カメラ
すっかり春めいてまいりました。うきうきする頃でもありますが、年度の変わり目は落ち着かないものです。
季節は毎年同じように繰り返しているのに、時間の変化は一方向です。春は淡い季節の到来のようですが、実は日本の社会においては急な環境変化の季節です。自分の生が後戻りできないことを痛いほど感じます。
そんなワサワサした心を癒そうといろんな音楽をたくさん聴いています。iTunesのサイトで様々なアーティストの曲をむさぼるように試聴しつつ購入。そのなかにはこれまで耳にしたことのない方の曲もあります。
岡野宏典さんという若いシンガーソングライターの歌が気に入りました。とくに♪フォトグラフ♪という歌は自分やヨンジュンさん、そして季節の変化と重なってジ~ンときました。
少し肌寒い風に シャツの襟を立てて
新しい季節の気配を感じてる
君とよく待ち合わせた バス停の周りも
淡く色づき出す 麗らかな日
目に映る景色を 君に伝えたくて
ここにある全てを 君のために閉じ込めたい
離れてもそばにいられるように
君に笑顔咲きますように
届けたいこの想い
僕なりに切り取ってみる
いつまでも色褪せることない
僕ら出逢った頃のような
きらめく時の中で輝いてるフォトグラフ
【フォトグラフ】 by 岡野宏典
もしかしたら秋の歌なのかな。ま、いいさ。
止めることができない時間をそのまま切り取っておきたい・・・それが写真への私の想いです。
いつまでもこのままいたいというのは、やはり贅沢なことなんでしょうか。
雪解けで豊富になった滝の水流のような年度の境目。私はそこに飛び込む自分の緊張をなだめるために、ちょっと後ろ、つまり過去を振り返りたくなりました。自分がここにあるのはどうして?どうしてここにいるの?私の人生の物語はこの先どうなるんだろう・・・。
“ひとは物語の中で生きている”
実はここ数ヶ月間考えていることです。いつかブログにそのことが書けたらいいなと思っています。頭の中がまとまらないんですよね~。
この岡野宏典さん、どうも地元の方だったようです。ちょうど彼が出るローカルラジオ局のコンサートが来週あるので出かけてみる事にしました。風味堂や佐藤竹善さんが出演するコンサートです。
(訂正:佐藤竹善&風味堂のコンサートでした。岡野さんのコンサートは別)
楽しみ!
今日のタイトル下の写真は友のカメラです。
リコーの“GR DIGITAL”です。28mmの単焦点レンズ。
コンデジなのですが、RAW撮影もできて、なかなかなシロモンです。
なんともマニアックなカメラです。彼女らしいというかなんというか・・・。
(ちなみに後ろの方に写っているのはトイカメラです。これも友の)
GRに触らせていただいたら、私もこんなカメラが欲しくなりました。
イチデジほどのことはできないけど、きれいに撮れてカバンにポイと入るサイズなのがいい。
Canonで考えるとPower Shot G10かなあ。う~ん、欲しい。
菜の花は職場近くの休耕田に咲いていたのを撮影しました。
そろそろ桜の花も開いてきたので、お休みの日にカメラもってまた出かけたいです。
新年前夜
まだ仕事の終わらない後輩たちを無残にも置き去りにして、職場で年明けを迎える夜勤スタッフに挨拶をして、私がチャリンコを走らせたのは19時半ころでした。西の空に消えそうな三日月とキラキラの金星がすぐに目に入りました。
それにしても今日は寒い!いや、冷たいなあ~。風は昨日よりは少ないか~。そんなことを感じながら、いつもの通い慣れた道をいつものようにiPodを聴きながら走っていました。
だけど、なんか変だヽ(~ ~ )ノ ハテ?
道路が静かです。車も人も極端に少ないのです。住宅街はまるで夜中のようです。犬の散歩する人も、ジョギングする人も見かけません。
大晦日なんだなあ。みんな家で家族と会話しているのかな。
紅白は始まったかな?
駅近くの繁華街は多くの店がもうシャッターを下ろしていました。数人の若者たちが大きな声で話しながら通ることがありましたが、いつも見かけるコート姿のサラリーマンたちはいません。歩道も車道もスイスイと走ることができます。・・・おっと(ノ゚ρ゚)ノ 、角を曲がった時におまわりさんにぶつかりそうになってしまいました。お仕事ご苦労さまです。
駅前の高層ホテルを見上げると多くの部屋に灯りがともっています。ここで年越しをする人たちもあるのかなあ。誰と一緒なのかな。ちょっぴりうらやましくなりました。
コンビニの駐車場には若者たちが集まっていました。車でどこかへ走りに行くような雰囲気です。私も二十歳のころは初詣に初日の出と一晩中友達と車で移動していたことを思い出しました。どこでもやたらと渋滞しちゃうんですよね。
自宅近くの神社は提燈が並び、達磨が積まれ、初詣の準備がされていました。亡くなった父が元気な頃、紅白が終わると出かけて行った場所です。お参りをして甘酒をいただいて帰ってきていました。
年が変わる時間が近づくと、家でテレビを見ていた人たちがぞくぞくと出てくるのでしょうね。嵐の前の静けさ・・・そう思えました。
もう少しで新しい年です。あ!東急ジルベスターコンサートを見なくちゃ。今年はガーシュインの♪ラプソディー・イン・ブルー♪だよ~ん。
Christmas クリスマス くりすます
クリスマスが終わる前にこの記事をアップする予定だったのに、うたた寝をしているうちに日が変わってしまいました。アチャ・・・(ノ_< ;)
イブの朝7時頃、我が家の電話が鳴りました。朝早い電話・・・何か急な知らせ?ドキドキしていると、電話に出た母が「おばあちゃんが亡くなったって」と私の元に言いに来ました。おばあちゃんとは母の母、つまり私の祖母のことです。
え~!体調を崩していると聞いていなかったために、びっくりでした。
祖母は認知症があり、施設での生活をしていました。朝食中に急に倒れたそうです。98歳ですから大往生といえるでしょう。
現在母の実家は母の姉・つまり私の叔母とその息子、つまり私のいとこの二人暮らしです。しかも、二人とも透析をうけています。さらに叔母は脳梗塞を患ってから、車椅子で出かけることはあってもほとんど寝たきりです。いとこは自営業をしながら叔母の介護をがんばっています。
祖母も以前は一緒に住んでいて、日帰りでケアハウスへ行ったりショートステイをして生活をしていました。しかし、叔母が脳梗塞をしてからはずっと施設生活になっていました。
とりあえず、母の実家へ二人で行き、帰ってきた祖母と面会しました。祖母は色が白く、シワが少なく、とてもきれいな顔をしていました。そういえば私はもう何年も祖母と会っていなかった・・・。
私の頭にはかぎ針で編み物をしてくれた祖母が強く残っています。ベストやスカートを編んでは私たちにプレゼントしてくれました。古いセーターを解いて毛糸球をつくるのを手伝った記憶があります。古い家の自室でコツコツと静かに編んでいた姿が浮かびます。
なんというクリスマスになってしまったことか・・・。しかもイブの私の勤務は夜勤。なんだか、気分は暗く、体は重くなっていた私でした。
母を実家に残して家に戻ると、郵便受けにいくつかのクリスマスカードが届いていました。喪中である私に年賀状の代わりにと友が送ってくれたもののようです。友たちの優しさに少し気持ちが緩みました。
コーヒーを飲みながらメッセージを読んでいると、ピ~ンポ~ン♪
「カレンダーって書いてあるよ」と宅急便屋のおじさん。
( ̄  ̄)………( ̄∇ ̄)ニヤッ…クマだ!
箱を開けると出てきました!Joon Bear!
徐々に元気になってきました。私って単純だわ。
その日の仕事はバタバタしており、ちょっぴりきつめ。帰宅したとたん、眠気と疲労感がいっきに襲ってきて(X_X ;)/ ヘロヘロー。。。(lll __ __)バタッ
携帯電話にもいくつかクリスマスメールが届いており、それを見るか見ないうちに意識がなかった私。ごちそうもケーキもシャンパンもなかったけど、友たちのメッセージにクリスマスを感じながら眠りについたのでした。
届いたクリスマスプレゼントの中に、ヨン友さんからのCDがありました。クリスマス曲集と映画『ある日どこかで』のサウンドトラックです。25日、目が覚めてからこれらを聴きました。クリスマスパーティーをしたかったなあ~。
25日は友とクリスマスリース造りって街へ繰り出す予定だったをあきらめただけに、軽快な音楽がちょぴり恨めしくなりました。
映画『ある日どこかで』はとても美しい曲たちでした。モリコーネを思わせるような旋律&編曲です。聴きすすめていくと、あれ?どこかで聴いたような曲がでてくるじゃありませんが。ラフマニノフです。
この映画にラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」が使われているのですね。その中の最も有名な18番目の変奏の部分です。
ここで聴いてください。↓
http://jp.youtube.com/watch?v=cBJ9-Vk6Wrg
こうなると全曲聴きたくなります。さらにラフマニノフって叙情的で美しい旋律だわと思って、他の曲も次々と聴きたくなりました。
「パガニーニの主題による狂詩曲」⇒「交響曲第2番」
⇒「ヴォカリーズ」⇒「ピアノ協奏曲第2番」
クリスマスにラフマニノフっていいかもしれない!とひとり部屋で浸っていました。
今日の写真は、タイトル下はクリスマスイメージ色のネオンです。実は、次の二つ並んだ写真の右のクリスマスツリーを接写&ピンボケさせたものです。
そのクリスマスツリーは先日お邪魔した東京の友宅にあったものです。ファイバーの灯りだけですが、キラキラときれいでした。ちなみに、前においてあるのは酢の瓶です。
その左横は、イブに送られてきたクリスマスカードです。陽光に当てたらとてもきれいでした。
最後の写真は、忘年会の日、私が酔っ払う前に撮影した街のイルミネーションです。
12月27日、東京国際フォーラムで「ブラスの祝典 年末スペシャル」というコンサートがあるんです。
http://classical.eplus2.jp/article/107365790.html
東京佼成ウインドとシエナ・ウインドの共演という歴史的なコンサートで、指揮は金聖響氏。祖母の葬儀と重なり行けなくなりました。( p_q)エ-ン
私はつくづく聖響さんと縁がないようです。埼玉で握手してもらった温かな手がわすれられない・・・。
デニムパンツ
元厚生次官殺傷事件の容疑者が警視庁に出頭したニュースへのあるコメントを新聞で読みました。「今の40代は幼稚な20代に見える」というものです。事件の方法は計画されていたのだが、動機やパフォーマンスからそのようなことが伺えるというものです。確かに・・・。40代の私としてはいろいろと考えさせられます。
↓新聞の記事と同じものがここにありました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/081123/crm0811230023000-n1.htm
今年の流行語のひとつに“アラフォー”があります。これはTVドラマ『Around 40~注文の多いオンナたち~』がきっかけで、アラフォーとは40歳前後の女性のことだそうです。その特徴は「男女雇用機会均等法のもとで仕事をし、キャリアを積んだ世代。結婚と仕事の選択がそれまでの世代より自由に行えるようになり、キャリアウーマン、女性ベンチャー企業家も珍しくなくなる世代」(日本俗語辞書より)とか。バブルの追い風に乗ってバリバリに働いてお金を稼ぎ、稼ぎを自分に投資して磨きをかけて「いい女」を目指した・・・ということでしょうね。「バリキャリ」っていう語があるそうで、私は知りませんでした。
急いで結婚をすることはないと考える人が増え、この世代には結婚の判断を保留して歳を重ねてきた人も多いとか・・・。また、一人旅を楽しんだり、ひとりでレストランを気軽に利用したりと、「おひとりさま」という文化(?)を確立したのもこの世代だそうです。
仕事、趣味、結婚、出産、友達・・・などいろんな選択を自由に選択してきたといろんな記事に書かれています。
(〃^∇^)o_彡☆アハハ・・・。なるほど~ですね。自分のことを言われているようでした。がんばったら自分にご褒美としてお金を使うことが喜びだったりするんですね。
「自分の人生の幸せは自分で決めていくのだ!」という信念、「他人に依存しないで生きるんだ」という強がり、「この生き方が自分らしいんだ」という誇りみたいなものがあるのかもしれません。
1ヶ月ほど前、高校時代の私を知る友と話をする機会がありました。男から見ると(女からみても同じかもしれないが)私は「我が強い」のだそうです。「私はわがままなのか」と聞いたら「わがまま」とは違うとか。自分の意見を強く主張するという意味のようで、わがままはもっとかわいいと言ってました。∑(゚◇゚;) ゲッかわいくない私・・・。
そういえば30代のころも男性に「かわいくない」と言われたことがあります。あーいえばこー言うところがのようでした。
また、20代の後半、もしかしたら結婚するのかな~っていう男性と別れ話が出たとき(私が切り出したね)「生意気になった」と言われたのですが、それも同意味のような気がします。現在の部署に移動し、仕事が面白くなってきたころでした。その彼と別れた直後、私は初めて一人旅をしました。奈良だったんですけど。
アラフォーと40代はピッタリと一致しませんが、“私”という軸に考えを進めていくと、他に1960年代生まれとか新人類とかいうのが当てはまります。
1960年代生まれの日本女性はまれにみる結婚しない人たちとか。2000年(30代)でも2005年(40代)でもこの世代の未婚率が13%くらいと変わらなかったそうです。つまりこの世代の女性が10人寄れば1~2人は独り者ってことです。まあ、類は友を呼ぶでしょうか、私の回りは独りは多いです。はじめから一人の方、途中からひとりになった方も含めて・・・。数年前に「負け犬」って言葉がありましたが、私たち世代が30代後半の時に出た言葉だから、それも私を修飾しているかな。
新人類ってオタク第一世代というのだそうですよ。大学がマークシートで共通一次試験をした世代が卒業したころの話です。
成熟した成人として、社会を構成する一員の自覚と責任を引き受けることを拒否し、社会そのものが一つのフィクション(物語)であるという立場をとる。現実から逃避してフィクションに埋没してゆくオタクとは対極にあるとみなされた。オタクが仮想現実と現実を峻別して人生の目的として仮想現実世界を選択することに対し、新人類は情報化社会によって現実世界のほうが仮想現実化し、現実社会で生きるとは情報化された現実を情報処理することであると唱え、それをさまざまな哲学的命題を用いて理論づけようとした。(Wikipediaより)
わかるようなわからないような・・・。情報の送り手の決めたメッセージよりも、自分の哲学や思想で語ったとあります。やはり「自分」なんですね。そのために自分を成長させたいというか、エリート志向が強いのかもしれません。私は?
洋服やバックなどのブランドはこだわらなかったけど、バブルのころは和装してディナーショーに行くとか、有名なお菓子を求めてお店を訪ねるとか、高級ホテルに宿泊するとかはありました。また、いろんな趣味に挑戦したり、セミナーに出かけたりと自分投資をしました。
最近、自分の生きかたの選択はどうだったんだろうと思うことが多くなりました。それってどこかに後悔があるのかもしれません。あの時に別の選択をしたら違う人生だっただろうと思うのです。
父が亡くなり、年老いた母とふたりになってこの先のことを考える機会が増えたからかもしれません。ひとりでいることがちょっと寂しくなったのかもしれません。
NHKの土曜ドラマ「陽炎の辻~居眠り磐音 江戸双紙~」が好きで見ていました。昨日の最終回、磐音のようなカッコイイ人と一緒に歩めるおこんがちょっとうらやましかったです。両替商で長いこと働いてきたおこんさん。ご主人の奥さんが亡くなってから奥をとりしきってきたのですが、後妻がきたことで自分の役割りが宙ぶらりんになってしまいました。「自分は弱くないのだ!」と強がって気持ちばかりが空回り。そんな彼女を包んでくれた強くて優しい磐音。いいなあ・・・。
「宮廷女官チャングムの誓い」の最終回も見ちゃいました。チャングムが医女として働けるように支えてくれたミン・ジョンホ。いいなあ・・・。
もしかしたら私の中にシンデレラコンプレックスが残っているのかもしれません。いつか王子様が・・・(/||| ̄▽)/ムリムリ・・・いや、来たら飛びついちゃう。
なんだかんだ言っても人生は一度きりでやり直しはききません。だからといって構えてもしょうがないかもしれません。流れに身を任せて、分岐点ではとりあえず考えて決断して、これまでどおりに生きていくしかないのでしょう。
今日のタイトル下の写真は私のデニムたち。20代のころからのものがありますから、私の歴史(?)チャリンコ通勤には欠かせないアイテムです。
デニム専門に入れている引き出しがいっぱいになってしまったので、全部出してみたらこんなにありました。ストレート、スリム、ブーツカット・・・。さすがにバギーやスキニはないね。
駄目にならなくてどれも着られるので捨てられないんです。ただ、サイズがちと・・・。昔のものはウエストまである深い股上です。ボタンがはまらないのがあります。最近のものはローライズなのでウエストのくびれがなくてもはけるのがよい(肉が乗るけど)。とはいうものの、少しがんばって無理すればどれもはけると見込んで、自分への戒めもあって時々古いものも着ています。
記事中の写真は通勤途中の寄り道で撮影したものです。天気の良い朝の公園はやわらかい太陽で照らされてキラキラしています。いつかこんなところを一緒に歩いてくれる人ができたらいいなという気持ちです。
萩
先日、NHKの『クローズアップ現代』で“コピペ~ネットの知とどう向き合うか”を放送していました。ある大学の学生のレポートがネットのコピペの寄せ集めでできていたとか。また、夏休みの読書感想文おたすけサイトがあり、本を読まなくてもコピペして済ますことができるのだとか。
(ノ゚⊿゚)ノびっくりしてしまいました。
確かにコピペは便利です。私も残しておきたい言葉や文章をコピペして保存していることは多々あります。ブログに引用していることも・・・。ただ、それは自分の言葉ではないので、出所をはっきりさせて区別しなくてはいけないのだと思っていました。盗作っていうことになるでしょ?
しかし、このコピペ、単に他人のものを盗んだという意味で問題なのではないようです。番組のゲストは脳科学者の茂木健一郎氏でした。彼は「人間の脳だけが情報を高度に編集する能力がある」と言っていました。その能力を使用せず場当たり的に結果を出したら、脳の成長が妨げられるということです。脳も筋肉と同じで鍛えなければ伸びないし、苦しんで創造することが脳の喜びになるということでした。
成長させる脳の機能ってなんでしょ。私は思考と感情と生体統御だと思います。これらはひとりの人間の中で身体という目に見える物資と繋がっており、すべてが同時進行されているものでしょう。“脳が喜ぶ”ということは様々な体験から得られた達成感だったり満足感かなと思います。
苦しまずに満足を得られることもたくさんあります。今の私だったら“あいす饅頭”を食べることです。甘いあんこが冷たいバニラアイスに包まれていておいしいんです。食べている時は幸せ、でも食べ終わると結構むなしいです。メタボになりそう。
茂木氏の言う“苦しんで得られる脳の喜び”は私がいつもいうところの「自分の能力を活かして得られる幸せ」と同じように思います。子供にとって読書感想文は提出することが重要なのではないはずです。本を読んで様々な刺激を得、自分の記憶や感情と混ぜて思考し、思考したことを自分の言葉に表現して伝えることに意味があるわけでしょう。脳を鍛えて成長させるわけです。コピペして提出することを推奨しているサイトの管理者は「本を読んで感想文を書く時間をもっと有意義な時間に使って欲しいから」と言っているようですが、それってどうかなあ。何が有意義なんでしょう。子供や親から感謝のメールがたくさん届いているというから驚きでした。
茂木氏は「コピペは人間の価値を下げる」とも言っています。確かにコンピューターの方が人間の手でするよりも速く正確にできる作業があります。それは単純な法則にのっとったものではないでしょうか。膨大な資料を分類や検索すること、数値的な統計処理をすることなどです。
科学のはじめは人の脳の「何だろう」からはじまります。想像を膨らませて探究して法則性が生み出されたとき、個人の思考からそれは放たれます。科学的に明確になったらコンピューターの作業でもいいのかもしれません。でも、その人の思考はその人しか表現できないはずです。そこに人間の価値があるのでしょう。
前ブログに書いた現在の私の仕事で、新しいネットワークシステム作りの作業があります。情報を収集して管理するシステムなのですが、パソコンでできる限界というのを感じています。私が仕事をする上での思考過程にパソコンの作業をスルッとはめることができないのです。自分の経験から考えていくことは以外に広いのだなあと実感しました。パソコンはあくまでも自分の仕事の道具の一つであると割り切ることが重要だと学びました。パソコンを使うとどんなことも便利になると思ってしまっていた私がいたようです。自分の思い通りに動かないシステムをうまく利用することができるのも人間なのですから・・・。
もうすぐ中秋です。萩を照らす月が今年は観られるでしょうか。
月にうさぎがいると想像した日本人は『竹取物語(かぐや姫)』を創造しました。衛星「かぐや」がうさぎを映したらいいのになあ・・・。
これは少し色づいてきた枝垂れ桜の葉です。
【追記】
前回のブログに貼り付けたミスチルの♪GIFT♪に下記のフレーズがあります。人間てすごいと思います。
「白か黒かで答えろ」という
難題をつきつけられ
僕らはまた迷っている 迷ってるけど
無限の色が広がっている
やさしい名前をつけた
今 君に贈るよ
「GIFT」 by Mr.Chiltrenより
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