mirage-儚い夢-51.遠く消え行く声
ジニョンが落ち着きを取り戻すまでレイモンドは静かに彼女の傍らにいた。 「この家は・・売られるんですか?」 その表情がとても大人びていて、レイモンドは驚いた。 「・・・・はい」 ジニョンの声はしっかりとしていた。 「ジニョン?」 「はい」 「大丈夫かい?」 大丈夫じゃないのはきっと、自分の方だと、その時レイモンドは思った。 「・・・・大丈夫です」 「そう・・じゃあ、もう行きなさい・・・お父様が空港で待ってらっしゃる 「はい」 ジニョンはレイモンドに向かって一筋の笑顔も浮かべることなく、ゆっくりと深く一礼をして、 レイモンドは思わず声を上げ、彼女の足を止めた。 「・・・・・・」 「フランクに・・何か伝えることは・・ ジニョンはレイモンドのその言葉にしばらく俯いたまま沈黙していた。 「いいえ・・・何も・・・」 そう言って彼女は寂しげに首を横に振った。 「・・・いいんです」 裏口のドアを開けて、フランクが部屋に入ってきた。 「・・ジニョンを連れて来るなんて・・」 レイモンドは彼を睨みつけながら泣いていた。 「・・・・」 しかしフランクは何も答えなかった。 「あの子の笑顔は守れ・・そう言っただろ! 「・・・・」 「何んとか言え!」 「彼女が幸せかそうじゃないか・・決めるのはお前じゃない。 「それでも!・・・僕は・・決めた。」 「そうやって勝手に考えて・・勝手に決めて・・ 「・・・・馬鹿な奴」 《離せ!・・僕が君の何を!何を盗んだと言うんだ! 》 ・・・永遠でありますように・・・ ≪待って!・・・私は・・・
ジニョンは長い間・・・床にしゃがみこんで泣いていた。
自分の周りには誰もいないかのように無防備に、時に子供のように大きな声で叫びながら
時に堪えるように震えながら・・・ただ・・ただ・・泣いていた・・・
このまま放っておくと、彼女の中の涙が本当に一滴もなくなってしまいそうだった。
それでもジニョンのその哀れな姿を前にレイモンドは彼女に近づくことさえできなかった。
彼にできたことは、ただ黙って自分の瞳に彼女の姿を映し続け心で彼女の頭をなで
心で彼女の涙を拭うことだった。
いったいどれ位の時が経ったのだろう。
陽が高いうちに来たはずなのに、いつしか窓の外の陽が湖畔に近づいていた。
しばらくしてジニョンは大きく深呼吸をして,吸い込んだ空気をそのまま大きく吐き捨てた。
まるで何かを吹っ切る儀式を執り行ったかのように・・・。
その後で彼女は不意に立ち上がると窓辺に向かった。
そしてまたしばらく沈黙のまま、夕日に浮かぶ湖畔のずっと先に視線を送っていた。
「ジニョン・・・ジョルジュをここに迎えに来させている
きっともう彼はその辺で待ってるはずだよ・・
私は送ってはいけないが・・・そろそろ空港に・・・」
レイモンドはそう言ってやっと、彼女に別れを告げる心の準備を始めた。
ジニョンもやっと口を開いた。
レイモンド自身が既にこの状況を知っていたことを、ジニョンも悟ったようだった。
「ああ」
「そうですか」
彼女はもうさっきまでの興奮から冷めたように落ち着いた表情で答えていた。
そこには、もう以前の・・いやさっきまでのジニョンはいなかったからだ。
「私も・・」 レイモンドは俯いて息を吐いた。
「ここで君と・・・お別れをしなければならないね」
きっと・・心配しておいでだ・・」
そのまま玄関のドアに向かった。
「 ジニョン! 」
「フランクに・・」
あるかい?・・もし・・もし彼に会ったら・・」
そして想いを振り切ったかのように顔を上げて彼を見た。
ジニョンは最後まであの輝くような笑顔を見せることなく、ドアの向こう側へと消えた。
レイモンドは追いかけて行きそうになる自分を、拳を握り締めて耐えていた。
「あれで・・・いいのか・・・・」 レイモンドは彼女が出て行ったドアを見つめたまま呟いた。
「いいのかと聞いてるんだ!答えろ!・・フランク!」
そして今度は、声を荒げて怒鳴った。
フランクはレイモンドを睨み付けながら、そう言った。
家の売却の件でここでレイモンドと落ち合う約束をしていたフランクが、
突然現れたジニョンに驚いて、隠れるように外へ出ていたのだった。
「話したら・・ここに来なかっただろ!今なら・・間に合うぞ・・」
「・・・いいえ。・・彼女はジョルジュが。・・ジョルジュが守ってくれます」
「お前!」
レイモンドはフランクに詰め寄ると彼の胸倉を激しく掴んだ。
「・・・・・・・ジニョンに・・ジニョンに・・・私の・・ジニョンを・・あんなに・・」
あの子には・・お前しかいない・・そう言っただろ!
何故・・守らなかった!何故・・守ろうとしない!
何故・・・何故・・・な・・」
「・・・・僕が・・・臆病者だからです・・
彼女が・・僕といて幸せでいられるのか・・
彼女を・・守っていけるのか・・・
僕に・・彼女を得る資格があるのか・・」
彼女自身だ・・」
彼女の心を・・お前は踏みにじった。」
「・・・・・・」
「お前はこれから先ずっと・・その報いに苦しむんだ・・
後悔に・・・苦しむんだ」
「後悔?フッ・・・」
「何が可笑しい!」
「後悔なんて・・・
それは心を持った人間のものです・・・」
「・・・・・・」
「僕はもう・・・心を捨てました」
フランクは薄く悲しげな笑みを浮かべながらポツリとそう言った。
「何を・・言ってるんだ」
「だから僕に・・後悔なんてあるはずがない!」
フランクは今度はレイモンドを睨みつけてそう言い放った。
レイモンドはフランクを壁に投げつけるように彼の胸倉から手を離した。
「・・・あなたに・・何がわかる・・・・」
「ああ・・わからない!」
「あなたに!・・何がわかる!」
フランクはレイモンドに自分の持て余した心をぶつけるように強く叫んだ。
フランクの背中がレイモンドに叩きつけられた壁を滑り落ち床に崩れ落ちた。
溢れる涙を拭うこともせず、とうに下した自分の決断を肯定する理由を彼は探していた。
しかしそれは決して見つけられないと・・・わかっていた
《その人を捕まえて!泥棒!その人泥棒です! 》
ついさっきまで・・・ここで・・・愛しいジニョンが泣いていた。
何度も・・何度も・・
ドアを開けて駆け寄り、彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
《愛なんて・・・邪魔なだけだ・・・そう思ってた・・・
・・・君さえいなければ・・・
こんな苦しい想いをせずに済んだんだ・・・》
《私がいなければ良かったってこと?》
ああ!そうだ!・・
君がいなければ・・・君がいなければ・・・
何もかもすべて・・・すべて・・・いらない・・・
フランクもまた、壁越しにジニョンと共に泣いていた。
ジニョンの泣き叫ぶ声に耳を塞ぎ耐えていた。
フランクは自分の意志で自分の心が崩れゆく音を聞いていた。
そしてその音はレイモンドの声さえもかき消した。
ねぇ・・ジニョン?・・・聞いておくれ・・・
僕は君の前で・・・ドンヒョクという本当の僕に戻りたかった・・・
でも・・・今の僕はもうシン・ドンヒョクじゃない
君も何処かで感じていたでしょ?
だから・・・僕をドンヒョクと呼ばなくなった
《這い上がって生きることを強いられた男・・・》
それがフランク・シンという・・・この僕だ
《愛してくれる人が誰もいないなんて・・・
どうして、そんなこと思うの?
そんなの・・・悲しすぎる・・・》
《僕は・・君がいてくれればそれでいい・・・
愛してると・・・言ってくれる君が・・・》
《嫌よ・・・フランク・・・あなたが・・・
そんな悲しい心のままに生きるのは嫌・・・》
寂しい心も・・・悲しい心も・・・
もう・・・何も無い・・・
僕の中から・・・ジニョンを・・・
この世の全てをかき消した・・・
自分の名を何度も何度も呼ぶジニョンの泣き声が次第に遠く・・・
いつしか霧となって消えていた
フランクは既に、自分が今何処にいて
何を思い、何をしているのかさえわかってはいなかった
そしてジニョンと同じように、涙が涸れ果てるまで、声を上げて泣いた
後悔なんてあるはずがない・・・
後悔なんて・・・心を持った人間が味わうもの・・・
僕はもう・・・
心を捨てたんだ・・・
外は既に夕暮れて・・・沈み行く陽が湖畔を紅く染めていた
見上げた空はジニョンと初めて会った時と同じ色をしていた
僕はあの日から・・・ずっと・・・
夢を見ていた・・・
君のこの笑顔が・・・
必ず僕の前に・・・
もろく・・・切なく・・・儚い・・・君の夢を・・・
君の声が・・・
夢に遠く消えてゆく
君が・・・
・・・消えていく・・・
私の名前はジニョン!
・・・ソ・ジニョン!・・・≫
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