2008/01/16 11:29
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(その他)

TDR

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今年も姪、甥、妹とともにTDRに行ってきました。昨年同様「帰りたくない・・・」と子供たち二人はメソメソ。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。やはり“夢と魔法の国”ですね。昨年は二人がここで得た感動が涙を誘ったという記事を書きました(2007年1月10日)。今年は1年だけ大人になった彼らの泣く姿と、TDRのキャストたちから考えたことを書きます。

  

ゲストをwelcomeいっぱいの表現で迎えてくれるキャストたち。どんな仕事をしている方も皆愛想よく、嫌な顔せずに対応してくれています。しかも、どの方角のどんな人にも同じようにです。例えば、出口で立っている警備担当のおじさん。モノレールが通ると上を向いて必ず手を振っています。乗っている人の顔は見えないのにです。

キャラクターたちは会うと愛くるしい顔で近づいてきて、ギュッとハグしてくれます。手を出せば握手をしてくれます。サインだって頼めばしてくれちゃいます。子供たちだけでなく、カメラを向けている私にも必ず近寄ってきて、「ようこそ!」というジェスチャーをしてくれます。言葉を発しないため、すべて身体の動きによるコミュニケーションなのですが、「よく来てくれた」「会いたかった」ということが伝わります。

着ぐるみキャラクターと込み入ったコミュニケーションはとらないし、必要はないのですけど、実はこんなことがありました。ピノキオと一緒にいた獣キャラ。名前がわからないので私は見た目で「オオカミさん」と大きな声を出して何度も呼びました。そしたら、その獣キャラは小さな子供たちがたくさん周りにいたのに、ツカツカと私に向って歩いてきたのです。何?シッポを持ち上げて見せ、手で何か動物の形を作っています。ん?もしかして・・・キツネか・・・?ごめんなさい(。-人-。) ひたすら私は謝りました。

左の人はトムソーヤ島の砦にいたお掃除のお兄さんです。なんと、箒に水をつけて地面にキャラクターの絵を書いていたんです。すごいです。ものすごく静かで地味な場所なんですけど、顔が書きあがった時は皆拍手喝采で、とても盛り上がりました。

キャストのみなさんはどの人もエンターテイナーだなあと感心してしまいました。

私が今回一番感動したのは、ディズニーシーの「ビックバンドビート」というステージショーです。↓ここでダイジェストが見れます。

http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tds/japanese/7port/waterfront/show_band.html

なんてったって、ミッキーが♪sing sing sing♪のドラムセットを叩くんですよ。あの走るとバコッバコッバコッって音のする靴で・・・。叩いている姿は結構カッコイイ!途中、ドラムを離れて踊る場面もあるのですが、考えてしまいましたね。どんな人がミッキー役をやっているんだろって。

隣の席で観ていた甥がミッキーの真似をして手足をやたらと動かしていましたが、それもかわいかったです。

TDRは本当に夢の世界ですよね。そこで働く人たちが訪れた人たちすべてを無条件に受け入れてくれ、気持ちよくさせてくれます。でも、私たちが生きる世界は本当はそうじゃないんだっていうことを忘れてはいけないと思います。私たちを受容してくれるキャストたちはゲストが何を望むのか、何をされたら嫌なのかを察して接してくれています。相手からのレスポンスがどんなものであろうとも、またレスポンスがなくても否定せずに接します。もしかしたら自分を押し殺しているかもしれないとさえ思うことがあります。

 

今朝、みのもんたさんのTV番組で、今年になって家族による傷害・殺人事件がもう14件もあったと報道していました。その中でも親(大人)が小さな子供を傷つける事件が多かったのに苦しくなりました。「泣き止まないから」「なつかないから」「うるさいから」という理由で子供に腹を立てての事件です。

自分の思い通りにならないから、嫌だから相手を消してしまおうということなんですよね。周りの人間がいつも自分のために行動するわけありません。特に子供は相手のことを考えることなんてできません。人間は育てることでそのような能力がつくはずなんです。子供が泣いたら何故だろうと考えていくのは大人の役目のはずです。それなのに・・・。

やはり日本人は贅沢と便利を得たおかげで人としての能力が落ちているんでしょうかね。身体能力も落ちているというし、心も成長しないまま大人になっているんですね。貧しいです。

 

さて、上記の写真はディズニーシーでショーのための場所取りをして待っている時に撮影しました。待っている私たちを楽しませようと演奏隊がやってきてくれました。

ミニーの耳をつけているのは姪です。お正月のおみくじで小吉だった姪。学業は「困難。努力せよ。」と書いてありました。小学1年生の困難な学業とはどんなか・・・( ̄  ̄;) 夢の世界もあるけど、現実の世界でもまれて人間の能力をのばしてほしいなあと思います。おばちゃんは応援してるぞよ!


2007/07/21 19:58
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

金目鯛

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先日、友たちと伊豆へ遊びに行きました。その友たちとの出会いは6年ほど前、3ヶ月間受けた研修でした。50名ほどの研修生を作業のために6名ずつにグループ分けされたのですが、その時に一緒になった仲間です。

グループでの作業が多い研修で、たくさんのことを語り合いましたから、そりゃ仲良くもなりますわさ。私のグループは特に仲が良かったのだと思います。遠くから何時間もかけて電車で通っている人もいましたが、毎週金曜日になると終電近くまで飲んでいました。職場は違えど、似たようなことで悩んでいる同世代のメンバー。話はつきませんでした。

 

研修中、なんと私は骨折をしてしまったのです。家の階段で1段足を踏み外した・・・ただそれだけのことだったのに・・・情けないo(;△;)o 。幸い手術の必要はなく、ギプス固定でOKだったので、研修は休むことなく出席できました。しかし、松葉杖生活。研修に必要な資料やパソコンを入れた斜め掛けのカバンは重たく、移動は結構大変でした。雨が降ると傘がさせず、さらに苦しいo(´^`)o ウー

そんな状況でも友たちは一緒に飲みに連れて行ってくれましたね。うれしい~。重い荷物を持ってくれ、遅いスピードの私に付き合って歩いてくれました。雨が降った時は合羽を着、ギプスの足にビニール袋を巻いての私。そんな姿にみんなは笑っていましたけど・・・

 

研修が終了してからも1年に1回くらいは会っている仲間。私の骨折ネタはいつでも話題としてでるのですが、いつしかもっと歳をとったら体調を崩す人がでるかもね~と。気が付いたら誰かが薬を持ってくるようになったり、車椅子が必要になったりするかもという話が先日の旅ででました。それはしかたないさ。でもその言葉の裏には、この先何年、何十年(?)たってもこうやって会い続けたいという思いがみんなの中にあるんですよね。

 

今日の写真は、宿に向う途中、買出し(お酒とかつまみとか)で寄った伊東のスーパーで撮影した金目鯛です。旬でないためかあまり大きくはありませんでしたが、こんな風に丸ごと売っているのは初めてだったので・・・

上記は宿泊した宿の敷地で撮影したものです。右の建物が温泉棟になります。

左は帳場です。後ろにはお土産が並んでいます。

番傘とウサギのランプの景色が素敵でした。

次にみんなと会うのはいつかな~。

それまでお互い元気にがんばろうぜーp(・∩・)q

 

 


2007/07/16 11:31
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

元興寺の瓦

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白か黒か、表か裏か、良いか悪いか・・・などと、はっきりと結論(答え)を出さなければならないことってたくさんあると思います。決まらないと先に進めない、グレーとかファジーとかいう曖昧では不安定であるということなのでしょう。判断に困ると、「はっきりさせて欲しい」と結論を他人に委ねることは多くあります。その場合、結論を出した人に責任が及ぶということになります。

社会の中では判断の線をルールとして様々なものさしを使って決定しています。 量、長さ、時間など数字で表現すると決めやすいものですね。例えば制限時速、それより速ければ悪い、超えなければ良い。法律等で決まっているから皆が納得するでしょう。

でも、個人の感覚に依存したものは個々で基準が違うのだから難しいです。

私は両親と住んでいるので、母が食事の支度をしてくれる贅沢なヤツです。仕事を終えて帰ってきた私に、母はいつも「これしかないけどいいでしょ。」と言います。作っていただいているんだから悪いって言ったことはないですよ。この問いは私が「いいよ」と答えることを前提としているのでしょう。なんでいちいち聞くんだろうと思ってしまいます。何も考えずに「いいよ」と言えば終わる会話なのですが、気になります。

「良い」と言ってもらいたいということなのでしょうか。自分に自信がないから?ひとりで判断することって気が重いものなんですね。同意してくれる人がいると心強いというか、自分の責任が一気に軽くなるんですよね。

 

他にも判断が難しい場合があります。それは予測に関することです。「このままでいいのか」または「これをしたほうがいいのか」というのは、今後起こりうる結果に対する判断です。

例えば病気について「これを飲めば治りますか?」と医師に尋ねる人は多いでしょう。その時、医師は専門的な判断でお話をしてくれるのだと思います。「治る」といってもらえない患者は辛いですが、病気を治療すると無くなるという考え方はやめた方がよいと思います。つまり、病気を判断するものさしがあったとして、どこからが黒でどこからが白であるかといえるものではないからです。

 

病気とは何か。私の言葉でいうと、身体のバランスが崩れた状態・・・かな。痛い、だるい、腫れた、熱っぽい、寒い・・・などの症状が出ると自分は病気かなと意識するようになります。そして、医師に「病気です」と診断してもらいます。でも、そのような症状が出るより前に身体の細胞、ミクロの世界ではなんらかの変化が起きているわけです。細胞の変化が大きくなると、本来の身体の機能がうまく働かない状態がおきます。崩れた機能を調整してバランスよくしようとがんばる身体自身の働きが、症状となって現れると理解しています。

うまく言えませんが、病気は自分の身体の状態を表すのであって、取り除くものではありません。(どこかできいたような言葉・・・_(^^;)ゞ)ですから、「病気が治る」ということがどんなことかを考えると、乱れた機能が回復して、身体のバランスが無理しなくても整うということでしょうか。症状を病気ととるならば、それを意識しない状態を治ったということもできますが、ミクロの世界は?

 

細胞は一度変化すると元に戻らないものは多いです。例えば、心筋梗塞になったとします。その時は痛いでしょう。血管が開通して血が流れ、傷んだ細胞が回復してくると症状はなくなります。でも、傷んだときに一部の細胞は死んでしまっています。症状がなくなったとしても、元の心臓と同じではないのです。

薬は、本来ならば口にするものではないのに崩れた身体のバランスを整える手助けするために口にするものです。身体に絶対的に良いものと考えるのは間違いのように思います。本来口にしないものですから、うまく付き合わないと、思わぬ影響がでるものです。副作用というか・・・。

以前も科学は絶対的なものではないということをブログに書きました(2007.2.24)が、医学という科学も同様です。過信してはいけないでしょう。また、老いは医学ではどうしようもないことだと思います。高齢な方が治らないとか急に病状が悪くなるということはままあると思います。病気はその人の身体の状態ですから・・・。

結局、病気が「治る」「治らない」の判断の線引きをどこにするのかは難しいと思います。医師とよく話をしないと、自分の理想とする身体と医師のいう「治る」の状態が違ってしまうことがありますから。何度もいいますが、病気が治るはもとの身体にもどることではありません。

 

「良い悪い」に直接関係ないですが、下記のサイト(毎日新聞の『理系白書』)が面白くて好きです。興味があれば読んでみてください。3月28日の座談会がまとめっぽくてわかりやすいです。

http://www.mainichi-msn.co.jp/science/rikei/

白と黒の話から、とんでもないところに発展してしまいました。今日の写真は白と黒からです。

右は先日訪問した岡山城です。

真っ黒で烏城と呼ばれているのだそうです。

左は姫路城です。

白鷺城と呼ばれる白いお城ですね。

どちらも美しいお城です。

上に掲載した写真は奈良の元興寺極楽坊の屋根です。1400年前、百済の王が派遣した瓦博士が焼いたものだそうです。いろんな色が混ざっていますが、これもまたきれいです。

 


2007/07/01 15:37
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

千島風露

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先日、写真家・星野道夫氏の『Alaska星のような物語』というドキュメンタリーを見ました。 チャンネルをパカパカと変えていてぶつかっただけなので、最終章の終わりの20分ほどだけ。それなのにとても衝撃的な感動があり、胸がいっぱいになりました。繰り返される生命の営みの映像と写真、星野氏の綴った言葉の朗読・・・彼の見たアラスカの自然に吸い込まれてしまったようです。最初から見たかったワンo(;△;)o とりあえず写真集を本屋で立ち見し、文庫本になっているダイジェスト版2冊とエッセイを1冊を購入しました。

 

彼の写真や言葉から自然の偉大さと人とは何かをまた考えさせられました。人間以外の生命はその環境を受容して、ひたむきに生きています。ただ“生きる”ということに一所懸命なのです。世界をどうかしてやろうとか、何かを変えてやろうとかいうのはありません。自然のままの姿ということができます。

 わたしたちはある風景に魅かれ、特別な想いをもち、

 時にはその一生すら賭けてしまう。

 風景とは一つの山であったり、美しい川の流れであったり、

 その土地を吹き抜けていく風の感触かもしれない。

 それをもし自然と呼ぶのならば、

 人間がどれだけ想いを寄せようと、

 相手はただ無表情にそこに存在するだけである。

                      星野道夫 著 『イニュック〔生命〕』より

人間は自然を自分のものにしようと企んでしまうのかもしれません。管理できるものであると思い込んでいるのかもしれません。そんなことあるわけないのに・・・。地球温暖化防止について世界の国々が話し合いを持ちますが、何か寂しいものを感じました。

 

自然の中にあっては人間のつくったルールは意味をもたないと思いました。彼のエッセイの中に、氷海に閉じ込められて動けなくなったクジラを人間が助けたという話がありました。きっと太古からそのようなことは常にあったことで、そのクジラは厳しい環境で暮らすホッキョクグマの生命を多く支えてきたことであろうということです。

ホッキョクグマはあの大きな身体を維持するために、どれだけの食料が必要であるのか・・・。氷の上を歩き回り、穴から顔をだすアザラシを捕って食べます。それが彼らの一番の食料だそうです。ここ最近、北極の氷が少なくなり、彼らは食事がとれなくなっているとか。そういえばMSNビデオで子を連れた母ホッキョクグマが痩せていて、25Kgくらいは体重が少ないのではないかというのをみました。ホッキョクグマは絶滅の危機にあるようです。星野氏がこのことを知ったらどんな言葉を語ったでしょうか。

星野氏の写真にはホッキョクグマだけでなく、アラスカに棲む多くの動物が写っています。動物は生きている時間の多くを食料を手に入れることに費やしています。また、子を産み、育てることにエネルギーを使っています。それらのために同種同士の戦いがあったり、食物連鎖による狩りがあったりしますが、彼の写真はつながっていく生命を表す優しい親子の場面が多いように感じました。本屋で写真集を立ち読みしていた私の顔はニヤニヤと変だったかもしれません。

 

冬を越せたものだけが春を生きていくことができる・・・というのは自然の中では当たり前なんですね。ドキュメンタリー番組の終わりころ、冬から春になるアラスカを背景にこんな言葉が朗読されました。

 きっと同じ春がすべてのものに同じ喜びを与えることはないだろう

 なぜなら、喜びの大きさとはそれぞれが越した冬にかかっているのだから。

 冬をしっかり越さない限り、

 春をしっかり感じることはできないからだ。

 それは幸福と不幸のあり方にどこか似ている。

そうそう、そうだよなあ・・・と私は大きくうなづいてしまいました。人はうまくいかなかったり自分の意と違うことがおきると、「~してくれない」「~して欲しい」と他者を攻めることがあります。人間ひとりで生きていけるわけではないのですが、うまくいかないことを他者が悪いからという考えしかもてないとしたら、それは自己中心的かとも思います。自分に力がないから周りに変化を求めているというか・・・。それとも、そういうしかないほど社会が病んでいるのでしょうか。だとしても人間のせいです。

生きていける能力を教えていくことが育くむということだと理解します。アラスカをはじめ地球に棲む動物は、人間のせいで環境が変わっても自らでなんとか生きようと努力します。それは彼らが自然そのものだからなんだなあと思います。種としての生き方を子に伝え、生命は繰り返されているのですが、それで生きていけなかったら絶滅していくのでしょう。人間は?

 

星野氏は1996年、グリズリーに襲われて亡くなったそうです。旅人として入ったアラスカの自然でしたが、そこで生活するようになり、いつしか自然に溶け込んでしまっていたと思えます。

 

今日の写真は、私の撮影の中で一番北方の場所、10年ほど前に旅した礼文島で撮影した千島風露です。海霧が立ち込めるので、花は細かな水滴で覆われていました。この島は海に面した断崖絶壁に本州でいう高山植物が乱舞しています。

花をできるだけ多くと思ってまとめたら小さくなっちゃって見にくいですね。右クリックで保存して、再度ファイルを開けて見ていただくと、大きく見えます。

礼文は2回訪れたことがあります。夏のほんの短い間に、島民の何倍もの人数の方が上陸します。2回目に訪れたとき、観光用の大型バスが縦横無尽に走れる道路が整備されていてびっくりしました。私は多くの花をまだみることができましたが、いつかここにしかない固有の花がきっとなくなってしまうのだろうなあと恐くなりました。

左は礼文薄雪草といいます。エーデルワイスと同じだとか。まだつぼみでした。

標高50mくらいのところで見られます。この花と海が同時に見える風景があります。

 

下は礼文から見た利尻島です。霧(雲?)の合間に見えた利尻富士は天空の城ラピュタのようでした。

追記】『Alaska星のような物語』のDVDを購入しちゃいました。


2007/06/20 05:06
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(カメラ)

ホテルの部屋

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私は年に何回かホテルにひとりで泊まることがあります。日常とは違った空間で過ごす時間は嫌いではありません。特に朝、入浴してコーヒーを飲んでホッとする時が一番好きです。上記の写真はそんな朝に撮影しました。ここはコーヒーカップがあって嬉しかったです。多くのホテルは湯のみですもの。

 

私がホテルを決める時の条件は、ベットの広さ(120cm基準)、部屋の広さ(17㎡基準)、アクセス(最寄り駅)、値段(8000円基準)、禁煙、窓は大きめ・・・などいろいろあります。結構うるさい?もちろん口コミ情報も参考にします。

最近のホテルはインターネットができる部屋が多くなりました。これも私がホテルを決めるときの条件になっています。1泊では我慢できますが、2泊以上になると絶対に欲しい条件ですね。インターネットができないことの不安があるのでしょうか?旅にパソコンを持っていくのは重たいのですが、部屋でネットをしたいがためにがんばります。メールチェックをしたいことと、ヨンジュンさん情報を見ること、そしてブログを覗くことが日課になっていますから・・・

他に、ネットは出かけた先の情報を集めることができ、便利です。おいしい店はないか、観光スポットは、アクセス方法は・・・などなど。ガイドブックを購入することがなくなりました。携帯電話でもかなり情報を集められますが、パソコンの方が検索は楽ですし、画面が大きい!それに、通信代がかかりませんから。

 

先日、せっかくだから旅先でブログ記事を書こうかと思ったのですが、夜は酔っ払いでしたし、朝はそこまでの時間がなくてできませんでした。今朝は自宅のパソコンで書いています。なんだか最近、早起きが癖になってしまいました。

 

 

 

 

 

 


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