おふたりが私の愚痴を聴いてくれたという形です。本当は先生たちの話ももっと聴こうと思って、一所懸命話を振ったのですが、二人とも聴きだすのがうまくて、つい私が乗せられてしゃべっていました。なんだか、お兄ちゃんやお姉ちゃんとしゃべっているように暖かでした。

先生たちと話をしていて気がついたことは、今の私は孤独を感じているのだということです。先生たちも職場の組織で嫌なことがたくさんあるそうです。でも、何かあるとお互いの研究室に駆け込んで「ちょっと!聴いてよ!」と思いを分かちあっているのだとか。同士がいるということのようです。自分だけがそう思うのでないと知ることができ、話すことで感情が整理されて収まるのでしょうか。
「誰かに話せるといいのにね。」と先生たちに言われました。


最近、茂木健一郎氏と重松清氏の対談の本『涙の理由』を読みました。“泣ける”とは何ぞや、“人はなぜ涙を流すのか”ということを小説家と脳科学者が彼らの考えで突き詰めた本です。ちょっと言葉が難しいというか、立ち止まったり戻ったり読み返したりしてイメージを膨らませないと、対談の文脈がわからなくなっていまいそうでした。でも、このところちょっとしたことで涙が出てしまう自分、人が涙を流したいのはなんでだろうという興味があり、一気読みしてしまいました。
実は、この対談のおふたりも1960年代前半生まれで私と同年代なんですね~。まあ!世間を素直に見ていないところは似ていますが、やはり自分よりも知識や経験が豊富な大人に見えます。


“泣く”というのはよほどのことのはずなのに、“泣ける本”とか“泣ける音楽”とかいうのが世間に出ていることを彼らは懸念しています。

茂木氏は「お手軽に泣けるブーム」「優しさの談合」と言っています。笑い(微笑み)が優しさを示すものから攻撃的な嘲笑になって「自分の安全を守る談合」になり、涙が「自分は優しいという談合」になっているのではと言うことです。また「泣けた」は自分の責任であるが「泣ける」は作品の特性を表現しているもので、自分を棚上げにした匿名性があると。
これについては私も街頭インタビューで感じることがあります。「いかがでしたか?」とインタビューされた人が「〇△□で良かったです。」と答える人が多いからです。これって行事や体験の内容を評価している言葉で、自分がどうなのかということを言えてないように思います。“私”という個人が無いということです。

この対談の最初は“やるせない”という感情から入っていました。“やるせない(遣る瀬無い)”というのは受け入れがたい事態にどうすることもできずにどうしようもないさまということができるようです。対談では下記にように言っていました。

『平家物語』でも歌舞伎でも、人が自分では動かしがたいものに合わせようとするときに、矛盾が出てきて泣くんです。個人の力では、どうしようもない部分に合わせて何かをしようとしたときに、無理があるから涙がこぼれる。【茂木氏】

1枚の絵を見て、音楽を聴いてガーンという衝撃のように感動して涙することもあります。それは抽象的なものに向き合った時の涙で、得たいの知れないものにぶつかった感動であると重松氏は言っています。

涙は言葉にできない感情なのかなと思いました。感情の興奮を鎮めようと副交感神経が急に働いて弾けたようになった時に涙が出る・・・と私は思っていますが、そういう身体変化についてはこの本にありません。でも、涙を流す理由は人それぞれで、現実のやるせなさや抽象的で偉大なものにぶつかった時に、過去の体験や記憶などが複雑に絡み合って流すのかなあと考えました。

この本が一番いいたかったのは、涙を安売りするなということだと理解しました。「キレる」と同じように涙を流す回路のリミッターが低くなっている日本人がいるのかもしれません。そういえば、NHKの「Cool Japan」で“涙”を取り上げていたとき、日本人は泣くことが純粋でピュアなものだから隠さないし、すぐに泣きたくなると言っていました。なんでも泣くためのサークルもあるとか。泣きたい日本人がいることは確かです。私も含めて・・・。
   

大学の先生にこの本のことと、私が涙に興味があるのだということを話しました。するとお姉ちゃん先生は「私は泣かないからなのか、涙に興味をもったことはなかった。」と言いました。うへ?
泣きたい人ってなんだろ?「泣く」「涙を流す」ことはわざとすることではないのだが、そういう状況に自分をわざともっていって泣こうとする日本人がいるってことなんだよね。私を含めて。それって、やりきれない何かがいつもひっかかっていて、もう一押しして泣いちゃえってことなのかしら?

自分だけの涙を流すためには真剣に生きていかなければならない。「やるせなさ」や「やりきれなさ」に向き合わないとならない。【茂木氏】
それは、おしめが濡れて赤ちゃんが泣くというような、不快感やどうしてよいかわからない中で涙を流すという「涙のトレーニング」が必要だ。【重松氏】

現代の日本人は「やるせない」「やりきれない」不快感を発達段階であまり感じてないのかもしれません。その結果、「泣く」ことがブームになるような事態に陥っているということでしょうか。よくわかりません。
こんな言葉もありました。

泣くことはよほどのことで、「なぜ泣いたのか」を伝えることは「自分の一番大切なものを人に見せる」こと

自分の大切にしているものが非常事態になるとやるせなくなって涙が出そうになると解釈しました。そういうことかな。なんとなくモヤモヤ感が残っています。もう一度この本を読み返して、深読みしてみないとダメですね。


本日の写真はあまり記事とは関係ないですね。
タイトル下はカフェのお砂糖をドミノのように並べて撮影したものです。
次のがそのカフェで黒磯市のCafe SYOZOの店内です。
夜景は先日京都で撮影した大覚寺です。


2009/12/13 14:40
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地下道

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恐い夢ほどよく覚えているものです。しかも、10年くらい前から同じような夢を何度も見ます。ここで言う夢は眠っている間に知覚するもののことです。覚醒している時に描く“願望”とか“希望”ではありません。


私がみるいや~な夢は「追われる」「殺されそうになる」「逃げる」「隠れる」・・・といったものです。私を追ってくるものは未知な人(誰なのかわかりません)で、どうも銃かナイフをもっているようです。その人に見つかると自分は殺されてしまうらしいので、とにかく見つからないように隠れつつ逃げます。細い路地や狭い部屋や何かの陰に隠れたり、道を走ったりしています。しかも、私はいつも戦争に巻き込まれた状況にいるようです。敵に襲われるってことかなあ。

夢のメカニズムははっきりしていないのだそうですが、その人の記憶が大脳で作り出す現象であるということだけは明確です。分子生物学者・福岡伸一先生の本に、記憶はどこかに蓄積されているものではなく、脳の細胞をめぐる刺激の伝達経路の一致性ではというようなことを読みました。何度も同じ夢をみるということは、その経路を何度も刺激が通るってことなんでしょうかね。


夢分析、夢診断、夢占いというものは、夢に意味があるという考え方からきています。wikipediaには下のように説明がありました。本当のところどうなんでしょう。

寝ながら見る夢では、その人の普段は抑圧
されて意識していない願望などが如実に現れるケースも多いとされる。ただ、それらは誇張されていることも多く、結果的に現実としては不可解な現象で表現されることが多い。

夢分析は自己分析のひとつとしての考え方です。深層心理を夢の中に探し、本当の自分を見つけ出すということかな。フロイトは性的な抑圧と結び付けた判断が多いようです。彼の研究した当時と現代社会の状況が合わないので、無理があるとも言われています。
夢占いは将来と結びつけて、願望とかこれからおきる危機とかを表しているってことなんですね。未来を予言しちゃうってことかい?


一般的な夢診断から私の夢を考えると、何か現実に体験している問題(ストレス?)から逃げたい、解き放たれたい、自由になりたいと思っているということなんでしょうか。
他に、一生懸命電話をかけるのに番号を間違えて通じないとか、自分の家を見上げて「ここは昔私が住んでいたところなんだ」と悲しくなるとか、大声を出して呼んでいるのに相手には聴こえないとか・・・。なんだか苦しくなってくる夢が多いです。30代のころは金縛りも結構ありましたが、最近はすぐ目が覚めるためかそういうことがありません。


恐いといえば、私は暗闇とか狭い閉鎖空間が苦手です。だから、エレベーターはあまり好きではありません。ホテルとかもできれば窓の大きな部屋を選択します。観光とかでも地底に行くようなことはできれば避けたいというか・・・。出てこられなくなってしまいそうな恐さを感じます。
いつだか甲斐の善光寺で胎内巡りをしたのですが、私、足が止まって前の人についていけなくなり、さらに恐怖を味わいました。もう絶対に行かない!見えない恐さ、圧迫される恐さの両方が重なったんですね~。


恐いとは少し違いますが、苦手な人ってあります。コミュニケーションをとろうとすると“恐い”と似た緊張感が沸いてくるんです。私の言葉の端を取り上げて、何か攻めてくるような雰囲気を感じるんです。そんな時私、無口になります。言ってもうまく伝わらないというか、本当の自分を知られたくないというか、言わないほうが自分を守れるような気がするんです。


私の心を襲うものたちの正体ってなんだろうと思いました。小さい時の何かがトラウマになっているんでしょうか。それは克服すべきものなのか、それが私なんだってあきらめて生きていくか・・・。ただ、恐い思いをした時は「誰か助けて!」っていつも思っています。

  

 

 


タイトル下の写真は名古屋の地下です。なんか不思議な世界でした。

新幹線のホームからの夕日がきれいでした。その右は八ヶ岳登山の時にであった道です。昔、トロッコでも通っていたんでしょうか。人の生きる道は新幹線のように整然とはいかないだろうなと思って・・・

次の左は浜松の方にある鍾乳洞の中、右は八ヶ岳を登山する後輩です。1本道より、彷徨いながらも抑圧されない道の方がいいですねえ。

最後は先日大覚寺で撮影したライトアップされた紅葉のトンネルです。灯りの灯された広い道っていいなあ。


2009/01/03 05:55
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富士山(ちょっと追記)

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正月の画像に富士山てよくあります。このブロコリのブロくんの画像も新年と同時にそうなりました。元日の新聞に掲載されているいろんな会社の新年の挨拶にも富士がたくさん使われていました。
じゃあ、d(@^∇゚)/・・・ということで、今年は喪中で新年の行事のない私は、富士山の写真を撮影しにちょっと港へでかけてみることにしました。

  Coming out from Tago's nestle cobe,
  I gaze
  white, pure white
  the snow has fallen
  on Fuji's lofty peak   

                  

これはあの有名な山部赤人の下記の歌をリービ英雄氏が翻訳したものです。

  田子浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ
      不尽の高嶺に 雪は降りける
 【巻3・318】


元日の夕方、NHK BS-hiで『万葉集への招待』という番組をやっていました。そこでこの歌も紹介されていたのです。ちょうど雪を被った富士山を撮ってきたばかりなので、うれしくなってしまいました。


実は3時間にもわたる番組、私が目にしたのは第3部だけでしたが、とても興味深く惹かれるものがありました。本日1月3日9時より再放送があるので見逃さない!録画するぞ!と意気込んでいるところです。
この番組はNHK教育で放送されている『日めくり万葉集』の特番のようです。『日めくり・・・』は5分に1首を放送するもので、昨年1年間放送されていましたが、今年も1月5日からまた繰り返してくれるようです。

NHKの番組ホームページです。↓
  http://www.nhk.or.jp/manyoushuu/bangumi/index.html    


特番を見て、1200年も前に編纂されたこの歌集のすばらしさを改めて知りました。
万葉集には人々の感情を素直に表現した歌が4500首も掲載されています。しかも、皇族から一般庶民まで身分に関係なく網羅されているのです。それってすごいです。また、当時の政権中心地であった大和だけでなく、日本全国の人々の歌があります。


 神代より 言い伝えて来(け)らく そらみつ 倭の国は
 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 
 言霊(ことたま)の 幸(さち)はふ国と 
 語り継ぎ 言い継がひけり  

                    山上億良 【巻5・894】〔抜粋〕

 神時代の昔から言い伝えられてきたことですが、
 大和は国を治める神が威厳をもって守る国、言霊が幸をもたらす国と
 語り継ぎ、言い継がれてきました。


これは唐に向って船出する遣唐使に送られた長歌の冒頭部分です。神の国日本を讃えているので、たぶん先の戦争中はものすごい解釈をされて使用されちゃっただろうと想像がつきます。

億良は語学に長け、学識があり、彼自身も遣唐使として唐に渡っており、大宰府の役人としても赴任しています。無名であったということですが、朝鮮半島からの渡来人ではないかという説もあります。

番組で注目しているのは“言霊の幸はふ国”という部分です。簡単に解釈すると“言葉が幸せを呼ぶ”ということになります。言葉にして口に出すのは願いが叶うことなのだという意味もあるのだそうです。
言葉にするというのは誰かに気持ちを伝えるということです。察する文化だと思われがちな日本ですが、古はそうではなかったのですね。この歌集が編纂されるほどたくさんの古代人の心が残されているのですもの。しかも、歌になっているってことは吟味、選択された言葉なのでしょう。読むと美しく、きれいに響いてきます。今のメールとはちょっと違うかな?

考えさせられました。「わかってくれない」が飛び交う現代社会、日本人は言葉をどうしてしまったのでしょうか。伝え合っているのでしょうか。


万葉集にある歌はいつの時代の人の心をも代弁できるようです。自然を愛しむ気持ち、恋愛、子を思う親、親を思う子、友に伝えたいことなどなど・・・。特に戦争中は出兵に際しての本人、家族、愛する人の本当の気持ちはあからさまにできなかったため、防人の歌などが使われたそうです。「私の気持ちは万葉集の何番です」という手紙になったのですね。人の心って本質部分はあまり変わっていないのだってわかります。


いろんな心が表現されている中で、今回私が気に入ったのは下記です。

 験(しるし)なき 物を思はずは 一杯(ひとつき)の
  濁れる酒を飲むべくあるらし
               
大伴旅人 【巻3・338】

 まあ、しょうもないことを考えて悩むよりも、
 お酒を一杯飲んだほうがいいさ。

これって仕事に疲れたお父さんが屋台で一杯ひっかけているような景色が浮かんでしまいます。旅人の「酒を讃むる歌」の一首だそうです。番組でも言っていましたが、隣に1300年前の友がいて、なぐさめてくれているみたいです。

     
  
冒頭の赤人の歌「田子の浦ゆ・・・」は言葉通りの景色を表しています。“田子の浦”の後に“ゆ”とあるので、「田子の浦を出発してしばらく行くと、真っ白な雪を被った富士山が見えた」ということのようです。歌川広重の東海道五十三次にある富士と海(波)の画、ちょうど由比の薩た峠と同じ辺りかもしれません。あの風景は古の人も、江戸の人もきれいだと思ったのでしょうね。
私のタイトル下の写真は、対岸の埠頭が興津となるので、ちょうどキリンのような鉄の建造物3つの後ろの山が薩た峠のある山ってことになるかしらん。

リービさんの訳はステキですね。「真白にぞ」を“white,pure white”と言い換えで表しているんですもの。彼は日本語で小説を書く西洋人です。日本語と英語の表現の差にあるズレを埋めるように言葉を選んでいます。彼の翻訳した万葉集を読んでみたくなりました。英語がわからないから、和書で・・・。

《追記》
「田子の浦ゆ・・・」の歌は視覚的なただ景色を写実的に表現しただけではないものが読み取れるのだそうです。山に囲まれた道を歩いていたら急に富士山がドーン見えた。その時の人の心の動きが詠まれています。見えなかった(隠れていた)壮大な神秘的なものが見えた驚き(感動)が、「真白に」に“そ”がついていることと、「降りけり」ではなく「降りける」になっていることで強調されているのだそうです。
なるほどな~。万葉集は風景の歌ではなく、人の感情の歌であるって頭において詠まなくちゃいけませんね。


最後に、万葉集の一番最後の歌です。


    
新(あらた)しき 年の初めの 初春の 
            今日降る雪の いや
頻(し)け吉事

                    
大伴家持 【巻20・4516】 

新しい年の初め、立春も重なった今日、雪も降ってめでたい。このようにいいことがいっぱい重なりますように。

    
 


2008/10/29 08:46
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“泣く”ことが流行っているのだそうです。流行るってどういうことかというと、小説を読んだり、ドラマや映画を観たり、歌を聴いたりして泣きたい人が増加しているのだそうです。しかも、何度もそれを繰り返すということで流行っている・・・っていうことです。
夕べも「泣き歌」という視聴者を泣かせるための歌番組がありました。

そういえば私も時々泣きたいと思うことがあります。ドラマやドキュメンタリーや映画を観て泣くことはしょっちゅうです。アニメでも泣いてしまいます。でも、その心の動きって嫌じゃないんですよね。気持ちがいいんです。くり返したくなります。冬ソナを何回も観たくなったのはそのためじゃないかしら?


2005年の『四月の雪~再会~』イベント(さいたまアリーナ)ははじめから涙でした。ヨンジュンさんに会えた嬉しさやイベントのストーリーが涙を誘ったのでしょう。そういえばイエジンさんは大泣き、ヨンジュンさんも涙をこらえたような顔でした。

お酒を飲んで心のコントロールがうまくいかない状態で興奮してしゃべることがよくあります。すると、いつの間にか涙が出てくるんですね~。泣きながら訴えている風です。

生の音楽を聴いていると知らぬ間に涙が流れることがあります。歌詞の内容に情景が浮かんでというのではなく、クラシックの場合演奏そのものが私の何かを刺激するようです。そういえば“のだめ”でもそういうコンサートの場面がありました。

美しい自然の中に身を置いた時も感動して涙が出そうになることがあります。泣きたいというのは感動がおこす涙ということでしょうか。


では、何故泣きたくなるのでしょうか。しかもわざわざです。
泣くって身体がどのようになることなんでしょうか。

  


涙を出すのは自律神経の副交感神経の働きによるものだそうです。

自律神経は交感神経と副交感神経という一見相反する作用の2つの神経があります。
大まかに言うと、交感神経の活動亢進はキャノンという人が「闘争か逃走」の準備反応と呼んだ身体の状態を作ります。内臓よりも筋肉に血液を集め、脈が速くなり、血圧が上昇し、呼吸が速くなり、瞳孔が大きくなり、唾の分泌が少なくなり、胃腸活動が抑えられる・・・。まあ、緊張している状態って考えればいいのでしょうかね。
胸がドキドキして息が速くなる、手足が冷たく汗をかき、口が渇くけどお腹は空かないっていう体です。

副交感神経は筋肉をやわらかくし、胃腸の活動を活発化させ、瞳孔を小さくし、血管を開かせます。結果、体を休ませようと眠くなり、栄養を貯えるよう食欲が出ます。


交感神経と副交感神経は身体全体のバランスを保つようにお互いを調節しあいます。交感神経の活動を亢進させるような何らかの刺激が体にあったとします。その活動が続いたり強すぎると体は壊れてしまうので副交感神経がバランスをとろうと活動します。
つまり、2つの神経はどちらかが働いてどちらかが休むとかいうものではなく、どちらも働いているわけです。どっちが強く働いているかで身体の反応が違ってくるのですが、両方から強く引っ張られたら体は疲れるでしょうねえ。


ところが涙腺って副交感神経だけが支配しているようです。つまり、交感神経が緊張したからといって涙が出なくなるってことはなく、副交感神経の働きが強いかどうかだけで決まるようです。身体全体として交感神経の方が強く働いて興奮していても、副交感神経がそれなりに強く働いていれば涙は出るって考えられます。

   


  


涙には目を潤すために分泌される「基礎分泌」と、ゴミが入ったときに分泌する「刺激性分泌」と、情動反応が自律神経に影響して分泌を促す「情動性分泌」の3つがあるそうです。
感情の変化で泣くっていうのは情動性分泌だってわかります。

情動というのは怒り、恐れ、悲しみ、愛情、喜び、嫌悪とかの急におこる激しい一過性の生理的変化や行動を伴う気持ちと言えばいいのかなあ。言葉で表現されるというよりも身体変化として現れ、生物が生きていくのに必要な原始的なもののようです。恐くないと危険を遠ざけることができないし、子供を愛しめないと種が保存できないからです。大脳辺縁系というところが起源になっているとか。
感情はもっと複雑な機能で、大脳皮質と関係する・・・つまり、記憶とか思考とかも関係するため、言葉にすると多様であり、想起でも起こり、起こっても表面にでないことがあります。しかし、感情は情動反応を引き起こすきっかけをつくるともいえます。


実は自律神経系と感情の関係がはっきりしているのは拡張期血圧と心拍数と指先の皮膚温だけだとか。つまり、どの感情がおきるとどんな自律神経反応がでるのかっていうのははっきりしていないそうです。それは感情と情動反応の関係が明確になっていないということなのでしょう。
なので、私は自分勝手に感情が流涙させる機序を解釈することにしました。

涙は怒りとか恐いとか交感神経だけが働いた身体では出ないわけです。それをおさめようと副交感神経が急に働いた時に出る情動性反応ってことになるのかなあと思いました。
緊張が強い感情は嫌だからそれを収めてホッとしたい感情が副交感神経の働きをおこし、涙を出すということです。
以前、懐かしさについて考えたことがありました。胸を詰まらせる寂しい想いで興奮した身体を郷愁という感情が副交感神経を急に刺激して収めていくのではないでしょうか。
悲しみは交感神経と副交感神経が入り混じった情動反応が起きているのではないかと思います。感情のコントロールがつかない状態をつくり、自律神経の活動もいろいろ??

私の考えた結論は、涙が出る(泣く)時は感情が高まった緊張した状態からホッとした収まりたい状態に急に変化するときに起きる情動反応ではないかということです。




情動は生きていくためにコントロールをつけられませんが、感情は大脳皮質が絡んでくるのでコントロールをつけられるのだと思います。人間には理性とかいうコントローラーがありますから。
スジニ役のジアさんがタムドクとの別れのシーンを撮影する時、涙が止められなくてどうしようもなかったとおっしゃっていました。感情の高ぶりが大きく、大脳辺縁系を刺激し、自律神経が興奮し、情動反応の収拾がつけられなかったということでしょうか。
ヨンジュンさんが『四月の雪』の時、感情を外に出さない演技が難しかったとおっしゃいました。感情を素直に出す方がたぶん楽なんでしょうね。感情をコントロールしないとその結果である情動反応は素直に表現されてしまうのですもの。

もちろん、感情がおきることがなければ情動反応は単に生物的な反応でしかなくなり、大脳の発達した人間としては貧しくなってしまいます。


「泣きたい」と思う最近の人たちは、感情の揺れからくる身体変化の感覚を楽しんでいるのではないでしょうか。泣きは、緊張した身体を緩めようとするの神経の動きが感情とともに一瞬に起きる変化の結果であると私は考えます。
いつも一定で幅のない感情でいるのはつまらないと思います。一定という意味ではいつも楽しいとかいつも喜びだけ感じていても同じです。快と不快は両者が繰り返されるから感じるもので、それに自律神経という身体の感覚も加わる泣きは、心と体が同時に不快から快に移動するとても気持ちのいい感覚なんだと思います。
ただ、これも連日繰り返していたら慣れちゃうかも??


あるテレビ番組で“泣く”ことを「ストレス発散」という言葉で片付けてしまっていましたが、それは安易すぎます。「ストレス発散」するとはどういうことなんでしょう。ストレスとは発散するもの?
これはまた別の機会に考えることにします。





とても長い文章になってしまいました。本を読んでも感情と身体の関係は良く理解できませんでした。本を読んでいるとなるほどということはあるのですが、いざ自分の言葉にしようとするとチンプンカンプンです。なので今回は私の頭の整理のブログみたいになりました。

タイトル下の写真は堀の石垣にはまり込んで休んでいる鳩たちです。彼らにも生きていくための情動反応はあるでしょう。感情についてはわかりません。あったとしてもその表現は人間には理解不能です。

能面は見る角度で表情が違って、多彩な感情を表現できるのだとか。私にはわかりませんけど・・・。

落ち葉と花は先日の紅葉と同じ時に撮影したものです。季節の変化があるからワクワクします。左の黄色の花の名前はわかりません。ニガナかなと思ったけど、ちょっと違うかな。右はホトトギス。花言葉は「秘めた意志」または「永遠にあなたのもの」だとか。木々の下にひっそりと咲いていました。


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