水田
田植えの終わった田、稲の緑が爽やかでした。蛙の姿はみれませんでしたが、どこかでゲッゲッとで鳴いています。そろそろ梅雨ですものね。
私の子供の時はこんな田んぼを覗くとおたまじゃくしがピョロピョロと泳いでいたものです。ザリガニやタニシや他にもたくさん生き物がいて、何が面白かったのか知りませんが、捕まえてバケツにいれていましたね。
夜は明かりのない真っ暗な田んぼにホワーン、ホワーンと舞うホタルを捕りました。虫かごに入れて家に持ち帰り、家の中でそれを再現・・・。でも朝になるとみんな死んでいました(x_x;)ホタルさんゴメンナサイ
田に水を引く水路の水は地下水をポンプで汲み上げていたと思います。冷たい水がド~ッと噴出している場所付近は、この時期から夏にかけて私たちの遊び場でした。プールよりもおもしろかったです。
いつしかホタルの舞は近所では見られなくなりました。ザリガニやタニシも。蛙の声は聞こえるけどおたまじゃくしは田んぼに見えません。それは田んぼにあぜ道がなくコンクリートで区切られてしまったことが1つの原因なのだそうです。あぜ道があることで植物やプランクトンが生息でき、それを食べる生物もまた生きていけます。そんな生態系が人の手によって壊されたということでしょうか。
昔は田んぼのあるところは広くず~っと田んぼでした。今は住宅と住宅の間に点在しています。お米を作るためだけのものでしかない空間。でもいつかここもなくなってしまうのかなあと思いつつ、田んぼを眺めていました。
歩いていたら白鷺に会いました。こんなコンクリートの水路の中で何をしていたのでしょうか。水をのんでいた?食料となる虫がいたかどうか・・・。近づいたら飛ん行ってしまいました。 |
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私は見たことがありませんが、学名を“Nipponia nippon(ニッポニアニッポン)”という鳥・・・朱鷺。夕焼けの空をさらに朱色に染めたであろう朱鷺の群れが緑の田んぼの上を飛ぶ風景はきれいだったんだろうなあと想像します。
コミュニケーション
日本版『ホテリアー』のインタビュー記事で田辺誠一さんがヨンジュンさんのことを下記のように語っています。
身体もそうですが、
精神的にも余計なものをそぎ落としているというか、
意識がきちんとしていて、周りに優しくて包容力もあって、
責任感もある。
精神的にすごく成熟されていると思いました。
どのようなコミュニケーションをとられたのでしょう。「精神的にも余計なものをそぎ落としている」と「意識がきちんとしている」という部分は普段使わないような言葉です。難しい表現をされました。どういうことなのか・・・
私の頭に浮かんだのが『ベルサイユのばら』のオスカルでした。いつも美しい姿で、何か重大な事象がおきても感情の揺れをみせず、自分の役割りを意識してこなし、立ち居振る舞いに隙がない・・・私の中のオスカルのイメージです。つまり、スマートな容姿をし、人間の嫌な部分がなく、自分の意思にしたがって真っ直ぐに生きた人物だと思います。漫画のキャラクターですから素敵で当然。キャラクターとして必要な部分が描かれているのだと思います。
田辺さんの上記の言葉は私のオスカル像にぴったりなんです。ヨンジュンさんが漫画のキャラクター・オスカルのように素敵な人物であるとすると、とても自己コントロールの優れた方ではないかと思います。自分の演出の仕方がうまいというか、他人への影響を考えて言動できる人というか・・・
人間の精神は感情と理性に大きくわけられると私は思っています。他人とコミュニケーションをとっていると、相手の言動に対して自分の心に何らかの感情がおこります。多くは自分を肯定、または自分の意と一致している場合は嬉しいに代表される快側の感情がおき、逆の場合は怒りや悲しみという不快側の感情になります。したがってコミュニケーションの場に引き出されている内容は、理性による解釈とそのときの感情を混ぜて人は認知していることになります。そして、自分がどのような表現(態度?)をとるかはまた感情と理性によって決められます。
自己コントロールの優れた人というのはその感情と理性で作られた認知や表現の優れた人と言い換えることができるかもしれません。それは、その場における自分の役割りを理解することであり、自分の意思に従うことでもあり、その場の雰囲気をよくすることであるように思います。つまり、コミュニケーションをとっている相手から自分が不快な感情を受けたとしても、理性によって自分の態度を場に合わせてコントロールできるということです。感情に惑わされずに行動できる人。強いというか、かっこいいというか、それが、田辺さんのいう成熟している精神ではないかと思いました。
『ベルばら』を読み返して、オスカルから私が受けたすっきりとしたイメージは、キャラクターとして余分なものが描かれていないからだけではないと思うようになりました。彼女は軍人としての役割りを遂行するにあたり、かなり理性で押さえ込んだ行動をとっています。逆に怒りから嫌味を言ったり、物を壊したり、飲酒したり、喧嘩したり、・・・と、まあ感情的な行動といえることもあります。よく「ちきしょう!」って叫んでます。それは人間として不本意な相手に対しての感情からおきています。どちらにしてもいつも人間としてあるべき姿を追い求め、その葛藤の中から生まれた言動であると私の想像は膨らみます。だからかっこいい。
前記事のコメントでkyomaikoさんとのやりとりをした中にありますが、オスカルには凛としたものがあるのだと思います。アンドレの言葉を借りると
一見氷のようにひややかなくせに・・・・
胸の中はまるで炎のように燃えさかっている・・・
血の気の多い激しさ・・・
また、アンドレが影で支えていたからオスカルは勇気がもてたということができます(というか、そのように描かれている)。
武官はどんなときも感情で行動するものじゃない
これはアンドレの言葉です。だからこそ、アンドレが亡くなる場面でのオスカルの取り乱しが悲しく苦しく、何度読んでも涙が出てきてしまいます。その場面でオスカルは上記の言葉を思い出すのですが、「人間なんだ!」と崩れてしまいます。
私たちの目に映るヨンジュンさんは非の打ち所がないほどの人物です。それは俳優ペ・ヨンジュンとしての凛々しさなのかもしれません。「ヨン様」としての自分を従容と受け止めつつ、自分の意思を貫いているように思います。私は彼が他人を非難する言葉を耳にした記憶がありません。本を読み内省することがあると聞いたことがあります。様々な葛藤の中で、自分はどうするべきかを常に考えているのでしょう。私たちには見えない、感情を飲み込んだ彼の苦悩を思わずにはいられませんが・・・。
上記の写真は歩いている途中で出会った風景です。コミュニケーション能力は子供の頃からの人と人との関わりの中で形成されていきます。ぶつかることで自分とは違う人間がいるのだと理解し、多くの人と接することで他人の心を察する人間になれるのでしょう。大学で交流分析を学んだ時、先生はこういうことをおっしゃいました。
他人と過去は変えられない。
変えることができるのは自分と未来だけ。
うまくいかない状況を脱するために他人の変化を望むことはままあります。でも、その相手の行動を支配しているのはその人の自我です。別の人が操作して変えることはできません。(そういや、オスカルもそんなようなこと言ってたな)ただその自我に影響を与えることはできるはずです。コミュニケーションの際、なかなかそんなことまで考えることは難しいのかもしれませんが、他人を変えることができるという考えは持つべきではないのかもしれません。
堀を覗いたら鯉も水面に顔を出して私を見ました。何か話たかった?えさもってないの<( ̄∇ ̄)ゞゴメ~ン♪
薔薇
また久しぶりな記事になりました。5月の記事が一つでは寂しい私・・・ということで、滑り込みで書きます。
インフルエンザで寝込んでいた時、私の元に『ベルサイユのばら・文庫本全5巻セット』が届きました。少し前からどうしても読みたくて、ネットで大人買いしてしまったのです。身体は楽になったけど眠れずにゴロゴロしていた私。なじみのあるこの漫画を一気に読むには十分な時間がありました。
私が最初に「ベルばら」に出会ったのは中学生の時です。週刊マーガレットの連載時ではなく、コミック本が発売された時でした。10巻全部を購入しましたよ。それから、『ベルサイユのばら・オールイラスト全集』というA4版くらいのメモリアル本も持っていました。しかし、現在はどこを捜してもそれらはありません。大人になっていく途中で漫画だからと捨てられたのか、捨てたのか・・・・
当たり前なんでしょうが、思春期を迎えようとしていたころの私はオスカルやアンドレたちのかっこよさに憧れたのだと思います。たぶん、自分を投影したとしたらロザリーだったのではと思います。フランスという遠い国でおきた歴史事実と、実存しなかった人々が繰り広げるフィクションが混ざったストーリーが、なんともいえない非現実の世界をつくっていたのでしょう。
オスカルが死んだのは33歳(34歳まで数ヶ月)です。現在、その年齢を遥かに超えた私。改めて読み、また巻末にある解説をきっかけに、私はオスカルという人間がどのような人物であったのかを考えました。もちろん、池田理代子氏が作ったキャラクターであるのですが・・・。
オスカルは軍服を着、剣を使い、馬に乗り、大勢の部下を従えた貴族の娘でした。宮廷の軍隊に属していたけれど市民とともに革命に参加したというフランス衛兵隊の隊長がモデルであったそうです。もちろん、その方は男性であったのでしょうけど。
作者や解説者たちは次のようなことを語っています。
自由にものを考えたり行動したりすると不幸になると言われた時代の女性たち、小さくて控えめな女性が男性に見初められて幸せになるという時代、オスカルは異色です。軍人として困難な状況を乗り越え、体を張って上司や部下と向き合い、心身ともに強く大きくなっていきます。ところが、彼女は多くの男性から女性として愛され、また、彼女自身も男性に対して切ない恋をして心を揺らしました。恋に破れて涙する、自分を愛してくれる人の胸に飛び込む・・・そのようなオスカルに読者は自分を重ね、共感したのではないか。
松本侑子氏はこのように書いています。
オスカルは「男らしさ」「女らしさ」という造られたジェンダーの
利点だけを組み合わせている。それが魅力なのだ。
つまり、彼女には男の野蛮さがなく、女性らしい生生しさもない、それぞれの好感的部分だけが強調されているということのようです。それを林真理子氏は「女の美質と男の美質を兼ね備えた」人物であると表現しています。なるほどと思いました。読者であった少女たちが彼女に憧れたのは、単に男性的なかっこよさだけではなく、恋する女性であったからなんでしょう。
オスカルは作者によって作られた人物ですから、人間の嫌な部分が見えないのは当然かもしれません。ドロドロとしたものを持たないすっきりしとした人物像に出来上がっているように感じました。それは、非難する部分のない素敵な人間であったのだと言えるのではないでしょうか。
革命の火種が大きくなっていったころ、オスカルは将軍である父にこんな言葉を言っています。
感謝いたします
このような人生を与えてくださったことを・・・
女性でありながらこれほどにも広い世界を・・・
人間として生きる道を・・・
ぬめぬめとした人間のおろかしさの中でもがきいきることを・・・
女性として育てられたら体験することも知ることもできなかったであろう様々なことが、男のように育てられたことでできた、その喜びを語っているのだと思います。平民が書いた本を優れた書物として読み、階級を超えた人々と語り合い、人間として生きるとはどのようなことであるのかを、革命が進む中でオスカルは考えていきました。その結果が、国王の道具、王宮の飾り人形から脱して自由な市民として行動する、つまり自分の意思にしたがって生きることだったのです。
こう考えると、『ベルサイユのばら』は自我確立の物語なんだと思えます。少女たちはこれを読んで自分の将来を考えたりしたのかしら???そんなはっきりしたことはなかったかもしれないけれど、オスカルみたいな生き方をしたいと思ったかもしれません。池田理代子氏はこの漫画を24歳で描いているからすごいです。
この私のうじゃうじゃした頭の中には続きがあります。日本版『ホテリアー』のホームページに載せられていたインタビューで田辺誠一さんがヨンジュンさんのことを「精神的にも余計なものをそぎ落としているというか・・(中略)・・・・精神的にすごく成熟されていると思いました。」と語っています。これとつながるような気がして・・・。
長くなったので、続きは次の機会にします。
今日の写真はご近所さんの花壇の薔薇です。夕方雨が止んでから撮影したので周りが暗く、フラッシュたいたら夜のようになりました。フラッシュなしはこんな↓です。
それから16年前の写真ですが、こんな花束をもらったことがあるのです。これ何本かなあ。300本は無かったけれど置き場所には困りましたね。
春日山
とても久しぶりのブログになってしまいました。時間がないというよりも頭の中に余裕がなくて、記事を書くことができませんでした。まだ、その状態は続いているのですが、ブログを書くことで気分転換です。
上記の写真は新緑の奈良春日山です。右下の日付けを見ると1994年5月16日、13年前です。でも、この写真の中には近代の建築物がなく(街灯とか電信柱があるかな)、時代がわからない写真かなと思います。ぜひ、大きくして見てください。
もちろんデジカメではありません。ネガフィルムをL版にプリントしたものをスキャナーで読み取りました。そのためか、あまりきれいに見えません。本当はもっとやさしい雰囲気に撮れているのですよ。
カメラはEOS700QDという一眼レフ初心者用のものでした。ダイヤルがイメージセレクトモードになっていて、kissの前身なのかなと思います。出会った風景を記憶に残すというスナップ専門の私。当時は撮影技術なんて全く無知ですから、オートフォーカスをいいことに『バカチョンカメラ』というつもりでただただシャッターを押していました。今の私だったらどんな風に撮影したでしょうか。
ネガフィルムで撮影したものは現像→プリントしなければどのように撮れているのかわかりません。後からの楽しみでもありますが、あれ?っていうのも多くありました。期待を裏切られてがっかりという場合と、( ̄。 ̄)ほぉーという場合とどちらもありです。考えるとフィルム代、現像代、プリント代と随分とお金がかかりましたね。だから、一つの風景で何枚も撮るってことはありませんでした。プロの方や芸術的に凝った方は違うのでしょうけど、私は自分の記憶としての写真ですから。
デジカメは気軽でいいですね。撮影したものをすぐに確認できるし、失敗は消去できるし、フィルムはいらないし、プリントしなくてもいいし、撮影データが記録されているし・・・。ただ粒子ではなく、大伸ばしにするとカクカクな画像なんですよね。
写真とは、穴(レンズ)を通して、物体から反射した光を感光し、目に見える状態にしたものなのだそうです;;;;(;・・)ゞウーンわかるような、わからないような・・・。銀塩というのはフィルムに感光したもので、デジカメはデジタルデータを処理したものということになるのかなあ。わからないよ~ん。ヨンジュンさん教えてください。
上記の画像はプリントしたフィルム写真をスキャナーでデジタル処理したという複雑な画像になっているってことです。これまでのブログの中にもいくつかそのような写真がありました。なんとなくボヤッとしたものがそうです(ささやきの小径、立山、白梅、松明、湿原など)。
実は、この写真がなければこの時のことを思い出すことはなかったかもしれません。あまり印象に記憶に残っていない風景です。記憶をたどると・・・夕方、ホテルにチェックインした直後、窓を開けて奈良公園を見渡した時の撮影です。窓ガラスに興福寺の塔が映っていたので、そのガラス越しに撮影したらこうなりました。でも、面白い写真ですよね。私っぽいというか・・・。ヾ(@゚▽゚@)ノ
この時の旅で一番印象的だったのは、朝の飛火野での体験です。車の通らない早朝の散歩中、アスファルトの道路を鹿の群れが駆けて来たのです。ドドドドド・・・と目の前を通って行く鹿たちに私はびっくりし、レンズを向けることができないほど固まってしまいました。写真はなくとも私の記憶には鮮明に残っている風景です。
スズラン
自分勝手に“君影草”と思い込んでいる我が家のスズランが咲きました。女性が葉の影に隠れているという様子を表現したいとがんばりましたが、いかがでしょう。やっぱりスズランを撮影するのは難しいです。
広角にするとこのようになっています。にぎやかでかわいいです。
今日は最近撮影した植物でブログの記事にならなかったもんをいくつか掲載します。だから、文章なしです。
ピンクの花、名前?
父の植えた豆
ディモルフォセカかな?
もみじの新芽
FAMILY BOOKのパズルをエクセルでやってみました。間違いがあるかもしれませんが・・・
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