白梅
梅の花は紅、白、黄があり、花びらの形もいろいろあるようです。私はこの白の花びら5枚の一番シンプルなものが好きです。桜のように華やかでドラマチックなイメージはありませんが、寒い空に凛と咲く姿に気品を感じます。
梅は古来から日本に自生していたという話もありますが、どうも飛鳥時代に渡来したという説が強いようです。やはり、実を採って何かに利用するためだったのでしょうか。だから梅林とか梅園とかいう集まったところで見られるのですね。上の写真は熱海の梅園で撮影したものです。
月ヶ瀬村に梅渓と言われるところがあります。下の写真がそうです。
渓谷の両サイドにたくさんの梅の木があり、その多さにびっくりしました。昭和40年代にダムが造られたため、多くの古木が湖に沈んでしまったそうです。残念。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。もしダムができていなかったら、もっと深い梅の谷だったのでしょう。
ここの梅は2~3月に見ごろとなります。その時期「梅まつり」をしていますが、シートをひいての酒盛りには昼間でも寒すぎます。花の下をただひだすら歩き、ほのかな香りを楽しむのが良いように思いました。
余談ですが、梅の谷、月・・・とくれば、私は美内すずえ氏の漫画『ガラスの仮面』が頭に浮かびます。
カラス
ゴミをつついて散らすためあまり良いイメージがない鳥、カラス。それは、人間の住む場所でも強く生きていける能力を獲得した結果なのでしょう。
烏なぜ啼くの
烏は山に
可愛い七つの 子があるからよ
可愛い 可愛いと 烏は啼くの
可愛い 可愛いと 啼くんだよ
山の古巣へ いって見て御覧
丸い眼をした いい子だよ
誰でも知っている野口雨情の「七つの子」。少なくともこの歌に歌われているカラスは、現在私たちがイメージしている怖い、憎たらしいカラスではないと思えます。かわいい子供が待っている山の巣に向かって、夕方の空を急いで飛んでいく姿が目に浮かびます。
「七つの子」の“七つ”は七歳なのか七羽なのかはっきりしていないらしいです。私は七羽だと思っていました。カラスの七歳は大人ではないでしょうか。それとも、人間で言う七歳くらいの子ということでしょうか。この歌が飛んでいるカラスを見つけた親子の会話であるとしたら、「カラスさんもお家に七歳の子供が待っているんだよ。」ということになるかもしれませんね。
カラスにはハシブトカラスとハシボソカラスがいるとか。嘴が太いか細いかということらしいです。他に、ハシブトカラスは「カーカー」と澄んだ声で鳴くのに対し、ハシブトカラスは「ガーガー」と濁った声らしいです。私には見てもどちらであるかの区別はつけられません。そんなにじっくりとカラスを観たことがないというかか。。。。o(゚^ ゚)
この写真は、姪が池の白鳥にえさを与えていた時の出来事です。えさを夢中に撒いている姪に、一歩、また一歩とカラスが近寄ってきました。それに気がついた姪がそちらを向き、カラスと眼が合って手が止まったところです。
その様子を横で見ていた私。ちょっと面白かったのですが、このままいくと姪がカラスに襲われると判断し、中に割って入っていきました。そのため、カラスはえさにありつくことができませんでした。雪の積もった真冬のことですから、カラスもお腹が空いていたのでしょうか。
【おまけ】その時の白鳥たちはこのような状態でした。彼らが北の国へ帰るのはいつころなのでしょう。
TDR
東京ディズニーリゾートへ行ってきました。姪と甥にとっては初めてのTDR。ふたりはこれまで、動物園に付属した遊園地しか行ったことがありませんでした。規模の大きい様々なアトラクションの乗り物が楽しかったことはもちろん、さらに彼らは、ミッキーマウスたちキャラクターから心に響くものを貰ったようです。
キャラクターたちは出会うとかわいいしぐさで近寄ってきてくれます。小さな姪や甥が突進して足に抱きつくと、ふたりの目の高さに座って抱きしめてくれます。また、アトラクションにはキャラクターそれぞれのストーリーがあり、それを姪と甥に噛み砕いて説明をすると、友だちのことを話しているように話を繰り返してきます。例えば、「プーさんはハチミツが大好きなんだよね」と。
パレードではキャラクターたちは愛くるしく手を振ってくれます。ふたりは全部のキャラクターに対してそれぞれ名前を絶叫しながら、手を振り返していました。子供のエネルギーはすごいです。
私が一番びっくりしたのは、ディズニー・シーのショーを見終わった時です。ふたりが泣いていたんです。3歳の甥は母に抱きついて大泣き、6歳の姪は目に涙を溜めていました。すべてのキャラクターが消えて、残ったミッキーが挨拶をして廻っていたので、それに向って「ミッキー!バイバイ!」と大声を出して手を振っていたと思ったら・・・
別れが悲しい、寂しいといえばそうなのかもしれません。でも、これまでも同じように「バイバイ」することはあったのに、その時だけ泣いたんです。歌あり、音楽あり、踊りあり、花火あり、様々なパフォーマンスやセットあり、キャラクターのセリフありの迫力いっぱいのショーでした。ストーリーは理解できなくても、ふたりがそれを見てジーンときたことだけは確かです。今回の旅のクライマックスでしたね。
姪と甥では年齢が違いますから、感動の仕方は同じではないでしょう。甥が「嫌だ」と言いながら大泣きしたのに対し、姪は泣いているのを知られたくないように潤んだ目でじっと海を見ていました。ただ、どうしたのか聞いても、ふたりとも自分の気持ちを説明はできないようでした。
そんなふたりがとてもかわいかったですね。成長したなとも思いました。これから先、このように胸を熱くする体験を何回もして大人になって欲しいですね。
余談ですが、20歳のころ、アマチュアオーケストラフェスティバルというコンサートでレスピーギの『交響詩・ローマの松』を聴いた時のことを思い出しました。なんだか涙が止まらなくて、横の席で一緒に聴いていた妹を見たらやっぱり泣いていて・・・
写真は、トゥーンタウンで電車を待っている甥です。ガマグチのドナルドがお気に入りになり、ずっとぶら下げていました。
ささやきの小径
JR東海の「うましうるわし奈良」のポスターが気になっています。法隆寺の伽藍と“以和為貴”の文字。
私は30歳前後のころ、奈良に惹かれていました。きっかけは20代に読んだ永井路子氏の『茜さす』という小説でした。持統天皇に興味をもった女子大生が大人になっていくというストーリーです。同時期に里中満智子氏の『天上の虹』が始まり(現在も完結していない)、私を奈良とその時代へと夢中にさせました。
一年に何度も旅をしました。一人で行くことが多かったのですが、古道や山の方面などやや寂しい場所へ行く時は、友や妹と一緒に出かけました。そうするうちに、もっともっといろんなことが知りたくなり、歴史小説、推理小説、紀行など奈良に関する本を次々と読み、会津八一氏の歌集、杉本健吉氏の画集、入江泰吉氏などの写真集等も購入(高価なものは無理です)しました。また、地方情報誌『ならら』をはじめ、ガイドブックやムック本もたくさん集めました。
興味をもった時代は、聖徳太子から平安遷都前までの約200年間で、万葉集のころと重なるでしょうか。
奈良に行くと、資料の少ない歴史をあれこれ想像する楽しさと、目にしたものが1000年以上前から続いているかもしれないというワクワクした気持ちを持つことができます。
司馬遼太郎氏が『街道をゆく』の中で「様変わることが常の世の中にあって・・・」と、変わらないもののことをこのように書いています。
人間が海や山を見たいと思うのは、不動なものに接して安心をえたいからではないか。自然だけでなく、人事においても修二会のような不動の事象が継続していることは、山河と同様、この世には移ろわぬものがあるという安堵感を年ごとにたしかめるに相違ない。
そうなのかもしれません。人についても同じで、時間とともに変化したことは喜びであるはずですが、その中に変わらない部分を発見するとうれしかったりします。奈良の変わらないものは、本の中でしか出会えない歴史上の人物を肌に感じさせてくれます。また、太古のことがそこにいる自分と繋がってるような錯覚にもさせます。
以前、「いま、奈良にいます」のポスターが欲しいと思っていました。それが先程JR東海のホームページで見られることがわかり、興奮してこんな長い文章になってしまいました。
写真は何度も足を運んだころ撮ったものです。春日大社の二の鳥居から高畑町の志賀直哉旧邸までの細い道を「ささやきの小径」といいます。うっそうとした森の中を通っています。
観光客の多い場所の鹿たちは人に慣れていますが、森の中の鹿はそうではありません。一瞬目があったお互いでしたが、すぐまた森の奥へ消えて行ってしまいました。
温泉
この写真は誰も入っていない真夜中のお風呂を撮影したものです。まだデジカメをもっていないころで、プリントした写真をスキャナーでパソコンに取り込みました。
昨日、両親が二人でこの温泉に出かけました。母が以前から行きたいと言っていたもので、ようやく叶うことができました。
これまであまり二人で旅に出かけることはありませんでしたが、父も1ヶ月ほど前から資料を集めたり、時刻表を見たりし、嬉しそうでした。
父は病にかかっており1週間に2回ほど点滴が必要です。温泉に出かけるにあたり、病院へ行く日を調整したり、持って行く薬を忘れないようカバンに詰めたり、疲れないよう良く寝たりと準備万端で出かけたつもりでした。
無事宿に着いて温泉に入り、食事をし、眠ったそうですが、今朝はかなり調子が悪く、意識が低下してしまったそうです。母から電話が入りました。救急車で近くの病院へ行き、点滴を受けたようです。
「迎えに行こうか」と言うと、歩けるくらいに回復したから新幹線で帰宅するとのことでした。
準備万端にしていたのですが、電車とバスで旅をしたことが思った以上に父にストレスをあたえたのと、温泉に入ってちょっとアルコールを飲んだことが今回の原因だったろうと思います。
意識をなくした父もかわいそうですが、父の面倒で母も疲れただろうなあと思います。自分が着いていけば、両親のストレスが少なく、もっと快適な旅行ができたかもしれないなと少し悲しくもなりました。次はそうしよう・・・
【追記】母は宿の方、病院の医師や看護師に親切にしてもらったと言っておりました。見知らぬ土地で年老いた両親がアクシデントを乗り越えられたのは、いろいろな方の手助けがあったからこそです。ありがたいことです。
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