passion-3.ブルーマルガリータ
collage & music by tomtommama
story by kurumi
朝食はスクランブルエッグに焼き立てのパンとオレンジジュース・・・
そして、そのトレイの横にソウル観光案内のパンフレットが
数枚添えられていた。
≪どうぞ行ってらっしゃい、そういうことかな?≫
フランクは口元だけで微かに笑って、ジュースのグラスを
そのパンフレットの上にドンッと置いた。
グラスの中の液体が波を打ち、そして緩い直線となった。
フランクはそれをただ静かに見ていた。
「ボス・・ソウルホテルの理事連中の中で、
こっちの味方に付きそうな奴をリストアップしておいたが
ひとりやふたり味方につけても意味はないかもしれん
今のところ、ハン・テジュンが総支配人に正式任命されることは
確実だが・・・それじゃあ、まずいか?」
「いないに越したことは無い・・・」
「・・・・・」 レオは少し考えて腕を組んだ。
「安心しろ・・
総支配人が誰であろうと、僕の相手じゃない」
「確かに」
「ソウルホテルの債権を探れ・・・今の内に40%を手に入れる
気づかれるな」
「OK・・ボス」
フランクは、ここに来てハン・テジュンという男の存在が妙に
気になっていた。
ソウルホテルは大掛かりな工事を進行中だった。
その為銀行からの融資も莫大で、資金面ではかなり困窮した状態に
あることは誰の目にも明らかだった。
前社長の少し無謀過ぎる改革に、フランクは少々歯軋りをしていた。
この状態に狙いをつけたハンガン流通、キム会長の思う壺だ。
≪このままでは到底優勢には持っていけない≫
フランクは前社長の色が掛かった人間はホテルからすべて排除する
考えだった。
その日の夜、キム会長が個人的に会食をとフランクだけを誘い出した。
フランクが会長指定の場所に赴くと、彼は既に到着していて、隣に
少々不機嫌そうな面持ちをした若い女を従えてフランクを迎え入れた。
≪彼女は確か・・・≫
フランクはキム会長の隣にいる女性に見覚えがあった。
彼は直ぐに彼女が先日ソウルホテルで会った女だと思い出した。
あの時フランクは階段を下り、ホテルフロントへ向かっていた。
彼女は逆から階段を上って来ていた。
すれ違いざまに彼女とぶつかった時、彼女が何かを落とした。
それは階段を転げ落ち、フランクの足元で止まった。
フランクはそれを拾い上げると、無言で彼女に差し出した。
彼女もただ無言で受け取ると、何故か逃げるように立ち去った。
彼女が落とした物はいわゆる睡眠剤で、彼がそれを彼女に戻した時
彼女にとってそれが、只の不眠症に処方されたものではないことを
彼女自身の目が語っていた。
フランクはその時、遠い昔に舐めていた自分の苦い感情と同じものを
彼女の瞳の奥に見たような気がしていた。
しかし名前も知らぬ彼女を案じたところでどうなるものでもない。
事実フランクはたった今まで彼女のことを忘れていた。
「娘のユンヒです・・・こちらは
私の仕事を手伝って頂いているフランク・シンさんだ」
会長はふたりを互いに紹介した。
≪彼女が・・・会長の娘だとは・・・≫
「初めまして」
彼女は確かにあの日のフランクに気づきながらそう挨拶した。
「初めまして・・フランク・シンです」 フランクもまた、彼女に同調した。
そして、三人でありながら、会長一人の声だけが響き渡る
ある意味静かな会食が始まった。
しばらくして、会長の携帯電話が鳴って、彼が席を外した時だった。
それまで初対面の振りをしていたユンヒが突然、フランクを見て
真剣な顔で言った。
「黙っていて下さい」
「何をです?」 フランクは彼女の目を見ないまま、冷たく答えた。
「・・・・・」
「あなたと初対面じゃなかったということ?それとも
あなたが睡眠薬を持っていたという、つまらない事実?」
「そのどちらも・・」
「ふっ・・ご心配なく・・・
何処かの金持ちのお嬢さんが何処でどういう形で
死のうと生きようと・・・僕にはまったくもって興味がない」
「はっ・・・」
ユンヒはフランクの言い様に、呆れたように彼を睨んだ。
「それとも・・・
口ではそう言いながら、興味を持って欲しいのかな?
止めて欲しいとか?
ああ・・なるほど・・僕が
父親に告げ口をしてくれるかと期待している?」
フランクはユンヒを見据えて、皮肉を混ぜながら冷たく言った。
「失礼だわ」
「それは失礼。」
「あの!」
フランクの慇懃無礼極まりない態度にユンヒは無性に腹が立った。
「何?」 フランクは感情の無い笑みを彼女に向けた。
「・・・・!」 「いや~お待たせしました」 会長が席に戻って来て
ユンヒは少し興奮してしまった心を落ち着かせるように
深呼吸をした。
「ふたりで会話が弾んでいたようだね」
会長はふたりを交互に見やりながらにこやかにそう言った。
「ええ・・とても・・・賢いお嬢様です」 フランクはさらりと世辞を言った。
「・・・・・」
「そうか・・フランク・・いや~そうか・・
君達はきっと話が合うんじゃないかと思ったんだよ
ユンヒはどうも内気で、友達が出来ないらしい
フランク、是非これの相談相手になってやってくれないか」
「ええ・・お嬢様さえ宜しければ・・ところで、会長例の・・」
「ああ、そうだった・・」
ユンヒは目の前でまったく表情を変えることなく、父を交わし
仕事の話に切り替えたフランクを睨みつけていた。
≪あなたなんかに、私の何がわかるというのよ≫
ユンヒはいつも腹を立てていた。
父親に対して、自分に対して・・・
父はいつも仕事・仕事で家族を省みることもなかった。
母は父に愛されることもなく寂しく死んでいった。
幼い頃から今まで、父親の愛情など感じたことすらない。
≪父はこうして、自分のお眼鏡に適った男に出会う度、
私を引き合わせる・・・
結局私の結婚すらもお父さんの仕事の延長なのよ
そして、男はいつも私を見ていない
見ているのは、私の後ろにいる父のことだけ・・・この人だって同じよ
私のことなんて興味が無いと言いながら、父の言うことなら聞くんだわ≫
フランクは少々反省していた。ついユンヒに辛く当たった自分が
本当は何に対して苛立っているのか、十分わかっていたからだった。
フランクはホテルに戻ったが、直接サファイアヴィラには戻らず
カサブランカというホテル内のカクテルバーに立ち寄った。
「何をお作りしましょう」
「ブルーマルガリータを」
「かしこまりました」
バーテンに差し出されたグラスの中の青く透き通った液体を
フランクはしばらく呑みもせず見つめていた。
≪綺麗だ・・・≫フランクはそう心で呟いて笑みを浮かべた。
韓国に来て三日目・・・今日は一度もジニョンを見かけていない。
そう思った彼の顔に一変して影が差した。
彼女に逢いたいと思う心が・・・
こんなにも自分をイラつかせている事実が余計に腹立たしかった。
離れていた10年に比べれば、たかが20時間彼女を見なかったくらい
≪何だというんだ≫
フランクは自分のジニョンへの執着を打ち消すかのように、
グラスを口元に運び、その強い液体を体の中に流し入れた。
その時だった
傾けたグラスの向こうにジニョンが見えた。
彼女はホテルの制服姿ではなく、黒髪は肩に下ろされていた。
フランクが韓国へ来て初めて見るジニョンのプライベートの姿だった。
フランクは瞬間胸を弾ませたが、それは直ぐに打ち消された。
ジニョンの少し後ろからひとりの男が一緒に入って来たからだった。
ハン・テジュン・・・写真で見たことがあるだけの男。
ふたりはカウンターではなく二階へと階段を上がっていった。
そしてジニョンはフランクに気が付かないまま彼の視界から消えた。
「話って何?」 ジニョンは椅子に腰掛けながら、テジュンの目を見た。
さっき、家に帰ろうと更衣室を出た所で、テジュンに声を掛けられた。
「話が無いと誘っちゃ駄目なのか」
テジュンも椅子に腰掛けながら、ジニョンを見た。
「そうじゃないけど、まだ仕事中でしょ?」
「一時間だけ休暇を取った・・・」
「休暇ね・・・」 ジニョンは笑った。
「こうしてたまには呑むのもいいだろう?
韓国に戻ってお前とまだ一度もゆっくりしてないし・・
何呑む?」 テジュンがジニョンに訊ねた
「ブルーマルガリータ」 ジニョンは即答した。
「おい・・お前、そんな強いやつ・・大丈夫か?」
「見るだけでいいの・・綺麗だから」
「可笑しなやつだな・・・」
注文したカクテルを馴染みのバーテンダーが運んでくれた。
「ごゆっくり」 「ありがとう」
ジニョンはテーブルに置かれたグラスを黙って見つめた。
彼女は思い出していた。
昔フランクが注文したブルーマルガリータを初めて見た時に
あまりに綺麗な色に感動したことを。
≪綺麗だろ?≫ ≪ええ、とても・・・≫
互いの額が付きそうなほどの
狭いテーブルに置かれたグラスを挟んで
私達は向かい合っていた
私は身を屈めて
グラスの中の神秘的な色に魅入っていた
気がつくとその向こうに、フランクの澄んだ瞳が見えた
同じように身を屈めて微笑む彼の目はグラスを通して
私だけを見ていた・・・
「どうした?」
「あ・・いえ、何も・・・
それよりここ・・まだ開業してないんでしょ?」
「ああ、一階だけはホテル宿泊のお客様にだけ開放しているがな」
「私達、ここに座ってていいの?」
「総支配人の特権だ」
「とんだ職権乱用ね」
「まあな・・チェックを兼ねてるんだ」
「チェックね」
「いいから・・飲め」
ジニョンはわかっていた。
昨日の自分の様子を彼が心配しているのだということを。
「何でもないのよ」
「何が?」 テジュンはとぼけたように言った。
「チィ・・・」
「冗談だよ・・・話したくないんだろ?・・・
話したくなった時に話してくれればいいさ」
「・・・・ん・・そうする」 ジニョンはテジュンに向かって微笑んだ。
ふたりは結局何を話すでもなく、注文した飲み物を一杯ずつ呑んで
カサブランカを後にした。
テジュンが仕事がまだ残っているからと、フロントの方に戻ると
ジニョンは帰路につこうと足を進めた。
しかし彼女は無意識の内に帰る方向とは逆の階段を上っていた。
そして、ゲートの向こうの坂の上に視線を送り、少しだけ佇んだ。
「ブルーマルガリータは美味しかったかい?」
ジニョンはびくっとして、後ろを振り向いた。≪フランク・・・≫
「・・お客様・・」≪どうして?≫
「こんばんは」
「あ・・こんばんは・・・」
ジニョンは少し戸惑いを覗かせながら笑顔を作った。
「驚かせたかな・・」
「あ、いえ・・お客様とお会いする時はいつも
振り返っているような気がして」
「ああ・・なるほど」
「でも・・どうして?」
「今そこから出て来た」
彼はカサブランカを指して、笑った。
「ああ」
「声を掛けていいものか迷ってた」
「どうして・・ブルーマルガリータだと?」
「あー・・・勘?」 さっきバーテンが作るカクテルをフランクは見ていた。
二つ作られたカクテルのうち、ひとつがブルーマルガリータと知った時
それはジニョンが注文したのだと思った。
彼女はあれを見るのが好きだった。
≪ねぇ、フランク・・ブルーマルガリータ、頼んで?≫
≪またかい?もう飽きちゃったよ≫
≪ねっ・・お願い≫
「勘?・・・」
「・・・・・・」 フランクは無言のままジニョンを見つめていた。
ジニョンは彼の熱い視線に居心地の悪さを感じて急いで言葉を探した。
「・・・もう大分遅いですが・・」
「デート?」 フランクはジニョンの言葉を遮るように言った。
「えっ?」
「彼と・・」
「あ・・いえ・・」≪違うわ≫
「違うの?」
「いえ・・」≪でもあなたにはそう言いたくない≫
「そう・・・」 フランクは少し伏目がちに声を落とした。
「・・・・・」 「・・・・・」
互いの沈黙が続く間、ジニョンは胸が閊えて今にも呼吸が
止まりそうなほどだった。
それはさっき飲み干してしまったブルーマルガリータのせい
そう自分自身に言い聞かせた。≪きっとそう・・・≫
「あの・・それじゃあ、失礼します」
ジニョンは急いでここを立ち去らなければ、と思った。
「そこまで・・」
「えっ?」
「送らせて」 フランクはジニョンの瞳に請うように言った。
「でも・・」
「家まで送らせてとは言わない・・・せめて駅まで」
「でも近いですから・・」
フランクはジニョンをじっと見つめて、無言で圧力を掛けた。
「あ・・・・・はい・・それじゃあ・・」
フランクはジニョンが困惑しながらも承諾したことにほっとして
彼女の気持ちが変わらない内にと、彼女の前を歩き出した。
そして歩き進むうちに少しずつ歩調を合わせて彼女の横に並んだ。
ふたりは終始無言で、ただ虫の鳴く音色だけが響く静かな通りを
互いの靴音だけを聞きながら歩いた。
ホテルの敷地を抜けて、街の灯りの方へと進むにつれ、
歩く速度を弱めたのはきっと、どちらか一方だけではなかった。
しかしそのことには互いに気がついていなかった。
駅は無慈悲な程に近かった。
ふたりは地下の駅へと続く階段の上で立ち止まり、向かい合った。
「着いたね・・・」≪着いてしまった≫
フランクは小さく溜息をつきながら、ジニョンに別れを告げた。
「気をつけて」
「あ・・はい・・」
「・・・・・」 「・・・・・」
「あの・・」 ジニョンが口を開いた。
「なに?」
「いいえ・・何でもありません」≪本当に何もなかった≫
何を言いたかったのか、自分でもまったくわからなかった。
「今日は逢えて良かった」 フランクは心の底からそう言った。
「・・・・・・」 ジニョンは少し顔を曇らせて黙った。
「ごめん・・つい・・
また、そんな風に言わないでって言われそうだね」
フランクは真面目な顔で言った。
「ふふ」 その言葉にジニョンは思わず笑ってしまった。
「初めてだ・・」
「えっ?」
「そんな風に笑ってくれたの・・」
「そうでしたか?」
「ああ・・いつも・・・」
「いつも?」
「怖い顔してる」
「えっ?・・嘘・・」
「・・・嘘・・・ちゃんとホテリアーの顔してるよ・・安心して・・」
フランクは寂しげな笑顔でそう言った。
「良かった」 彼女は胸を撫で下ろすような仕草をした。
「・・・・・・・」 彼は彼女を優しい目で見つめていた。
「もう・・行かないと・・」
「ああ」
「あ・・ありがとうございます・・」
「えっ?」
「その・・・送ってくださって・・」
「ああ・・どういたしまして」
フランクは一度ゆっくりまぶたを閉じて、彼女をもう一度見つめた。
「それじゃ・・おやすみなさい」
「・・おやすみ・・」
ジニョンは地下鉄の階段を走って下りた。
一番下の段を下り切った時、振り向くと階段の上でフランクが
笑顔で手を振っていた。
彼女は彼に少し強ばった笑顔を作ると直ぐに進行方向に向き直った。
そしてその後は決して彼に振り返らなかった。
「行ってしまった・・・」
フランクは独り言を呟いて、階段の手摺りにもたれかかり
煙草を銜えた。
そしてもう一度、階段の下に視線を下ろした。
≪戻って来るわけ・・・
・・・ないか・・・≫・・・
passion-2.君のしあわせ
collage & music by tomtommama
story by kurumi
フランクはジニョンが去った坂道の上に立ち尽くしたまま
しばし動くことができなかった。
目を閉じて、たった今彼女に触れた指を
掌に一本一本確認するように折り入れ握った。
まるで彼女の温もりが消えぬよう大事に仕舞い込むかのように・・・
そして悲しいまでに哀れな自分を慰めるよう、寂しく笑った。
≪わかっている・・・
君を抱き寄せる資格など僕にはない・・・≫
それでも・・・
≪彼女もまだ終わっていない・・・≫そう言ったレイモンドの言葉を
≪この僕が一番信じたかったのかもしれない・・・≫
しかし・・・≪何て様だ≫
フランクは自分の思い上がりを蔑むように自嘲した。
少ししてフランクが部屋に入ると、メインルームの灯りは既に落とされ、
レオは寝室で眠っているようだった。
彼は自分の寝室に向かいながら、片手で乱暴にネクタイを解き、
いらだち紛れにベッドの上に上着を脱ぎ捨てた。
≪何に腹を立てている?フランク・・
10年なんだぞ・・・お前は彼女に何をした・・・
彼女の心がとうにお前に無かったところで
仕方の無いこと・・・そうだろ?≫
フランクは冷たいシャワーを強く顔に浴びながら、
他でもない自分自身に怒っていた。
「レオ・・総支配人、ハン・テジュンを調べ上げろ・・
今現在彼のソウルホテルでの立場を知りたい・・朝までにだ」
「フランク・・今何時だと・・」
眠気声のレオの怒りを無視して、フランクは用件だけを伝えると
受話器をガシャリと置いた。
「ジニョン、どうかしたのか」
背後に聞こえた声はテジュンのものだった。
ジニョンはスカートの裾を払うそぶりを見せながら立ち上がった。
「どうもしないわ、ちょっと転んじゃって」
「転んで・・泣いてたのか」
「泣いてなんか・・いな・・」
言い終えない内に、テジュンの顔が直ぐそばまで近づいていて
慌てて彼から顔を逸らし、灯りの無い方へ歩いた。
「・・さっきサファイアのお客様と一緒だったところを見かけたが・・
お客様と何か問題でも・・」
「な・・何もないわ・・何もあるわけないじゃない・・」
ジニョンは動揺を悟られまいと、小走りにテジュンの先を歩いた。
≪暗くて良かった≫そう思った。≪こんな顔、見られたくない≫
彼は今しがた、彼女が客らしい男と握手を交わしていた姿を見かけた。
結局声も掛けずその場を立ち去っていた自分に少し後ろめたさを
覚えながら言葉を繋げた。「知り合いなのか」
「いいえ・・私が担当するお客様よ・・ご挨拶に伺っていたの」
「こんなに遅くにか」
「・・・あなたこそ・・・こんなに遅くにここで何を?」
「俺は・・ヨンジェとテニスをやってたんだ」
「こんなに遅くに?」
決してそんな格好に見えないのを承知で、視線を上下に移しながら
ジニョンは言った。
テジュンはソウルホテルの息子であるヨンジェがなかなか
思うようにホテルの仕事に身を入れてくれないことに手を焼いていた。
ジニョンにとってヨンジェは弟のような存在だった。
「あの子、父親が死んでから余計に酷くなったわね。
ジョルジュがホテルを見捨てて出て行ったと思って、
きっと怒ってるんだわ」
「甘えているだけだ」
「社長、心配なさってるわ・・
テジュンssi、私からも宜しくお願いします・・
あの子のこと・・見捨てないでやって?」
「お前こそ・・見捨てるなよ・・俺を・・」
「どういう意味?」
「俺をここに連れ戻したのはお前なんだからな、
俺が総支配人としてちゃんとやっていけるか、
見守る義務がお前にはある」
テジュンはそう言うと、ジニョンの横に並んで彼女をチラリと見た。
「何を言ってるの?」
「友達・・そう言ったな、この前」
「・・・・」
「あれは・・・お前がそう言ったんだ・・
俺は何も言ってない・・
友達だなんて・ひと言も言ってないぞ・・・
じゃな、気をつけて帰れ」
「テジュンssi・・・」
「目が赤いぞ・・何があったか知らんが・・・・
ゆっくり風呂にでも入って寝ろ・・」
そしてテジュンはジニョンを追い越し、歩き去った
≪いつもそうだった≫
ジニョンは彼の後姿を見つめながらそう思った。
≪いつもそう・・・
彼は私がどんなことで悩んでいるかなんて聞こうとはしない・・・
それでもいつも“わかってる”というような目で見るの
まるで心で私の頭を撫でてくれるように・・・≫
「・・わかって無いくせに・・・」
彼女は彼の背中に向かって呟き笑った。
≪でもね・・・黙って後ろにいてくれる・・・
それだけでいいことって・・・あるの・・・≫
ハン・テジュン・・三年前、彼とならきっと寄り添える・・
そう思って一度は自分からプロポーズした男。
≪でも結局私を置いて行ってしまった男・・・あの人と同じ・・・
そうよ・・・私って、どうしてこんなに男運がないのかしら・・・
でも今度は、私は彼を連れ戻しに行った
それはこのホテルに彼が必要だからなのか
この私に・・・彼が必要だからなのか・・・私にもわからない・・・≫
≪眠れなかった≫フランクはバスローブを解いてベッドに入ると、
重ねた枕に背中を預けていた。
そして、さっき別れたばかりのジニョンの表情、仕草、
言葉のひとつひとつを思い返しては目を閉じた。
≪引き寄せれば直ぐにでもこの腕の中に抱けるほど・・・近くにいた・・・
どうしてそうしなかった?彼女もそれを望んでいたんじゃないのか≫
邪まな想いが更に眠りを妨げた。
結局フランクは眠らないまま朝を向かえ、そのままベッドを降りた。
彼はロードワークに身を置き汗をかくことで、この朝靄と同じように
もやついた心を仕事モードに切り替えた。
自分がここへ来たもうひとつの理由・・・
≪今はまだそのことに集中しなければならない≫
ゴール地点のサファイア玄関前に近づくとそこに、レオの姿があった。
レオに渡されたミネラルウォーターの蓋を開け渇きを潤すと
今度は彼から資料を受け取った。
「ハン・テジュン・・・かなり優秀な人物で、人望も厚い」
「それはソフィアの資料でわかっている・・今の状況は?」
「一部の従業員からの反発はあるが、概ね彼に対しては好意的と言える
間違いなく、彼が総支配人となるだろう
彼が遂行しようとしている計画も決して悪くはないプランだ」
「彼に敵対している人物を当たれ。こっちの味方になれる奴が欲しい。」
「了解」
夢を見ていた・・・≪いつもの夢・・・≫
アラームに強制的に起こされて、不機嫌そうに枕を胸に
押し込んだ。
≪彼が私のところに帰って来た夢・・・
でも直ぐに彼の顔が憂いを帯びて・・・
私に背中を向けると・・・また出て行ってしまう・・・
いつも、いつも同じ夢・・・
また見てしまった・・・≫
靄がかかったような頭の中で漠然とそう思って、枕を抱いたまま
ベッドでごろんと転がった。
すると突然彼女は大きな目を見開いて、バネで弾けでもしたかのように
その場に飛び起きると、自分の右手をしみじみと見つめた。
「夢じゃない・・・」
≪夢じゃなかった・・・フランク・・・≫
フランクのことなど忘れたように、ジニョンは朝から慌しく動いていた。
トランシーバー片手に客室とバックヤードを飛び回わり、ホテリアーの
務めを果たす。
ホテルでは様々な事件が起こっていた。それらを迅速に解決をする。
もちろん、お客様の立場を第一に考えながら・・・。
それがホテル支配人としての彼女の務めだった。
時には報われず、涙を飲むこともある。
しかし、お客様の笑顔に出会うためならどんなことにも耐えられる。
そういう精神ですべてのお客様に誠意を尽くしている。
そしてお客様が有意義なひとときをホテルで過ごされ、
笑顔でホテルをチェックアウトされる、その時こそが彼女の至福の時だ。
その時彼女の無線が鳴った。『ソ支配人、応答願います・・』
「はい・・ソ支配人・・」
『サファイアのお客様がお部屋で何度もお呼びです』
ジニョンは自分でもわかるように困った顔をして、「わかったわ」
とだけ答えた。
≪そうよ・・・
忘れていたわけじゃない≫
彼を想い浮かべるだけで、昨夜の胸の痛みが簡単に蘇る。
≪フランク・・・≫
昨夜この坂を上りながら、ジニョンはフランクに逢うための勇気を
懸命にかき集めていた。
昨日はあんなに上手くいった。
≪今日だって大丈夫、いつだって大丈夫よ・・・
フランク・・私は10年前のような子供じゃないのよ・・
私はプロなの・・・ホテリアーのプロ・・・
あなたがお客様である以上、務めを果たすだけよ≫
フランクの部屋の呼び鈴を鳴らすと、彼の弁護士のレオが現れた。
ジニョンとレオは10年前も不思議と一度の面識も無く、
これが初対面だった。≪この人がレオさん・・・≫
「今参りますのでお待ち下さい」
そしてレオは思わせぶりな視線を残して自分の寝室へと消えて行った。
ジニョンは何とも言えない居心地の悪さを感じていた。
フランクは彼女の直ぐ後ろにいた。
落ち着かない様子の彼女を彼は、少し面白がるような目で見つめていた。
「んっ、ん!」
ジニョンは背後から聞こえた彼の声に驚いて、また慌てて振り向くと、
今朝の彼は何故か清々しく穏やかな瞳で彼女を見ていた。
「また、遅刻ですね」
彼は満面の笑みを向けたが次の瞬間、慌てたように彼女に駆け寄った。
ジニョンは彼のその行動に一瞬驚き、思わず後ずさりしていた。
「どうしたの?その傷」
「傷?・・あ・・これは・・」
ジニョンはさっき、お客様とのトラブルが元でイ・スンジョンと
取っ組み合いの喧嘩をしてきたばかりだった。
≪あの時に切ったんだわ・・・私ってば・・今日少しいらいらしていた・・・≫
「血が出てる・・」 フランクの指がジニョンの唇に触れようとした瞬間
彼女は拒絶するように彼の手を払いのけた。
「あ・・ごめんなさい・・・でも大丈夫です・・あの・・
ちょっと取っ組み合い・・・
あ・・いえ、同僚とちょっと・・言い合いを・・」
ジニョンは自分のその行為が、ホテリアーとしてではなく
フランクを知るソ・ジニョンであったことを悟って、直ぐに自分を省みた。
「取っ組み合い?君が?
ホテリアーというのは格闘技も強くないといけないの?」
フランクは全く彼を受け付けようとしない彼女の頑なな態度に
ショックを受けるしかなかった自分を悟られないように・・・
また彼女に気を遣わせまいと冗談を言った。
「ええ、場合によっては・・・」 彼女もそれに応えて小さく笑って見せた。
「逞しいね」
≪確かにジニョンは昔から逞しかった≫
初めてふたりが出逢った翌日から一ヶ月もの間、毎日、
フランクとの再会を果たすべく待ち伏せして、終いにはとうとう
彼を捕まえてしまったこともあった。
≪泥棒!≫
≪泥棒?僕が君の何を盗んだというんだ!≫
≪くちびるを・・・盗んだわ≫
フランクはその時のことを思い出して微かに笑った。
ジニョンはそんなフランクを怪訝な表情で見上げていた。
「あ・・いや・・失礼・・・
ランチにフランス料理をと思って・・一緒にどうかな・・」
「あ・・申し訳ございません、お客様・・
部屋で、お客様と個人的な時間は過ごせません・・
ホテルの規則なんです」
「んー・・ホテルの中では駄目なんですね・・・
あー・・・それなら・・外ならいいのかな?」
フランクは彼女の顔を覗き込むように言った。
ジニョンは彼のその仕草に図らずも胸を高揚させてしまい、
それをごまかすように彼から視線をずらすと、腕時計に目をやった。
「もう直ぐお昼休み・・ですね・・・外でなら・・」
ジニョンは少々困ったような顔をしながらも彼の申し出を受け入れた。
「良かった・・」 フランクはホッとしたように微笑んだ。
ジニョンがフランクを案内したのは、昼食時で混雑し、白い湯気漂う
大衆食堂だった。
フランクは彼女が注文してくれたカルグクスを前に困惑したように
周りを見渡していた。
「食べないんですか?ここのカルグクス・・凄く美味しいんです・・」
ジニョンはそう言いながら、フランクの器に薬味を入れて
てきぱきと混ぜ合わせてあげると、“食べてみて”と言うように
彼の顔を下から覗きこんだ。
フランクはその時の彼女のあどけない表情にホッとしたように笑った。
「可笑しいですか?」 ジニョンは口を尖らせて見せた。
「いや・・相変わらずだなと思って」
ジニョンはフランクの言葉に少し沈黙した後、正面に向き直り
居ずまいを正した。
そして真剣な面持ちに変えて、彼を見ないまま言った。
「・・・・そんな風に・・・言わないで」
そして自分の目の前の料理を黙々と平らげた。
フランクもまた彼女と同じように正面に向き直って言った。
「・・・・ごめん。」
フランクはこの時やっと、ジニョンが自分を見てくれたような気がして
妙に嬉しかった。
例えそれが、彼に対して否定的なことであったとしても
その時の彼女の心はちゃんとフランクに向かっていたからだ。
ふたりはその後、無言のまま食事を済ませ店を出た。
ホテルまでの道を並んで歩きながら、ふたりは互いに、
会話のタイミングを探していた。
「ホテルの仕事は楽しい?」
フランクは余りに当たり障りのない自分の質問に苦笑した。
しかしそれが彼女に聞きたかったことのひとつでもあった。
「ええ・・大変なこともありますけど、
お客様が喜んで下さる笑顔を見ると、それだけで報われます」
「幸せ・・・なんだね」 そしてこれが一番知りたかった。
「ええ、とても」 ジニョンの言葉は力強かった。
「そう・・・それは良かった」 フランクは本心からそう言った。
彼女が幸せでいてくれたことに心底安堵した。
「あなたも、成功なさったんですね」
「さあ、どうだろう」
「サファイアのお部屋の一日の宿泊料、
私のお給料と同じなんですよ。
そこに3ヵ月も滞在なさる程ですもの・・・
そういうのを成功というんじゃありませんか?」
「そうかな・・・」
「・・・・でも・・・良かった」
「えっ?」
「ふふ・・あなたもそう言ったから・・まねてみたんです」
そう言って、ジニョンは屈託の無い笑顔をフランクに向けたかと思うと
次の瞬間、ちょっと“しまった”というような顔をした。
「あの・・ジニョン・・」
「お客様・・・」≪まただ・・・≫
ジニョンがフランクとの間に懸命に隔たりを作ろうとする姿勢が
彼を彼女へ向かわせる心にブレーキを掛ける。
「ソウルは初めてですよね・・」
「ええ」
「では市内観光は如何でしょう」
「いいですね」
「では・・パンフレットを明日お届け致します・・・
・・・・あ・・お昼・・ご馳走様でした」
少々早口に言うと、彼女は転がるように坂を下りて
仕事に戻って行った。
≪幸せです≫ジニョンが言った言葉が耳から離れなかった。
≪良かった・・・≫本当にそう思った。しかし・・・
フランクはジニョンの儀礼的な笑顔を目の当たりにする度に
彼女の“幸せ”の中に自分が存在しない事実を突きつけられているようで
胸が酷く締め付けられた。
≪そうなんだね・・・
今の僕は君にとってひとりの客でしかない
それは間違いの無い事実だ・・・しかし・・・≫
フランクは、ベランダに出て冷たい夜風に吹かれていた。
そしてまだ見慣れぬ大人びたジニョンの姿を思い浮かべながら
少し強過ぎたスコッチを揺らし、氷の音を聞いた。
≪フランク・・・お前はそれで・・・
・・・いいのか・・・≫
passion-果てしない愛-1.忘れえぬひと
collage & music by tomtommama story by kurumi 「何年ぶりだ?・・ボス・・・」
「21年・・・」いや・・10年・・・ 仰ぎ見た大空は目が眩むほどに白かった まるでたった今まで僕が見続けていた 暗く長く・・そして儚い夢から突然誰かに引き出され フランクは韓国に降り立つとまず、今回の案件のクライアントである 「やあ、お待たせしました。私がキム・ボンマンです・・・」 「早速ですが、仕事場は私の執務室の隣にご用意しました。 「我々は・・・たかがホテルひとつの為に韓国に渡ったのではありません」 フランクはその答えの代わりにレオから受け取ったファイルを キム会長が用意したジャガーのハンドルをレオではなく自分が握ったのは 「只今、お部屋にご案内申し上げます。」 「ソ・ジニョンさんをご存知かな・・ここで支配人をしていると・・」 「ソ支配人ですか?・・はい、あの方は寝る時以外ホテルにいる方です」 「・・・・余計な忠告は仕事の時だけでいい」 ≪ホテリアーになって、ソウルホテルで働くこと・・・≫ 今、フランクの胸の内は恐ろしく波打っていた。 スターダストを後にして、さっき下りて来た坂を今度はまたゆっくりと上る。 ばつの悪そうな顔と少し悲しそうな顔が入り混じった表情の彼女は 沈黙がどれだけ続いていたのか、ふたりはわからなかった。 「あ・・ああ・・久しぶり・・ジニョン・・ssi」 フランクは韓国語で応じた。 「ええ」
フランクは情けなかった。彼女に再会したら、言うべき言葉が 「こんな遅くにどちらへ?」 「あ・・ごめんなさい・・メモを受け取ったのが遅くて・・・ 「いいえ、今日はもう遅いですから」 ジニョンはきっぱりと言った。 「ええ」 「それじゃ、明日・・・お目に掛かれますか」 「ええ、お客様のお部屋は私の担当ですので・・ フランクとジニョンは、自分達の間を交差する余所余所しい言葉の響きを
目覚めでもしたかのように・・・
白く・・・
・・・眩しかった・・・
キム・ボンマンとの面会を果たすべく、ハンガン流通本社に向かった。
空港で出迎えていた彼の部下の案内でソウル近郊へと向かう。
その車窓から眺めた21年ぶりの祖国には僅かの感傷もなかった。
30分ほどして車は瀟洒な建物の地下に滑り込み止まった。
と同時に助手席に座っていた男が素早く車から降り立ち
後部座席のドアの前で腰を45度に折りドアを無言で引くと
フランクとレオをエレベーターホールへと丁重に案内した。
男は成金じみた金色の装飾を施された四角い箱へと彼らを誘導し
24階建ての最上階のボタンを押した。
目的の階で降りるとフランクとレオはひとつの応接室へと案内された。
そして待たされること10分その男は意気揚々と現れた。
手を差し出しながら、声高に挨拶をするキム会長の視線は、
フランクに近づくまでには彼の髪の先から足の先までを
観察し終えているようだった。「雑誌よりもかなりお若い」
「フランク・シンです・・こちらは弁護士のレオナルド・パク」
フランクは起立と同時に上着の前ボタンを左手で留めながら、
彼の慇懃無礼な握手を少しばかり苦い顔で受け入れていた。
キム会長はフランクが紹介したレオを見下すように一瞥をくれただけで
彼らに着席を促がした。フランクは彼のその態度に腹立たしさを覚えた。
宿泊先はWホテル、ロイヤルスウィートルームを・・」
「宿泊先はソウルホテルに予約済みです・・仕事もそこで」
フランクはキム会長の言葉を遮るように少し早口でそう言った
「いや・・しかし」
「私達の関係は当分内密に願います。特にソウルホテルの人間には
くれぐれも気づかれないように・・」
「手始めに内部偵察から・・ということですかな?」
「敵の懐に入るのが我々のやり方です。そして射程距離に入った
ところで弾を込め・・ダダダダ・・・いや・・冗談ですが・・」
キム会長は、テンション高く銃を構えるまねをして見せたレオを
冷ややかに見て、フランクに疑義をただすような目を向けた。
フランクはキム会長に突き刺すような鋭い眼差しを返すと、
彼の腹の内を探るかのように言った。
「と言いますと?」
キム会長もまた、フランクの言葉の真意を彼の瞳の中に探していた。
広いテーブルの上で彼に向かって滑らせると、不適な笑みを浮かべた。
胡散臭い匂いを漂わせたキム会長との対面を優勢に終えたフランクは、
夕刻になってやっと、ソウルホテルに向かうことができた。
きっと一秒でも早く目的地に辿り着きたかったからだったろう。
それは・・・
ソウルホテル本館の正面玄関にフランクの車が到着すると、
ドアマンが素早くそして滑らかにドアを開けふたりを迎え入れた。
案内されてフロントに向かい、チェックインを済ませた頃には
先に送っておいた荷物がカートに乗せられ、ベルボーイが
彼らを待ち受けていた。
レオが手続きをしている間、フランクは少し落ち着きの無い様子で
ロビーの左右を見渡していた。
「どうした?ボス・・」
「いや・・何でもない」
フランクは確かに何かを探していた。
しかし彼の表情はまだいつもの冷静さを保っていた。それは・・・
彼の視線の先に彼の心を乱す何かが現れていなかった・・・
その証拠に他ならない。
ジャガーの運転席にベルボーイが乗り込み、フランクとレオは
後部座席に座った。
ホテル本館の玄関から、特別ゲートをくぐり緩い坂を上ると、
コンドミニアム風の連なった建物が見えた。
サファイアヴィラと名付けられたその建物の一角で車は停車し、
彼らがこれから3ヶ月を過ごすだろう部屋へと案内された。
「お部屋はいかがでしょうか」
ベルボーイが部屋の感想を彼らに尋ねると
「盗聴防止装置は?・・ここは防弾ガラスじゃないな・・」
レオがまるで彼を脅すように返した。
「レオ・・止めておけ・・」
フランクは部屋に入ると直ぐに、ホテル案内のファイルを開き
メモ用紙に何やらペンを走らせながら言った。
「このメモを彼女に・・・」フランクは後ろ手に走り書きのメモを折って指し出し
仲介したレオがそのメモにチップを添えてベルボーイに渡した。
「彼女か?・・・」
ベルボーイが立ち去った後でレオは溜息混じりに言った。
「ん」
「もう終わったことじゃないのか、フランク・・これは忠告だぞ。
我々は今、ソウルホテルの引受でここへ来ている・・・
それを忘れるな」
フランクはレオを睨みつけると、椅子に掛けていた上着を
乱暴に手に取り部屋を出て行った。
さっき車で一気に上って来た坂を本館へと歩いて下りながら、
フランクは薄暗い景色をゆっくりと見渡していた。
小さな森を思わせる木々の葉が風に揺れ、その音が静けさを破る。
漢江を挟んだ向こう側に街の灯りが煌々と燃えていた。
「ここが・・・君の夢か・・・」 彼はポツリと呟いてフッと笑った。
それが彼女の幼い頃からの夢・・昔ジョルジュからそう聞いた
彼女がその夢を果たしたことを知ったのは5年前だった。
≪彼女がソウルで大学を卒業した年のことだ≫
フランクはジニョンと別れた後も彼女の近況を逐一把握していた。
≪彼女にもしものことがあったら、直ぐに対処できるように・・・
そう思ったからだろう?≫
レイモンドが言った言葉が脳裏を過ぎった。
フランクは彼女を待っていた。
【スターダストで待っている フランク】彼はあのメモにそう書いた。
≪フランク・・・≫その文字を彼女はどんな思いで追うだろう。
≪彼女が現れたら・・・何を言えばいい?
あの日、彼女を置き去りに逃げたはずの自分が何故ここにいる?
もう既に終わったこと・・・そう言いながら、どうしてここに来た?≫
フランクは胸の内の恐怖を追い払うかのように、自問を重ねていた。
しかし彼はとっくにわかっていた。自分自身がこの10年間何故
まるで彼女の後ろを歩くかのように、その消息を調べていたのか。
≪彼女にもしものことがあったら、直ぐに対処できるように?・・
いいや・・レイ・・・そうじゃない・・・
そんな綺麗ごとじゃなかった・・・
彼女の後を追ったのは・・・
ただ・・・この僕が・・・彼女を感じていたかったからだ
彼女の気配の中に身を投じていたいだけだった・・・
彼女から逃げたくせに・・・
僕自身が息をするためにすら彼女が必要だった
そうだ、そんなこと・・・とっくにわかっていた≫
彼女は現れなかった。
≪僕だと分かって避けているのかもしれない≫
フランクは心に聞こえたその答えに簡単に納得していた。
フランクは自分の胸の鼓動が速いのは決して飲み過ぎた
ブルーマルガリータのせいじゃないとわかっていた。
≪いったい・・・何を期待している?
彼女が僕との再会を望んでいるなど・・・≫
彼は今頃になって、韓国に渡って来た事実を後悔していた。
その時だった。視線の先に動く黒い影が見えた。
彼女だった。
≪ジニョン・・・≫
彼女はフランクの部屋の前を何やらブツブツ呟きながら
何度も何度も往来を繰り返していた。
「久しぶりね、フランク、元気だった?・・アニョ・・
何だか、わざとらしいわね・・どうしてここへ?フランク・・・
駄目よ・・彼はお客様、そうよ、お客様・・」
ジニョンはもう10分も前から、この場所でそうしていた。
≪何をやってるの・・・やっと会おうと決めたんじゃない
彼はお客様なの・・・私のお客様なの・・・≫
彼女は大きく深呼吸をして、もう一度だけドアが開いた瞬間の
自分の台詞を声に出した。
「ようこそ!・・ソウルホテルへ・・」
「ありがとう」
「キャッ!」 後ろから突然声を掛けたフランクに必要以上に驚いた彼女が
大きく飛び上がって後ろを振り向き、ふたりは互いに目を見開いたまま
一瞬時が止まったかのように向かい合った。
「・・・・・・・」「・・・・・・・」
そして我に帰ったふたりは共に苦笑いを浮かべ、十年ぶりの対面を
辛うじて緊張することなく迎えた。
少し大人の女の憂いを偲ばせながらも昔のままだった。
10年の時を重ねていても変わることなく、愛らしく、更に美しさを増した。
≪愛しいジニョンが目の前にいた≫
フランクは酷く息苦しかった。
今まで閉じ込めていた彼女への思慕が激流のごとく込み上げて来て
今にも涙が零れ落ちそうになるのを寸前のところで堪えようと
胸の奥で深く呼吸をした。
しかしフランクの心は既に彼女の手を掴み引き寄せて
泣きたいほどに逢いたかったその人を・・・
死ぬほどに焦がれたその人を・・・
思い切り抱きしめていた。
言葉を出そうとしても、何を言えばいいのか、一向に出て来ない。
そして、彼女の方が先に複雑な表情を儀礼的な笑顔に変えることに成功した。
「お久しぶり・・ですね・・Mr.フランク」 彼女は特に取り乱す風でもなく
静かに英語で言った。
「こちらへは・・お仕事で?」
もっと何かあったはずだった。
しかし、正直今は、彼女の前に立っていることがやっとだった。
彼女のその言葉で、フランクはやっと閊えた胸の何かが取れたように、
薄く笑顔を作ることができた。
明日にしようかと思ったんですが」 ジニョンは申し訳なさそうに微笑んだ。
しかし、ジニョンがメモを受け取っていたのは一時間も前のことだった。
「いえ・・・いいんです・・・あの・・
良かったら、部屋で話を・・・」
「ああ、そうですね・・・明日もお仕事ですか?・・」
ご用命がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
「それは・・ありがとう・・・」
まるで他人事のように耳で捕らえていた。
「それではまた明日・・・」 フランクがそう言って手を差し伸べると、
ジニョンは少し躊躇いがちに彼の手を取った。
ふたりは互いの温もりが互いの体中に熱く絡み合う感覚に
囚われていた。
しかしフランクはあの日離してしまった手をこうして掴んでいても
彼女の心は遥か遠くにあるのだと自分に言い聞かせていた。それは・・・
「はい・・・明日お伺い致します・・お客様」
彼女の言葉と瞳の中に互いの間を遮るように作った厚く高い壁が
冷たく立ちはだかっていたからだった。
・・・お客様・・・
ジニョンはその言葉を最後に、サファイアヴィラの坂を下りた。
フランクは一度も振り返ることの無い彼女の後姿に強い意思を感じていた。
≪君の心にはもう僕はいない・・・そういうこと?≫
ジニョンが坂下の角をやはりこちらを見ることなく曲がって消えた後を
フランクは長い間彼女の残像を追うかのように見つめ立ち尽くした。
≪・・・いつもそうだった・・・君の方がいつも・・・
大人だったね・・ジニョン・・・≫
≪・・・フランク・・・≫先刻その名前をメモに見つけて、ジニョンが
酷く動揺したことは言うまでもない・・・
ここに足を運んでくるまでに裕に一時間は悶々と考えあぐねていた。
≪今更・・どんな顔をして会えばいいの?≫
彼との突然の対面に、自分の心がどれほどの衝撃に耐えられるのか。
≪彼の名前が書かれたメモを持つ手さえ
こんなにも震えているというのに≫
いつかこんな日が来る・・・
そんな期待を抱いていたのは何年前までだったろう
もうとっくに諦めていた ≪・・・それなのに・・・≫
目の前に現れた彼の人はジニョンに十年の時を一瞬にして越えさせた。
しかし、その動揺を彼に悟られるわけにはいかない。
ジニョンはその為にここへ、彼の元へ重い足と心を引きずって来た。
≪上手くいった?・・ジニョン・・・≫
彼女は自分自身に問いかけながら、もう溢れる涙に逆らわなかった。
≪大丈夫、もう角を曲がったもの・・・≫彼女は知っていた。
例え見えていなくても彼ならば、≪私の背中に涙が見えてしまう≫
だから、坂を下りきるまで歯を食いしばって堪えていた。
いつの間にか涙が止め処なく頬を伝い胸を強く締め付け
ジニョンを打ちのめした。
顎から零れ落ちる雫を手の甲で乱暴に拭い、“もう出て来るな”と
目の淵に強く力を入れた。
≪どうして!・・・言うことを聞かないの!≫
足が震えて歩くのもおぼつかなかった。
≪フランク・・・フランク・・・フランク・・・≫
ジニョンの頭に彼の名前が充満して今にも破裂しそうだった。そして
とうとう彼女の足が膝からガクンと落ちて、その場にしゃがみこんでしまった。
≪今だけよ・・・今だけ・・・≫
彼女は自分にそう言い聞かせて、そのまま両手で顔を覆い
声を上げて泣いた。
忘れえなかったその人の名を心で呼びながら・・・。
・・・フランク・・・
mirage-儚い夢-最終話そして本当の始まり
フランクはその家のドアの前に立ち、ポケットからひとつの鍵を取り出した。 そして一度目を閉じ、何かを念ずるように深呼吸をした後、それを鍵穴に差し入れた。 彼の手がゆっくりと右に回った瞬間に、カチッという音と共にそのドアは開かれた。 中へ入ると、昔と変わらぬ調度品が目の前に現れて、フランクの過ぎ去った時間を 彼女が好きだったアンティークなスタンドも・・・ そのキッチンで彼女が僕のコーヒーを淹れていた 《卵割ってるの・・・》 《・・・君・・・料理やったことある?》 彼女の笑顔が・・・ここにあった・・・ 余計なことを・・・ 《今度用意するときはそうしよう》 《あ・・でも、ここも素敵よ・・・自然がいっぱいで 《じゃあ、あそこ・・・穴、開けちゃう?》 彼はその涙が自分の口元に届いて初めて、自分が泣いているのだと悟った。 この10年間・・・ 涙なんて・・・忘れていただろ?・・・ 愛なんて・・・邪魔なだけだっただろ? 怖いなんて・・・笑わせないでくれ・・・ もう・・・ずっと・・・ずっと・・・ 彼女のいない暗い海を彷徨って来たんだ・・・ それ以上に怖いものなんて・・・ この世に存在するものか・・・ ・・・フランク・・・ あの日霧と化して消え去った声が僕の胸に蘇る・・・ 永く・・永く忘れることを強いた・・・愛しい声・・・ あの時から・・・僕はその名を口にしなかった 彼女を求め泣き叫んでいた・・・ 暗闇の中でずっと・・・彼女の名前を・・・ ≪どこの鍵だか・・当てて見ろ フランク・・・ もういいだろう? その扉を開けて・・・君自身を取り戻せ 心を捨てたなどと虚勢を張らず 君の・・・奥深くにしまいこんだ その心に光を注ぐんだ 待っているだろ? 早く開けてくれと・・・ 早く・・・光をくれと・・・ 叫んでいただろ? ・・・持ち帰れ・・・ 「21年・・」 暗く長く・・・そして儚い夢から・・・突然・・・誰かに引き出され
ソウルへ発つ日の朝、フランクは車を走らせNYの郊外を訪れた。
この森を抜けると、そこには予想を裏切ることなく10年前と変わらぬ佇まいがあった。
白さも際立ったその家は長い年月が経ったとは思えぬ程に手入れが施され、
周辺には雑草すら生えておらず、その代わりに白い外壁を覆うかのように
薔薇の花が咲き誇っていた。
≪どこの鍵か・・当ててみろ≫
レイモンドのその言葉に、フランクは迷うことなくここを訪ねた。
急速に撒き戻していった。
僕が彼女のために選んだ絵画・・
ソファーも・・テーブルも・・・キッチンの小物までもが
何も変わることなく、昔のままに残されていた
埃ひとつかぶっていない
慣れない手つきで料理の真似事をしていた
《何してるの?》
このリビングでくだらないTV番組に彼女が笑っていた
《フランク・・どうしてそんな難しい顔をしてるの?
もう少し笑って?さあ・・》
《可笑しくも無いのに笑えない》
彼女の涙が・・・ここにあった・・・
《ジニョン・・・もう少し待ってて・・・
必ず君の・・・
一番の望みを叶えられるように・・》
《私の一番の望みはあなただわ》
彼女は・・・ここに・・・いた・・・
そしてその横には必ず・・・僕がいた・・・
めくるめく彼女との時間を繰りながら、フランクはまるで幻想の世界に飛び込んだような
錯覚を覚えていた。
そして奥の部屋に差し込む日の光に誘われるように近づいた時、彼は現実に
戻ることができた。
見上げると、そこには大きな天窓が開かれ、ガラスを通して眩しいほどの
太陽の日差しが
僕に燦燦と降り注いでいた
「フッ・・・」
僕は思わず笑ってしまった
レイ・・・ホントに・・・
フランクはベッドに腰を下ろすとその窓を通してしばらく天を見上げていた。
《やっぱり・・・ここから星が見える方がいいな~》
気持ちいいもの・・・》
《そんなこと・・できるの?》
《できるさ・・君のためなら・・・》
しらずしらず、フランクの目尻から一筋の涙が零れ落ちた。
どうしたというんだ・・・フランク・・・
《君が終わっていない以上・・彼女も終っていない》
《怖いんだな・・・臆病者が・・・》
レイ・・・
遥か遠くから、僕を呼ぶ声が届いた気がした
しかし・・・封じ込めてしまった僕の心はずっと・・・
呼び続けていたんだ・・・
・・・ジニョン・・・
住所を持たない奴を探すのは面倒なんでね≫
その頃、レイモンドはフランクがきっと、あの家を訪ねているだろうことを
確信していた。
10年という長い月日が彼の贖罪を更に深いものに変え、今度が最期のチャンスと
裏で手を回したものの、果たしてそれがフランクにとって救いとなるのか、
ジニョンの想いに沿っていることなのか、彼自身も確信があったわけではない。
しかし・・・こうせずにはいられなかった。
君の心に聞いてみろ・・・
そして・・そこへ・・・今度こそ・・・
君の掛け替えの無い太陽を・・・
しっかりと抱いて・・・
「何年ぶりだ・・ボス・・」
いや・・・10年・・・
仰ぎ見た大空は目が眩むほどに白かった
まるでたった今まで僕が見続けていた
目覚めでもしたかのように・・・
その光が僕の迷いを洗うごとく
心の中まで染入るように・・・
白く・・・
・・・眩しかった・・・
mirage-儚い夢-
完
|
|
<前 | [1] ... [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] ... [36] | 次> |