2010/11/09 10:40
テーマ:passion-果てしなき愛- カテゴリ:韓国TV(ホテリアー)

passion-4.支配

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ジニョンはあの後、電車を二本見送った。
もしかしたら・・・あの階段を下りてあの人が追って来るかもしれない

≪違う・・私はそんなこと考えてはいない・・・≫
彼女は懸命に否定しながら、三本目の電車に駆けこんだ。

≪何を・・・してるの?私ったら・・・馬鹿みたい・・・≫



フランクもまたあの時、階段の上で彼女を待っていた。
彼は無意識の内に銜えた煙草が短くなる経過を
伏せた睫毛の下で追っていた。

そしてもう一度だけ階段の下に視線を送ると今度こそ諦めをつけて
今しがた彼女と歩いて来た道をゆっくりと引き返した。





フランクは部屋に戻ると、さっきジニョンと歩いたたった数分の距離を
何度も思い返しながら、眠りに付いた。
しかしその浅い眠りの中にも彼女は現れた。

  ≪ジニョン!≫

フランクは彼女の名を叫ぶ自分の声で目が覚めた。
そしてそれからもずっと、彼女はフランクを解放してくれなかった。

≪逢いたい・・・≫
一度逢ってしまうと、次に逢うまでがこんなにも遠いものなんだろうか・・・

彼女への想いが膨れ上がって、仕事に要する思考さえも妨げた。


「ボス、エリックから・・」
「レオ・・悪いが、後にしてくれないか」


仕事が何も手に付かなくなっていたフランクはその日のランチを
ルームサービスではなく、ホテル内のレストランで摂っていた。
もちろん少しでもジニョンに出逢う機会を作るためだった。
そして部屋に戻ろうとした時やっとジニョンの姿に辿り着いた。

小さな子供を伴い、エレベーターを待っていた彼女に彼は
呆れるほどの喜びを抑えて、落ち着き払ったように声を掛けた。

「誰かな?」 フランクは彼女が連れた小さな女の子に向かって尋ねた。

「あ・・お客様です」 ジニョンは彼の予期せぬ登場に驚いた顔を隠さず
それでも冷静を取り繕って答えた。

「そう・・・ところで今日は仕事は何時に終わりますか」
「4時に退社です」
「ではその後に観光案内をお願いできますか?」
「あ、いえ・・今日はその後に予定が・・
 総支配人の歓迎会なんです」
「それは何時から?」
「8時です」
「それまでには帰れます・・では、4時10分にロビーで」

フランクは彼女に有無を言わさぬ言葉を置いて
彼女の顔を振り返ることなく立ち去った。

「あのおじさん、お姉さんのこと、好きなのね」
「・・・・どうして?」
「だってわかるもの・・顔にそう書いてある」
「おませね」

ジニョンは溜息をついた。

≪どうしてそんなに勝手なの?
 あなたにはできるだけ逢いたくないのよ・・・≫

フランクの後姿がエントランスから消えるのを、
彼女は恨めしそうに見送った。



ジニョンは更衣室の自分のロッカーの前で着替えもせずに座り込んでいた。
フランクがこのホテルに滞在するようになって、当然お客様としての彼には
ホテリアーとしての最善を尽くすつもりでいたし、しているという自負もあった。

≪でも・・・≫ 彼女はこうして必要以上に、彼と接することで、
自分の心が掻き乱されることに恐怖にも似た憤りを覚えていた。

≪このまま約束をすっぽかしてしまおうかな≫
心でそう思いながらも、ジニョンはいつの間にか着替えを済ませると、
従業員通用口ではなく、フランクの待つロビーへと向かっていた。



≪彼女は来るだろうか≫ 強引なまでの誘いを掛けながらも、
フランクの中にその不安がなかったわけじゃない。 

しかし、そうせずにはいられなかった。

離れていたこの10年もの月日さえ≪僕の中に君が消えることはなかった≫
それを確認するためにここに来たのかもしれない、とフランクは思った。

「お待たせしました」
そう言いながら、ジニョンが小走りにフランクへ向かっていた。
≪この腕の中へ飛び込んで来てくれる≫ フランクのそんな錯覚を
直ぐに打ち消すように、ジニョンは彼の前でぴたりと足を止めた。

「いえ、僕も今来たばかりです・・・行きましょう」
フランクは彼女の先を歩いて、自分の強引な態度に彼女が
顔をしかめていることには気づかない振りをしていた。


ジニョンは、さっきまでの困惑を吹っ切ったように、明るい様子で、
フランクの観光案内に努めた

幾つかの観光スポットを幾分急ぎ足で巡って、最後に訪れたのは
韓国の観光には欠かせない宗廟だった。

アメリカでは見ることができない壮大な歴史がそこにあった。
その佇まいは、フランクの心を簡単に時空を飛び超えさせてくれた
何千年もの時の流れの中で、自分達のこの10年の月日など
ひとつの点ほどもない短さだと思い知ると、こうして思い悩むことが
虚しくもあった。


フランクはジニョンにもらった綿菓子を、手に持て余しながら、
ひとり思い巡らせていた。

「ごめんなさい・・甘いものはお好きじゃなかったですね」
「あ・・いや・・・」

「知り合いにも甘いものが苦手な人がいるんです。
 でも、彼は何故かチョコレートは好きなの。
 しかも高級なチョコでないといけないんですけどね。
 だからバレンタインに贈るのも大変で・・」

「バレンタインか・・・僕はもらったことなかったな」
フランクはポツリとそう言った。

「えっ?」
ジニョンはフランクを不思議そうに見上げたが
彼が自分達のことを言っているのだと直ぐに気がついた。

「ああ・・だって、その日はもう私、韓国に戻っていたから」
ジニョンは簡単にそしてさらりと言ってのけた。
「・・・・そうだった」 フランクも単調に答えた。

「私、凄く好きな人ができて・・・彼に告白したんです
 三年前のバレンタインの日に・・・」

「・・・・・」 フランクは黙って聞いていた。

「それって・・・悪いことじゃないですよね」
ジニョンは急に立ち止まって、彼を睨みつけるようにして言った。

ふたりは向かい合って、しばらく無言で互いの瞳の奥を覗いていた。
少し間があって彼はやっと口を開いた。 「・・・ああ」
フランクは彼女から視線を逸らさず、表情すら変えずに答えた。

「良かった」 ジニョンもまた、抑揚の無い声で言った。

「そろそろ時間ですね・・・お送りします」 
その場に居たたまれなくなっていたのはフランクの方だった。
彼は彼女の自分を突き放すような言葉のひと言ひと言に、
意図も簡単に打ちのめされた。



テジュンの歓迎会の時間が押し迫っていたが
帰り道は渋滞に遭遇し、車は身動きが取れないままだった

「これじゃあ、どうしようもないな・・・
 諦めて食事でもしていきませんか」

「えっ・・・ええ」

ふたりは車を降りると、通り道で見かけたバーガーショップの前に立った。

「いいかな・・ここで・・・」
「ええ・・大好きだから」 ジニョンは満面の笑顔で答えた。

≪知ってるよ・・・だから寄ったんだ≫
ジニョンの屈託のない食べっぷりを見ているだけで、
フランクは心の中で昔の自分達を探し出すことが出来た。
それだけで彼は互いの間に蠢く何かから逃れることが出来た。

「食べないんですか?」
ジニョンは食べ物に手を付けず、自分を見つめ続けるフランクに
怪訝な視線を向けた。

「あ・・ええ、良かったら食べて?」
「私、そんなに食いしん坊じゃないわ」
「そう?」
「大人になったのよ」

「そうだね・・・綺麗になった」 フランクは感慨深げにそう言った。

「ありがとうございます・・・そう言った方が素直かしら」
彼女はそう言って微笑んだ。

フランクはただ無言で微笑を返した。

「・・・・・どうして・・・」 ≪私を置いて行ったの?≫
そう言い掛けてジニョンは言葉を呑んだ。

「えっ?」
「いえ、どうして、韓国へ?」
「・・・・・」

「あ・・ごめんなさい、お仕事だって、言ってらっしゃいましたね」

「違う」

「えっ?」

「そう言ったら?」 フランクはジニョンを切なげに見つめていた。
ジニョンは自分で尋ねておきながら、自分の期待する答えが
そこにあるような錯覚に囚われて、彼の視線から急いで逃れた。

「あ・・雨・・」
「ホントだ」
「そろそろ帰らないと」
「そうだね」

雨脚は激しくなるばかりだった。
フランクは ≪もう少し雨宿りをしていかないか≫と言いたい自分を
強く押し留めていた。
その代わりに、自分のコートを脱いで彼女をその中に包み込んだ。
ジニョンは彼の行動に一瞬驚きを見せたが、小さく笑って、
彼の差し出した布の傘を無下に拒むことはしなかった。

車までの短い距離、彼女の香りがフランクの胸を震えるほどに
ときめかせていた。


「遅くなってしまって・・・申し訳なかったね・・・
 結局・・歓迎会、間に合わなかった」

「大丈夫です・・後で謝りますから」

ジニョンのアパートに着いて、彼女を離さなければならない時間が
徐々に近づくに連れて、フランクは酷く動揺している自分に気が付いた。
しかしその感情を言葉で表すことができないもどかしさがあった。

フランクは諦めたように車を降りて助手席に回り込むと、
さっきと同じようにコートを彼女に差しかけた。
ジニョンもまた、彼のその行動を素直に受け入れた。


ふたりで雨の中を走っていた時、ジニョンが突然足を止めた。
フランクが彼女の視線を追うと、傘を差した男がこちらを凝視して
立っていた。ハン・テジュンだった。

「あ・・・」 ジニョンは思わず声を漏らして、困惑を顔に浮かべた。

「テジュンssi・・・ごめんなさい、歓迎会、間に合わなくて・・
 車が・・渋滞して・・その・・」
ジニョンは自分を弁明するべく一方的に言葉を繋げていた。
テジュンは無言だった。

そしてジニョンは当然のようにフランクのコートから抜け出て、
テジュンの元に足を進めようとした。

その時だった。

フランクはとっさにジニョンの腕を強く掴んだ。
そして彼はその鋭い視線をテジュンに向けていた。

ふたりが掛けていたフランクのコートは既に地面に落ち、
フランクもジニョンもそしてそのコートも雨に酷く打たれていた。

「離して・・」 ジニョンは驚いてフランクを見た。

「離さない」
その時のフランクはジニョンに向かって、たった今まで装っていた
客のベールを脱いでしまっていた。

「どうして・・」 ジニョンの瞳に怒りの色が浮かんだ

「どうして?」 フランクの目も怒っていた。
しかし、何に対して怒っているのか、彼自身にもわからなかった。

ただ怒りが込められたふたりの瞳は絡み合ったまま
しばらく離れなかった。

「離してください」 そこにテジュンが透かさず言葉を挟んだ。

「あなたには関係ない!」
フランクはジニョンの腕を掴んだまま、テジュンを睨みつけた。

「関係ないのはあなたではありませんか?彼女は私の婚約者です」 
テジュンはフランクに向かってきっぱりと言い放った。

「えっ?・・あ・・違う」
ジニョンはテジュンの言葉に驚き、とっさにフランクを見てそれを否定した。
しかし彼女は直ぐに我に帰って、そのフランクへの視線を
また厳しいものに変えた。

「離して!」
フランクはジニョンの激高した声に、やっと自分を正気に戻すと、
強く掴んでいた彼女の腕からゆっくりと自分の手を離した。


テジュンはジニョンをフランクから奪い取るように自分の傘に迎え入れ、
彼女の肩を抱いて、走ってアパートの中へ消えていった。


フランクはその場に立ち尽くしていた。
雨に打たれたまま、そしてたった今、衝動的に起こしてしまった自分の行動の
自分自身への弁明を懸命に探していた。

≪今僕は何をしたんだ?≫




「サファイアの客だな」 アパートの階段を上りながらテジュンが言った。

「ええ」 ジニョンはテジュンの先を小走りに上がりながら答えた。

「どうして」
「観光案内を頼まれたの」
「観光案内?」

「ええ!・・・それより私!あなたといつ婚約したの?」
「お前が俺にプロポーズした時だ」

「はっ・・あの後、何も言わないで私のそばを離れたくせに」

「あの時はそうせざる得なかった」
「そうしなきゃいけなかった?そう!」

「・・・しかし・・俺は戻って来た」
「勝手なのね」

「お前が連れ戻しに来たんだ」
「ホテルの為よ」

「それだけじゃなかっただろ?」
「帰って!」
ジニョンは部屋の鍵を開けると、テジュンを残してドアの中へと消えた。

「おい!ジニョン!」

ジニョンは後ろ手にドアの鍵を閉めて、さっき起こったすべてのことを
急いで自分から遠ざけた ≪みんな・・・勝手なことばかり・・・≫

「オンニ?今テジュンssiの声がしたけど、
 一緒だった?さっき、私送って来てもらったの」

同居しているジェニーが部屋の奥からジニョンに声を掛けた。

「え・・ううん、一緒じゃないわ」

「どうしたの?オンニ・・ずぶ濡れじゃない・・
 オンニ、震えてる」
ジェニーがジニョンの体に触れると、ジニョンはびくりと体を堅くした。

「大丈夫・・雨に濡れちゃって、寒かったの」

「あ・・タオルを・・」
とジェニーはバスルームに向かったがジニョンは彼女を呼び止めた。

「ジェニー・・ありがとう、大丈夫よ、
 このままシャワー浴びるから」


ジニョンはシャワーのコックを回して、熱い水を頭から浴びながら、
左の二の腕をさすっていた。
彼女の白い腕に太い筋状の線が赤く残っていた。
さっきフランクに強く掴まれた時にできた痕だった。

≪離さない≫

この水が体を濡らすよりも深くさっきの彼の声が胸に沁みていた。

≪うそつき・・・離したくせに≫ 涙が込み上げてきた。
しかしジニョンは自分が泣いているとは信じたくなかった。
フランクの為に、泣いたりはしない、泣くはずがない。
≪そうよ・・・これは涙じゃないの≫



≪あいつ・・・≫ テジュンは今上ってきた階段をひとり下りながら、
さっき目の前で起こっていたジニョンとあの客との様子に
ふたりのただならない関係を見ていた。
≪やはり、知り合いだったのか≫

≪私の婚約者だ≫
自分が彼らの前で宣言してしまったことには後悔は無い。
今までジニョンに対して、はっきりとした態度を取れなかったのは、
自分自身の置かれた立場ではジニョンに対して責任が取れるか
不安だったからだ。
今もまだ、総支配人としての立場に就いたものの、これからが
正念場ということは理解している。
だから正直、彼女への告白はもう少し時間を置いてからと考えていた。
しかし、あの男を前にして、テジュンの中に何故かが目覚めた
“急がなければ”と、心が騒いだ。



≪あの男のことは知っていた・・・ソウルホテル総支配人、ハン・テジュン≫
ホテルの経営者も彼らふたりが結婚することを望んでいることも
≪知っている。理性ではわかっていた。
 ジニョンにとってそれが幸せなのかもしれないということも≫
それでもフランクは彼女の姿を追わずにいられなかった。
彼女の、時に見せる変わらぬ仕草に浮かれずにはいられなかった。
そしてあの時、あの男に向かうジニョンの・・・
彼女の手を掴まずにはいられなかった。

≪離さない≫

自分が思わず口にしていた言葉が脳裏から消えてくれなかった。
そして、その時のジニョンの驚きと怒りの目も。
≪いったい・・・どうするつもりだったんだ≫

フランクは思い切り力を込めて彼女の腕を掴んでしまった自分の手を
呆然と見つめながら、自分でもどうしようもないほどの彼女への
思慕を認めざる得なかった。

≪ジニョン・・・ジニョン・・・ジニョン・・・≫
ソウルへ来てからずっと彼女が頭の中を支配して、
開放してくれなかった。

  逢うたびに・・・この想いは膨れ上がる

  逢うたびに・・・また逢いたくなる・・・

  逢うたびに・・・逢うたびに・・・君を・・・

  ・・・離したくない・・・


知らず知らず自分の頬を幾重もの涙が伝って落ちるのを
口に届いた苦い味で確認した。


   ジニョン・・・もう駄目だ・・・

     「もう・・・

       ・・・耐えられない」・・・



























2010/11/08 21:32
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passion-3.ブルーマルガリータ

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朝食はスクランブルエッグに焼き立てのパンとオレンジジュース・・・
そして、そのトレイの横にソウル観光案内のパンフレットが
数枚添えられていた。

≪どうぞ行ってらっしゃい、そういうことかな?≫
フランクは口元だけで微かに笑って、ジュースのグラスを
そのパンフレットの上にドンッと置いた。
グラスの中の液体が波を打ち、そして緩い直線となった。
フランクはそれをただ静かに見ていた。


「ボス・・ソウルホテルの理事連中の中で、
 こっちの味方に付きそうな奴をリストアップしておいたが
 ひとりやふたり味方につけても意味はないかもしれん
 今のところ、ハン・テジュンが総支配人に正式任命されることは
 確実だが・・・それじゃあ、まずいか?」

「いないに越したことは無い・・・」 

「・・・・・」 レオは少し考えて腕を組んだ。

「安心しろ・・
 総支配人が誰であろうと、僕の相手じゃない」

「確かに」 

「ソウルホテルの債権を探れ・・・今の内に40%を手に入れる
 気づかれるな」

「OK・・ボス」

フランクは、ここに来てハン・テジュンという男の存在が妙に
気になっていた。

ソウルホテルは大掛かりな工事を進行中だった。
その為銀行からの融資も莫大で、資金面ではかなり困窮した状態に
あることは誰の目にも明らかだった。
前社長の少し無謀過ぎる改革に、フランクは少々歯軋りをしていた。
この状態に狙いをつけたハンガン流通、キム会長の思う壺だ。
≪このままでは到底優勢には持っていけない≫
フランクは前社長の色が掛かった人間はホテルからすべて排除する
考えだった。





その日の夜、キム会長が個人的に会食をとフランクだけを誘い出した。
フランクが会長指定の場所に赴くと、彼は既に到着していて、隣に
少々不機嫌そうな面持ちをした若い女を従えてフランクを迎え入れた。


≪彼女は確か・・・≫
フランクはキム会長の隣にいる女性に見覚えがあった。

彼は直ぐに彼女が先日ソウルホテルで会った女だと思い出した。
あの時フランクは階段を下り、ホテルフロントへ向かっていた。
彼女は逆から階段を上って来ていた。

すれ違いざまに彼女とぶつかった時、彼女が何かを落とした。
それは階段を転げ落ち、フランクの足元で止まった。
フランクはそれを拾い上げると、無言で彼女に差し出した。
彼女もただ無言で受け取ると、何故か逃げるように立ち去った。

彼女が落とした物はいわゆる睡眠剤で、彼がそれを彼女に戻した時
彼女にとってそれが、只の不眠症に処方されたものではないことを
彼女自身の目が語っていた。

フランクはその時、遠い昔に舐めていた自分の苦い感情と同じものを
彼女の瞳の奥に見たような気がしていた。

しかし名前も知らぬ彼女を案じたところでどうなるものでもない。
事実フランクはたった今まで彼女のことを忘れていた。

「娘のユンヒです・・・こちらは
 私の仕事を手伝って頂いているフランク・シンさんだ」
会長はふたりを互いに紹介した。

≪彼女が・・・会長の娘だとは・・・≫


「初めまして」 
彼女は確かにあの日のフランクに気づきながらそう挨拶した。
「初めまして・・フランク・シンです」 フランクもまた、彼女に同調した。

そして、三人でありながら、会長一人の声だけが響き渡る
ある意味静かな会食が始まった。


しばらくして、会長の携帯電話が鳴って、彼が席を外した時だった。
それまで初対面の振りをしていたユンヒが突然、フランクを見て
真剣な顔で言った。

「黙っていて下さい」

「何をです?」 フランクは彼女の目を見ないまま、冷たく答えた。

「・・・・・」

「あなたと初対面じゃなかったということ?それとも
 あなたが睡眠薬を持っていたという、つまらない事実?」

「そのどちらも・・」

「ふっ・・ご心配なく・・・
 何処かの金持ちのお嬢さんが何処でどういう形で
 死のうと生きようと・・・僕にはまったくもって興味がない」

「はっ・・・」 
ユンヒはフランクの言い様に、呆れたように彼を睨んだ。

「それとも・・・
 口ではそう言いながら、興味を持って欲しいのかな?
 止めて欲しいとか?
 ああ・・なるほど・・僕が
 父親に告げ口をしてくれるかと期待している?」
フランクはユンヒを見据えて、皮肉を混ぜながら冷たく言った。

「失礼だわ」

「それは失礼。」

「あの!」 
フランクの慇懃無礼極まりない態度にユンヒは無性に腹が立った。

「何?」 フランクは感情の無い笑みを彼女に向けた。

「・・・・!」 「いや~お待たせしました」 会長が席に戻って来て
ユンヒは少し興奮してしまった心を落ち着かせるように
深呼吸をした。

「ふたりで会話が弾んでいたようだね」 
会長はふたりを交互に見やりながらにこやかにそう言った。

「ええ・・とても・・・賢いお嬢様です」 フランクはさらりと世辞を言った。

「・・・・・」

「そうか・・フランク・・いや~そうか・・
 君達はきっと話が合うんじゃないかと思ったんだよ
 ユンヒはどうも内気で、友達が出来ないらしい
 フランク、是非これの相談相手になってやってくれないか」

「ええ・・お嬢様さえ宜しければ・・ところで、会長例の・・」
「ああ、そうだった・・」

ユンヒは目の前でまったく表情を変えることなく、父を交わし
仕事の話に切り替えたフランクを睨みつけていた。

≪あなたなんかに、私の何がわかるというのよ≫

ユンヒはいつも腹を立てていた。

父親に対して、自分に対して・・・

父はいつも仕事・仕事で家族を省みることもなかった。
母は父に愛されることもなく寂しく死んでいった。
幼い頃から今まで、父親の愛情など感じたことすらない。

≪父はこうして、自分のお眼鏡に適った男に出会う度、
 私を引き合わせる・・・
 結局私の結婚すらもお父さんの仕事の延長なのよ
 そして、男はいつも私を見ていない
 見ているのは、私の後ろにいる父のことだけ・・・この人だって同じよ
 私のことなんて興味が無いと言いながら、父の言うことなら聞くんだわ≫

フランクは少々反省していた。ついユンヒに辛く当たった自分が
本当は何に対して苛立っているのか、十分わかっていたからだった。




フランクはホテルに戻ったが、直接サファイアヴィラには戻らず
カサブランカというホテル内のカクテルバーに立ち寄った。

「何をお作りしましょう」

「ブルーマルガリータを」

「かしこまりました」

バーテンに差し出されたグラスの中の青く透き通った液体を
フランクはしばらく呑みもせず見つめていた。

≪綺麗だ・・・≫フランクはそう心で呟いて笑みを浮かべた。

韓国に来て三日目・・・今日は一度もジニョンを見かけていない。
そう思った彼の顔に一変して影が差した。

彼女に逢いたいと思う心が・・・
こんなにも自分をイラつかせている事実が余計に腹立たしかった。
離れていた10年に比べれば、たかが20時間彼女を見なかったくらい
≪何だというんだ≫

フランクは自分のジニョンへの執着を打ち消すかのように、
グラスを口元に運び、その強い液体を体の中に流し入れた。

その時だった
傾けたグラスの向こうにジニョンが見えた。

彼女はホテルの制服姿ではなく、黒髪は肩に下ろされていた。
フランクが韓国へ来て初めて見るジニョンのプライベートの姿だった。

フランクは瞬間胸を弾ませたが、それは直ぐに打ち消された。
ジニョンの少し後ろからひとりの男が一緒に入って来たからだった。
ハン・テジュン・・・写真で見たことがあるだけの男。

ふたりはカウンターではなく二階へと階段を上がっていった。
そしてジニョンはフランクに気が付かないまま彼の視界から消えた。




「話って何?」 ジニョンは椅子に腰掛けながら、テジュンの目を見た。
さっき、家に帰ろうと更衣室を出た所で、テジュンに声を掛けられた。

「話が無いと誘っちゃ駄目なのか」 
テジュンも椅子に腰掛けながら、ジニョンを見た。

「そうじゃないけど、まだ仕事中でしょ?」

「一時間だけ休暇を取った・・・」

「休暇ね・・・」 ジニョンは笑った。

「こうしてたまには呑むのもいいだろう?
 韓国に戻ってお前とまだ一度もゆっくりしてないし・・
 何呑む?」 テジュンがジニョンに訊ねた

「ブルーマルガリータ」 ジニョンは即答した。

「おい・・お前、そんな強いやつ・・大丈夫か?」

「見るだけでいいの・・綺麗だから」

「可笑しなやつだな・・・」


注文したカクテルを馴染みのバーテンダーが運んでくれた。
「ごゆっくり」 「ありがとう」

ジニョンはテーブルに置かれたグラスを黙って見つめた。

彼女は思い出していた。
昔フランクが注文したブルーマルガリータを初めて見た時に
あまりに綺麗な色に感動したことを。


  ≪綺麗だろ?≫ ≪ええ、とても・・・≫

   互いの額が付きそうなほどの
   狭いテーブルに置かれたグラスを挟んで
   私達は向かい合っていた
   私は身を屈めて
   グラスの中の神秘的な色に魅入っていた
   気がつくとその向こうに、フランクの澄んだ瞳が見えた
   同じように身を屈めて微笑む彼の目はグラスを通して
   私だけを見ていた・・・


「どうした?」

「あ・・いえ、何も・・・
 それよりここ・・まだ開業してないんでしょ?」

「ああ、一階だけはホテル宿泊のお客様にだけ開放しているがな」

「私達、ここに座ってていいの?」

「総支配人の特権だ」

「とんだ職権乱用ね」

「まあな・・チェックを兼ねてるんだ」

「チェックね」

「いいから・・飲め」

ジニョンはわかっていた。
昨日の自分の様子を彼が心配しているのだということを。

「何でもないのよ」

「何が?」 テジュンはとぼけたように言った。

「チィ・・・」

「冗談だよ・・・話したくないんだろ?・・・
 話したくなった時に話してくれればいいさ」

「・・・・ん・・そうする」 ジニョンはテジュンに向かって微笑んだ。

ふたりは結局何を話すでもなく、注文した飲み物を一杯ずつ呑んで
カサブランカを後にした。

テジュンが仕事がまだ残っているからと、フロントの方に戻ると
ジニョンは帰路につこうと足を進めた。
しかし彼女は無意識の内に帰る方向とは逆の階段を上っていた。
そして、ゲートの向こうの坂の上に視線を送り、少しだけ佇んだ。




「ブルーマルガリータは美味しかったかい?」
ジニョンはびくっとして、後ろを振り向いた。≪フランク・・・≫

「・・お客様・・」≪どうして?≫

「こんばんは」

「あ・・こんばんは・・・」 
ジニョンは少し戸惑いを覗かせながら笑顔を作った。

「驚かせたかな・・」

「あ、いえ・・お客様とお会いする時はいつも
 振り返っているような気がして」

「ああ・・なるほど」

「でも・・どうして?」

「今そこから出て来た」
彼はカサブランカを指して、笑った。

「ああ」

「声を掛けていいものか迷ってた」

「どうして・・ブルーマルガリータだと?」

「あー・・・勘?」 さっきバーテンが作るカクテルをフランクは見ていた。
二つ作られたカクテルのうち、ひとつがブルーマルガリータと知った時
それはジニョンが注文したのだと思った。

彼女はあれを見るのが好きだった。

    ≪ねぇ、フランク・・ブルーマルガリータ、頼んで?≫

    ≪またかい?もう飽きちゃったよ≫

    ≪ねっ・・お願い≫


「勘?・・・」

「・・・・・・」 フランクは無言のままジニョンを見つめていた。

ジニョンは彼の熱い視線に居心地の悪さを感じて急いで言葉を探した。
「・・・もう大分遅いですが・・」
「デート?」 フランクはジニョンの言葉を遮るように言った。

「えっ?」

「彼と・・」 

「あ・・いえ・・」≪違うわ≫

「違うの?」

「いえ・・」≪でもあなたにはそう言いたくない≫

「そう・・・」 フランクは少し伏目がちに声を落とした。

「・・・・・」 「・・・・・」

互いの沈黙が続く間、ジニョンは胸が閊えて今にも呼吸が
止まりそうなほどだった。
それはさっき飲み干してしまったブルーマルガリータのせい
そう自分自身に言い聞かせた。≪きっとそう・・・≫

「あの・・それじゃあ、失礼します」 
ジニョンは急いでここを立ち去らなければ、と思った。

「そこまで・・」

「えっ?」

「送らせて」 フランクはジニョンの瞳に請うように言った。

「でも・・」

「家まで送らせてとは言わない・・・せめて駅まで」

「でも近いですから・・」

フランクはジニョンをじっと見つめて、無言で圧力を掛けた。

「あ・・・・・はい・・それじゃあ・・」

フランクはジニョンが困惑しながらも承諾したことにほっとして
彼女の気持ちが変わらない内にと、彼女の前を歩き出した。
そして歩き進むうちに少しずつ歩調を合わせて彼女の横に並んだ。

ふたりは終始無言で、ただ虫の鳴く音色だけが響く静かな通りを
互いの靴音だけを聞きながら歩いた。

ホテルの敷地を抜けて、街の灯りの方へと進むにつれ、
歩く速度を弱めたのはきっと、どちらか一方だけではなかった。
しかしそのことには互いに気がついていなかった。



駅は無慈悲な程に近かった。

ふたりは地下の駅へと続く階段の上で立ち止まり、向かい合った。

「着いたね・・・」≪着いてしまった≫
フランクは小さく溜息をつきながら、ジニョンに別れを告げた。
「気をつけて」

「あ・・はい・・」

「・・・・・」 「・・・・・」

「あの・・」 ジニョンが口を開いた。
 
「なに?」

「いいえ・・何でもありません」≪本当に何もなかった≫
何を言いたかったのか、自分でもまったくわからなかった。

「今日は逢えて良かった」 フランクは心の底からそう言った。

「・・・・・・」 ジニョンは少し顔を曇らせて黙った。

「ごめん・・つい・・
 また、そんな風に言わないでって言われそうだね」
フランクは真面目な顔で言った。

「ふふ」 その言葉にジニョンは思わず笑ってしまった。

「初めてだ・・」

「えっ?」

「そんな風に笑ってくれたの・・」

「そうでしたか?」

「ああ・・いつも・・・」

「いつも?」

「怖い顔してる」

「えっ?・・嘘・・」

「・・・嘘・・・ちゃんとホテリアーの顔してるよ・・安心して・・」
フランクは寂しげな笑顔でそう言った。

「良かった」 彼女は胸を撫で下ろすような仕草をした。

「・・・・・・・」 彼は彼女を優しい目で見つめていた。

「もう・・行かないと・・」

「ああ」

「あ・・ありがとうございます・・」

「えっ?」

「その・・・送ってくださって・・」

「ああ・・どういたしまして」 
フランクは一度ゆっくりまぶたを閉じて、彼女をもう一度見つめた。

「それじゃ・・おやすみなさい」

「・・おやすみ・・」

ジニョンは地下鉄の階段を走って下りた。
一番下の段を下り切った時、振り向くと階段の上でフランクが
笑顔で手を振っていた。
彼女は彼に少し強ばった笑顔を作ると直ぐに進行方向に向き直った。
そしてその後は決して彼に振り返らなかった。


「行ってしまった・・・」
フランクは独り言を呟いて、階段の手摺りにもたれかかり
煙草を銜えた。

そしてもう一度、階段の下に視線を下ろした。


  ≪戻って来るわけ・・・


         ・・・ないか・・・≫・・・









2010/11/08 08:32
テーマ:passion-果てしなき愛- カテゴリ:韓国TV(ホテリアー)

passion-2.君のしあわせ

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フランクはジニョンが去った坂道の上に立ち尽くしたまま
しばし動くことができなかった。
目を閉じて、たった今彼女に触れた指を
掌に一本一本確認するように折り入れ握った。
まるで彼女の温もりが消えぬよう大事に仕舞い込むかのように・・・

そして悲しいまでに哀れな自分を慰めるよう、寂しく笑った。

≪わかっている・・・
 君を抱き寄せる資格など僕にはない・・・≫

それでも・・・

≪彼女もまだ終わっていない・・・≫そう言ったレイモンドの言葉を
≪この僕が一番信じたかったのかもしれない・・・≫

しかし・・・≪何て様だ≫
フランクは自分の思い上がりを蔑むように自嘲した。


少ししてフランクが部屋に入ると、メインルームの灯りは既に落とされ、
レオは寝室で眠っているようだった。
彼は自分の寝室に向かいながら、片手で乱暴にネクタイを解き、
いらだち紛れにベッドの上に上着を脱ぎ捨てた。

≪何に腹を立てている?フランク・・
 10年なんだぞ・・・お前は彼女に何をした・・・
 彼女の心がとうにお前に無かったところで
 仕方の無いこと・・・そうだろ?≫

フランクは冷たいシャワーを強く顔に浴びながら、
他でもない自分自身に怒っていた。

「レオ・・総支配人、ハン・テジュンを調べ上げろ・・
 今現在彼のソウルホテルでの立場を知りたい・・朝までにだ」

「フランク・・今何時だと・・」

眠気声のレオの怒りを無視して、フランクは用件だけを伝えると
受話器をガシャリと置いた。





「ジニョン、どうかしたのか」
背後に聞こえた声はテジュンのものだった。
ジニョンはスカートの裾を払うそぶりを見せながら立ち上がった。

「どうもしないわ、ちょっと転んじゃって」
「転んで・・泣いてたのか」
「泣いてなんか・・いな・・」
言い終えない内に、テジュンの顔が直ぐそばまで近づいていて
慌てて彼から顔を逸らし、灯りの無い方へ歩いた。

「・・さっきサファイアのお客様と一緒だったところを見かけたが・・
 お客様と何か問題でも・・」
「な・・何もないわ・・何もあるわけないじゃない・・」
ジニョンは動揺を悟られまいと、小走りにテジュンの先を歩いた。

≪暗くて良かった≫そう思った。≪こんな顔、見られたくない≫


彼は今しがた、彼女が客らしい男と握手を交わしていた姿を見かけた。
結局声も掛けずその場を立ち去っていた自分に少し後ろめたさを
覚えながら言葉を繋げた。「知り合いなのか」

「いいえ・・私が担当するお客様よ・・ご挨拶に伺っていたの」

「こんなに遅くにか」

「・・・あなたこそ・・・こんなに遅くにここで何を?」

「俺は・・ヨンジェとテニスをやってたんだ」

「こんなに遅くに?」
決してそんな格好に見えないのを承知で、視線を上下に移しながら
ジニョンは言った。

テジュンはソウルホテルの息子であるヨンジェがなかなか
思うようにホテルの仕事に身を入れてくれないことに手を焼いていた。

ジニョンにとってヨンジェは弟のような存在だった。
「あの子、父親が死んでから余計に酷くなったわね。
 ジョルジュがホテルを見捨てて出て行ったと思って、
 きっと怒ってるんだわ」

「甘えているだけだ」

「社長、心配なさってるわ・・
 テジュンssi、私からも宜しくお願いします・・
 あの子のこと・・見捨てないでやって?」

「お前こそ・・見捨てるなよ・・俺を・・」

「どういう意味?」

「俺をここに連れ戻したのはお前なんだからな、
 俺が総支配人としてちゃんとやっていけるか、
 見守る義務がお前にはある」

テジュンはそう言うと、ジニョンの横に並んで彼女をチラリと見た。

「何を言ってるの?」

「友達・・そう言ったな、この前」

「・・・・」

「あれは・・・お前がそう言ったんだ・・
 俺は何も言ってない・・
 友達だなんて・ひと言も言ってないぞ・・・
 じゃな、気をつけて帰れ」

「テジュンssi・・・」

「目が赤いぞ・・何があったか知らんが・・・・
 ゆっくり風呂にでも入って寝ろ・・」
そしてテジュンはジニョンを追い越し、歩き去った


≪いつもそうだった≫
ジニョンは彼の後姿を見つめながらそう思った。

≪いつもそう・・・
 彼は私がどんなことで悩んでいるかなんて聞こうとはしない・・・
 それでもいつも“わかってる”というような目で見るの
 まるで心で私の頭を撫でてくれるように・・・≫

「・・わかって無いくせに・・・」 
彼女は彼の背中に向かって呟き笑った。

≪でもね・・・黙って後ろにいてくれる・・・
 それだけでいいことって・・・あるの・・・≫

ハン・テジュン・・三年前、彼とならきっと寄り添える・・
そう思って一度は自分からプロポーズした男。

≪でも結局私を置いて行ってしまった男・・・あの人と同じ・・・
 そうよ・・・私って、どうしてこんなに男運がないのかしら・・・
 でも今度は、私は彼を連れ戻しに行った
 それはこのホテルに彼が必要だからなのか
 この私に・・・彼が必要だからなのか・・・私にもわからない・・・≫




≪眠れなかった≫フランクはバスローブを解いてベッドに入ると、
重ねた枕に背中を預けていた。
そして、さっき別れたばかりのジニョンの表情、仕草、
言葉のひとつひとつを思い返しては目を閉じた。

≪引き寄せれば直ぐにでもこの腕の中に抱けるほど・・・近くにいた・・・
 どうしてそうしなかった?彼女もそれを望んでいたんじゃないのか≫
邪まな想いが更に眠りを妨げた。

結局フランクは眠らないまま朝を向かえ、そのままベッドを降りた。
彼はロードワークに身を置き汗をかくことで、この朝靄と同じように
もやついた心を仕事モードに切り替えた。

自分がここへ来たもうひとつの理由・・・
≪今はまだそのことに集中しなければならない≫

ゴール地点のサファイア玄関前に近づくとそこに、レオの姿があった。
レオに渡されたミネラルウォーターの蓋を開け渇きを潤すと
今度は彼から資料を受け取った。

「ハン・テジュン・・・かなり優秀な人物で、人望も厚い」

「それはソフィアの資料でわかっている・・今の状況は?」

「一部の従業員からの反発はあるが、概ね彼に対しては好意的と言える
 間違いなく、彼が総支配人となるだろう
 彼が遂行しようとしている計画も決して悪くはないプランだ」

「彼に敵対している人物を当たれ。こっちの味方になれる奴が欲しい。」

「了解」





夢を見ていた・・・≪いつもの夢・・・≫
アラームに強制的に起こされて、不機嫌そうに枕を胸に
押し込んだ。

≪彼が私のところに帰って来た夢・・・
  
  でも直ぐに彼の顔が憂いを帯びて・・・
  私に背中を向けると・・・また出て行ってしまう・・・
  いつも、いつも同じ夢・・・

  また見てしまった・・・≫

靄がかかったような頭の中で漠然とそう思って、枕を抱いたまま
ベッドでごろんと転がった。

すると突然彼女は大きな目を見開いて、バネで弾けでもしたかのように
その場に飛び起きると、自分の右手をしみじみと見つめた。

「夢じゃない・・・」

≪夢じゃなかった・・・フランク・・・≫





フランクのことなど忘れたように、ジニョンは朝から慌しく動いていた。
トランシーバー片手に客室とバックヤードを飛び回わり、ホテリアーの
務めを果たす。

ホテルでは様々な事件が起こっていた。それらを迅速に解決をする。
もちろん、お客様の立場を第一に考えながら・・・。
それがホテル支配人としての彼女の務めだった。

時には報われず、涙を飲むこともある。
しかし、お客様の笑顔に出会うためならどんなことにも耐えられる。
そういう精神ですべてのお客様に誠意を尽くしている。
そしてお客様が有意義なひとときをホテルで過ごされ、
笑顔でホテルをチェックアウトされる、その時こそが彼女の至福の時だ。


その時彼女の無線が鳴った。『ソ支配人、応答願います・・』
「はい・・ソ支配人・・」
『サファイアのお客様がお部屋で何度もお呼びです』
ジニョンは自分でもわかるように困った顔をして、「わかったわ」
とだけ答えた。

≪そうよ・・・
  忘れていたわけじゃない≫

彼を想い浮かべるだけで、昨夜の胸の痛みが簡単に蘇る。

≪フランク・・・≫
昨夜この坂を上りながら、ジニョンはフランクに逢うための勇気を
懸命にかき集めていた。

昨日はあんなに上手くいった。
≪今日だって大丈夫、いつだって大丈夫よ・・・
 フランク・・私は10年前のような子供じゃないのよ・・
 私はプロなの・・・ホテリアーのプロ・・・
 あなたがお客様である以上、務めを果たすだけよ≫

フランクの部屋の呼び鈴を鳴らすと、彼の弁護士のレオが現れた。
ジニョンとレオは10年前も不思議と一度の面識も無く、
これが初対面だった。≪この人がレオさん・・・≫

「今参りますのでお待ち下さい」 
そしてレオは思わせぶりな視線を残して自分の寝室へと消えて行った。

ジニョンは何とも言えない居心地の悪さを感じていた。

フランクは彼女の直ぐ後ろにいた。
落ち着かない様子の彼女を彼は、少し面白がるような目で見つめていた。
「んっ、ん!」

ジニョンは背後から聞こえた彼の声に驚いて、また慌てて振り向くと、
今朝の彼は何故か清々しく穏やかな瞳で彼女を見ていた。

「また、遅刻ですね」

彼は満面の笑みを向けたが次の瞬間、慌てたように彼女に駆け寄った。
ジニョンは彼のその行動に一瞬驚き、思わず後ずさりしていた。

「どうしたの?その傷」

「傷?・・あ・・これは・・」

ジニョンはさっき、お客様とのトラブルが元でイ・スンジョンと
取っ組み合いの喧嘩をしてきたばかりだった。
≪あの時に切ったんだわ・・・私ってば・・今日少しいらいらしていた・・・≫

「血が出てる・・」 フランクの指がジニョンの唇に触れようとした瞬間
彼女は拒絶するように彼の手を払いのけた。

「あ・・ごめんなさい・・・でも大丈夫です・・あの・・
 ちょっと取っ組み合い・・・
 あ・・いえ、同僚とちょっと・・言い合いを・・」

ジニョンは自分のその行為が、ホテリアーとしてではなく
フランクを知るソ・ジニョンであったことを悟って、直ぐに自分を省みた。

「取っ組み合い?君が?
 ホテリアーというのは格闘技も強くないといけないの?」

フランクは全く彼を受け付けようとしない彼女の頑なな態度に
ショックを受けるしかなかった自分を悟られないように・・・
また彼女に気を遣わせまいと冗談を言った。

「ええ、場合によっては・・・」 彼女もそれに応えて小さく笑って見せた。

「逞しいね」 

≪確かにジニョンは昔から逞しかった≫
初めてふたりが出逢った翌日から一ヶ月もの間、毎日、
フランクとの再会を果たすべく待ち伏せして、終いにはとうとう
彼を捕まえてしまったこともあった。


≪泥棒!≫

≪泥棒?僕が君の何を盗んだというんだ!≫

≪くちびるを・・・盗んだわ≫


フランクはその時のことを思い出して微かに笑った。
ジニョンはそんなフランクを怪訝な表情で見上げていた。

「あ・・いや・・失礼・・・
 ランチにフランス料理をと思って・・一緒にどうかな・・」

「あ・・申し訳ございません、お客様・・
 部屋で、お客様と個人的な時間は過ごせません・・
 ホテルの規則なんです」

「んー・・ホテルの中では駄目なんですね・・・
 あー・・・それなら・・外ならいいのかな?」 
フランクは彼女の顔を覗き込むように言った。

ジニョンは彼のその仕草に図らずも胸を高揚させてしまい、
それをごまかすように彼から視線をずらすと、腕時計に目をやった。

「もう直ぐお昼休み・・ですね・・・外でなら・・」 
ジニョンは少々困ったような顔をしながらも彼の申し出を受け入れた。

「良かった・・」 フランクはホッとしたように微笑んだ。



ジニョンがフランクを案内したのは、昼食時で混雑し、白い湯気漂う
大衆食堂だった。
フランクは彼女が注文してくれたカルグクスを前に困惑したように
周りを見渡していた。

「食べないんですか?ここのカルグクス・・凄く美味しいんです・・」
ジニョンはそう言いながら、フランクの器に薬味を入れて
てきぱきと混ぜ合わせてあげると、“食べてみて”と言うように
彼の顔を下から覗きこんだ。

フランクはその時の彼女のあどけない表情にホッとしたように笑った。

「可笑しいですか?」 ジニョンは口を尖らせて見せた。

「いや・・相変わらずだなと思って」

ジニョンはフランクの言葉に少し沈黙した後、正面に向き直り
居ずまいを正した。
そして真剣な面持ちに変えて、彼を見ないまま言った。

「・・・・そんな風に・・・言わないで」

そして自分の目の前の料理を黙々と平らげた。
フランクもまた彼女と同じように正面に向き直って言った。
「・・・・ごめん。」

フランクはこの時やっと、ジニョンが自分を見てくれたような気がして
妙に嬉しかった。
例えそれが、彼に対して否定的なことであったとしても
その時の彼女の心はちゃんとフランクに向かっていたからだ。



ふたりはその後、無言のまま食事を済ませ店を出た。

ホテルまでの道を並んで歩きながら、ふたりは互いに、
会話のタイミングを探していた。

「ホテルの仕事は楽しい?」
フランクは余りに当たり障りのない自分の質問に苦笑した。
しかしそれが彼女に聞きたかったことのひとつでもあった。

「ええ・・大変なこともありますけど、
 お客様が喜んで下さる笑顔を見ると、それだけで報われます」

「幸せ・・・なんだね」 そしてこれが一番知りたかった。

「ええ、とても」 ジニョンの言葉は力強かった。

「そう・・・それは良かった」 フランクは本心からそう言った。
彼女が幸せでいてくれたことに心底安堵した。

「あなたも、成功なさったんですね」

「さあ、どうだろう」

「サファイアのお部屋の一日の宿泊料、
 私のお給料と同じなんですよ。
 そこに3ヵ月も滞在なさる程ですもの・・・
 そういうのを成功というんじゃありませんか?」

「そうかな・・・」 

「・・・・でも・・・良かった」

「えっ?」

「ふふ・・あなたもそう言ったから・・まねてみたんです」

そう言って、ジニョンは屈託の無い笑顔をフランクに向けたかと思うと
次の瞬間、ちょっと“しまった”というような顔をした。

「あの・・ジニョン・・」

「お客様・・・」≪まただ・・・≫

ジニョンがフランクとの間に懸命に隔たりを作ろうとする姿勢が
彼を彼女へ向かわせる心にブレーキを掛ける。

「ソウルは初めてですよね・・」

「ええ」

「では市内観光は如何でしょう」

「いいですね」

「では・・パンフレットを明日お届け致します・・・
 ・・・・あ・・お昼・・ご馳走様でした」
 
少々早口に言うと、彼女は転がるように坂を下りて
仕事に戻って行った。





≪幸せです≫ジニョンが言った言葉が耳から離れなかった。

≪良かった・・・≫本当にそう思った。しかし・・・

フランクはジニョンの儀礼的な笑顔を目の当たりにする度に
彼女の“幸せ”の中に自分が存在しない事実を突きつけられているようで
胸が酷く締め付けられた。

≪そうなんだね・・・
 今の僕は君にとってひとりの客でしかない
 それは間違いの無い事実だ・・・しかし・・・≫

フランクは、ベランダに出て冷たい夜風に吹かれていた。
そしてまだ見慣れぬ大人びたジニョンの姿を思い浮かべながら
少し強過ぎたスコッチを揺らし、氷の音を聞いた。


  ≪フランク・・・お前はそれで・・・


           ・・・いいのか・・・≫

  



























2010/11/07 19:08
テーマ:passion-果てしなき愛- カテゴリ:韓国TV(ホテリアー)

passion-果てしない愛-1.忘れえぬひと

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              story by kurumi






      



「何年ぶりだ?・・ボス・・・」

「21年・・・」いや・・10年・・・

仰ぎ見た大空は目が眩むほどに白かった

まるでたった今まで僕が見続けていた

暗く長く・・そして儚い夢から突然誰かに引き出され

目覚めでもしたかのように・・・

白く・・・

・・・眩しかった・・・


 

フランクは韓国に降り立つとまず、今回の案件のクライアントである
キム・ボンマンとの面会を果たすべく、ハンガン流通本社に向かった。
空港で出迎えていた彼の部下の案内でソウル近郊へと向かう。
その車窓から眺めた21年ぶりの祖国には僅かの感傷もなかった。

30分ほどして車は瀟洒な建物の地下に滑り込み止まった。
と同時に助手席に座っていた男が素早く車から降り立ち
後部座席のドアの前で腰を45度に折りドアを無言で引くと
フランクとレオをエレベーターホールへと丁重に案内した。
男は成金じみた金色の装飾を施された四角い箱へと彼らを誘導し
24階建ての最上階のボタンを押した。

目的の階で降りるとフランクとレオはひとつの応接室へと案内された。
そして待たされること10分その男は意気揚々と現れた。

「やあ、お待たせしました。私がキム・ボンマンです・・・」
手を差し出しながら、声高に挨拶をするキム会長の視線は、
フランクに近づくまでには彼の髪の先から足の先までを
観察し終えているようだった。「雑誌よりもかなりお若い」


「フランク・シンです・・こちらは弁護士のレオナルド・パク」
フランクは起立と同時に上着の前ボタンを左手で留めながら、
彼の慇懃無礼な握手を少しばかり苦い顔で受け入れていた。
キム会長はフランクが紹介したレオを見下すように一瞥をくれただけで
彼らに着席を促がした。フランクは彼のその態度に腹立たしさを覚えた。

「早速ですが、仕事場は私の執務室の隣にご用意しました。
 宿泊先はWホテル、ロイヤルスウィートルームを・・」
「宿泊先はソウルホテルに予約済みです・・仕事もそこで」
フランクはキム会長の言葉を遮るように少し早口でそう言った
「いや・・しかし」
「私達の関係は当分内密に願います。特にソウルホテルの人間には
 くれぐれも気づかれないように・・」
「手始めに内部偵察から・・ということですかな?」
「敵の懐に入るのが我々のやり方です。そして射程距離に入った
 ところで弾を込め・・ダダダダ・・・いや・・冗談ですが・・」

キム会長は、テンション高く銃を構えるまねをして見せたレオを
冷ややかに見て、フランクに疑義をただすような目を向けた。

「我々は・・・たかがホテルひとつの為に韓国に渡ったのではありません」
フランクはキム会長に突き刺すような鋭い眼差しを返すと、
彼の腹の内を探るかのように言った。
「と言いますと?」
キム会長もまた、フランクの言葉の真意を彼の瞳の中に探していた。

フランクはその答えの代わりにレオから受け取ったファイルを
広いテーブルの上で彼に向かって滑らせると、不適な笑みを浮かべた。




胡散臭い匂いを漂わせたキム会長との対面を優勢に終えたフランクは、
夕刻になってやっと、ソウルホテルに向かうことができた。

キム会長が用意したジャガーのハンドルをレオではなく自分が握ったのは
きっと一秒でも早く目的地に辿り着きたかったからだったろう。
それは・・・


ソウルホテル本館の正面玄関にフランクの車が到着すると、
ドアマンが素早くそして滑らかにドアを開けふたりを迎え入れた。
案内されてフロントに向かい、チェックインを済ませた頃には
先に送っておいた荷物がカートに乗せられ、ベルボーイが
彼らを待ち受けていた。

「只今、お部屋にご案内申し上げます。」

レオが手続きをしている間、フランクは少し落ち着きの無い様子で
ロビーの左右を見渡していた。

「どうした?ボス・・」
「いや・・何でもない」
フランクは確かに何かを探していた。
しかし彼の表情はまだいつもの冷静さを保っていた。それは・・・
彼の視線の先に彼の心を乱す何かが現れていなかった・・・
その証拠に他ならない。



ジャガーの運転席にベルボーイが乗り込み、フランクとレオは
後部座席に座った。
ホテル本館の玄関から、特別ゲートをくぐり緩い坂を上ると、
コンドミニアム風の連なった建物が見えた。
サファイアヴィラと名付けられたその建物の一角で車は停車し、
彼らがこれから3ヶ月を過ごすだろう部屋へと案内された。

「お部屋はいかがでしょうか」
ベルボーイが部屋の感想を彼らに尋ねると
「盗聴防止装置は?・・ここは防弾ガラスじゃないな・・」
レオがまるで彼を脅すように返した。

「レオ・・止めておけ・・」
フランクは部屋に入ると直ぐに、ホテル案内のファイルを開き
メモ用紙に何やらペンを走らせながら言った。

「ソ・ジニョンさんをご存知かな・・ここで支配人をしていると・・」

「ソ支配人ですか?・・はい、あの方は寝る時以外ホテルにいる方です」
「このメモを彼女に・・・」フランクは後ろ手に走り書きのメモを折って指し出し
仲介したレオがそのメモにチップを添えてベルボーイに渡した。


「彼女か?・・・」
ベルボーイが立ち去った後でレオは溜息混じりに言った。
「ん」

「もう終わったことじゃないのか、フランク・・これは忠告だぞ。
 我々は今、ソウルホテルの引受でここへ来ている・・・
 それを忘れるな」

「・・・・余計な忠告は仕事の時だけでいい」
フランクはレオを睨みつけると、椅子に掛けていた上着を
乱暴に手に取り部屋を出て行った。


さっき車で一気に上って来た坂を本館へと歩いて下りながら、
フランクは薄暗い景色をゆっくりと見渡していた。
小さな森を思わせる木々の葉が風に揺れ、その音が静けさを破る。
漢江を挟んだ向こう側に街の灯りが煌々と燃えていた。
「ここが・・・君の夢か・・・」 彼はポツリと呟いてフッと笑った。

≪ホテリアーになって、ソウルホテルで働くこと・・・≫
それが彼女の幼い頃からの夢・・昔ジョルジュからそう聞いた
彼女がその夢を果たしたことを知ったのは5年前だった。

≪彼女がソウルで大学を卒業した年のことだ≫

フランクはジニョンと別れた後も彼女の近況を逐一把握していた。

≪彼女にもしものことがあったら、直ぐに対処できるように・・・
  そう思ったからだろう?≫
レイモンドが言った言葉が脳裏を過ぎった。



フランクは彼女を待っていた。

【スターダストで待っている フランク】彼はあのメモにそう書いた。
≪フランク・・・≫その文字を彼女はどんな思いで追うだろう。

今、フランクの胸の内は恐ろしく波打っていた。

≪彼女が現れたら・・・何を言えばいい?
 あの日、彼女を置き去りに逃げたはずの自分が何故ここにいる?
 もう既に終わったこと・・・そう言いながら、どうしてここに来た?≫

フランクは胸の内の恐怖を追い払うかのように、自問を重ねていた。
しかし彼はとっくにわかっていた。自分自身がこの10年間何故
まるで彼女の後ろを歩くかのように、その消息を調べていたのか。

≪彼女にもしものことがあったら、直ぐに対処できるように?・・
 いいや・・レイ・・・そうじゃない・・・
 そんな綺麗ごとじゃなかった・・・

 彼女の後を追ったのは・・・
 ただ・・・この僕が・・・彼女を感じていたかったからだ
 彼女の気配の中に身を投じていたいだけだった・・・
 彼女から逃げたくせに・・・
 僕自身が息をするためにすら彼女が必要だった
 そうだ、そんなこと・・・とっくにわかっていた≫



彼女は現れなかった。

≪僕だと分かって避けているのかもしれない≫
フランクは心に聞こえたその答えに簡単に納得していた。

スターダストを後にして、さっき下りて来た坂を今度はまたゆっくりと上る。
フランクは自分の胸の鼓動が速いのは決して飲み過ぎた
ブルーマルガリータのせいじゃないとわかっていた。
≪いったい・・・何を期待している?
  彼女が僕との再会を望んでいるなど・・・≫
彼は今頃になって、韓国に渡って来た事実を後悔していた。


その時だった。視線の先に動く黒い影が見えた。
彼女だった。
≪ジニョン・・・≫
彼女はフランクの部屋の前を何やらブツブツ呟きながら
何度も何度も往来を繰り返していた。


「久しぶりね、フランク、元気だった?・・アニョ・・
 何だか、わざとらしいわね・・どうしてここへ?フランク・・・
 駄目よ・・彼はお客様、そうよ、お客様・・」
ジニョンはもう10分も前から、この場所でそうしていた。

≪何をやってるの・・・やっと会おうと決めたんじゃない
 彼はお客様なの・・・私のお客様なの・・・≫
彼女は大きく深呼吸をして、もう一度だけドアが開いた瞬間の
自分の台詞を声に出した。

「ようこそ!・・ソウルホテルへ・・」
「ありがとう」
「キャッ!」 後ろから突然声を掛けたフランクに必要以上に驚いた彼女が
大きく飛び上がって後ろを振り向き、ふたりは互いに目を見開いたまま
一瞬時が止まったかのように向かい合った。

「・・・・・・・」「・・・・・・・」

そして我に帰ったふたりは共に苦笑いを浮かべ、十年ぶりの対面を
辛うじて緊張することなく迎えた。

ばつの悪そうな顔と少し悲しそうな顔が入り混じった表情の彼女は
少し大人の女の憂いを偲ばせながらも昔のままだった。

10年の時を重ねていても変わることなく、愛らしく、更に美しさを増した。
≪愛しいジニョンが目の前にいた≫

フランクは酷く息苦しかった。
今まで閉じ込めていた彼女への思慕が激流のごとく込み上げて来て
今にも涙が零れ落ちそうになるのを寸前のところで堪えようと
胸の奥で深く呼吸をした。

しかしフランクの心は既に彼女の手を掴み引き寄せて

泣きたいほどに逢いたかったその人を・・・
死ぬほどに焦がれたその人を・・・

思い切り抱きしめていた。


沈黙がどれだけ続いていたのか、ふたりはわからなかった。
言葉を出そうとしても、何を言えばいいのか、一向に出て来ない。

そして、彼女の方が先に複雑な表情を儀礼的な笑顔に変えることに成功した。


「お久しぶり・・ですね・・Mr.フランク」 彼女は特に取り乱す風でもなく
静かに英語で言った。

「あ・・ああ・・久しぶり・・ジニョン・・ssi」 フランクは韓国語で応じた。

「こちらへは・・お仕事で?」

「ええ」

フランクは情けなかった。彼女に再会したら、言うべき言葉が
もっと何かあったはずだった。
しかし、正直今は、彼女の前に立っていることがやっとだった。

「こんな遅くにどちらへ?」
彼女のその言葉で、フランクはやっと閊えた胸の何かが取れたように、
薄く笑顔を作ることができた。

「あー・・・誰かを待って・・・ずっと飲んでいました」

「あ・・ごめんなさい・・メモを受け取ったのが遅くて・・・
 明日にしようかと思ったんですが」 ジニョンは申し訳なさそうに微笑んだ。
しかし、ジニョンがメモを受け取っていたのは一時間も前のことだった。

「いえ・・・いいんです・・・あの・・
 良かったら、部屋で話を・・・」

「いいえ、今日はもう遅いですから」 ジニョンはきっぱりと言った。

「ああ、そうですね・・・明日もお仕事ですか?・・」

「ええ」

「それじゃ、明日・・・お目に掛かれますか」

「ええ、お客様のお部屋は私の担当ですので・・
 ご用命がございましたら、何なりとお申し付け下さい」

「それは・・ありがとう・・・」

フランクとジニョンは、自分達の間を交差する余所余所しい言葉の響きを
まるで他人事のように耳で捕らえていた。


「それではまた明日・・・」 フランクがそう言って手を差し伸べると、
ジニョンは少し躊躇いがちに彼の手を取った。
ふたりは互いの温もりが互いの体中に熱く絡み合う感覚に
囚われていた。
しかしフランクはあの日離してしまった手をこうして掴んでいても
彼女の心は遥か遠くにあるのだと自分に言い聞かせていた。それは・・・


「はい・・・明日お伺い致します・・お客様」

彼女の言葉と瞳の中に互いの間を遮るように作った厚く高い壁が
冷たく立ちはだかっていたからだった。

  ・・・お客様・・・

ジニョンはその言葉を最後に、サファイアヴィラの坂を下りた。
フランクは一度も振り返ることの無い彼女の後姿に強い意思を感じていた。

≪君の心にはもう僕はいない・・・そういうこと?≫
 
ジニョンが坂下の角をやはりこちらを見ることなく曲がって消えた後を
フランクは長い間彼女の残像を追うかのように見つめ立ち尽くした。

≪・・・いつもそうだった・・・君の方がいつも・・・
  大人だったね・・ジニョン・・・≫




≪・・・フランク・・・≫先刻その名前をメモに見つけて、ジニョンが
酷く動揺したことは言うまでもない・・・

ここに足を運んでくるまでに裕に一時間は悶々と考えあぐねていた。
≪今更・・どんな顔をして会えばいいの?≫

彼との突然の対面に、自分の心がどれほどの衝撃に耐えられるのか。
≪彼の名前が書かれたメモを持つ手さえ
  こんなにも震えているというのに≫

いつかこんな日が来る・・・

そんな期待を抱いていたのは何年前までだったろう

もうとっくに諦めていた ≪・・・それなのに・・・≫

目の前に現れた彼の人はジニョンに十年の時を一瞬にして越えさせた。
しかし、その動揺を彼に悟られるわけにはいかない。
ジニョンはその為にここへ、彼の元へ重い足と心を引きずって来た。

≪上手くいった?・・ジニョン・・・≫

彼女は自分自身に問いかけながら、もう溢れる涙に逆らわなかった。

≪大丈夫、もう角を曲がったもの・・・≫彼女は知っていた。

例え見えていなくても彼ならば、≪私の背中に涙が見えてしまう≫

だから、坂を下りきるまで歯を食いしばって堪えていた。

いつの間にか涙が止め処なく頬を伝い胸を強く締め付け
ジニョンを打ちのめした。

顎から零れ落ちる雫を手の甲で乱暴に拭い、“もう出て来るな”と
目の淵に強く力を入れた。

≪どうして!・・・言うことを聞かないの!≫

足が震えて歩くのもおぼつかなかった。

≪フランク・・・フランク・・・フランク・・・≫

ジニョンの頭に彼の名前が充満して今にも破裂しそうだった。そして
とうとう彼女の足が膝からガクンと落ちて、その場にしゃがみこんでしまった。

≪今だけよ・・・今だけ・・・≫

彼女は自分にそう言い聞かせて、そのまま両手で顔を覆い
声を上げて泣いた。

忘れえなかったその人の名を心で呼びながら・・・。



       ・・・フランク・・・


       


    




             


  


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