2007/04/29 09:06
テーマ:自宅 カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

スズラン

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自分勝手に“君影草”と思い込んでいる我が家のスズランが咲きました。女性が葉の影に隠れているという様子を表現したいとがんばりましたが、いかがでしょう。やっぱりスズランを撮影するのは難しいです。

広角にするとこのようになっています。にぎやかでかわいいです。

 

今日は最近撮影した植物でブログの記事にならなかったもんをいくつか掲載します。だから、文章なしです。

ピンクの花、名前?

父の植えた豆

ディモルフォセカかな?

もみじの新芽 

 

FAMILY BOOKのパズルをエクセルでやってみました。間違いがあるかもしれませんが・・・

 

 

 


2007/04/28 22:22
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

初夏の通勤路

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新緑のケヤキ並木の突き当たりは、色鮮やかなツツジの壁です。

これは現在私が通勤の途中で出会うことができる風景です。角を曲がってこの道に入ると、迫り来るようなつつじの壁から目が離せなくなります。私の受けたこの印象をなんとかカメラに収めたいと思い、写してみました。( ̄ヘ ̄)ウーンやや不満です。

自分が普段感じているものがこの写真にはないというか、違うんです。私にはもっとツツジが浮き上がっているように見えるんです。

 

人間の眼っていうのは、自分の見たいものが見えるようになっている・・・というと、それはちょっと哲学チック過ぎます。まあ、現実に今映っている像が必ずしも記憶に残るわけではありませんから、そういう意味では“見ている”ものが“見えた”ものではないと言えるでしょう。つまり、“見えた”は入力された視覚信号の記憶であるということです。

さらに、常に眼球は上下左右に動き、瞳孔は大きくなったり小さくなったりして脳に視覚信号を送っています。ですから、私が記憶している像はある一定期間に入力されたムービー映像から作られた絵であるとも言えるのではないでしょうか。

記憶して思い起こした絵は視覚で映した像と一致しません。記憶は人が生きてきた時間分が混在しているわけですし、様々な感情や視覚以外の情報(音、温寒、匂い、平衡など多くの感覚)によって同じ風景でも違う像として記憶されます。眠っている間の夢が記憶されることもあるだろうから、人が認知している現実は個人的なものなんでしょうね。

 

私がここを通るときに描く絵は、その時の私の頭の中にあるわけで、カメラで表現するのは無理なんだ・・・と結論つけることにしました。それでも、写真は自分の描いた絵を再度思い浮かべる手伝いをしてくれます。絵を浮かべることができるということは、その時に自分が感じたことを再体験することなのかもしれません。また、それはその時の自分を懐古することなのかもしれません。

 

さいたまアリーナのイベント『April Snow~再会~』の中で、私には忘れられないヨンジュンさんの言葉があります。

 「インスはあまり写真を撮るのが好きじゃないみたいです。」

インタビューで最近は写真を撮っているかと聞かれての返事でした。カメラ好きなヨンジュンさんがインスの時は撮りたくなかったということです。この言葉を聴いた時「なぜ?」と私は考えました。インスは自分を懐古したくなかった・・・?あまりに辛い体験をしていたと想像しました。

人は変化するものですから、ある辛い体験で傷ついた心も新しい体験を積み重ねることで変わっていくでしょう。辛かった体験も別の記憶と混ったり、風化したりして、再体験では違うことを感じるかもしれません。それは辛い体験だけでなく、どんな体験も同じです。

 

カメラで自分の見ているものをコピーするように写すことはできません。それは悲しいことですが、自分の眼では見ることのできない絵もカメラは造り出してくれます。それは楽しいことで、自分の記憶に取り込んで私の現実認知に影響を与えていると思います。

 

写真を撮ることが好きな私ですが、ただ好きなだけでいつもカメラ任せにシャッターを押しています。デジタルカメラはファイルに撮影情報が数字として記録されています。今回、上記写真の情報をちょっと自分で考えてみました。より自分の記憶に近い像を撮影する手がかりが得られるかもしれないと思って。

結果、望遠にしたらいいのではないかと考えました。私の使用しているレンズは17~85mmのズームレンズです。上記写真のデータは81mmとなっていました。最高の85mmまで望遠にして撮影したら、遠くのものがもっと引き寄せられて、ケヤキにツツジが接近して見えたかもしれないと思いました。ちょうど1/20に掲載した東京の街の写真のように。どうなのかな。。。o(゚^ ゚)

 

  

道の近くでみつけたクローバーのじゅうたんとタンポポの綿毛です。


2007/04/25 00:32
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

眼鏡

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私が眼鏡をかけるようになったのは小学校6年生の時からです。それまでは1.5まで見えたのに、急に近視になりました。両親とも近視のため遺伝なのかなって思っています。黒板の字が見えないからしょうがないなって思いましたが、妹なんか小学校2年生からかけることになり、嫌がっていましたね。かっこよくないんですもの。

小学生のころの眼鏡はピンクのセルフレーム、中学に上がってからは銀縁、高校卒業してピンク~金色っぽいフレーム・・・と見えなくなるたびに買い換えてきました。高校生以降はコンタクトも使用。目が悪いっていうのはお金がかかるし、不便だなあと思いました。

朝起きたらとにかく/(* o */)≡(\* o *)\ メガネメガネ・・・。眼鏡がいらないのは眠るときくらいです。

温泉など大浴場は見えないと危険なので、知らない場所では眼鏡をしたまま入ります。湯気で曇ってしまいますが・・・。コンタクトにすればいいんですけど。

スポーツしている時の眼鏡は汗で鼻からずれたり、ぶつかったときは痛いし、熱気で曇ったりします。

和服やドレッシーな服装の時、眼鏡だけがなんだか浮いてしまってピンときませんでした。

 

でも最近は眼鏡が楽しいですね。ヨンジュンさんに出会ったこともありますが、ファッションにあわせていろいろ取り替えることができ、とにかくおもしろいです。この歳になると近視はほとんど進まないので、いくつ購入しても何年もかけられます。老眼としての変化が気になるところですが、まだそのための眼鏡は必要ないようです。

 

上記写真は『眼鏡市場』です。眼鏡がザ~って並んで照明が当たっている風景がとてもきれいでした。いろいろな台を撮影させてもらったのですが、このセルフレームの台がカラフルで一番華やかでした。ついでに番傘も写っちゃったしね。

眼鏡ってどんどん安くなりますね。今いちばんのお気に入りの眼鏡はフレームがブランドものだったということもありますが、レンズ代が別で、さらにレンズの素材、圧縮、非球面、色つけ・・・としていったらどんどん高くなってしまいました。同じ店(市場になる前)で購入したのですが、今回購入したものが3本買えちゃうくらいの値段だったと記憶しています。

眼鏡がファッションとして成り立つのはこういう風に手軽に手に入るようになったからなんでしょうね。。しかも、短時間で出来上がります。また、カラフルさはガリ勉のイメージも壊しました。

 

お店ではちょうど新しいヨンジュンさんのCMのメイキング映像が流れていました。金色の屏風の前で真っ黒な衣装にやや赤めの眼鏡をかけたヨンジュンさん、それから、障子に白い衣装のヨンジュンさんです。これから様々なバージョンのCMを見ることができるのでしょうね。ワクワク♪o(^o^o)(o^o^)oワクワク♪です。

映像を見ながら店員さんとお話をしました。生島ヒロシさんの後任にヨンジュンさんが決まったことは社員も直前まで知らなかったとか、彼女としてはジャニーズ系の方がよかったとか、番傘編のメイキングでヨンジュンさんに眼鏡を渡している方は・・・とかetc.ウィークデイの日中でしたので、お客さんもほとんどなく、店員さんとの会話で楽しい時間を過ごしてしまいました。

黒と朱

金屏風編は黒の衣装に赤っぽい眼鏡。

同じ和のイメージですね。

眼鏡には関係ないですが、利き目っていうのがあるんですね。視力がいい方っていうのではなく、よく働いている側の目といったらいいのでしょうか。私はたぶん左です。カメラのファインダーを覗くのが左だからです。右でも覗けないことはないのですが、違和感があります。ヨンジュンさんは逆ですね。

 

 

 


2007/04/23 01:05
テーマ:HN(ソクラテス)について カテゴリ:その他(その他)

茶臼岳

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先日、知人たちと那須の茶臼岳に登山をしました。まだ残雪がありましたが、天気が良くて遠くまで見渡せ、眼下には那須高原が広がり、とにかく爽快でした。ここは車とロープーウェイでかなり高いところまで行けるので、1900mの頂上までは約1時間ほどで登れます。イオウガスの噴出する山で、写真でわかるように草木がなく、ゴツゴツした石や岩ばかりです。急な斜面ですから、登りはじめからかなりゼーゼーしてきます。苦しいです。こんな苦しい思いをして、なぜ登るんでしょうね。

 

今回は私のHNが“ソクラテス”となったわけについて記したいと思います。こんな堅苦しいHNで登録してしまい、本当はちょっと恥ずかしいです。下記の言葉から拾いました。

 満足した豚であるよりは不満をもった人間であるほうが、

 また 満足した愚か者であるよりは不満をもったソクラテスで

 あるほうが、より良い                【J.S.Mill】

これは19世紀イギリスの哲学・経済学者であるJ.S.ミルの有名な言葉です。彼の書物は福沢諭吉など自由民権運動の人々らに大きな影響を及ぼしたそうですが、私は彼のことをきちんと学んだわけではありません。また、彼の著書を読んだわけではありません。たまたま、19世紀のイギリスについて調べ物をしているときに出会い、この言葉を知りました。なので、浅い知識と偏った考え方で理解しているかと思います。

ミルのこの言葉は、ベンサムの『功利主義』である「人間の行為の根本的動機は快楽を求めて苦痛を避けること。快=善=幸福」をやや改変した思想の中で述べられています。ベンサムの主義は幸福と満足を混同して考えられているといわれ、「豚の快楽主義」と非難されたようです。また、社会の中の多くの人々が幸福であること、つまり「最大多数の最大幸福」を目標としたそうですが、利己の快楽を追うことと社会の幸福の繋がりが明確になっていないようです。

 

ミルは快楽は量ではなく質に価値があると言っています。また、人が本当に幸福を感じるのは自分の能力を活かして満足を得たときであるということです。つまり、快楽には高級なものと低級なものがあり、人間の知的活動が生み出した高級な快楽が人間を幸福にするのだ・・・と私は彼の言葉を理解しました。

この考えは人は進歩する存在であるということが前提となります。上記文の“豚”と“人間”、“愚か者”と“ソクラテス”の違いで、それが低級な快楽と高級な快楽に繋がるようです。そして、「個性の自由な発展が人の幸福に必要な要素である」と、人の進歩には自由が必要であると『自由論』に記しています。自由とはわがまま勝手に振舞うことを言うのではありません。他人に迷惑をかけない思考、感情、意見、生活などのことでです。

 人は自分自身に対しては、すなわち自分自身の精神と

 身体に対しては、その主権者である      【J.S.Mill】

幸福はそれ自身を直接目的として得られるものではなく、何らかの理想(例えば他人の幸福、人類の向上、芸術・学問など)を目標として追求したときに副産物として得られるのだそうです。幸福になるということは人間らしく生きていくということなのかなと考えます。しかも、常に“より良い”を目指して自分を進歩させていくこと・・・ウーン (Θ_Θ;)

社会の幸福の増大は個人の幸福の増大によるのだそうです。

 

私が考えられたことは以上のようなことです。ちょうどヨンジュンさんに夢中になり始めた頃にミルの思想との出会いがあり、何か一致するものを感じました。そのため、私はHNを“ソクラテス”にしたのです。哲学者としてのソクラテスについては何も知りません。

一生は有限なものですから、どうせ生きるならより幸福でありたいと思います。幸福はとりあえず欲求を満たすものではなく、能力を最大に活かして何かに取り組んでいくことであるとミルについて斜め読みして学びました。

最近の殺伐した事件を知るたびに、人間の能力ってなんだろうと思います。自らの欲求が満たされないことで他人を傷つけたり、命を奪ったりします。現代社会は生きていくことが難しいのか、人の生きていく力が落ちたのか・・・。そんなことも考えてしまいました。

 

ミルは倫理学を「人間性と人間社会についての科学に対応したアートの一部である」と言い、社会科学方法論として三段論法や帰納法についても書いています。知能指数が180であったという頭脳をもった彼について、私がきちんと理解できるはずもなく、このブログをまとめるにあたって、古い本をひっぱりだしてきました。

 

ところで・・・山に登ることは私にとっては快楽を得る行為のように感じますが、幸福に繋がるかは自分しだいなんでしょうね。

難しくて肩の凝りそうな話題になってしまったので、春の那須で撮影した花たちを最後に掲載します。

 

       ヒメオドリコソウ            キクサキイチゲ

 

 

     コブシ                       つくし

 

また、長いブログになりました。読んでいただいた方、感謝いたします。


2007/04/13 09:41
テーマ:自宅 カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

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韓国版「ホテリアー」の挿入曲『君に逢える日』が好きです。“君”っていうのは男性が女性を指して言っていることなんですよね。これが“あなた”であるとどっちかわかりにくいし、なんとも甘い雰囲気になるように私は感じます。「君」でよかった・・・。ちょっと切ない響きがありませんか?

 

日本語の二人称って相手に合わせて変化させるようになっています。・・・というか、一般的な二人称代名詞ってないのですね。普段、会話では相手のことを名前、肩書き、ニックネームで呼ぶことがほとんどだと思います。代名詞では「あなた」とか「おまえ」とか「あんた」がわりと使われるのかもしれません。あまり親しくなかったり、相手の名前がわからなかったりした場合は「お宅」、ちょっとガラが悪いと「てめぇ」でしょうか。古典の世界では「そなた」「そち」なんてのもあります。

どうも、昔はその二人称代名詞に「様」をつけて「貴方様」「お宅様」など結構敬意を表して使っていたようです。しかし、時代が下るにつれ低くなっていった気配があるようです。それでも手紙などに使用する場合は今でも「貴方(貴女)」「貴殿」などかしこまった表現を選択するでしょう。

 

“君”という代名詞は口語の場合、場面によっては顔をしかめたくなります。上司が部下に「きみ!」と言う時に使うことがあるからです。Wiktionaryによると「あなた」よりぞんざいで「おまえ」より丁寧とありますがどうでしょう。

 

万葉集に歌われているころの「君」は主君を表していました。大君は天皇のことです。

 月立ちてただ三日月の眉(まよ)根(ね)掻き

    日(け)長く恋ひし君に逢へるかも

                (大伴坂上郎女  万葉集6巻)

坂上郎女の想い人は穂積皇子でしたので、この君は彼であると想像できます。

しかし、時代が下ると歌の世界でも主君ではなくなってくるようです。

 君がため春の野に出でて若菜つむ

      わが衣手に雪はふりつつ

                (光孝天皇  古今集巻一)

百人一首で有名なこの歌の「君」は誰のことを指すのでしょう。男性の読んだ歌ですから女性かとも思われますが、不明だそうです。それにしても、天皇が誰のために菜っ葉を摘んだのでしょう。

 

私は昔、私のことを「君」と表現してくれた手紙をいただいたことがあります。その方は私より年齢の多い男性でした。「君」と書かれた(呼ばれた)ことは嫌ではありませんでした。むしろ恥ずかしいような嬉しいような気分でした。なぜでしょう?口語ではなく、手紙という文字であったからなのかもしれません。普段その彼は私のことを「おまえ」と呼んでいました。 

「君」は単に男性から女性に対してではなく、年上、目上の人から年下、目下の人という意味が含まれています。万葉集のころの主君とは逆の意味ですね。私の妹は子供たち二人に向って「きみたち!(;`O´)o」とよく叫んでいます。二人を同時に叱るときに使うことが多いような・・・

 

しかし、さらに現代社会では男女間で二人の上下関係を含まないでお互いを「きみ」と呼び合うようになっているらしいです。そういえば、だから漢字の「君」ではなく、「キミ」であるのだ・・・とこだわっている若者のブログを読んだことがありました。 

 

今日の写真は我が家のスズランの芽です。妹の旦那様が我が家に結婚の挨拶に来たときに持ってきました。どうも、実家のお母様が自宅に自生していたものを持たせたということです。あまり手をかけていないのですが、毎年株が増えています。今年もたくさんの芽が出ました。

スズランは“蘭”の字が入っていますがユリ科とか。現在日本で見られるのは、日本の野生種であるものと、観賞用に輸入したドイツスズランがあるようです。ドイツスズランは茎が葉より長くなり、花も大きいとのこと。日本の山野のものは茎が葉より低く、さらに花も小さいということでした。その様子から日本のスズランの別名を“君影草”というそうです。さすが日本。粋な名前をつけます。

この「君」は名前の由来から考えるに、男性が女性を表現したものでしょうね。

我が家のスズランはどっちか・・・。私は勝手に“君影草”であると信じることにしました。それは、毎年花の写真を撮ろうとがんばるのですが、花が葉っぱに隠れてしまい、そりゃー大変。うまく撮れないんです。今年は“君影草”というイメージを大事にして撮影に挑戦してみましょうか・・・

 

  

 


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