TDR
今年も姪、甥、妹とともにTDRに行ってきました。昨年同様「帰りたくない・・・」と子供たち二人はメソメソ。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。やはり“夢と魔法の国”ですね。昨年は二人がここで得た感動が涙を誘ったという記事を書きました(2007年1月10日)。今年は1年だけ大人になった彼らの泣く姿と、TDRのキャストたちから考えたことを書きます。
ゲストをwelcomeいっぱいの表現で迎えてくれるキャストたち。どんな仕事をしている方も皆愛想よく、嫌な顔せずに対応してくれています。しかも、どの方角のどんな人にも同じようにです。例えば、出口で立っている警備担当のおじさん。モノレールが通ると上を向いて必ず手を振っています。乗っている人の顔は見えないのにです。
キャラクターたちは会うと愛くるしい顔で近づいてきて、ギュッとハグしてくれます。手を出せば握手をしてくれます。サインだって頼めばしてくれちゃいます。子供たちだけでなく、カメラを向けている私にも必ず近寄ってきて、「ようこそ!」というジェスチャーをしてくれます。言葉を発しないため、すべて身体の動きによるコミュニケーションなのですが、「よく来てくれた」「会いたかった」ということが伝わります。
着ぐるみキャラクターと込み入ったコミュニケーションはとらないし、必要はないのですけど、実はこんなことがありました。ピノキオと一緒にいた獣キャラ。名前がわからないので私は見た目で「オオカミさん」と大きな声を出して何度も呼びました。そしたら、その獣キャラは小さな子供たちがたくさん周りにいたのに、ツカツカと私に向って歩いてきたのです。何?シッポを持ち上げて見せ、手で何か動物の形を作っています。ん?もしかして・・・キツネか・・・?ごめんなさい(。-人-。) ひたすら私は謝りました。
左の人はトムソーヤ島の砦にいたお掃除のお兄さんです。なんと、箒に水をつけて地面にキャラクターの絵を書いていたんです。すごいです。ものすごく静かで地味な場所なんですけど、顔が書きあがった時は皆拍手喝采で、とても盛り上がりました。 キャストのみなさんはどの人もエンターテイナーだなあと感心してしまいました。 |
私が今回一番感動したのは、ディズニーシーの「ビックバンドビート」というステージショーです。↓ここでダイジェストが見れます。
http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tds/japanese/7port/waterfront/show_band.html
なんてったって、ミッキーが♪sing sing sing♪のドラムセットを叩くんですよ。あの走るとバコッバコッバコッって音のする靴で・・・。叩いている姿は結構カッコイイ!途中、ドラムを離れて踊る場面もあるのですが、考えてしまいましたね。どんな人がミッキー役をやっているんだろって。
隣の席で観ていた甥がミッキーの真似をして手足をやたらと動かしていましたが、それもかわいかったです。
TDRは本当に夢の世界ですよね。そこで働く人たちが訪れた人たちすべてを無条件に受け入れてくれ、気持ちよくさせてくれます。でも、私たちが生きる世界は本当はそうじゃないんだっていうことを忘れてはいけないと思います。私たちを受容してくれるキャストたちはゲストが何を望むのか、何をされたら嫌なのかを察して接してくれています。相手からのレスポンスがどんなものであろうとも、またレスポンスがなくても否定せずに接します。もしかしたら自分を押し殺しているかもしれないとさえ思うことがあります。
今朝、みのもんたさんのTV番組で、今年になって家族による傷害・殺人事件がもう14件もあったと報道していました。その中でも親(大人)が小さな子供を傷つける事件が多かったのに苦しくなりました。「泣き止まないから」「なつかないから」「うるさいから」という理由で子供に腹を立てての事件です。
自分の思い通りにならないから、嫌だから相手を消してしまおうということなんですよね。周りの人間がいつも自分のために行動するわけありません。特に子供は相手のことを考えることなんてできません。人間は育てることでそのような能力がつくはずなんです。子供が泣いたら何故だろうと考えていくのは大人の役目のはずです。それなのに・・・。
やはり日本人は贅沢と便利を得たおかげで人としての能力が落ちているんでしょうかね。身体能力も落ちているというし、心も成長しないまま大人になっているんですね。貧しいです。
さて、上記の写真はディズニーシーでショーのための場所取りをして待っている時に撮影しました。待っている私たちを楽しませようと演奏隊がやってきてくれました。
ミニーの耳をつけているのは姪です。お正月のおみくじで小吉だった姪。学業は「困難。努力せよ。」と書いてありました。小学1年生の困難な学業とはどんなか・・・( ̄  ̄;) 夢の世界もあるけど、現実の世界でもまれて人間の能力をのばしてほしいなあと思います。おばちゃんは応援してるぞよ!
自転車
年末に新しい自転車を購入しました。乗っていた自転車の後ろブレーキがきかなくなった、スポークが数本ポロッと外れた、ライトがうまくつかなくなったというのが主な理由です。まあ、乗っていて危険だったってことです。15年ほど前の自転車ですから、ガタもきますわ。
購入に際してこだわったのは、①タイヤサイズ27インチ、②3段階変速、③荷台付きです。②と③は簡単にクリアできましたが、①が以外と難しかったです。
身長166cmの私。ちょっと大き目のタイヤでもいいのではないかと思っていました。その方がスピードがでます。大型ショッピングセンターで安く売っているものでもよかったのですが、大抵タイヤサイズが26インチです。そこでちゃんと自転車店で購入をしようと決めました・・・が、店がない!15年前に購入した店をはじめ、近所を捜したけれど全然ないんです。こんなに自転車に乗っている人がたくさんいるのに、なんで~~?
結局、職場近くの自転車店で購入。12月25日、真っ赤なサンタクロース(身長180cm以上はあるでっかいお兄ちゃん)が届けてくれました。
新車は快適!!スイスイと気持ちよく走行します。どこまででも走りたくなります。実は、職場まで走っても汗をかかないんです。それは冬で気温が低いからなのか、走行が楽でエネルギーがいらないからか・・・。
びっくりしたのはライトです。LED(発光ダイオード)なんですね。発動力はタイヤとの摩擦で得るのではなく、スポークのところにしかけがあるようで点灯させても重くならないじゃないですか!!しかも暗くなると自動的に点灯します。夜も快適!
毎日、iPodで好きな音楽を聴きながらルンルン気分で通勤時間を楽しんでいます♪・・・なんですが、昨年末、警察庁の「自転車の安全な通行方法等に関する検討懇談会」で“ヘッドホンで音楽を聴くなど外部の音が聞こえない状態での運転などの禁止”というのが出たようです。本日母が教えてくれれました。2008年の道路交通法改正で決定されてしまうかもしれません。/(-_-)ヽコマッタ
携帯電話の使用や傘を差しての片手運転の禁止、みだりにベルを鳴らさないとかはわかるけど、音楽くらいはいいじゃないか~。自動車だって外の音を聴きながら走らないだろうが( #` ¬´#) ノ私の楽しみを奪わないで頂戴。
今日の写真は私の新車ではありません(荷台がないでしょ)。私の自転車購入に付き合ってくれた後輩の自転車です。自転車店を出てから、近くのおいしいパン屋さんで食料を買い、二人でこの道端(川沿い)に座り込んで食べました。その時撮影したものです。小春日和のポカポカ陽気に誘われ、普段話さないようなこともしゃべりました。でもなんかのんびりして楽しかったわ~。川沿いの道は桜並木になっているから、春にも・・・と思うけど、毛虫がでるかも。
赤ちゃん
『太王四神記』の4話一挙放送をつまみ見しました。妹にちょっと解説したということもあり、1回見ただけではついていけなかったことがより理解できたように思います。
先日よりユングの心理学にある英雄神話と『太王四神記』を比べている私。「人間と象徴―無意識の世界(河合隼雄 監訳)」の中で、世界にある英雄神話の類似点が下記のように述べられています。
・・・英雄の奇蹟的な、しかも知られぬひっそりとした誕生、彼の生涯の初期にみせる超人的な力の証明、そして卓抜さや偉力の急激な上昇、悪との戦いにおける勝利、高慢(hybris)という罪にたいする弱さ、そして、裏切りないしは「英雄的」な犠牲行為によって没落し、彼の死となって終わりをとげる・・・
物語がすべて誕生から死までの全生涯を説明しているとは限らないということです。ただ、神話の本質は個人の自我意識の発達を示唆し、英雄像は人間の人格の発達のそれぞれの段階を反映するということです。
ユング心理学によると(私の勝手な理解)、人は無意識の世界に皆同じ能力(普遍的無意識)があるということになります。それはジェンダー(性差)には関係ないものです。そして、その無意識の中に潜むものを意識化する(認識する)ことが心の成長で、個性化(自己実現)になります。その過程で、価値観や押し込まれた性や仮面をかぶった姿などが生まれてきます。意識化するというのは現実化することで、頭の中で描くだけではないのだと思います。行動に表さなければ自己は自我を認識することができません。
ということで、英雄神話は自我を意識していく過程ですから、私は『太王四神記』を人間のこころの成長ストーリーとして位置づけて観てしまうのです。
余談ですが、ヨンジュンさんが「様々な役を演じることで自分にもそんなところがあったと新しく発見する」と言ったのを何かで知りました。もしかしたら心の成長とはそういうことなのかもしれません。
人間にとっての神とは絶対的なものなのでしょうか。神によって人生が決められていくもの・・・という考えから脱して、人と人との相互関係で成長していくとしたのが、前回のブログ(2008.1.02)に書いた内容なのだと私の勝手な理解です。ユングは“自己”という世界を球体という決まったものとして考えました。ところが、ミードやロジャースなどは常に変形している流動的なものとして考えています。その辺りが神の作った世界と変化する人間の世界の違いかもしれません。『四神記』で言いたかったことは何かはこれからストーリーを観進めてまた考えていきたいと思います。
“英雄”と言う文字を打っていて、「BYJ Classics/Hero」を思い出しました。34歳がキーワードであったことはわかったのですが、なぜ“Hero”だったのかちょっと疑問が沸いてきました。あの時タムドクを演じていたからなんでしょうか?
写真は生まれて間もない姪の写真です。沐浴中。生まれたばかりの人間は一人では生きていくことができません。でも、進歩する可能性をいっぱい秘めた生命です。
顔
謹賀新年
ユング心理学に興味を持ち、自分探しをして内向的なブログに陥っていった2007年の最後。12月後半はまとまりがつかず久しぶりの更新になりました。
実は年賀状にコメントを書くことで、新しい年への誓いを自ら確認した私でした。このブログを書くこともそうなのですが、本当は言葉に表現すること、他の方に伝えることが混沌とした自分を整理させるんですよね。しかし、その言葉がわからないためユングの本を読み、心理学の世界を覗いたのかもしれません。言葉も“象徴”ですから、イメージを他人と共通認識するための方法ですものね。
以下の文章は“かじり虫”で“いいとこどり”の知識で整理しています。かなり偏った考えだと思いますが、「信じたいものだけを信じる」人間だし、自分のことなのでそれでいいかなと・・・
なぜ自分がわからなかったのかということを考えました。すると、社会心理学という分野にあった“自己概念self-consept ”自己評価self-esteem”“重要他者”というものに出会いました。それらを理解しようと資料を読んでいたら、わからない自分が少し整理されました。
精神分析学は心の内側を徹底的に分析するという印象で、ユングによると自己は「心の意識と無意識の両方を含む全体性であり、核でもある」ということでした。
社会心理学という分野は、どうも他人との相互関係で自分を考えていくようです。ウィリアム・ジェームスという人は自己を“知る側:主体Ⅰ”と“知られる側:客体me”という考えで整理したようです。つまり、自己が自己を知るという第三者的立場で自分をとらえる方法です。そして、「私とは〇〇だ」と自分で知覚した自己を言葉にすることが“自己概念”ということです。
ジェームズの考えを受けてミードという人がこのようなことを言っています。自己を自覚するのに大切なのは、他者からの反応だと。つまり、コミュニケーションの際などの他者の態度や言葉を参考に自己I は自己meを認識するというのです。他者からの反応には他者の視点(評価)が含まれることになり、場面によって知覚する自己は多種多様になります。中には他者の反応を予測して前もって自己の内で行なわれる内的コミュニケーション(これをすると相手はどうなるかと他者の立場に立って自分を評価すること)もあるそうです。そしてこのように他者との相互関係で流動的に知覚した自己が蓄積され、統合したものが自己概念ということです。
ロジャーズという人の自己理論では、認識した自己と実際に経験している自己が一致していないと健康な心理状態を保てないということでした。日常に私たちが体験していることは、自分の主観的な認識をするもので、同じ体験をしても個人によってその認識は異なるということです。また、数々のことを体験していても自己が認識するのはその一部であり、その積み重ねで自己概念がつくられるということです。
すると体験したものをどう評価するかで自己概念は違ってきます。例えば、与えられた仕事をとりあえず予定通りに仕上げることができた自分がいたとします。それを能力のあるできる自分として評価する人と、内容が雑だったからできない自分として評価する人では同じ体験でも自己象が違います。後者は駄目な自分として自己を評価しており、自己概念と認識した自己は不一致状態にあると言えます。
自分をどのように評価するかに重要なのが他者からの反応ということが言えます。自分の言動に対して肯定される反応が他者から返ってくる場合と、否定される場合では自分の体験の認識が異なるでしょう。ここで大切になるのが、“重要他者”という人なのだそうです。
重要他者というのは感情や動機、自己概念、判断に大きな影響を及ぼす他人ということです。わかりやすいのは子供にとっての親でしょうか。『太王四神記』で子供時代のタムドクやホゲは父に認めてもらいたいと思って行動をしますが、肯定してもらえず悩んでいました。誰よりも父からよい評価をもらいたいと願いました。父からの否定的な反応はこれまでの自己価値が下がったように感じたでしょうね。
成長過程では重要他者がどんなことに価値を置いているかが大切なんだと思いました。その影響を受けて個人の価値観が決まっていくのではないでしょうか。
好きな人とか尊敬している人とかも重要他者と言えるでしょう。ブティックのお姉さんに「似合ってますね。」と言われるより、大好きな人からそういわれた方が嬉しいに決まっています。「この人に認めてもらいたい」と思っている人からの反応には敏感になります。
また、尊敬する人に褒めてもらえなくても、関心をもってもらえるだけで自己価値があがることもあります。気にかけてもらっているというか、振り向いてもらったというか、それだけで認めてもらえたと思えます。一番辛いのは無関心でしょう。認めてもらいたい人が自分に無関心であったら、自信なんて喪失しますものね。
結局、自分が不安定でいたのは自己価値が下がり、自己概念を変化させなければならない体験をしたのではないかと思います。ただ、その原因を突き止めることが大事なのではなく、自分の言動を変化させることが自己一致に繋がるのかな?( ̄ヘ ̄)ウーン、ま、いいや。それで考えを終結させることにしました。
随分長い時間をかけてここまでたどりつきました。
今日の写真は神戸国際会議場のロビーで撮影した顔です。いろんな色が並んでしました。人にどう見えるかっていうことでこの写真にしてみましたが・・・。
左は高矢禮の扉に反射した私です。扉のつなぎ目で自分が歪んでいます。
上記の左は上の方に見上げた私とその影が、右のは一目瞭然ですかね。 反射するものによって映り方が違うものです。自分の思っている自分と他人から見た自分は違うということで・・・ |
ロジャーズの考えの根本には「人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。(Wikipedia)」という考えがあるそうです。人はどんどん変わっていくものであるから、自己概念も変えていかなければなりません。変えないと苦しくなります。
12月30日のMBC演技大賞の授賞式でヨンジュンさんが「申し訳ない」や「残念」とかいう言葉を使っていたのがとても気になりました。他人に向けた言葉ですが、自己に対する言葉にも感じました。怪我をしたことがきっかけで不満足感が残ったのでしょうか。きっと葛藤がかなりあったのだなあと想像します。完璧にこなしたい(できる)自分とそれができなかった自分があって悔しかったのかもしれません。
撮影終了からの何週間は治療をしながら、本を読み、いろんな人と会って心の健康をも取り戻そうとしていたのだろうなあと思いました。長い髪のままのヨンジュンさんはまだタムドクなのかな。
夜景の見える部屋
先日から自分探しをはじめた私。どんどん内向的になっているのか、現実の仕事がはかどりません。それでも、今日はがんばってパソコンに向かい集中して作業を行ないました。一区切りつくところまででき、やったー!と安堵したのが21:30でした。ファイルを職場の人に送っておこうとしたら・・・
ナイ!! ◇ミ\(°ロ°\)三三(/°ロ°)/ミ◇ ナイ!!
ファイルが昨日作成したままで保存されているんです。日時が更新されていないから、上書き保存されていなかったということになります。そ、そ、そんなあ。゚゚(>ヘ<)゚ ゚。ビエェーン
私、いつもできるだけ細かく保存しながら作業するんです。こういうことが恐いから。ブログ書くときもそうです。10回くらい保存しながら書いてます。(いつも長いからねえ)
今回の失敗の原因はなんだったんでしょう。もしかしたら別の場所に保存してあるかもしれないと思い、パソコンのドライブを全検索して捜しました。ヒットせず。今はもうあきらめです。
こんな時、このノン・アクティブな自分が嫌ですね。記憶の新しいうちにもう一度作業すればいいのに、やる気ゼロですもん。時間ないのにな。
『太王四神記』のOSTが届いて、今日はずっとかけています。iPodにも入れたので、通勤でも犬の散歩でも聴けます。曲を聴いていると、戦ったり、馬に乗って駆けていたり、苦痛な顔したりのヨンジュンさんが浮かびます。私のこころを随分と刺激してくれるOSTです。
ちょっと気になっているユング心理学。OSTを聴きながら本を読んで現実逃避することに決めました。
12/5の記事でヨンジュンさんにアニムスを感じているかもしれない・・・ということを書きました。どうなんでしょ。
ユングは人のこころを球体と考えて、中心に自己という核があるとみなしました。そのこころの表面の一部の明るい部分が意識で、自我はその領域の中心だそうです。残りの球体の多くの部分が無意識だそうです。その無意識の中には様々な特徴をもった「元型」という原理の象徴みたいなものがあって、私たちの意識に影響を与えているそうです。
元型は人類に普遍的に備わっているもので、あらゆる人が同じようにもっていて、それを意識化していくことが自我確立ということらしいです。自我の確立は元型との闘いでもあるようで、特に独立するときは生育の元型である太母との闘いになるようです。
プラスと認めた価値は賞賛します。マイナスと認めた価値は自分の内に追いやり、他人にそれを見つけると否定し、憎んだり撃したりそうです。そういうのを生むのが「影」という元型なんだそうです。その攻撃する悪いもの(恐ろしいもの)を人間は、昔から鬼とか妖怪とか非現実的な対象に投影してきたようです。
アニマとアニムスという象徴で表現される元型については、先日書きました。社会からの「~らしさ」という価値観に影響を受けて、反対を内に押しやっているということのようです。人間だれしも両方の元型をもっているのですが、無意識へ押しやられてしまうためにもとめていくのでしょうか。また、それぞれの象徴はその人の無意識の世界へのガイドにもなるとか。ヨンジュンさんは果たして私のアニムスの投影でしょうか。
精神の元型というのがあって、本能や欲望を否定する原理だそうです。つまり、現実の世界に対立するもので、自分を高めようとする宗教的な現象の中にみられるものだそうです。堕落を許さない激しい怒りももちあわせますが、その象徴は知恵や意味を与える賢者、指導者、救済者のようです。
どの人もこのような様々な元型を無意識の中にもちあわせていて、それを意識化して人格に統合していくのが望ましいということです。統合するというのは、いろいろな対立する原理をうまく使い分けられるようになることとか。どれかを押しやってしまうと、その元型にこころがのっとられて操られてしまうそうです。
「自己」という核はその人の全体性のシンボルになるといわれ、曼荼羅のようだそうです。ただ明るく光を持つものではなく、内には闇や悪など対立する要素も含んだ調和であるとか。「(´へ`;ウームだんだん理解が難しくなります。
醜いところも、神的なところも持ち合わせているのが人間だっていうことで、それを意識化して、無意識に欺かれないで生きていくことをユングは言っているようです。また、ユングは人類の歴史はこの意識化の歴史と言っています。人が神としてあがめていたものを仏陀が理念という形に意識化したとか、戦争と言う体験もその一つ・・・かな?
ヨンジュンさんがその意識化をうまくしているように思ってしまうのは、私が恋しているからかな。俳優という仕事を通して、自分の内に潜むいろいろな元型を見つけているように思います。
また、『太王四神記』がファンタジーな英雄伝説であるということで、人間の自立、自我の確立、無意識の意識化の過程であるかもしれないな~~というのが私の考えです。まだ2話しか観ていないのにこんなこと言っていいのかしらん。ま、私の個人的考えで、私の自分探しの旅ですから。
メンテ中のブロコリさん、画像貼り付けたら駄目なのかな。
今日の写真は、先日東京へ行った時にホテルの部屋から撮影したものです。パソコン開いて、コーヒー飲んで、夜景見て、ボーっとした・・・というところですね。
少し広角にするとこんな感じです。シックなお部屋でした。 窓の大きいホテルの部屋っていいですね。小さいと私は圧迫感があって恐いんです。エレベーターとかも好きじゃないのですが、私の無意識の世界に何があるのでしょう。 |
ところで、パソコンのデスクトップは昨年の“BYJ Classics”の蓄音機とヨンジュンさんですね。1年経ったから、先日タムドクに変えました。
真ん中の写真は宿泊したホテルのロビー付近です。
<前 | [1] ... [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] |