木遣り
奥山の大木 里にくだりて 神となす ヨーイサ
2010年の御柱、下社の山出しに行ってきました。
諏訪大社の氏子総出で大木を曳く行に圧倒されっぱなしでした。
私が付き添ったのは棚木場(たなこば)から注連掛(しめかけ)までです。
木遣りの方たちの「おね~がい~だ~」という歌に合わせ、「コーレーハサンノーエー ヨイサ ヨイサ・・・」という声を掛け曳き綱をひっぱります。
木遣りの人たちの歌は“鳴く”というそうです。曳子をしていたおじさんが「頑張って鳴いてくれよ~」と言っておりました。
下社の柱は乾燥させてあるとはいえ4~5tはあるらしいです。たぶん千人単位の人が力を合わせて、大木を曳いて・・・本当に引き摺って・・・山から里に下してきます。
その列は長く、元綱が300mというからそれ以上の距離に人々がいることになります。すべての人の力を合わせなければ木は動かないため、木遣りの人の鳴きが曳きの速度を左右しているんだなあと思いました。
木遣りの方たちは、長い列のみんなに1つの号令が届くように前後に散っていて、互いの声を糸にして繋げているという感じです。高い声で一斉に鳴き、曳子を一つにまとめます。朝から夜までずっと鳴きっぱなしですから、声が嗄れてしまいそうです。
下↓の動画は秋宮1の柱が注連掛に到着する直前の曳行です。
http://youtu.be/L-zOs6MIOFk
【追加】http://youtu.be/Nws2WZe3hU8
木落としの動画ですが、その瞬間だけでなく編集されていて、現場の雰囲気が伝わってきます。
多くの人の力が集結しないとできない行です。老若男女皆がそれぞれの役割を責任をもってこなし、一つのことを成し遂げていました。すごい!すごい!と興奮して感嘆、そして感動すら覚えました。 柱は20mほどあるのでしょうか。長いですから道がくねっているとそりゃ大変です。
下左は柱の後ろの追掛衆(水色の人たち)です。柱の方向が定まるように綱を操り、木落としでは落ちるスピードを後ろから支えるそうです。華やかな木落としは有名ですが、後ろでは太い柱にこの追掛け綱を括り付けて落ちないように操作しています。最後にピンと張った綱を斧で切るのもこの中の誰かかな。
追掛衆の前の赤い服装の方たちは梃子衆で、木の棒を持っています。梃子を使って柱のかじ取りをしているそうです。
下右は元綱衆です。柱の直前で曳いているので、綱がこんなに低くてすごい体制になってます。腰を痛めないか心配です。
腰に大工道具のようなものをつけている方がいますが、綱の修理に使っていました。この綱も氏子さんたちが編むのだそうです。綱が途中で切れたのを修理したりするのも元綱衆の仕事のようです。
その他、ラッパ隊や旗を持つ人などもいます。
山出しは木落としだけでなく、全行程を通して勇壮で魂をゆすぶられる祭りだと思いました。
7年に1度ですが、次の曳行に向かって毎年準備をしていかなければならないそうです。里の人たちの絆や祭りへの誇りが、太古から続いている日本人の文化や風習を継続させているなって思いました。
人が曳くことによって山の大木は神になる・・・これが御柱でしょうか。その過程にはたくさんの人の熱い思いがあり、里という人の社会をまとめる力になっているのかなと考えた旅でした。
山出しは4月上旬です。里は桜や水仙など春を待ちわびた花たちで美しい風景でした。
ジオラマ風写真
デジタル技術の進歩でカメラもどんどん変化します。
最近は液晶に触れることでピント合わせとシャッターが切れるものがあるとか。
また、画像をシーンに合わせて調整してくれる機能もついています。
カメラの概念が変わりますね~。
ミラーレス一眼が注目されるようになっています。
一眼レフはレンズを通した画像がファインダーで覗けるという意味で一眼レフです。そのためにカメラの中に鏡がついていて、レンズから入ったものを反射させてファインダーで見せる構造になっています。光学式ファインダーというようです。
ミラーレス一眼はファインダーが電子式になるのだそうです。鏡による反射構造がなく、レンズからまっすぐに像が入るようです。複雑な構造物がない分、軽くて小さいようです。そして、レンズ交換ができます。でも、考えてみると、コンパクトデジカメの液晶はレンズを通した電子式ビューファインダーですから、ミラーレス構造ということになるのでしょうね。
現在、ミラーレスというと“ミラーレス一眼”を指すようです。
コンデジと一眼のいいとこどりのカメラということになるのかな。欠点は・・・細かな操作上のことのようで読んでもわかりませんでした。(AFが遅いとか、イメージセンサーの性能が低いとか・・・)
今後、ミラーレスの性能が進歩すると、そちらが主流になっていくのでしょうか。私はまだミラーレス一眼を買う予定はありませんですが・・・。
撮影時や撮影後に画像を修飾する機能もたくさんあります。こうなると撮影そのものを楽しむというのではなく画像作り出すという感じです。
今回アップしたのは“ジオラマ風”に後から変更した写真たちです。「チルトシフトスタジオ」という無料ソフトを使用しました。無料のためか、作成した画像にはそのロゴが入ってしまいます。
私のコンデジにも「ジオラマ風撮影」という機能がついていますが、それよりも後からいろいろと変更する方が楽しいです。・・・というか、撮影はRAWにこだわってます。
いろんな画像をジオラマ風にしましたが、ごちゃごちゃした街の写真がジオラマ風には合うなあと思いました。
この横浜の風景は観覧車があって、本当におもちゃの街みたいです。
私は写真撮影が好きですが、自己流ですのでどうも似たような写真ばかりになってしまいます。もっと撮影テクニックを知ればいろんな瞬間の写真が撮れるのかもしれないなって最近思います。時間があったら習ってみたいなあ。
ヨンジュンさんは周りにプロのカメラマンがいるし、いろんなカメラを持っているし、もっともっと楽しんでいるんだろうなあと想像します。私にはわからないレンジファインダー式カメラとかも持っていて、いじりまわしているんでしょうね。たぶん凝り性だから・・・。
今日の写真はみなとみらいのランドマークで撮影したものです。
タイトル下の元画像はこんな↓↓感じです。一眼レフではなくコンデジの撮影で、薄曇りだったのでなんとなくパッとしませんでした。
河口湖と佐渡さん
先日、NHKで「さど☆まさし 題名のある音楽会」の放送がありました。指揮者の佐渡裕さんとさだまさしさんが兵庫県立芸術文化センターで開催した東日本大震災復興祈念チャリティーコンサートのダイジェスト版です。
震災直後、佐渡さんが(;O;)エーンと泣きながら、「音楽家は無力だ」とさださんに電話をかけたところからこの計画が出発したとか。
震災地の変化していく様子の写真とオケの演奏、そして生さだ風のはがきやお二人のトークに胸をキュッとさせながら見入ってしまいました。泣き虫佐渡さんは「カミさんにハンカチをもらっといてよかった」といいつつ何度も涙ぐんでおりました。指揮棒を振っている大きな体の佐渡さんのせつなそうな顔を見ていたら、私もつられてウルウル・・・
放送された楽曲
G線上のアリア(バッハ)、
リュートのための古風な舞曲とアリア第三組曲より“パッサカリア”(レスピーギ)
道化師のソネット(さだまさし)
フィンランディア(シベリウス)
カヴァレリア・ルスティカーナより“間奏曲”(マスカーニ)
いのちの理由(さだまさし)
案山子(さだまさし)
風に立つライオン(さだまさし)
ローマの松より“アッピア街道の松”(レスピーギ)
ふるさと
心が温かく、エネルギーの湧いてくるような曲と構成でした。
私は大好きな曲ばかりで、後半に向かってどんどん気持ちが盛り上がってきて、テレビのボリュームを上げ、自分で歌ったりハミングしたりと声を出し、体を動かしていました(^^ゞ
♪案山子♪はさださんと佐渡さんのデュエットでした。佐渡さんはフルートを吹き、「元気でいるか、街にはなれたか、友だちできたか・・・」という部分は歌で参加していました。歴史に残る演奏だわ~。
佐渡裕さんは有名な指揮者ですが、なんかとても身近に感じる方です。彼は若いころ高校の吹奏楽部の指導者をしていたとかで、今でもそれに繋がった活動をされているからかもしれません。
この写真は2010年の河口湖音楽祭の一番最後、シエナウインドオーケストラの演奏会では恒例の「みんなで“星条旗を永遠なれ”を演奏しよう!」です。客席にいた人たちも自分の楽器をもって舞台にあがり、演奏するんです。その空間にいる人たち全員の一体感、隣りに座った見知らぬ人とも通じ合えたような気持ち、子供とか大人とか関係なく無邪気になる・・・そんな雰囲気です。
8月の河口湖畔は音楽一色ですね。【河口湖音楽祭2011】
2011年はこの音楽祭も10年目だったそうです。行けなかったけど・・・。
小学校の金管バンドでトランペットを吹きはじめた姪を誘って観覧に行く予定です。姪にとってはプロの楽団の演奏会は初めて。私は聖響さんに会える嬉しさで今からワクワクしています。
聖響さんといえば、今年の大晦日の東急ジルベスターコンサートの指揮者になったそうですね。カウントダウン曲は♪ボレロ♪だそうです。それも行きたい!チケットとれるかな。
さて、タイトル下の写真は富士急河口湖駅前のロータリーです。東京行きのバスを待つ若者たちはみんな楽器ケースを持っています。音楽祭の翌日の撮影です。
下左は河口湖畔の待宵草で後ろに河口湖大橋が見えます。音楽祭の日は富士山に雲がかかっていて見えませんでした。なので・・・
下右は冬の河口湖からの富士山です。街の上に雲があって、その上に富士山が見え、浮いているようです。
この下の写真は「久保田一竹美術館」です。河口湖に行くといつも立ち寄りたくなるところです。展示室の裏は森のようです。手前に楓、後ろに竹林なのですが、秋の紅葉の時期に行ったら、色とりどりの風景が見えるのだろうなあと想像しました。
≪追記≫
誰かがYou Tubeに「さど☆まさし音楽会」の♪風に立つライオン♪をアップしてくれました。貼り付けてみますが、いつまで見られるか・・・
三井寺(園城寺)
アーネスト・F・フェノロサという人物がちょっと気になりました。岡倉天心と共に、法隆寺の夢殿を開扉し、救世観音像を私たちの前に現せた外国の方・・・ということしか知りませんでした。ただ、“ゆめどの”と“ふぇのろさ”という2つの言葉は、木綿の布でぐるぐる巻にされて千年もの間誰の目にも触れずに隠されていた救世観音像≒等身大の聖徳太子と重なって、なんとも幽玄な印象を私に与えてくれました。(“おかくらてんしん”という響きもなんか不思議な響きです。)
フェノロサさんってただの日本好きな方ではなかったんですね。西洋に追いつけとばかりの明治時代、廃仏毀釈で多くの寺院や仏教美術が壊されていた日本を救った方と言っても過言ではないようです。興福寺は僧がいなくなるほど荒れてしまったのだから、彼がいなかったら私たちは阿修羅像を見られなかったかもしれませんね。
↓↓フェノロサの人生↓↓
【日本人よりも日本美術を愛した男】
(「文芸ジャンキー・パラダイス」の≪あの人の人生を知ろう≫より)
何よりびっくりしたのは、彼が生前に受戒して仏教に帰依していたということです。そして、戒を受けた大津の三井寺(園城寺)の法明院に彼のお墓があるそうです。生涯日本に在住していたのではなく、米国に帰国していたのですが・・・。
三井寺というと、近江八景のひとつであり、日本三銘鐘であるこの晩鐘が有名です。たしかに素敵な響き(唸りっていうのかなあ)です。また、天智・天武・持統天皇の産湯になる霊泉を汲んだ井戸(閼伽井屋)があることでも知られています。
これらの三天皇は飛鳥で生まれているんじゃないのかなあ。ここから水をどうやって運んだのかなあ?桶に汲んで飛鳥まで山を越えて運んだとしたら、大変な苦労だったでしょうね。
この三井寺、正式には「長等山園城寺」というそうです。壬申の乱に敗れた大友皇子(弘文天皇)の皇子が父を弔うために建立したのがはじまりだそうです。さまざまな争乱や焼き討ち、派閥の対立などがあっても人々によって支え、伝えられてきたため「苦難を乗り越えてきた不死鳥の寺」と言われているそうです。
昨年の11月に母と大津へ旅行しました。写真はその時のものです。楓の紅葉が見事でした。
このお寺、境内が広大で琵琶湖の望める場所もあり、歴史を考えたりしているとゆっくり1日かけて楽しめるなあと思いました。フェノロサのお墓のある法明院は境内よりやや北側の場所にあります。昨年はそれを知らなかったので足を延ばしませんでした。残念!もっとも、前日比叡山延暦寺を歩いた母は主要な参拝所を順路に沿って巡るだけでも辛そうでしたが・・・。
ちなみに、弘文天皇陵も園城寺の北側、フェノロサのお墓の近くにあるらしいので、今度はひとりで歩こうっと。
フェノロサというと、薬師寺の東塔を「凍れる音楽」と評したと伝えられています。この言葉に、私は東塔が何かとても冷たい、またはシャープな表情をもっているのではないかと思ってしまいました。でも、そういうことではないんですね。
「凍れる音楽 frozen music」とは「固まった(動かない?)音楽」という意味のようです。何も薬師寺東塔だけのことを指すのではないし、フェノロサの言葉でもないということを調べていて初めて知りました。【凍れる音楽...。】
ゴシック建築を表現する言葉のようで、リズムや調和のある建築物ということだと理解しました。↓↓ここもわかりやすいかな。
【建築は凍てれる音楽である~音楽の構造】 (「作曲する言葉」より)
なるほどな~。裳階のついたスラリとした三重塔は、リズム感やハーモニーのある建築だ~って言われると納得できそうです。歌手・さだまさし氏は♪瑠璃光♪ の中で「沈黙の交響楽(シンフォニア)」と歌っています。
この東塔は現在修復作業中。10年はかかるということなので、当分その美しい姿は見られません。天武天皇の発願で妻の持統天皇が完成させたので、1200年以上の歴史を見続けてきた塔です。多くの人(では表現が乏しいですが)がその前を通り、その姿を見上げたんだろうなあと想像します。平成の宮大工さんたちの手でまたこれからの千年の歴史も積み重なることになるのでしょうね。
三井寺の近くに琵琶湖疏水の入り口があります。この水がトンネルを通って京都の街に流れ込んでいるんですね。
稲淵の彼岸花
今日は二十四節気の霜降なのだそうです。 冷気によって霜が降り始める頃ということなのだそうですが、それに反して暖かな日でした。この日から立冬までに吹く北風を木枯らしというのだそうです。
被災地では仮設住宅の防寒対策が進められていると聞きました。震災の起きたあの日は啓蟄と春分の間。でも、雪の舞う寒い季節でした。月日はどんどん過ぎて、また寒い季節が巡ってくるのですね。皆様のお体が辛いことありませんようにと思うばかりです。
【二十四節気】
前記事の“立山登山”はちょうど寒露のころでした。寒露の前は秋分です。
昨年、せんとくんで賑わっていた奈良。私は明日香・稲淵の彼岸花を見たくて秋分の日に友と一緒に出掛けました。ところがいつになく猛暑の夏と残暑が厳しかったためか、お彼岸になっても全然彼岸花が咲いていませんでした。(-"-)
今年はリベンジ!・・・とひとり盛り上がり、お天気が良いことと彼岸花の咲き具合をネットで調べて、急きょ前日に宿を探して奈良に出かけました。
明日香川 明日も渡らむ石橋の
遠き心は思ほえぬかも
作者不明 【万葉集 巻十一 2701】
(明日香川の石橋を渡って明日もあなたに逢いに行きます。離れていても私の心はあなたのことをずっと・・・石橋のように飛び飛びではなく・・・思っています。)
稲淵に行ったら、この歌に詠まれている“飛び石”と呼ばれる場所も見てみたいと思っていました。現存する石橋が1000年以上も前からあったとは思えませんが、こんな風景があったことは事実なんでしょう。水かさが増してしまうと沈んでしまい、逢いたい人のもとに行けなくなってしまいます。川の中に置かれただけの飛び石ですが、それに思いを寄せた万葉の人がいたんですね。
彼岸花はどうだったかというと、たくさん咲いていました。webアルバムを見てください。
そういえば萩と彼岸花の写真は前に掲載したことがあります。
↓ここ↓
【きれい詫び】
この写真は白毫寺の参道です。
前にも書きましたが、萩の花は万葉集で一番詠まれている花なのだそうです。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに
咲きか散るらむ 見る人なしに
笠朝臣金村【万葉集 巻二 231】
(高円の野辺の秋萩が空しく咲いては散っていきます。もうご覧になる方がいらっしゃらないのに・・・)
白毫寺は高円山の麓あたりに位置します。昔、志貴皇子(天智天皇の息子)の山荘がこのあたりにあり、それがお寺になったという伝えがあるそうです。上の歌の“見る人”とは志貴皇子で、彼が亡くなったことを悲しんで作られた歌だということです。
彼は平安遷都した桓武天皇の祖父にあたる方で、平安遷都直前になくなったとか。とすると、この歌は1200年ほど前の歌ということになります。
この歌に詠まれている萩は野辺にあったのだから、このような参道を埋め尽くしたような景色ではなかったと思います。しかし、平城京が見渡せる小高い場所で志貴皇子が萩を見ていたのかなあという想像はできました。
この万葉歌碑が境内にありました。
風や草木花の変化から季節の変化を感じ、昔の人の想いにふけってしまう秋の夜長でした。
今年撮影した写真の後ろに、数枚だけ昨年のものが入っています。
昨年の秋分の日は暑かったので歩いていたらビールが飲みたくなりました。
元興寺の門前にある酒店がお気に入りです。店先でちょこっといただくことができます。
↓画像クリック↓ スライドショーでどうぞ。
奈良にて |
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