桜並木
気象庁から桜開花予想が出たそうです。ちょうど職場で「今年の花見はいつにするか」と相談していたところでした。暖冬の影響で私の街では例年より半月も早いとか。3月中に満開になってしまうかもしれません。
右の写真は、今日職場近くでみつけた桜です。 春の日を浴びて伸びをするように開いていました。
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この季節になると、桜と別れや旅立ちをテーマにした歌を耳にするようになります。暖かな私の街でも卒業式前後ではまだ桜は咲いていません。どちらかといえば入学式ころに咲きます。桜の歌は別れではなく、新しい世界へ飛び込む人の応援歌になるのかしらん。
日本の古くからの歌(短歌とかも含めて)で「花」というと「桜」を指すことが多いようです。しかも、視覚的に目に入った植物の花を表すだけでなく、「移ろい」「儚さ」「(桜)色」「散る」「美しい」・・・などなど多くのイメージが含まれていると言えます。これはきっと私だけがイメージしているのではなく、日本の多くの方がそう思っているのではないでしょうか。
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず 「いろは歌」
このことについて大学の講義で学びました。日本の文化は「うつし」であるのだと。過去に詠まれた多くの歌にある言葉が歴史的に繰り返され、1つの言葉から皆が似たようなイメージを連想させることになったと考えられるのだそうです。つまり、日本人であったら生まれながらにそのように思える心をもっているのではなく、言葉にまつわるイメージをどこかで学んで(?)いるということでした。
例えば“桜”は上記のようでしたが、“月”だったらどうでしょうか。私のイメージは「静か」「見守り」「女性」「秘密」「時」「凛」「待つ」「思い出」・・・(*^^*ゞ意外と感性がない私でした。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
「小倉百人一首」より 安部仲麿
そういえば、姪がまだ2~3歳だったころ、月を見て「きれいだねー」と母親(私の妹)に向かって得意げに話しかけていて、私はびっくりしました。「月がきれいだ」という感覚をもっているのか、それは姪にとってどのようなことであるのか。そしてなんと感性の強い子だなと思い、それを妹に聞くと、「いつも私がそういってるからだよ」とやや冷たい反応(_ _。)・・・シュン。つまり、姪自身がはじめから「月=きれい」と結び付けたのではなく、母親から伝達された言葉であったのだということです。
いろいろな感性を持って成長することは、論理的にものを考えることと同時に人間に備わった素敵な資質であると思います。そして、日本が歴史的に繰り返し作ってきた言葉のイメージって「いけてる」と私は思います。
桜の花びら散るたびに 届かぬ思いがまた一つ
涙と笑顔に消されてく そしてまた大人になった
「桜」 by コブクロ より
桜に「旅立ち」のイメージがあるのは、日本の春が活動の終わりであり始まりの季節だからでしょうか。
上記の写真は、2年ほど前の4月に東京・大塚で撮影しました。ブロコリの“あなたの街のBYJが似合う風景”に投稿した「住宅街の春」の続きの写真です。実はこれとあれとどちらの写真を投稿しようか迷いました。どちらにしても、休日の午前中、ジーンズにカーデガン姿のヨンジュンさんが本を抱えてここを歩いている・・・というのを想像しました。
この後、ランドセルがまだ大きく見える男の子の入学の記念と思われる写真を撮っている親子にも出会いました。花びらが舞う桜とそのシーンは合いすぎるほどで、そこをタイミングよく通りかかった私まで嬉しくなってしまいました。
文字
最近、文字をペンで書くことが少なくなりました。何を書く(?)のにもパソコンです。数年前はキーボードを打つことが遅いし、せっかく一所懸命入力しても、ちょっとしたキーの誤操作で急にそれが消えてしまったりしたものです。書くほうが楽で速かったはずなんです。それなのに今はキーボ゙ードを打つことがなんと楽か・・・。
その理由は、間違いは訂正ができる、漢字がウル覚えでもOK、きれいで読みやすい・・・・など。何よりも書くよりずっと速くなったんです。だから、手紙を書くにも下書きをパソコンに打ってみたりします。そういえば、年賀状も1枚ずつ書かなくなり、年末ぎりぎりまで手をつけなくなりました。
たまに書くと、これまたへたくそな字・・・。前はもっと上手だったような気がするんです。昔書いていた字が上手いというより、今の字がバラバラしていて汚すぎるんですよ。もう、がっかり。
私は子供頃ペンの持ち方が変だったんです。ペンダコが何故か薬指にできていました。鉛筆をぎゅっと握るように持ち、力を入れて書いていたと思います。だから硬い芯を使っていました。大人になってボールペンを多く使うようになり、もっと軽く持てるようになりました。ペンダコは中指にでき、さらさらと滑らせるような書き方をしました。何枚にも複写が必要なものは下まで写らないことがあるくらいに力のない書き方でした。
右の文字は私が小学校2年生の時に書道教室で書いたものです。 70cm四方くらいあります。 「好きな文字をひとつ書いて」と言われて選んだ文字です。今はピアノの上に飾ってあります。 上の写真は高矢禮の明細書の表紙です。この文字は誰が書いたのか・・・というより、ロゴとしてデザインされたものなのでしょうね。書いたというより彫刻刀で彫ったように見えます。 左は入り口の看板をアップにして白黒にしたものです。
17時の空(追記)
昨日、仕事がお休みだったので美容院へ行きました。終わって外に出ると17時の鐘の音が・・・。子供の頃はこの鐘を聴いたら家に帰らなくちゃと思ったものです。
西を向いて歩いていたため、雲がオレンジに染まった空が目に入りました。わ~っ!と思い歩みを止めて見上げていると、飛行機雲が1、2、3・・・3つも見えました。南の方へ行くもの、北西を横切るもの、そして西の雲の中から飛び出てくるものです。飛行機ってこんなにたくさん飛んでいるものなのかあ。
西の雲から出てきた飛行機。その行方を追うと、ちょうど真上に見えた月をかすめて飛んでいきました。
私の住む街には空港がありませんから、私が見ている飛行機たちは上空何千メートルとかいう距離にいるんでしょうね。月はもっと遠くですが、私からは飛行機が月に向かっているようにも、月から飛び立ったようにも感じました。
人間にあたえられている最高の資質は、目に見えるものから目に見えぬものを推論させる力です。
これは私の尊敬する人物の言葉です。人間には少しの情報から「これってどうなっているんだろう」と考え、イメージを膨らませる能力を生まれつき持っているという意味なんだと思います。その方法が深くなったもののひとつが科学になるんでしょう。
昔、空を飛ぶ鳥や虫を見てうらやましいと思った人がいたでしょう。不思議に思った人がどうなっているのかと鳥や虫をじっと見つめたのでしょう。羽をパタパタ動かしているとか、風の流れがどうかとか・・・(私はよくわからないけど)。次に見たことを頭の中で組み合わせて、きっとこうすれば飛べるんだということを描いたのだと思います。「人が空を飛ぶ」という現実にはないことを想像し、考え出したのです。
人の表情や行動から、あの人は「怒っている」とか「悲しそう」とか「あっちへ行こうとしているのだな」・・・などいろんなことを考えます。反対から言うと、自分の思っていることや考えていることや行なおうとしていることを言葉で伝えることは不可能だし、全部を伝える必要はないのでしょう。人は社会に所属して生活していますから、コミュニケーションが必要です。でも、他人と自分は違う人間ですから、同じものを見ても違うことを感じ、考えます。その結果が表面に現れ、他人がそれを見て「あの人はこんなことを思っているのかな」と想像します。想像は経験的な判断なのでしょう。それでも大勢の現象を統計的に調べると大まかな傾向が結果として出ます。
少し前に「納豆ダイエットのデータ捏造」が話題になりました。そういうのを“ニセ科学”というのだとラジオのコラムで話されていました。血液型による性格の違いとか、テレビゲームをやりすぎると脳細胞が壊れるとか・・・。調べると何か想像できるものはあるかもしれませんが、科学といえるほど明確な結果はないのでしょう。
私たちは“科学”という言葉に弱いのかもしれません。科学してもわからないことはいっぱいあります。科学的に明確だと思っていたことも、違う視点から科学したら覆されることだってあります。特に人間は同じ人がいないだけに科学的に絶対といえないことは多いのでしょう。「こうでなくてはいけない」という“絶対”を追い求めると、そこから外れた時に辛くなります。
見えるものから見えないものを推論する楽しさを実感しながら、幅のある生活をしていければよいのかもしれません。
空からいろいろ考えすぎてしまいました。おかげで、この記事を書き始めてから完成まで時間がかかりました。
長くなったついでにもっと写真を載せちゃいましょう。同じ頃に下記のような写真も撮れました。暗くなった街の向こうに富士山だけがピンクに輝き、信号機にも夕焼けが・・・
田んぼ
先日、嵐が通り過ぎた後、湿った空気が春らしいなと思いました。まだ土からの青い香りは感じていませんが、それももうすぐなんでしょうね。そういえば、近所の田んぼは土がフカフカ軟らかくなっていました。田起こしというのですか?
また、通勤途中に池の石の上でカメが甲羅干ししているのを発見。冬眠から醒めたばかりでボ~ッとしているようにも思えます。メジロなどの鳥がエサを口にして飛んでいる姿もよく見られるようになりました。植物に続いて動物もそろそろ活動開始でしょうか。暦の啓蟄は3月になってからですが、もしかしたら今年は先取りかもしれませんね。
下記は田んぼの脇に咲いていた花です。左は“ペンペン草”で右は“仏の座”(別名:三界草)です。春の七草でいう“仏の座”は“田平子”のことで、この草ではないそうです。ペンペン草には黒くアブラムシがついていました。
私は季節の変わり目が好きです。特に春になるこの季節が一番好きです。生き物たちが寒い季節に隠れて蓄えていたエネルギーを争って放出しているように思えるからです。そんな活動はがんばらなくてはという気持ちを呼び起こさせてくれるからです。
ところが今の私はというと、やらなければならない仕事がどんどん溜まってきて、アップアップ。活動低下です。もう年度末ですから、今年度の結果を何らかの形で表現しなければなりません。やばいです。
そんな自分のやる気のなさに自分で情けなく思っています。もともとコツコツタイプではなく、切羽詰ってわ~っと一気に作業する性格なんですが、最近はそのやり方がひどくなって、時間切れで完成に至らないものが増えています。言い方を変えると、「怠け者」とか「意志が弱い」とかになるのかもしれません。
少しずつ、一歩ずつは積もるととてつもない結果に繋がるのはわかっているのですが・・・/(-_-)ヽできない・・・。もしかしたら、この性格は能力のひとつなのかもしれないと思うようになりました。自分の限界なのかなあ。
遠くの目標に向かって、「今できることを今する」というのはすごいことなんだと思います。
点滴
風邪をひいたと寝込んでいた母が、とうとう先週末に入院しました。肺炎になってしまったようです。熱が出て、ゼーゼーした息をし、食事もほとんど取れませんでした。近所のいつも診ていただいている医師から総合病院へ紹介。連休初日に救急で受診しました。そのまま入院でした。
母はもともと腎臓の機能が悪く、定期的に総合病院に受診をしていました。たまたま腎臓内科の医師が当直しており、助かりました。肺炎に間違いはないのですが、発熱と飲食ができなかったことで脱水をおこし、尿量が減り、腎臓に負担がかかっていることがわかったのです。
今日で4日目ですが、まだ熱は出ているようでした。普段お菓子とか間食が多い母なのに、食欲がまだありません。しかし、体重が少し増えています。むくみと肺炎を起こした側の胸に水が溜まっているようです。酸素をつけての療養で、トイレはベッドの横です。しゃべったり動いたりするとまだ息が切れます。
そんな自分が情けないことと、父のことが心配ではじめは早く帰りたいといっておりました。しかし、毎日点滴に通うことも難しいし、何より家ではきっと十分な療養ができないでしょう。今は覚悟をきめて入院治療を受けています。
熱があるとはいうものの、点滴の効果か入院当初よりはいくらか楽になったようです。昨日、藤沢周平の映画のパンフレットをもってくるよう注文を受けました。上映終了間際に観にいった「武士の一分」のパンフレットだけでなく、何故か「蝉しぐれ」もと・・・。
母は若い頃から映画好きでした。実姉の子の子守をしながら、映画を観に行っていたようです。「昔は他に娯楽がなかったからね」とはいうものの、邦画・洋画は問わず今でもかなり観にいく方だと思います。(SFものは見ません。)しかし、たくさん見すぎなのか、最近は話がごちゃごちゃになってしまい、どんなストーリーかきいても、「えーっと」というばかりの時もあります。
母が好きなものはもうひとつあります。それは演歌。なかでも「都はるみ」が大好きです。新曲のCDが出ると予約で購入。コンサートは地元のものも東京のものも出かけます。一人でも出かけます。その会場で隣に座った方たちと友達になり、手紙のやり取りや次のコンサートの待ち合わせなどもしていました。「はるみ会」とかいう名前をつけて・・・。母の部屋、孫の写真の横には都はるみさんの写真が飾られています。昨年、我が家の庭に「はるみみかん」の木が植えられました。
私がヨンジュンさんに夢中になったのを一番理解してくれているのは母かもしれません。いや、あの母の子だなあと私は思っています。父の介護が増えてコンサートや映画に行く機会が減ってきた母。今後、母が出かけるための“父対策作戦”を私も一緒に考えなくては・・・
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